こぼれ話

本編で紹介できなかった興味深いテーマを紹介する。
多少(かなり?)東海道とはずれたことも載せるかもしれない。

箱根の山越えエリアには数多くの坂があり名前の付いたものもある。
全部ではないが様々な云われからついた面白い坂を集めてみた。


 

観音坂

奥湯本にあたる場所にあり二町(=218m)ほどの登り坂となっていた。近くに観音堂があったためこの名がついたという。
ホテルの入り口角にあるため気がつかないかもしれない。

観音坂


 

葛原坂

須雲川村境にあって一町(六十間)ほどの登り坂と記されている。
普通の舗装道路の脇にあるので素通りしてしまう可能性大。

葛原坂


 

女転ばし坂

馬に乗った女性がこのあたりで転んで死んだことから名前がついたらしい。
現在はなんとなく名残りがあるものの通ることができないため登り切ったところに案内板がある。

女転ばし坂


 

割石坂

曽我兄弟仇討の前に刀の試し切りをして石を割ってしまったとか。その刀は今どこに…、
ここは旧街道の入口にもなっている。

割石坂


 

大澤坂

この道は急坂に加えて石が滑りやすいため進むのにかなりの労力を要する。しかし箱根の山道らしい坂で当時の旅の困難さを味わえる。碑には登り三町とあった。

大澤坂


 

西海子坂

畑宿の一里塚を越えた先にあって県道に出る直前にある。現在は階段になっているが当時はかなりの難渋を強いられたであろう。登り二町とされていた。

西海子坂


 

橿木坂

現在は階段となっている坂で勾配だけ見れば恐ろしく急だ。
階段のない時代はどうやって登ったのだろう、また下るのも骨が折れそうだ。

橿木坂


 

猿滑坂

殊に危険で猿といえども容易に登れないと記されている。現在は他と比較するとそれほどの急坂でもないと思うが、今と昔では道が違うので何とも言えない。登りきるとすぐ県道に出る。

猿滑坂


 

追込坂

甘酒茶屋までの緩やかな坂についている名前。坂の入り口に親鸞上人と弟子の別れの碑が立っている。

追込坂


 

於玉坂

案内がないのでまったくよくわからないが甘酒茶屋で休んだ後なので気合いでガンガン登れる。登り二町らしいがそんなにきつい坂ではなかった。

於玉坂


 

白水坂

県道と交差した後にすぐ出会う坂。登り十二間とのことだがこちらも比較的緩やかな勾配で助かる。

白水坂


 

天ケ石坂

意外と短い坂でいつの間にか登ってしまった。登り七間余りと小さく碑に刻んである。

天ケ石坂


 

権現坂

西に向かってようやくの下り坂、目の前に芦ノ湖を望み箱根宿へあとわずかという期待が膨らむ。

権現坂


 

向坂

箱根宿を過ぎて芦川の石仏群の先の坂。当時の石畳の残されていているが筆者が通った時はあまりに草が生い茂っていてまっすぐ立ったままでは通過できなかった。

向坂


 

赤石坂

国道一号の下をくぐると案内が立っているが国道一号の手前からがこの坂の始まり。杉並木が残っており、ただの山ではなく人の手が加わっていることがわかる。

赤石坂


 

釜石坂

坂に沿って杉並木となっているが芦川から先は総じて道が狭い。これは当時のままなのか、反対から来る人とすれ違うこともできない。(でも反対から人は来ない…)

釜石坂


 

風越坂

箱根の坂には石畳が敷かれたが平坦な場所や集落には石畳はなかったそうだ。もう一息で相駿国境にたどり着く。

風越坂


 

挟石坂

箱根峠にかかる一面カヤだらけの荒涼とした坂だったそうだ。今でも国道に出るまでの坂は山登りそのものだ。

挟石坂


 

甲石坂

茨ヶ平を左折し山道に入っていくとしばらくは急な下り坂となる。周囲は茨で覆われ光すら入ってこない。坂の途中に兜岩のあった跡と刻まれた小さい碑が残されていた。

甲石坂


 

