勢州

海上を使って到着する勢州は伊勢神宮を擁し、
街道三大難所のひとつ鈴鹿越えや関宿などイベント盛り沢山のエリア。

桑名湊は大盛況

桑名湊 桑名城址
渡しに揺られて桑名に到着、と言いたいところだが実際は佐屋路、巡見道を経てようやく桑名に入った。湊跡には鳥居がお出迎えしてくれた。
ここ桑名はご存知本多平八郎忠勝のお膝元。桑名城址でお殿様に拝謁した。
歴史を語る公園 矢田の立場
歴史を語る公園なるものがあった。桑名は東海道中二番目の宿数を誇ったとか。渡しや美濃街道の分岐など当時の桑名は大盛況だったようだ。勢州においては津に次ぐ規模だったであろう。その後、見付の連続攻撃が待っていた。
三つの見付を通過すると矢田の立場に到着。今は全く名残がないけれど当時は茶屋が多くあって賑やかだったらしい。
江場松原 町屋橋
江場松原跡。伊勢湾台風の頃まで見事な松並木が残っていたようだが、市としてどう保存活動を展開したかは書いてなかった。ところで桑名の案内板は鏡面に字を彫ったもので統一されていてきわめて写真に撮りづらく難儀する。
しばらく街道を進むと員弁川にぶつかる。かつてはここに町屋橋が架かっていたようだが今は自動車用の橋が少し下流側に存在した。
員弁川 橋本橋
しかたなくクルマ用の橋を渡って川の対岸の街道跡から来た道を撮影、街道の雰囲気になっている。
向き直って街道を進むとすぐに縄生という集落に入る。集落の入口は自然堤防的な並木になっていた。比較的新しい橋が架かっていて「橋本橋」という名前になっている。上から読んでも下から読んでも…、
東芝 小向神社
伊勢朝日駅付近で街道は近鉄と交差するが、その眼前に巨大な東芝の工場が建っていた。近くの看板に「小向祭」と書いてあったので川崎の小向工場にあやかったのかな。
工場のすぐ先に小向神社があった!なんとこの地は元々本当に小向なんだ、東芝さんは小向に縁があるんですね。
浄泉坊 朝明川
浄泉坊という見事な構えのお寺を発見。なんでも桑名藩主の奥方様の菩提寺とか。どおりで綺麗に保存されている。瓦や山門には徳川家の御紋が入っていて大名行列も前を通るときは駕籠から降りて一礼してから通ったという。
高速道路の高架をくぐると朝明川を渡る。この橋を渡ると富田になるようだ。朝明川と言えば上流にある朝明ヒュッテによく行った記憶がよみがえった。
松寺の立場 富田
松寺の立場跡、桑名から四日市までの間は五か所の立場があったそうだ。先ほどの小向も立場があったとか、しかし富田の一里塚までもう一頑張り歩き続ける。
富田の町中を街道は急に右折する。気が付かずに真っ直ぐ行ってしまいそうなので、大きな案内板が右に曲がれと主張していた。
力石 道標
富田の町を過ぎてまっすぐ街道を行くと直角に曲がる角に来る。角の正面には「力石」なるものが。お寺の再建時に使った土台石で力比べをしたんだとか。子供用の石もあってかわいかったが19キロもあるという。
力石を直角に曲がるとすぐに小さな道標がある。「左四日市、右いかるが」となっていた。四日市はあっていると思うが右に行っていかるがに行けるのだろうか。それとも斑鳩ではないのかな。
かわらずの松 国道一号
羽津地区に来ると見事な松が見える。この松は数少ない江戸時代からの松だとのこと。地区の名が川原須ということで「かわらずの松」と呼ばれているそうな。もう少し先に羽津城跡がある。
羽津城跡近くの大きな曲がりを通過すると久しぶりに国道へ合流する。 レッドバロンのお店が目印、相変わらず交通量は多い。

