駿州
東海道の行程中最大の距離を持つ。
また大きなふたつの山越えと三つの大河を擁し、興味の尽きない魅力的なエリアである。
富士山を愛でながら…
駿河国に入ってしばらく行くと前方に「対面石」なる看板が…頼朝義経と書いているしこれはもしやあの感動対面の場所なのか~、 やはりそうだった、ここで源氏の兄弟は対面したのですねぇ。しかし誇り高き正妻の嫡男頼朝が、妾の子の義経に対して泣くほど喜んだというのは後世の創作のような気がする。 |
|
黄瀬川に来ると旧道にはクルマ用に橋がなく建設中、歩行者は左の専用橋を渡る。別に歩行者用だけでいいと思うんだけど。 黄瀬川付近は道路工事で重機などが散在し掘り返した土でグチャグチャになっている。粉塵いっぱいのエリアを抜けると「標示石」という目印があり、ここからは沼津領となる。沼津は水野家が治めたらしい。 |
|
すぐに交通量の多い道に出るが、西友を過ぎた辺りでまた向かって左に脇道を入る。この先に一里塚跡公園があった。 川廓通りを左折する、沼津城外堀の外側にあった場所で微妙に城の縄張を避けている。 |
|
途中お祭りの行列に出会った、子供たちも参加している。ひと回りしたらお菓子をもらえるんだろうか(^^)。それにしても沼津の街中で最後に右折して以来まったく曲がってない、ずーっと真っ直ぐ進んでいるだけ。 どれだけまっすぐ歩けばいいのだろうか、いい加減飽きてきた。途中一里塚跡や本陣跡の碑だけあったがつまらないので富士山が拝めることだけを感謝して1枚バチリ! |
|
JR東海道線の踏切を渡るため多少右左動いたが、それは線路があるためで実際旧街道はここも真っ直ぐだったのだろう。富士市以西はこういうブッタ切りで旧街道そのものの道が滅失しているケースが多くなる。 沼津から続いた真っ直ぐ道がとうとう終了した。あー長かったなー。振り返って撮影した写真で矢印方向に右折してきた。しかしここからまた4キロほどずっと真っ直ぐだった。 |
|
東田子の浦駅を越えた先の立圓寺の境内に望嶽の碑なるものがあり富士山を絶賛したことが記されている。確かに冨士は美しかった。 用水路の橋を渡ると一里塚の案内があるが近寄ってみたら増田平四郎の碑だった。スイホンっていったい何だろう?? |
|
一里塚から先の変則的な交差点に来ると歩行者用に旧街道の案内がある。こういう配慮がありがたいなぁ。ここから先は元吉原地区だ。 最初に吉原宿ができた元吉原付近を行く。江戸初期の津波で崩壊するまでは宿場町として栄えたのであろう。 |
△上に戻る
兵どもが夢のあと
元吉原を過ぎるといよいよ富士市名物の製紙工場が登場し始めた。煙突はカラフルだが臭いはやはり気になる。ただかなり以前に来た頃よりはきつくない感じがした、消臭装置が進化したのかも。 毘沙門天というバス停があったので、階段を上ってみたら見事な寺院を発見。しかし何か不釣り合いな建造物が目立ったので、お参りをして即撤収してしまった。 |
|
JRの街道ブチ切りでまたも旧街道を行けず。本来は道なりに真っ直ぐ行くのが旧街道だがその先が線路で行き止まり、やむなくビルの手前を右折し踏切を渡る。ただ静岡以西は踏切に捕まることがほとんどなく、たまたまひっかかってもすぐに開くので助かる。 JRを越えていくとこの辺りは鈴川本町というらしい、ステキな名前の街だ。沼川にかかる河合橋を渡るとしばらくは工場地帯となった。 |
|
12:17 左富士神社を左に見ながら歩いていくが肝心の冨士は全く見えず見えるのは工場だけ。案内板には松並木を通して見る冨士は絶景だったが今は一本の松しかなく貴重なものと記されていた。でもそうなっちゃう前になんとかできなかったのかな。 唯一残っている松並木の老木。確かに見事ではあるが周りの風景が落ち着かない。工場と騒音に囲まれてさぞや居心地が悪いのではないだろうか。 |
