一里塚

完全に網羅はできないと思うが、各一里塚の全体像、碑文、街道の様子を掲載してみたい。 一里塚の位置がはっきりしない場所も多いが「東海道分間延絵図」をもとに想定される地点を勝手に決めて一里塚としてしまおう。この絵図は距離もかなり正確に書かれている。 ちなみに一里塚は大久保長安が幕命により整備を開始し遅くとも元和年間には成立している。

金杉橋

一里塚はなかったという説もあるが、金杉の町名の由来には目印になる大木があったことからこの名がついたとあり何らかの目印になっていた可能性がある。
今はかわいい杉が周囲をなごませている。

金杉橋
金杉橋 金杉橋


 

八ツ山

「分間延絵図」をよく見ると大きな立木が見える。その位置はどう測っても鉄道の手前にあると思われる。一里塚かどうかはわからないがその先には家しか建ち並んでいないためこの場所に決定。
八ッ山橋のJRの線路をまたぐ手前あたりが該当する。橋の先には広場的なエリアが広がっていた。

八ツ山
八ツ山 八ツ山


 

大森

第一京浜から分かれた道の先に美原通りというステキな名前の場所があり、その中ほど内川の先約50mくらいのところに一里塚があったようだ。

大森
大森 大森


 

六郷

六郷神社の先の歩道橋あたりにあったようだが痕跡なし、かつてこの辺りは八幡塚と呼ばれるエリアで「江戸名所図会」に八幡塚と一里塚らしきものがそれぞれ見える。

六郷
六郷 六郷


 

市場

東海道を西に向かって最初に見ることのできる現存する一里塚。地元の方々の努力によって保存されたとのこと、昭和初期までは塚の上に榎の大木があったらしい。

市場
市場 市場


 

子安

「分間延絵図」では遍照院の手前約300mくらいに一里塚が見える。したがってこの「滝坂」バス停あたりがほぼ間違いないのではないか。
クルマの往来が非常に多く江戸情緒とは程遠い環境にあった。

子安
子安 子安


 

神奈川

旧東海道を分断している鉄道の上を橋で越して行ったところに金毘羅神社があり、その脇に碑があった。幕末この辺りは外国人が多く何かとトラブルもあって、関門が複数設けられていたようだ。

神奈川
神奈川 神奈川


 

保土ヶ谷

程ヶ谷本陣跡の先に広くなった場所がありモニュメントのようなミニ一里塚が再現されていた。宿場の京方見附と同位置にあったとされている。

保土ヶ谷
保土ヶ谷 保土ヶ谷


 

品濃

当時に近い形で保存されている関東圏では貴重な一里塚。この付近だけ鬱蒼としていて人も歩いておらず治安的にはちょっとおっかない。

品濃
品濃 品濃


 

吉田

国道一号沿いの狭い歩道にあり、のんびり歩ける状況ではないところにあるのでうっかり見落としがち。
日本橋から10番目の一里塚なのでちょうど一日分の歩行距離の目安でありこのすぐ先の戸塚宿は繁盛したことであろう。

吉田
吉田 吉田

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原宿

国道一号脇の少し小高いところに跡地の碑が立っている。原宿の名の通り間の宿があったところ。
一里塚は道路標識を建てるのに邪魔ということで取り壊されたらしい。

原宿
原宿 原宿


 

藤沢遊行寺

遊行寺坂を下っていると坂の途中に碑が立っている。実際には碑の位置よりかなり高い崖の上に一里塚は存在していた模様。現在の道はクルマ用にあまり坂の勾配がつかないよう掘って作った道とのこと。

藤沢遊行寺
藤沢遊行寺 藤沢遊行寺


 

四ツ谷

一里塚跡と記された藤沢の市教委の杭が立っているのみ。大山道の追分(分岐点)のすぐ先にあるが道の右側にしかないため見過ごしてしまう可能性大。

四ツ谷
四ツ谷 四ツ谷


 