石原坂

念仏石近くにある下り坂、整備されていて割と進みやすい。下りきったところで周囲の樹木が途切れて開放的な空間となり、そこに西坂の案内板がある。

石原坂


 

大枯木坂

石原坂のすぐ先がまた坂だが、日が差さないためか地面がかなりぬかるんでいて歩きづらい。下りきると民家の庭先に出る。

大枯木坂


 

小枯木坂

国道一号からまた山道に入っていくと強烈な下り坂に遭遇。しばらく急激に下った後、雲助徳利の墓までゆるやかに下りていく。

小枯木坂


 

上長坂

現在すぐ手前まで工事中になっている。国道一号から降りるところは急過ぎて階段になっていた。階段を降り切ると箱根の案内板などあり休憩するにはいいところ。

上長坂


 

こわめし坂(下長坂)

笹原の一里塚後に国道一号と交差するがそのあたりから始まる。現在舗装道路となっているがこれが石畳だったらと思うとぞっとするほど急激な坂。下るだけでも膝にかなり負担がかかる。

こわめし坂


 

小時雨坂

坂小学校の手前からバス路線と別れて直進するが、少しだけこの部分が下っている。地元の方々のご苦労もあってキレイな花壇が文字通り花を添えていた。

小時雨坂


 

題目坂

坂小学校の先を右折すると道だか側溝だかわからないような坂があってそれがこの坂。バス通りのほうはかなり大回りしてつくられているので当時はこの坂で最短ルートを進んだのだろう。

題目坂


 

臼転坂

もう舗装道路を行けると思って油断していると突然現れる鬱蒼した道。
通過した時はどこが道だかわからないほど荒れていた。注意していないと見逃すルートにある。

臼転坂


 

愛宕坂

錦田の一里塚の先に五本松の交差点があり、そこに坂の案内がある。
交差点を過ぎるとすぐさまJRの踏切まできびしい下り坂となる。

愛宕坂


 

今井坂

JRの踏切を越してもさらに坂は続く。
この坂を下るといよいよ三島宿なのか、平坦な道になっていく。

今井坂

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箱根越え、鈴鹿越えと並んで三大難所と言われる小夜の中山。
古より西行や山科言継をはじめ多くの歌人がこの峠を越え歌を残している。
街道沿いにはそんな人知れぬ歌を小さな碑にして残しているのだが、
それを探して見つけるのもほっこりと楽しいものである。


 

「雲かかる さやの中山越えぬとは
都に告げよ有明の月」
阿仏尼

雲のかかる佐夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ。

歌碑


 

「旅ごろも 夕霜さむきささの葉の
さやの中山あらし吹くなり」
衣笠内大臣

旅姿に夕霜が身に沁みる。ここ佐夜の中山の峠道は一面の笹原で、笹の葉を鳴らして木枯らしが吹き渡ることだよ。

歌碑


 

「甲斐が嶺は はや雪しろし神無月
しぐれてこゆるさやの中山」
蓮生法師

遙か甲斐の白根の峰々は雪で白い。今、神無月、時雨の中、さやの中山を越えるとこだ。

歌碑


 

「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず
忘れぬ人をさやの中山」
藤原家隆朝臣

旅に出て耳にするここ佐夜の中山の山風の音は、都で聞いたのとは似ても似つかない。このように都もとおざかったのであるから、いっそ都の人のことなど忘れてしまえよ。

歌碑


 

「道のべの むくげは馬に くわれけり」
松尾芭蕉

道ばたの木槿の花が、乗っている馬にパクリと一口食われてしまったよ。

歌碑


 

「東路の さやの中山さやかにも
見えぬ雲井に世をや尽くさん」
壬生忠岑

東国の道中の佐夜の中山よ、はるか遠くここまで来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えることであろうか。

歌碑


 

「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」
松尾芭蕉

早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く、残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。 有明の月は遠くの山の端にかかり日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている。

歌碑

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東海道が出来たとき当時の岡崎藩主田中吉政が乙川の南を通っていた
街道を城下に引き入れ、さらに防御の役割を持たせるために
道を屈折させたことから曲り角だらけになったようだ。
あまりに曲がり角が多くてどれがどれだかわからなくなった。
田中吉政はさんざん街をいじくったあと柳川藩に行っちゃうんだよね。