|
ここで突然「平家越え」なる橋に遭遇、富士川が近いということはおそらく富士川の合戦で平家が退却したところではないだろうか。しかしずいぶんと当時の富士川はデカかったのか、今の富士川はまだまだ先でしょ。まさしく「兵どもが夢の跡…、」 工場を見ながら進むと岳南鉄道の駅があった。そこには元気な子供たちのはしゃぐ声があった (^^) |
|
12:52 現在の吉原商店街、ちょうどお祭りをやっていて活気づいていた。海岸からはかなり離れたところに位置しており津波災害を意識した立地になっている。 商店街を過ぎてしばらく行くと大きな通りに出る、交差点は「錦町北」。大きな道に合流しななめ左に行くことになっているがこんな道はおかしい、旧街道の特性からしてここは真っ直ぐでしょ。しかしビルが邪魔している。 |
|
やはり!ビルを越えると真っ直ぐ先にそれらしい道が見えている。さてはさっき見えていたビルは旧街道の真ん中に建てたことになる (T_T) 何のことはない、しっかり碑が立っていて「ここが旧街道でした…」と刻まれていた。それにしても富士市内はこのあとも旧街道ブッタ切りがあった。 |
|
青島八幡宮、磔八幡と呼ばれている。綱吉の時代に災害で生活苦にあえぐ農民から重税を取ろうとした役人らに抵抗したことにより磔にされたこの地域の名主を祀ってあるそうな。街道とは反対の方向を向いて建っているのでわかりづらいかもしれない。 何回か右左折をして潤井川という川を越すと首のないお地蔵さんを発見。いったい何があったというのだろうか。 |
|
蓼原の単体道祖神と記されていたが、一般宅の塀がへこんだところにあった。 誰が管理しているのだろう (?_?) おっとまたもや東海道ブッタ切り!4車線道路が行く手を阻む。 |
|
力づくで分離帯に飛び乗ると「跡地」の案内があった。跡地にしないでくれぃ…と言うか、こんな分離帯に来てはいけませんね、良い子はマネをしないようにしましょう。 一里塚や富士本町の商店街を越すと身延線柚木駅の脇を通過した。この列車に乗れば山梨県も比較的近い。この辺りまで来ると次第に視界が開けてくる、富士川が近いのだろうか。 |
|
少し先で県道から右方向に外れるが、その分岐点に古い道しるべと常夜燈がある。道しるべには「ひだり東海道」とあったので右に曲がってはいけないのか不安になったがまあ予定通り遠回りして行こう。 14:47 ようやく富士川に到達。車道の右側に歩行者用の通路があり歩きやすい。渡り切るにはジャスト7分かかった。 |
|
それにしても川の流量はすごくて段差を滝のようにして流れている。その流れ落ちる音も轟音に近い。かつてこの川は頻繁に洪水を起こしていたらしいが納得できた。 渡河し終わって急な坂を上り丘陵地を行くと岩淵の一里塚がある。さらに行けば蒲原宿だ。さあ先を急がなくては暗くなってしまう。 |
△上に戻る
薩埵峠を走破
今度は新幹線が旧街道をブッタ切り!脇の道を行って線路をくぐり線路の先の旧街道地点に戻って逆方向を写した。完全にふさがれている。 しばらく行くと今度は高速道路が旧街道を封鎖している。仕方がないので写真に写っている大きな陸橋を渡る。この辺りは山あいのため主要幹線のルートが集中しているのだろう。 |
|
高速道路を渡って坂を下りてくると軒先にこんな案内を発見、どうやら有志の方が作ったもののようだ。それによるとこの坂道は新しいもので「新坂」といわれ天保14年に開通したとのこと。それまでは東南の七難坂を通っていたらしい、しんどそうな名前の坂だ。 蒲原宿に入ってきた。「塗り家造り」というそうだがステキな佇まいだ。このようななまこ壁の建物や洋館が建ち並び往時をしのばせている。保存活動に力を入れていることがうかがえる。 |