茅ヶ崎

かなり保存状態が良く交差点の名前もズバリ「一里塚」。地元の人は一里塚など何もないかのように脇を通り過ぎていく。

茅ヶ崎
茅ヶ崎 茅ヶ崎


 

馬入

相模川を渡河し国道と分岐した直後に一里塚跡がある。付近は川会所など渡しのための施設があったらしい。

馬入
馬入 馬入


 

化粧坂

国道から別れ静かな雰囲気の中に街道の右側にある。大磯町自慢のビジュアル案内板が一里塚の説明を載せている。このビジュアル案内板は町のいたるところで大活躍していた。

化粧坂
化粧坂 化粧坂


 

国府本郷

不動川にかかる本郷橋を渡ってしばらく行くと住宅地の道路面に忽然と「江戸より十七里」を示す印がある。一里塚跡からさらに歩くと案内板だけ立っている場所がある。写真は案内板だけ別の位置にあるものを載せた。

国府本郷
国府本郷 国府本郷


 

押切坂

国道1号線と一旦別れる分岐地点に一里塚跡があるためわかりやすいが、左側を黙々と歩いていると見逃す恐れがある。(現に見逃しかけた)この一里塚は当時、道の左右両側とも3m以上の高さがあり「梅沢の立場」と言われて賑わったとのこと。

押切坂
押切坂 押切坂


 

小八幡

なにげなく道の脇に一里塚跡地の説明がある。道の両側に立派な一里塚があったとされているが現在は跡形もない。ただ付近は松並木がところどころあり街道気分を醸し出していていい感じ。

小八幡
小八幡 小八幡


 

小田原

小田原宿の江戸方見附跡と共に碑が立っているが痕跡はない。ただ向かい側の江戸向き歩道先には見事な松と見附の詳細な説明板があり見逃せない。説明によると海側に塚があったと記されていて左右両側にあったとはなっていなかった。
西向きで進むと歩道橋の真横でかなり見つけづらいところにある。

小田原
小田原 小田原

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風祭

道幅が三間くらいになった比較的狭めの小田急風祭駅近くにある。道から若干右に入ったところにあるが見つけにくくはない。
高さ、周囲とも3mほどだったらしく小ぶりな塚だったようだ。

風祭
風祭 風祭


 

箱根茶屋

箱根越えが始まって早々に位置する一里塚、道が狭くカーブしているところなので写真を撮っている場合じゃない感じ。白川洗石という細工師の方の生家跡にもなっている。

箱根茶屋
箱根茶屋 箱根茶屋


 

畑宿

畑宿の街並みの先に復元ではあるが左右対で立派な一里塚が現存する。車でも来やすい位置にあるため観光客もいた。
山道の入り口にもなっていてまさしく一里塚の機能を果たしている。

 畑宿
畑宿 畑宿


 

葭原久保

元箱根の喧騒から少し離れると松並木の入口付近の歩道橋手前の左側にある。ここで休みながら芦ノ湖と富士山を眺められた旅人は疲れもすっかり癒えたことでしょう。

葭原久保
葭原久保 葭原久保


 

25里目

山中新田の一里塚が26里目とのことで25里目が存在せず塚間の距離も合わない。街道のルート変更に伴いこんな不可解なことになっているようだが、今なお25番目の塚は不明らしい。

箱根関所


 

山中新田

国道から山道に入る脇にあるものの進行方向より先に位置するため気が付かない可能性がある。一里塚のなかでは最も人家から遠いさみしい場所に存在する。

山中新田
山中新田 山中新田


 

笹原

山道が終わる直前の左手高台にあるため真っ直ぐ前だけを見て進んでいると見逃しやすい。京方から進んでくるとこわめし坂の頂上にあるイメージなので文字通り旅の目安になっていたであろう。

笹原
笹原 笹原


 

錦田

両側の一里塚が現存し、しかもその間を現役の国道が貫いているかなり希少なシチュエーション。さすがに国指定の史跡に値する迫力があった。

錦田
錦田 錦田


 

