佐屋街道
宮宿から渡しを使わないで陸上の道を佐屋まで行く。佐屋からは海上三里の航路が待っている。
一里塚あり、宿場町ありで東海道に準ずる脇街道であった。
都会に埋もれた町
ここからは佐屋街道の道筋となる。現代もふたつの国道の起点になっている交通の要衝だ。 宮大工岡部又右エ門の家跡、あの安土城の設計総責任者だ。今まで数十回通行した道だったが今回初めて発見した。普段どこを見て歩いていたのか… |
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頼朝の生誕地と伝わる場所。母親は熱田神宮の大宮司家由良御前で大河ドラマの田中麗奈さんが思い出される。 街道は金山の手前で尾頭橋方向に左折する。 |
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その昔は「新橋」と呼ばれていた尾頭橋、江戸期の賑やかな様子が絵に描かれていたが現在はクルマのための橋になってしまっている。地方都市のどこにでもある風景で少々残念な気がする。 |
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中川運河を越え一気に歩いてくると烏森駅にさしかかる。つい「からすもり」と読みそうだが名古屋のこの地は「かすもり」と呼ぶ。ここはかなり手前からも見える大きな松が2,3本あって踏切の名物だったが、松は消滅ししかも高架になっていて驚いた。 近鉄を渡ると街道風の街になってきた。柳小学校という学区でよく遊びに来た場所だ。筆者が子供の頃はもっと活気があった気がするが… |
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烏森エリアを抜けると大きな通りと直交するがこれが「豊国通」。この辺りは秀吉の地元とあって「太閤通」「豊公橋」などゆかりの名前が目立つ。「豊国通」を過ぎると筆者のふるさと岩塚だ。 岩塚石橋交差点、この先が岩塚宿になっている。子供の頃は川が横切っていてよく雷魚を捕まえに来た。 |
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筆者が幼少のときはたくさんの商店があった岩塚も、今では歴史に埋もれた静かな佇まいを見せていた。街道の先が上りになっているが真っ直ぐ先に橋が架かっていたと祖父が言っていた。今は岩塚本通まで出ないと庄内川を渡れない。 佐屋街道から少し南に入った遍慶寺、岩塚城址と言われている。かつては筆者の通った幼稚園が設置されていた。 |
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1970年頃の岩塚はまだお店がたくさんあって賑わっていた。覚えているだけのものでも上の図ほど思い浮かんだ。今は学校とお寺以外は消えてしまっていた。赤い枠はそれぞれ同級生だったがどうしているだろうか。 |
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七所社、奇祭「きねこさ祭り」が行われる。筆者が小さかった頃は一番の楽しみだったし大人になったら祭りに参加するのだと信じて疑わなかった。母校の小学校の校歌にも謳われていたが貴重なカブトムシ採取地でもあった。 ともあれ庄内川を橋で渡る、眼下に万場の渡しをイメージしながら…。右のマンションは以前ボーリング場だった。 |
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万場宿の街並み、趣のある景色。岩塚宿と合わせてひとつの宿場とされていたらしい。遠方のクルマのいるあたりが本陣のあったところのようだ。 国玉神社、尾張の大國魂神社より勧請された。南西角に高札場があったとのこと。 |
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光圓寺山門の威容、国玉神社の向いにある。この山門は信長と道三の会見で名高い聖徳寺の門を移築したもの。 万場を過ぎ砂子川崎地蔵と書かれた祠のあるところまできた。ここで左折するが角には高札場跡の杭が建っていた。 |
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繁栄の跡、津島
神守宿に入ってきた、一里塚付近は下町と呼ばれておりその先、中町、上町となっている。下町は県道になっているのでクルマがひっきりなしに通る。 神守の本陣跡付近から見た上町の旧街道。静かで落ち着いた雰囲気だ。 |
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日光橋を渡る。まずまず大きな川だが江戸期から架橋されていたらしい。 この先、街道は矢印のように真っ直ぐ行っていたはずだが歩道橋のところで行き止まりになる。建物の向こう側に旧街道の痕跡があった。 |
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途切れた道をつなぎながら歩いていくと埋田追分で大灯篭が迎えてくれた。手前には道標が行先を案内している。 どうやら右と言っているが真っ直ぐが津島の天王さん(津島神社)で左が佐屋路となっている。この方向が消えてしまった佐屋街道と見た。 |
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灯篭の先には鳥居らしき残骸が… 碑の説明には天王さんの一の鳥居跡らしい、伊勢湾台風で壊れたままだという。そう言えば我家のアパートも伊勢湾台風で倒壊し翌年新築され筆者はその新築のアパートで生まれたようだった。 |
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街道を探して佐屋まで
埋田追分からは街道の棄損が激しいため現在は歩けないところが多く正確にトレースできなかった。そのため事後に地図で位置を確認。 |
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佐屋街道は埋田追分で津島街道と別れると南に下り一里塚を経て愛宕神社まで行く。愛宕神社からはわずかに街道の痕跡が残るがそれも束の間、内佐屋交差点南の巡見街道との分岐点まで消失していた。 |
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愛宕神社の脇でようやく佐屋街道が復活する。この辺りも区画整理や水田の整備で旧道が撹乱されている。 この水田の中を旧街道が通っているのだが、完全にわからなくなっている。 |
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名鉄の踏切に向かって歩くが旧街道に近いルートのようだ。踏切先の高圧線の鉄塔が目印。 踏切を越え水田のわき道を分け入って来るとやっと街道の名残が見えてきた。 |
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巡見街道との分岐地点がこんな変電所の脇だった。その少し先には佐屋街道の石碑が建てられていた。 須依の交差点を右折し佐屋宿に入ってくる。「くいな塚」なる道標があったがいったいなんのことだろう。 |
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写真下の「きこく」という木は江戸期の佐屋宿を描いた絵図にも描かれているらしい。このあたりには舟場への案内碑や代官所跡などが残っている。 船着場跡、佐屋街道はここから先「三里の渡し」となり当時川だった佐屋川を下って桑名まで行く。今は川すらないので巡見街道を使って桑名を目指すことにしよう。 |
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佐屋街道の一里塚
五女子 新幹線のガードをくぐった先に碑だけ残っている。ただ当時の状況はうかがい知れない。「津島街道」となっていたが江戸期は佐屋街道も津島街道も同じように見なされていたのか。 |
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岩塚 岩塚小学校前の何となく広場的なエリアが一里塚跡と思われる。生前祖父もそう話していた。かつてはよくこの辺りで雑談する人や散歩する人がいたのを覚えているが、憩いの場所だったのではないか。この先は石橋のあった地点にバス折り返し用の空き地があってバスによくひかれそうになった。さらにその先は岩塚宿のエリアとなる。 |
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千音寺 七所社神社の向いに標示棒が建っている。住所が千音寺となってはいるが、千音寺と言えば千音寺住宅よりはるかに離れた場所だった。 |
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神守 現在佐屋街道で一里塚を見ることのできる唯一の場所。神守の交差点の先に保存されている。場所柄クルマの渋滞が常態化しているため周囲から観察することが難しい。江戸からは93里という。 |
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津島 失われた佐屋街道上の古地図に一里塚の表示を発見しほぼ当地と断定。津島神社へ向かう道にも表示がありその場所には現在碑も建っている。佐屋街道を行く旅人と津島神社への参拝客で当時は賑わったのではないか。 |
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