|
比較的短い距離で宿場が終わり西木戸まで来てしまった。案内板を見たら西木戸より先に元々宿場があったようで、やはり津波で今の位置まで上がったとのこと。江戸時代でも高台移転は行われていたのだ。…今の政府ではなぜできないのかな。。 蒲原を過ぎて一気に由比まで距離を稼ぐ、由比宿の玄関口である由比川橋まで来たのでさすがに疲れて一休み。 |
|
橋の途中に椅子があったので休憩タイム。浮世絵が当時を偲ばせてくれるが、「大和魂」って何だ? 江戸初期より続く染物屋さん、なんとあの由比正雪の実家らしい。由比本陣の向かいに当たる場所なので正雪は「都会っ子」だったんだろうな。 |
|
清水銀行の建物がかっこよかったので思わず撮ってしまった。大正年間の建築とのこと。静岡県内の銀行は現在3行だが昭和20年頃は200行もあったらしいから驚きだ。 由比の街はさくらえびで町おこしをしている。お店ではえびのお菓子が必ず前面に出ている。しかしエビフライはなかった。 |
|
海に近い宿場の道を一段上がると山が迫った旧道に出る。この道から由比駅を見たらかなり高低差があって恐ろしかった。 本旅ではここから先真っ暗になってしまいとても写真撮影どころではなくなった。あかりひとつない薩埵峠をひた走りに走った。2回目に訪れたときの写真で代用。歩道橋のところを右折し旧街道らしい道を行く。 |
|
倉沢の街並みに入ってきた、この小池邸は名主の家で明治に建てられたものとのこと。有形文化財に指定されている、なかなかの構えだ。集落全体も趣のある雰囲気を醸し出している。 旧街道はどんどん高度を上げていくが狭い道のうえ特にガードレールなどもなく危険。こんなところを車で来る観光客がいた、下に道が走ってんだからそっちを通って欲しい ┐(´-`)┌ |
|
右側の木の低くなっているところが地蔵道。左側の建物のほうが上道と中道。最初の到着時にはそれがわからず向かう道を決めるのに10分以上悩んだ。 薩埵峠の写真ポイント、富士山は見えない。夜に通過した時は富士山の稜線が見えて、道路を通るヘッドライトと相まって美しかった。 |
|
峠を越えた感がありどんどん下っていく。道の状態が良くとても歩きやすい、落下防止の柵もあり遊歩道になっている。 ときどきこんな分岐点に遭遇するがいったいどちらへ行けばいいのかわからない。下っているんだから左に行くに違いないだろう。 |
|
道がトンネル状態になって驚く。江戸時代も本当にこんな状態だったのだろうか。昔とは言え日本の大動脈、明治帝もお通りになっているわけだからこれはないような気がする。 ようやく山道を抜けたと思ったらお墓だった。お墓の横をメインストリートが通っていたのは考えにくい。お墓が後からできたか、このルートが違って通常地蔵道が使われたのか定かではない。 |
|
お墓を越してT字路に来たらこんな道しるべが…、どちらも興津じゃないか。つまり左が上道で右が中道、この際両方行ってみよう。 興津川に来たらここは橋が架かっていなかったらしく川渡しがあった。渡るのには300円くらいかかったみたいだが川の深さで料金が上がっていった。冬場だけ橋があったんだとか。 |
|
現在はいったん南に下って橋を渡り、すぐこの細い道を降りて対岸に到達する。ほぼJRの線路に沿って歩くような感じ、また鉄道で旧街道をつぶしたな (*_*) 興津宿に入ってきた、やっと人の姿を見ることができるようになってきた。ここは身延道の分岐点、信仰の道だが甲府と江尻を結ぶということは穴山信君が頻繁に歩いていたのではないか。 |
△上に戻る
武田の造った城下町