伏見

右手の塚は現存で左の塚は復元らしいがどちらもお寺の敷地内となっているため寺名の付いた案内板があった。周囲が住宅地で車の通行量も少なく落ち着いた雰囲気の一里塚だった。

伏見
伏見 伏見


 

沼津日枝

警察署の裏を過ぎたあたりに一里塚保存公園のような一帯が設けられていて塚自体が復元されている。玉類を研くための玉砥石が同場所に置かれている。

沼津日枝
沼津日枝 沼津日枝

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松長

街道は沼津宿を過ぎてしばらくすると延々と続く直線となる。
あたりの風景がまったく変わらず飽きてきたころ右手の民家先にひっそりと碑が立っていた。

松長
松長 松長


 

松長一里塚を越しても真っ直ぐ単調な行程は一向に変わらず原駅前を越すとようやく左手の庭先に一里塚跡を発見。街道の両側に存在していたらしい。

原
原 原


 

沼田新田

松の木が見事な広沼橋を渡ると一里塚跡という小さな標示杭がある。しかしその場所には増田平四郎の像があるだけ。一里塚跡はそこからさらに30mほど先にある。塚は現存していないが松の木陰が嬉しい。

沼田新田
沼田新田 沼田新田


 

依田橋

東海道分間延絵図巻には確かに左富士神社の先右手に一里塚が見えるが現在該当地には跡形もない。吉原宿の場所変更に伴い一里塚が動いたのかもと考えたが確証が持てないため左富士神社付近を載せた。

依田橋
依田橋 依田橋


 

本市場

冨士市の象徴である製紙工場が立ち並ぶ脇のバス停のところに碑が立っている。少し入ったところにあるのでわかりづらい。手前には過去の身延線の跡があった。

本市場
本市場 本市場


 

36里目

不可解な欠番、街道のルート変更が原因なのかあるいは富士川の渡しの関係なのだろうか理由は判明しない。

富士川


 

岩淵

富士川の先の高台を行くと街道はほぼ90度直角に右折する。その地点に見事な一里塚が残っていた。付近にはお持ちを売る茶屋もあったらしく景色の良いこの場所はさぞや賑わったことだろう。

岩淵
岩淵 岩淵


 

蒲原

蒲原宿に入る手前に小さな神社がありその中に碑と案内板があった。やはりこの場所も津波で塚が流されているとのこと。36里目の塚の謎と関係があるかもしれない。すぐ先に大きな配水管が通っていた。

蒲原
蒲原 蒲原


 

由比

由比の街並みに入る手前に新町の一里塚という説明板があった。碑がかなり小ぶりなので見逃す可能性が高い。

由比
由比 由比


 

西倉沢

これからいよいよ薩埵峠という登り口に一里塚跡がある。ちょうど望嶽亭の向かいにあたる。案内板が風雨にさらされて文字が見えなくなっていた。

西倉沢
西倉沢 西倉沢

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興津

薩埵峠を越え興津川を渡ると興津の宿場に入ってくる。身延道分岐のわずか先の右手になにげなしに一里塚跡があった。

興津
興津 興津


 

江尻

国道から別れて江尻の街が見えてくる頃に左手の少し入ったところに案内が出ている。とてもわかりづらい場所にあるので見逃す可能性大。
宿場町に結構近い位置に感じるが道の両側にしっかり存在したらしい。

江尻
江尻 江尻


 

草薙

道幅の広い県道に合流した直後に右側の大きな狸の隣りに一里塚跡がある。9m四方の大きな塚が道の両側にあったとのこと。
府中宿まであと約2里ということで江戸から来た旅人はここで気合を入れ直したんだろう。

草薙
草薙 草薙


 

長沼

静鉄長沼駅の手前に小さな塚跡の碑が立っている。電柱と民家の塀に挟まれて建っており全く気付かずに通り過ぎてしまう恐れあり。ここでも痕跡は全く残っていなかった。

長沼
長沼 長沼


 