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工業のまち四日市

海蔵川 三滝橋
国道に沿って少し歩くと旧街道は左へそれていく。そのまま一里塚を経由して海蔵川を渡ったようなのだが、現在は当時の橋がないので国道に架かる橋を渡るために国道へ再合流する。
ようやく四日市にたどり着いた、三滝川に架かる橋がかっこいい。四日市の町域に入ると旧街道も国道ではないので安心して歩ける。
笹井屋 南町道標
老舗の笹井屋さん、名物のなが餅を売っている。創業は天文年間というから戦国時代だ。四日市というと石油コンビナートや喘息といった工業と切り離せないイメージがあるが、江戸から続く宿場町、漁師町だったんですねぇ。
町の中心部近くにある道標、江戸道となっていた。この旧名でいうところの南町付近は旧街道がブツ切りになっている。
諏訪神社 諏訪栄町
街道ブツ切りを過ぎると諏訪神社が鎮座していた。かつての四日市の中心である。
諏訪神社を過ぎるとアーケードとなっている。こちらもご多分に漏れずシャッター通りの感が否めない。アーケードの旗には表参道スワ栄と書いてあった。
鹿化川の団子屋 日永
一気に宿場を通り抜けてしまった。四日市は旧街道沿いというより街道から湊の間が栄えた街だったのだろう。鹿化川を渡る手前にお団子屋さんがあった (^^)
日永に入ってくると立派な家が多いのに気付く。ステキな被写体が多いのだが、なんとも狭い道をクルマがすごいスピードを出して走るので満足に撮っていられない。
日永神社 名残の一本松
日永では近鉄の小さな電車といっしょに進む感じ、内部線は貴重な通学の足だ。日永神社が威容を誇っているが、その裏は南日永駅だった。
見事な松を発見、これは東海道名残の一本松。当時このあたりは畷(縄手)だったらしく松並木だったようだ。その生き残りがとうとうこの一本だということ。道幅は松を入れて五間、歩行するところで三間で現在の道幅は当時と変わっていないという。
日永郷土資料館 日永追分
東海道日永郷土資料館という何ともそれらしい家があった。寄ってみたかったが時間も気になるしと思ったら閉まっていた。
しばらくぶりに国道に合流する。すると少し先のほうに三叉路が見えた。もしやあれが伊勢路との分岐点か。しかしどう見ても東海道へ右折するほうが狭い道で直進方向がメインに見えた。
日永追分 日永追分
日永の追分に到着。もうすぐ真っ暗になりそう。伊勢方面へ行かず東海道をそのまま行く旅人は、写真に見える鳥居に向かって一礼しお伊勢さんのご利益にあずかれるということだったそうだ。
これからは鈴鹿方面に向かうのだが、やはりお伊勢さんが気にかかる。まあ一晩寝てゆっくり考えてみましょう。…ということで今日はここで終了。

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広大な鈴鹿市

日永追分 追分駅
東海道を西へ進むのをやめて伊勢神宮まで行ってしまってから早くも半年が経ち、ようやく東海道に帰ってきた。ふたたび日永の追分に降り立った。時早くも正午に近く本日中の活動時間が残り少ないのでさっさと西へ向かう。
移動開始早々に近鉄内部線の追分駅を通過する。…ってさっき降りた駅でしょ。しかし四日市駅で内部線電車にギリギリ乗り遅れたため30分近くロスをした。これが後に影響しなければいいけど。
小古曽 近鉄内部駅
追分駅を越してしばらく行くと旧街道は右折だと案内が出ていた。なんでも大きな寺の敷地を避けるためのルートらしかったのだが、現在はお寺の痕跡すら見当たらなかった。
近鉄内部線の車庫と内部駅が見える。旧街道はこの先県道を突っ切って内部川へ向かう。
内部川 杖衝坂
旧街道の先には内部川が横たわっていたがかつての橋はなくクルマ用の橋を渡ってその先の旧街道へつながっていく。
いきなり強烈な上り坂となった、杖衝坂と名前がついていて日本武尊が杖を衝いて上ったと言い伝えられている。空海が見つけた井戸も並んでいた。
采女 木田町
杖衝坂を上りきると見晴らしがよくなった、采女という集落だ。国道方向を眺めると冬の透き通った景色が心地よい。
その後は国道一号に沿ったり離れたりして進むが木田町から石薬師へかけては旧道が残っていない、写真の先に国道が見えるがそのもう少し左側を旧道は通っていたとのこと。
石薬師入口 佐々木信綱記念館
国道一号から右に入ると石薬師の宿内となる。この先は「かるた」の歌集が掲示されているという。
歌集の主は佐々木信綱、承久の戦いの武将と勘違いしていた。石薬師出身の歌人とのこと、立派な記念館が建っていた。
石薬師寺 広重石薬師寺
石薬師宿も終わり近くになって石薬師寺がある。ここは広重の石薬師のモデルになっているが、なるほど今も当時と変わらない佇まいだ。
蒲川橋 上野町街道消失
宿場を通り過ぎ蒲川橋を渡ると一里塚が見えてくるが、その先の旧街道がJR関西本線で遮断されていた。どうやら矢印のように進んだらしいし痕跡も見られる。
いったん街道を左折し関西本線をくぐって線路に沿って歩く、再び線路をくぐると田によって街道が曲げられていた。本来ここは直進だったはず。
庄野手前 庄野入口
旧街道然とした道を行くとすぐに国道一号に出てしばらく歩くことになるが次第に高架になっていく。旧街道であったはずではないので右方向を見ると大きなコンクリート工場があった。おそらく旧街道は工場敷地内に消えたであろう。
国道一号から不自然な右左折をしてから庄野宿内へと入っていく。
庄野風情 汲川原町
庄野宿内は通りに面した家の軒先に庄野宿と書いた提灯が掛けられていて粋な感じだ。
庄野宿を出ると国道の立体交差に出くわす、旧街道のあった道筋を進むと命はなさそうだ。交差点の先に締め切られた旧街道が顔をのぞかせていた。
鈴鹿川 日永追分
中富田の集落の先は安楽川が流れており写真の右から左へ土橋があった模様だが、今は手前に長い和泉橋が架かっている。川の水がとてもきれいでこの辺りに住んでいる人たちを映しているかのようだった。
地福寺、東海道の旅人の安全を祈願して建てられたお寺だとのこと。ではお参りをしなくては、よろしくお願いします。