いろいろあって20:25にようやく清水駅前のホテルに到着、禁断の夜歩きになってしまった。翌朝は6:40出発と少々のんびりスタートとなった、昨日街道を外れた江尻東の信号まで行ってリスタート。 早朝の江尻城下、清水の街を行くが人が歩いていない。せっかく来たので世界遺産になった美保の松原にも行きたいところだが寄り道すると後半に影響があるのでとっとと前進。 |
|
魚町稲荷神社、やはり信君が造営したようだ。江尻城の鎮守として大切にされてきたとのこと。 子供の河童が欄干に乗っているかわいい橋。ちご橋と書いてあった。何か謂れがあるのだろうが案内板がない (*_*) |
|
清水の次郎長に討たれた吉兵衛という人のお墓。この場所で殺された吉兵衛を不憫に思った土地の方が建てたとか。次郎長と言えば正義の味方的な固定概念があるが、スポットの当て方で物語は全く違う見え方をしますねぇ。 江尻を抜けてしばらく行くと草薙だ、草薙と言えば野球場のイメージが強いが、神社の大きな鳥居があった。新興住宅街かと見間違うようなところが旧街道で不安になっていたところ、ある果樹園の庭先に道しるべを発見、こんなことしてくれる家もあるんだ、安心した。 |
|
草薙球場の照明塔が目の前に見えてきたらその球場の突き当りを右折し静鉄の県総合運動場駅へ向かう。駅の踏切の手前を今度は左折する。 8:49 県総合運動場駅で休憩する。今日のスタート以来休んでいなかったので失敗。しっかり休息をとる。座れるし日差しを避けることもできるので駅は助かる。 |
|
休んだ駅の先にまたまた旧街道ブッタ切りを発見。碑の建っている先に真っ直ぐ街道があったはずだがJRの線路が切り刻んでいる。仕方なく迂回して地下道を通り向こう側へ進む。 街道ブッタ切り現場からさほどいかないうちに今度は国道一号がななめに旧街道をブッタ切り。現場が古庄から長沼までの信号間。ただ国道一号目線で見ると旧街道が斜めに国道と交差しているようにも見える。当たり前か… |
|
旧街道の憐れな姿を見て落ち込んでいるところにこの看板、静岡県で…な、何者の仕業か。そういえば同じ色合いの看板が広島駅からマツダスタジアムに向かう商店街の入り口にあったっけな (^^) しばらくは静鉄といっしょに進むような感じ、すると大きな神社に出会う。護国神社だ、せっかくだから旅の無事を祈っていこう。 |
|
少し先の柚木駅前の歩道橋から撮った写真。どうやら矢印のように旧街道は通っていたのではないか、現代では歩道橋の先にあるJR線路をアンダーパスでくぐっていく。 またJRが行く手を阻み線路の下を通される。しかし富士市と静岡市ではこのような光景が目立つ、都内や神奈川県、また静岡県でもこの両市以外ではこれほどのひどい仕打ちはなかった。 |
△上に戻る
大御所のお膝元
10:00 陰鬱な気持ちになってアンダーパスをくぐるとようやく府中のエリアに入ってきた。この交差点の歩道橋の脇に府中宿の説明がいろいろ書いてあり予備知識を得ることができる。 静鉄のセノバ付近は相変わらず若い子たちであふれていた。江川町の交差点はそういえば地下道だっけな。セノバのエスカレーターを使えば地下に行けたっけ、でもそれでは東海道を外れてしまうのでアウト。足が痛いので階段がこたえる…、でも地下道にも若い子たちが (^^) |
|
呉服町の信号を右折するのが旧街道らしい。知らなかった。ただ付近を歩いているおねえさんも知らないんじゃないかな。 10:27 地下道で急に疲労して途方に暮れていたところ「蒲菊」さんで黒はんぺんフライなるものを発見。昔の(失礼!)おねえさんがおいしいよって言うから一個120円で食べてみた。これは絶品。 |
|
七ぶらシネマ通りとな、この辺り七間町ということでこの名前がついているという。どうやら初期の映画の盛んだったところのようだ。静岡の若者は「今日、七ぶらしようっかー」って言っているのかなぁ。 静岡市中心部から南に向かう大きな道は本通りというところがあるがそれは旧街道ではない。一本東のこの写真の新通が旧街道である。しかし一里塚跡は本通りの脇にあった。何でー! |