府中

旧街道である新通りにはなく、バスの通っている本通りに塚跡がある。普通に旧街道を歩いていたのでは絶対に見つからない。
静岡市内4か所の一里塚跡はすべて原形ととどめていないと碑文にあったが平成の合併後は市内に7か所となったにもかかわらずそれらもすべて痕跡がない。

府中
府中 府中


 

鞠子

鞠子宿に至る入り口辺りの右側の歩道上に背の低い碑が立っている。静岡市内の一里塚跡ほど案内もなければ保存意識を感じられないところはない。

鞠子
鞠子 鞠子


 

宇津ノ谷

宇津ノ谷峠の越す前の国道脇にあったと伝えられ、写真の交通安全の碑付近が一里塚跡らしいが、ここも静岡市。一里塚跡などかまってはいられない様子。

宇津ノ谷
宇津ノ谷 宇津ノ谷


 

岡部

岡部宿入り口にある十石坂観音堂付近が岡部の一里塚跡。なんとなく史跡公園系の作りになっているが塚跡の説明は掲示されていなかった。

岡部
岡部 岡部


 

鬼島

岩村藩領横内村を過ぎて国道を横目に見ながら進むと民家の脇に地味な表示杭が立っている。まさかこれが一里塚跡の表示とは思いもしなかった。

鬼島
鬼島 鬼島


 

志太

瀬戸川にかかる勝草橋を渡るとすぐ右側に秋葉神社灯篭と一緒に塚跡案内がある。旧清水市以来の案内板がなんだか懐かしく感じられた。

志太
志太 志太

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上青島

江戸から51里目、つまりちょうど約200キロ地点である。
昭和30年代までは街道の脇が土手になっていてその上に松並木があったそうな。確かにあの頃と今では日本中隔世の感がある。

上青島
上青島 上青島


 

島田

島田宿のエリアに入って軽く右カーブをするあたりに一里塚跡の碑がある。
ここの塚も五間四方の大きなもので北側、つまり江戸から向かうと右側しかなかったようだ。

島田
島田 島田


 

金谷

大井川を渡りJR金谷駅の手前で街道が左折するところに一里塚跡の案内板が立っている。この一里塚跡はかなりわかりやすい場所にあるので見つけやすい。
かつての旅人はこの塚で休んで金谷の坂道に備えたのであろうか。

金谷
金谷 金谷


 

54里目

欠番が発生、今回もルート変更にかかわるのか。箱根といい富士川といい複数ルートの存在が伝えられるエリアに決まって欠番が存在する。

大井川


 

55里目

どうやら3ルートの大井越えが存在した影響で二つの欠番ができたのであろうか。

小夜の中山


 

佐夜鹿

茶畑の中をひたすら歩いていると左折の道がある三叉路に一里塚跡を確認。
案内には江戸から52里だの54里だのと諸説あるように記載されていたが、結局正規の資料に残っていないことが推測できた。やはり欠番とともに理由は判明しない。

佐夜鹿
佐夜鹿 佐夜鹿


 

伊達方

街道の左右に約七間四方の塚が明治三十三年まで存在した。管理がしきれなくて取り壊されたのであろうか。現在もし残されていれば取り壊すことなどあり得ない、時代によって価値観が大きく変わることを物語っている。

伊達方
伊達方 伊達方


 

葛川

日坂宿で渡った逆川がここまで流れてきていて、その逆川を渡ると一里塚跡エリアとなっている。はす向かいには結構大きなお団子屋さんがあり、現代の一里塚機能を十分に担っている。

葛川
葛川 葛川


 

大池

お寺の境内の片隅に一里塚跡の表示があるが案内板などは特になく本当にここが一里塚跡なのかよくわからない。
ただ平坦で道も真っ直ぐな場所なので一里塚があったらかなり目立ったであろうと思われる。

大池
大池 大池


 

久津部

明治まで老松が残っていたというこの一里塚。袋井東小学校の敷地内に南側の塚があったらしく、現在その場所にかわいらしいミニ一里塚が復元されていた。

久津部
久津部 久津部

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木原

袋井宿を通り抜け県道からいったん右の脇に入って進んでいくと右側の民家内に一里塚の杭が建っている。
その60m先には復元された一里塚が当時の面影を再現していた。

木原
木原 木原


 