 
この地点がスタートらしく「二十七曲り」の案内碑が立っていた。
岡崎は東海道本線の敷設を断った町で有名だが、そのおかげで町割りが残ったという面もある。
岡崎二十七曲り


 
まずは若宮町2丁目を左折(次まで650m)
岡崎案内
曲がり角にこんな標柱があった。この標柱を目印に行けば軽く踏破できそうだ。
岡崎二十七曲り


 
次は両町2丁目先の角を右へ(次まで80m)
岡崎案内岡崎案内
ここまでは意外と距離が遠かった。
岡崎二十七曲り


 
伝馬通に出たら左折(次まで660m)
岡崎案内
伝馬通は道幅も広く交通量も多い。生活道路の要素が濃いかも。
岡崎二十七曲り


 
伝馬1丁目までずっと直進で交差点を左折(次まで60m)
岡崎案内
この辺りはかつての中心地で本陣跡もある。
岡崎二十七曲り


 
六地蔵下り口を右折(次まで170m)
岡崎案内
一本入るといきなり淋しくなるがれっきとした旧街道。
岡崎二十七曲り


 
龍田町の大きな道路を右折(次まで200m)
岡崎案内
案内柱がないが見逃しただろうか。
岡崎二十七曲り


 
龍田公園北西を左折(次まで370m)
岡崎案内
龍田公園は斜めに強行突破。ここも案内柱なし。
岡崎二十七曲り


 
本町1丁目先岡崎シビコ横を右折(次まで80m)
岡崎案内
案内柱は続きの「と」だった。この間見逃したわけではなさそう。
岡崎二十七曲り


 
材木町口角をを左折(次まで100m)
岡崎案内
このあたりは少し狭い道だが歩道を付ける工事をしていた。
岡崎二十七曲り


 
材木町1丁目を右折(次まで150m)
岡崎案内
ちょこちょこと曲がるが案内柱通り進めば迷うこともないだろう。
岡崎二十七曲り


 
材木町角を左折(次まで350m)
岡崎案内
もう二十七曲りの半分くらい来たのだろうか。
岡崎二十七曲り


 
柿田橋角を左折(次まで190m)
岡崎案内
伊賀川にかかる柿田橋の手前を右折。ご丁寧にも説明書きもあった、よほど迷いやすいのだろう。
岡崎二十七曲り


 
三清橋角を右折(次まで95m)
岡崎案内
伊賀川の脇の道は懐かしい感じ。春は桜がキレイだろうなぁ。
岡崎二十七曲り


 
田町北角を左折(次まで130m)
岡崎案内
「を」地点から指示通り45mのところに案内板もあったので左折したが案内柱がない。次どこまでかが不明。
岡崎二十七曲り


 
田町のお風呂屋さんらしき角を右折(次まで80m)
岡崎案内
「わ」の案内を見つけられないまま進む、だいたいのルートになってきた。距離も合っているかどうか。
(なんのことはない後日「わ」が写っていたことが判明。)
岡崎二十七曲り


 
田町突き当り角を左折(次まで320m)
岡崎案内
左折後は国道一号に出てしまうため八帖の歩道橋を渡る。すると「か」が見えた。
岡崎二十七曲り


 
板屋町角を右折(次まで510m)
岡崎案内
もうここなんかカーブミラーに「よ」がついていた。それだけ設置スペースがないくらい道幅が狭いということなのだが…
岡崎二十七曲り


 
愛知環状鉄道をくぐってさらに直進
岡崎案内岡崎案内
岡崎二十七曲り


 
往還通を右折(次まで160m)
岡崎案内
矢作川に出たところで終了、実際27回曲がっていない気がする。
岡崎二十七曲り

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掛川城下に入るためには新町と言われるエリアの七曲りを経由する。
容易に敵を侵入させないための構造となっている。
七曲りの終点には当時番所と木戸があって人やモノを取り締まっていたんだそうだ。


 

一曲り

一見なにげない生活道路だが、その昔は天皇、将軍、大名も通る天下の東海道である。

掛川七曲り


 