|
11:01 安倍川の義夫の碑、正直者の川越人夫を称えたという。旅人の落とした財布を宇津ノ谷まで追いかけて届けたそうな、我々もモノを拾ったらちゃんと交番に届けましょう。 安倍川の手前にご存じ安倍川餅のお店が3軒ある、最盛期は15件ほどあったんだって。その3軒とも覗いてみて一番優しそうなおばちゃんのところでいただくことにしました。やたら長居をしてしまい帰りに大福餅をたくさんいただいてしまいました。ありがとう! |
|
11:31 安倍川に架かる橋を渡り始める。安倍川も渡河に7分ぴったりかかった。富士川に比べるとゆったりとした流れで穏やかな気分になれそう。さっきの安倍川餅のおばちゃんの雰囲気のようだ。 何か歩いても渡れそう、しかしかなり川幅は広い。 |
△上に戻る
宇津ノ谷を目指す
安倍川を渡り終わるとかつて手越村と言われた地区に入る。ここは千手の里と言われ平家物語に出てくる絶世の美女である白拍子「千手の前」の出身であることかららしい。 手越原でいったん国道一号に合流するがすぐにこの佐渡の信号で国道から離れる。この先しばらくは国道とおさらばで騒音から離れのんびり行ける。 |
|
佐渡(さわたり)の子授け地蔵尊、子宝に恵まれない夫婦がお祈りをしたという。昔も今も子供を望む気持ちは変わらないんですねぇ。 手越を過ぎて次の鞠子宿へ向かう道には松並木があったとされこの松もその名残だとか。この辺りは人家がまったくなく追いはぎが出たらしい、今日は出ないでほしいな。 |
|
とろろ汁で有名な丁字屋。しっかり広重も浮世絵に描いていた。 鞠子宿も歩き切りしばらく行くと久しぶりに国道一号に合流する。しかしまたすぐに見えている脇の道へ左折する。脇ではない東海道でした、失礼しました。 |
|
11:01 左折したあと旧街道らしい道を行くと「丸子紅茶」なる案内が、なんでも日本の紅茶の発祥地なんだそうだ。紅茶って日本のもんじゃないけど何でここが発祥地なのだろう? また国道一号に出て今度は歩道橋を渡って反対側の道を入っていく。この辺りは旧街道にかまわず宇津ノ谷のトンネルに向かって真っ直ぐ新東海道である国道一号を通したと見える。 |
|
国道一号の宇津ノ谷トンネルの手前を右折するのが旧街道。曲がって行くと何となくいい感じの雰囲気になってきた。 宇津ノ谷峠の手前の集落、とても味のある感じがいい。さすがに観光客も来ていたが歩く風の旅人はいなかった。 |
|
峠の地図、トンネルがやたら目立つが明治大正昭和平成とそれぞれの時代のトンネルがすべて存在ししかも使えるようだ。旧街道だけはトンネルではないのでさっさと山道を登り始めることに…。 俳人雁山という人のお墓、旅に出てそのまま音信不通となったので文人たちがここにお墓を立てたとか。しかしそのあと無事が確認されて墓ができた後も40年近く生きたとか。 |
|
峠の地蔵堂跡。明治時代までこの地に建っていた。江戸期には信仰を集めたようで、今のようなさびしい場所ではなかったのでしょう。 この地蔵堂を建てるための平らな場所を確保するために積まれた石垣。7mほどの高さがありかなりしっかりと築かれている。 |
|
宇津ノ谷峠、意外と地味に通過してしまった。 宇津ノ谷峠の山道を下りきったところを振り返って写した。真ん中から左へ手すりの脇数十センチ幅の道を下りてくる。これが東海道かという建て付けの道になっている。間違いなく往時の状態からは錯乱されたようだ。 |
|
この宇津ノ谷は別名「大名街道」と言われたらしい。上り下り八丁の険路ということで大名行列が通るときには峠を行列が埋め尽くしたんだとか、豪華絢爛たる様だったんだろう。 峠の手前で別れて以来久しぶりに国道一号に交差する、歩道橋を渡るとそのまま右方向に向かっていきいよいよ岡部宿のエリアに入っていく。しかし歩くスピードが上がらない。 |