阿多古山

見附宿の東側の木戸跡付近を左右を伺うように歩いたところ右側の民家奥に怪しい小山を発見。その頂に碑のようなものが立っていた。この一里塚は珍しく近づけない場所であった。
南側の愛宕神社の背面にも対の塚があった。

阿多古山
阿多古山 阿多古山


 

宮之一色

磐田市街地を後にしてバス通りとなっている道を行くと右側にこんもりと一里塚跡が残っている。この一帯は磐田市が東海道と歴史の道として保存に力を入れている。
確かに手前の見附宿も大切にしていることが見て取れた。磐田市さんありがとう。

宮之一色
宮之一色 宮之一色


 

安間

天竜川を越え少し行ったところに事も無げに表示杭だけ設置されている。
今は感動のない状態になっているが、当時はあと一時歩けば浜松だという希望が湧く場所だったのではないか。

安間
安間 安間


 

馬込

浜松の中心地に入ってくる直前に左側の歩道の植え込みに案内板が設置されている。辺りの交通量はかなり多い。
市内に入ってくるとどこからでもアクトタワーが見えるのでなぜか落ち着かない。

馬込
馬込 馬込


 

若林

浜松を出てしばらく行くと国道に沿って歩くことになるが、その左側の歩道に一里塚がある。道幅から言って非常に交通量が多そうだが、早朝だったおかげでひっそりとしていた。
案内板が可美村教育委員会になっていたのが少しうれしかった。

若林
若林 若林


 

篠原

国道から離れてホッとしたところに一里塚跡の案内板があった。しかし民家の敷地内であり碑さえない。明治時代、一里塚の取り扱いの差で民家になってしまっているところも多かったのだろう。
ちなみに京都に向かって左が松、右が榎だったらしい。

篠原
篠原 篠原


 

舞阪

宿場に入ってすぐに街道の両側に一里塚エリアが確保されていた。右側には若干の盛土がされていて松が植えられている。
大正時代までは大きな榎が健在だったそうだ。

舞阪
舞阪 舞阪


 

新居

海に向かって南下する道の途中、民家の庭先の樹木に紛れるように案内板が立っていた。歩く目線の真横にあり死角に入ったため危うく見逃すところだった。

新居
新居 新居


 

白須賀

これから潮見坂だという直前の、これまた民家の軒先にかなり小さな碑とともに案内板がある。浜名湖周辺エリアはどうも民家となっている一里塚が多いようだ。
この辺りでは一里塚ではなく一里山と呼んだそうだ。

白須賀
白須賀 白須賀

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細谷

三河に入って最初の一里塚、国道一号の京に向かって右側にある。
やはり一里山と記された交差点があり、それをを渡るには地下道しか方法がなかった。
ここの一里塚跡は当時のまま残されている貴重なものらしいが、元々道の両側にあった塚のうち左側のものは私有地となり破壊された模様。

細谷
細谷 細谷


 

二川

二川宿の域内に入った感のある小さな交差点の角に一里塚跡に碑が立っている。
小ぶりな碑なので見落とすかと思われるが、この小さな交差点が意外にクルマが頻繁に通るためなかなか渡れないことで、クルマ待ちをしているうちに見つけられた。
この辺りは歩行者優先ではないので気をつけたい。

二川
二川 二川


 

飯村

旧街道が国道一号に合流する殿田橋交差点のわずか先、クルマの排気ガスの中に碑がたっている。
本稿でも書いたが天下の旧東海道に横断歩道がなく一旦国道一号にそれて交差点を渡らなくてはならない。交通量もゲキ的に多くドライバーは歩行者を無視しているため、あやうくひき殺される寸前になった。

飯村
飯村 飯村


 

下地

豊川をとよはしで渡ってすぐに出会う一里塚、下地交差点の手前右側にある。
特に案内板はなく江戸から七十四里とだけ記してある、早朝だったこともあるが交通量が比較的少ないので安心して見られた。