二曲り

曲がり角のお宅が新築中だった。宿場町風に作ってくれていたらかっこいいなあ。

掛川七曲り


 

三曲り

行き止まりの先は会社の敷地のようだった。

掛川七曲り


 

四曲り

正面は空き地になっていたけど、街道当時はしっかりと建物があって防御の機能をしていたのだろう。

掛川七曲り


 

五曲り

この手前に曲がりくねった道があり七曲りの案内があった。

掛川七曲り


 

六曲り

江戸期にはここは直進できなかったはずだ。

掛川七曲り


 

七曲り

これで七曲がりは終了、ここに番所があったらしいが、今はお茶屋さんがある。ひょっとすると江戸期から続く茶屋なのかな。

掛川七曲り

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旧東海道ルートには様々な列車たちが行きかっている。
疾走する高速列車もあればビジネスマンを満載して走る列車、
またはのんびりコトコト走る可愛らしい列車など。
気が向いたときにちょっと撮ってみました。


 

東京地下鉄
銀座線

日本橋から新橋まで旧街道の地下を忠実に走っている。日本最古の地下鉄路線であることが旧東海道の重要性を物語っている。

銀座線


 

東京都交通局
浅草線

新橋からはこの線が泉岳寺までの旧東海道を担当。こちらも都営地下鉄の中では最古の路線。

浅草線


 

東日本旅客鉄道
山手線

言わずと知れたフルタイム超満員の忙しい列車。意外にも旧街道とは新橋と八ツ山橋の2か所でだけ交差する。

山手線


 

東日本旅客鉄道
東海道本線

旧東海道に代わる近代日本の大動脈。この線が開通したことによって旧街道は歴史となった。

東海道線


 

東京都交通局
三田線

三田駅で一瞬旧街道にお目見えするがやはり地下でのこと。全線にわたってホームドア設置のためまともに写真を撮るのが難しい。

三田線


 

東日本旅客鉄道
京浜東北線

東海道中では山手線と同一経路を走る。写真の八ッ山橋ではかなり道路から掘り下がったところを通過していく。

京浜東北線


 

京浜急行電鉄
京急本線

品川駅以降はJRよりも旧街道の近くを並行して走り、この先神奈川駅まで長い付き合いとなる

京急線


 

東日本旅客鉄道
鶴見線

国道駅近くの鉄橋の下を東海道は通っている。首都圏にありながらローカル線の雰囲気たっぷり。

鶴見線


 

東京急行電鉄
東横線

唯一、横浜〜反町間で旧東海道と交差していたが、地下化によって現在は旧街道から見えなくなった。

東横線


 

横浜市交通局
ブルーライン

一応旧東海道と交差しているが、建設当時から地下を走っているため一度も旧街道に姿を現したことはない。
後でわかったが戸塚でも街道と交差していた。

横浜市営地下鉄


 

相模鉄道
本線

天王町駅の改札口前が旧街道となっている。駅構内のような場所が旧街道というのは珍しい。

相鉄線


 

東日本旅客鉄道
横須賀線

保土ヶ谷以降はこの電車が時折見かけられる。ただ横須賀線というのは運転系統の呼称(通称)であって正式には線路として存在していない。

横須賀線


 

小田急電鉄
小田原線

首都圏私鉄の代表格、特にロマンスカーは人気がある。車両のリニューアルなど顧客サービスも充実している。
(実は旧街道との接点は江ノ島線だけ)

小田急線


 

東海旅客鉄道
御殿場線

国府津駅で遭遇する、言わずと知れた沼津までの旧東海道本線だ。行き先は三島行が多い。
神奈川県だがJR東海の路線だと知っている人は「通」

御殿場線


 

箱根登山鉄道

箱根湯本の手前まで旧東海道と交差しながら進む。小田急の子会社となっている。単線のため全線ノンビリ通行である。

箱根登山鉄道


 

伊豆箱根鉄道
駿豆線

三島広小路駅で旧街道と交差する。三島付近の生活の足だがJRも特急を乗り入れている。意外だが西武グループの一員である。

いずっぱこ


 