|
15:05 今日中に藤枝まで行こうと考えていたが疲れすぎていてギブアップしたくなっていた。しかし交通機関も見当たらないと思っていたらバス停を発見!今回はここで終了、早くしないと家まで帰り着かなくなる。 前回リタイアした「岡部台入口」バス停から再出発。しかしすでに16:47。再スタート地点がどんどん自宅から離れていくので致し方がないが今後の課題でもある。 |
|
十石坂観音堂近くの岡部宿案内板を越えると微妙に通りからそれていく。暗くなってきたなぁと感じていたら右折した直後に午後5時の合図の有線放送が流れた。有線放送って懐かしい。 岡部宿内に入ってきたとこを実感する「大旅籠柏屋」の案内板。名の知れた街道遺跡だ。しかしもうほとんど夜の道になってきた。江戸時代ならとうに切り捨てられているかも…… |
△上に戻る
掟破りの夜間歩行
江戸期にはあり得ない(忍びや隠密は行っていた?)夜行状態となった。スタートが遅かったからという言い訳は今回限りにしよう。岡部宿の旧街道はよく整備されていて観光客が集まりそうな感じになっていた、しかし今はだれも歩いていない (T_T) 光泰寺の木喰仏である聖徳太子像がこの先にあるようだ。微笑仏とも言われやさしい面影の仏様だという。ぜひお目通りしてあやかりたかったが、この時間は営業時間外のためお引き取り下さい。 |
|
17:30 内谷新田の交差点を斜めに街道は突き抜けている。ちょうど矢印の方向へ真っ直ぐ行くと旧横内村へ行ける。もうすっかりと日が暮れてしまった。追いはぎに合わないように気を付けなきゃ。 この時間になると常夜燈はとても心強い味方、当時の旅人もそう思ったのだろうか。いや、こんな時間に外を歩いてないや。 |
|
従是東岩村藩領」だって?ここは岩村藩の飛び地になっていたようでそこを歩いてきたことになる。岩村と言えば秋山信友に嫁いだ女領主おつやで有名だが、江戸期には松平能登守が領主と記されていた。 「仮宿」の交差点、クルマの通行がかなり多い。交通の要衝なのだろうか、土地の名前からしてかつては栄えたのではないかと想像できる。 |
|
「従是田中領」との道標が、いよいよ田中城の勢力下に入っていく。何回か写真を撮ってようやくまともに判別できるモノが撮れた。あたりはもう真っ暗。 18:20 旧街道はカーマHSにぶち当たる。土地改良事業と言ってしまえばそれまでだが、もう少し何とかならないものかなぁ。扱いがひどすぎる。 |
|
引き続きこれは無残!カーマの先を左折し旧街道に戻ったのも束の間、完全に国道一号が遮断している。過去の資料を見たところここは普通に真っ直ぐ旧街道を行けたようになっている。ということは最近になって道をつぶした模様…愕然とする。 18:42 なにかやりきれない気持ちになったところで大好きなお店を発見。一気に元気になる、(単純)。お店の大将は閉店間際にもかかわらずたった2個のコロッケのためにその場で揚げてくれた。感謝感謝。 |
|
この辺りは街道の脇のあちらこちらに松が植えられていて情緒がある。まあ明るかったらの話だが。 どうも松が目立つなあと感じていたら藤枝の市の木になっているらしい、どおりで多いと思ったはずだ。 しかしこの藤枝商店街は延々と続く長大な規模だ。JRの藤枝駅付近が市の中心街と思っていたがどうもこの商店街を中心に藤枝宿を形成していたようだ。市役所も近くにあった。 |
|
宿場町の終わりの雰囲気がある瀬戸川を越し一里塚を見て進むとようやく国道一号との交差点「青木」に到着。ここから先はもう明日にして藤枝駅方向に宿探ししに行こう。 19:50 藤枝のホテルに到着、明日のために駅周辺で腹ごしらえ。この段階で江戸時代だったらひっ捕らえられて牢獄行きだ。もう夜歩きしません(歩かないつもり) |