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鈴鹿越えの序章

和田道標 和田公民館
亀山市に入って井田川駅を過ぎると和田という集落にさしかかる。ここには三重県内最古の道標があり、ここで亀山藩領若松湊への重要な分岐となっていた。
この和田という地は平忠盛が九条家に献上した土地らしく長らく九条家の荘園だったとのこと。写真は和田公民館、ひょっとしたら代官所の跡かな。
亀山ローソク 衣城
なんとなく亀山の市街地に入ってきた感がある。ところどころの家に亀山宿の案内板がさがっていた。写真はカメヤマ株式会社、いわゆるカメヤマローソクだ。亀山のご当地企業のイメージがある。そういえば「亀山モデル」のシャープの工場はもっと先だったっけ。
もう歴史あり過ぎっぽい建物、どうやら呉服店のようだ。似たようなのを藤川宿で見たような気がする。
亀山宿 亀山城
亀山宿にたどりついた。宿内の道は観光を意識してかよく整備されている。このあたりはいわゆる「かねんて」か。宿内はこの先も道がかなり入り組んでいる。
亀山城跡を堀越しに臨む。寄っていきたかったがスタート時の時間ロスが効いていて全く余裕のない行程となってしまっていたのでパスすることに。
亀山宿 木田町
京口坂を下った後にもかかわらず、まだ素敵な街並みが続いている。ぜんざい屋さんに寄りたくなったが閉まっていた。
向かって左側の恐ろしいほどの急坂を下りてJRの走っているほうへ向かっていく。
布気町 大岡寺畷
布気町というところで街道は鉄道と県道に分断されていて徒歩では通過できなかった。手前の跨線橋を渡る。
その先は太岡寺畷(たいこうじなわて)となって真っ直ぐな道が続く。八丁どころか2キロにもわたって畷状の道でいかにも畷らしい趣があった。
トンネル案内 関宿
太岡寺畷の途中で東名阪などをくぐるが、そのトンネルの壁に浮世絵や案内があり旅人を盛り上げている。
いよいよ東海道で現在最も宿場町らしい佇まいを見せる関宿入口に到着した。ここからは鈴鹿越えの始まりとなる。ここで日没のため宿へ向かう、やはりスタートの30分が悔やまれた。

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あっけない峠越え

木崎付近 百五銀行関支店
日が変わって関宿近くの宿を七つ立ちしたため宿内は暗闇に包まれていた。全くもったいないことだが誰も歩いていないため関宿を独り占め。
百五銀行もステキだったがとにかく暗くてよくわからないうちに関宿を通過してしまった、泣。
市瀬 沓掛
関宿の西の追分を過ぎ国道一号を進むと市瀬で旧道へ右折する。かつて集落方向へ延びていた道は写真の街路灯のほうへ直進している。
関町沓掛に差し掛かったところでようやく明るくなってきた。約80年前に建てられた尋常小学校が今でも健在でその脇に東海道のすべての宿場町の案内が建っていた。
坂下宿 坂下宿内
森林に覆われた街道を歩いてくると一気に開放的な場所に出てきた、坂下宿だ。
宿内は広々していて旧道っぽいところもあるのでその道を選択、右手の先に将軍家の休憩所で今はない金蔵院の石垣が見える。
山道へ 旧坂下宿跡
坂下宿を後にして国道一号の右脇の歩道を歩いていくといよいよ山道へ入る分岐点があった、峠への道だ。先には片山神社があるようだ。
山道の途中坂下宿があったと言われる場所に遭遇、江戸初期の川の氾濫で壊滅し下流に移転したとのこと。道は舗装されていて歩きやすいが所々倒木があっておっかない。
片山神社 国道一号高架下
片山神社に到着、立派な石垣のなかなかの構え。街道はその前を右に登っていく。
神社の先を登り始めると眼前に道路の高架が…、少し興醒めかな。
休憩所 鈴鹿石畳
国道の高架をくぐって少し広いところに出たら国道の脇だった、案内やベンチなど整備されていて休憩するのにいい場所となっていた。ここからは石畳だ。
石畳を登るがとても歩きやすい。難所とは言うが現在は歩くのに容易な道だ。
鈴鹿峠 鈴鹿峠国境
そんなに歩かないうちに案内板が建っていた、何かと覗いたら鈴鹿峠の文字が…、あまりにあっけなく鈴鹿を越えてしまっていた。箱根並みの峠越えを覚悟していたので物足りない感じ。
峠の先には滋賀県との県境、伊勢街道も含めて長らく滞在した伊勢国がここで終わった。ここから先は琵琶の海の国、近江国となる。

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