東海旅客鉄道
東海道本線

東海道本線は熱海を越えるとJR東海の管轄となり車両も変わる。静岡県内はライナーを除いて快速運転がないのが淋しい。車両のリニューアルが遅れているなど課題も散見される。

東海道線

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予想以上に路線が多かったので分けてみました (^^)


 

岳南鉄道

吉原宿の手前で旧街道と交差する。この車両も京王井の頭線モデルの改造車と思われる。この形式は日本各地の広範囲で見ることができる。

岳南鉄道


 

東海旅客鉄道
身延線

富士駅から甲府までを結ぶ。
富士駅付近では線路の付け替えが行われたため本市場駅がなくなり柚木駅経由となっている。
唯一の特急ふじかわに遭遇した。

身延線


 

静岡鉄道
清水線

江尻宿と府中宿を結ぶ早籠。様々なラッピング車両が運行されていて見ていて楽しい。写真は「キャッツ」バージョン。

静鉄


 

大井川鐵道
大井川本線

通常運行されている車両はこれであるが、偶然このあとSLに遭遇した。
やはりSLは別に掲載したい。

大鐵


 

天竜浜名湖鉄道
天竜浜名湖線

走るほのぼの感が何とも言えない雰囲気でとても癒された。

天浜線


 

遠州鉄道
鉄道線

浜松では超メジャーな遠鉄。バスや百貨店など浜松に浸透していてスズキ、ヤマハとともに浜松を代表する企業。

遠鉄


 

東海旅客鉄道
東海道新幹線

浜名湖に来るまで撮る機会がなかったためここで登場。旧街道を歩いている行程を3時間以内で結ぶなんとも味のない、いや現代日本に欠かせない存在。

新幹線


 

豊橋鉄道
東田本線

路面電車にしては新しい車両が多い路線。かつて名古屋市電の退役車両がよく使われていた。

豊鉄


 

名古屋鉄道
名古屋本線

泣く子も黙る名古屋五摂家のひとつ。名古屋の発展を阻害してきた、いや貢献してきたらしい。

名鉄本線


 

名古屋市高速度鉄道
名城線

伝馬町〜堀田の地下で旧街道と交差する。国内唯一の完全環状運転の地下鉄だ。

名城線


 

東海旅客鉄道
関西本線

三重県内の旧街道を近鉄と挟むようにして通っている。はるか昔SLに乗って顔が真っ黒になった。

関西本線


 

三岐鉄道
三岐線

近鉄富田駅に乗り入れしている可愛らしい電車、かつて鈴鹿の登山によく使った。

三岐鉄道


 

近畿日本鉄道
名古屋線

西日本の私鉄の雄、私鉄では日本最長の営業路線を持つ。特急列車の種類が多く見ごたえがある。幼少の頃、特急でおしぼりが出てきてびっくりした。

近鉄


 

近畿日本鉄道
内部線

近鉄の支線だが国内最狭の特殊狭軌のため紹介。車内は一人用シートが両サイド一列ずつありかなり小型車両である。

内部線


 

近江鉄道
本線

水口の町に入ると滋賀県で最初に出会う鉄道。この鉄道会社も西武系というが確か堤さんは滋賀出身だったはず。そう思うと電車のヨコが西武電車っぽいとも感じられた。

近江鉄道


 

西日本旅客鉄道
草津線

野洲川を渡った後しばらく旧街道と並走する路線で比較的本数も走っている。名前の通り終点は草津宿だ。

草津線


 

京阪電気鉄道
石山坂本線

唐橋で琵琶湖を渡ると行く手に現れる。静鉄と同様たくさんの種類のラッピング電車を走らせていた。

京阪電鉄


 

京都市高速鉄道
東西線

山科駅のメインストリートの地下を走り旧街道とクロスする。メトロ南北線みたいに全体がホームドア状態のため車両を撮ることが難しい。

京都地下鉄


 

西日本旅客鉄道
東海道本線

東海道本線ではあるが地元では通常「琵琶湖線」と呼び東海道線とは言わない。湖西線ができたときは湖東線と言っていた記憶もある。筆者が乗るときはいつも吹雪いていた。

JR京都線

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