△上に戻る
久しぶりのゆったり旅
6:10 さあ今日は時間もないので行けるところまで行こう。藤枝市内の旧街道はやはりどこへ行っても松の木が多い。 少し行ったら「従是東田中領」の碑が、昨日見た道しるべとの間が田中領だったんだ。思ったより大きくはないようだった。そういえば田中藩は領主がコロコロ代わったところだった気がする。 |
|
千貫堤という名前の付いた堤防の跡。造るのに千貫かかったからこの名がついたらしいが。一貫を仮に10万円とすれば1億円だから案外お安くついたのかも。しかしこれは大井川の水害対策だと記されていた、今の大井川は相当先だ。当時はどれだけ大きな流域を持っていたのだろう。 上青島の一里塚付近の写真、相変わらず見事な松の木が散見される。まだ休日の朝は人影がなかった。 |
|
国道一号をしばらく歩きながら島田市に入ってくると趣のある料理屋さんを発見。明治に創業したらしいが、こんなところで忘年会できたらいいですねぇ。 いったん国道一号から右方向にはずれるのが旧街道、このあたりは道悦島というところ。かつては独立した村だったようだ。ずっと国道を歩いてきたのでしばし静けさを取り戻せた。 |
|
11:01 江戸期には栃山土橋と呼ばれ土を乗せた橋だったようだ。この橋の東端が道悦島村と島田宿の境界になっていた。いよいよ駿河国最後の宿場、島田だ。 8:30 栃山橋を渡ってすぐに宿場町中心部へ続く道が国道から分岐する。島田市は街道の保存、PRにかなり積極的だと感じる。 |
|
甘露の井戸水と書かれた場所を見つけた。どうやら自由に飲んでよさそうなのでこれ幸いといただくことに。旅人にとっては恵みの力水となった。 ちょっとJR島田駅に寄り道、すると栄西禅師の像があった。なんでも修行先の宋から茶の文化を持ち込み「茶祖」と言われたらしく、茶の栽培が盛んなこの島田市に像を作ったとか。 |
|
みごとな格式の神社があった、名は大井神社。大井の渡しが近いことを感じさせる。 東海製紙の工場前を真っ直ぐ行くと大井川の橋に続くが旧街道は左方向に入っていく。橋さえあれば苦労はしなかったんだろうねぇ。 |
|
大井の渡しのエリアに入ってきた。建物が復元されたりして当時を偲ばせている。宿や酒屋など各跡地に案内板が立っていて楽しい。観光スポットになっていた。 川会所(川札を買うところ:切符売り場かな)も再現されていた。やはり川の深さで料金が決定されていたようで、蓮台も展示されていた(左奥)。蓮台に庶民が乗るここはなかっただろう。 |
|
島田の大堤、大井川の氾濫を治めた重要な堤防で江戸初期には完成している。この大堤の完成で付近のコメの収穫は20倍になったとのこと。戦国から江戸期にかけて大規模な土木工事が行われるようになってくる。このことがその後の人口増加につながってくるんですね。 大井川に近づくにつれてそれらしい建物を残している。せっかくの景観に自動販売機がちょっと残念だなあ。 |
|
大井の渡しの案内板。絵に描かれているように渡ったんだろう。しかし若い女性は肩車されて照れるよね。 朝顔の松、ひとりの娘の物語に由縁のある松だとか。「朝顔日記」といい浄瑠璃でも演じられる有名な話らしいが知らなかった。 |
|
大井川の川岸にから対岸をのぞんだが遠すぎてよく見えない。この中をすっと川の渡し手たちが歩いたかと思うと大変な仕事だと思う。 9:38 わずか上流の大井川橋、車道の左側に歩行者用の橋が設けてありそこを渡り始める。渡り終えるまでに要した時間は11分40秒、いままでのなかで最長の橋となった。 長かった駿河国を歩き切り、この先は遠州だ。 |
△上に戻る