下地
下地 下地


 

伊奈

ランドマークのない単調な道に飽きてきた頃にようやく現れた。
目印は太鼓屋さん。しかし店は開いていなかった。それにしても人っ子ひとり歩いていない。

伊奈
伊奈 伊奈


 

御油

「がましん」(蒲郡信金かな?)の生垣の中に一里塚碑を発見。御油宿の手前だが駅としては国府のほうが近いと思う。この先に姫街道の分岐がある。
江戸より七十六里、つまりほぼ300キロということになる、かなり歩いてきた気になった。

御油
御油 御油


 

長沢

長沢小学校、つまり長沢城跡の手前に木製の杭が立っていてそのてっぺんに東海道分間延絵図らしき絵の一里塚が乗っていたが、その絵についての説明が何もなかった。
この辺りは両側から山が迫っていていわゆる隘路になっている。長沢城が交通上重要だったことがわかる。ちなみに東海道本線は通っておらず名鉄と国道一号が通過している。

長沢
長沢 長沢


 

本宿

本宿駅近くの民家脇に碑があるが、東海道分間延絵図では村はずれになっている。
江戸期の本宿はやはり法蔵寺が中心だったのだろう。代官所も法蔵寺近くに立地している。

本宿
本宿 本宿


 

藤川

久しぶりに案内板のある一里塚跡であった。
その案内によると南側すなわち京方に向かって左側は天保年間にはすでになかったことになっていた。案内板はその左側に立っている。

藤川
藤川 藤川


 

大平

国の史跡に指定されている立派な一里塚が現存する。あるのは左側のみで右側は道路拡張時に破壊されたそうだ。
塚を破壊してまで広げた道路のためそこそこクルマが通っている、そのため休もうと思ったがゆっくりできなかった。

大平
大平 大平

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岡崎

岡崎と書いたものの岡崎にあるはずの一里塚が見当たらない。
「東海道分間延絵図」では中央緑道と愛知環状鉄道は堀か川になっていたように見え、その内側にそれぞれ惣門があったため塚は作られなかったか。柿田橋あたりに塚っぽい絵が見えるがよくわからない。それにしても距離が半端だ。

岡崎


 

矢作

「東海道分間延絵図」では矢作橋を渡りすぐ川沿いに100mほど北上した後、左折する角に塚が描かれている。
しかし現場にはまったく痕跡も碑もないので、仕方なく勝蓮寺のあたりを掲載することにした。

矢作
矢作 矢作


 

尾崎

熊野神社の入り口、旧鎌倉街道の「目印しの松」と言われる松の片隅に一里塚跡の碑がある。
周囲は元は海軍航空隊の敷地で現在は見渡す限り水田になっている。次々と変貌する地を松と熊野神社はどのような気持ちで見つめてきたのであろう。

尾崎
尾崎 尾崎


 

来迎寺

県の指定を受けた史跡とされていて両側に塚が残っている。
右側の塚の前にはよりによって公民館の大きな建物が建っており街道から隠れている。両方の塚を写真に納めるため京方から撮るしかなかった。

来迎寺
来迎寺 来迎寺


 

一ッ木

交通量が半端ない国道一号のまさに真横に一里塚はあった。わかりづらいが歩道橋を目印にすると簡単に見つかる。
明治18年には両側とも塚は健在だったとのこと。このあたりからは周囲にため池が目立ち始める、水利に苦労した土地だ。かなり先になるが愛知用水もある。

一ツ木
一ツ木 一ツ木


 

阿野

豊明駅の先で国道から別れたすぐ先に国指定の史跡である一里塚がある。ここの塚は両側とも現存しており、県内では他に来迎寺だけだ。
違法駐車車両があったためクルマが居なくなってから写真を撮ろうとしばらく待っていたがダメだった。

阿野
阿野 阿野


 

鎌研橋

有料道路の真下につい最近復元された一里塚がある。一面道路工事中で目の前には名鉄の踏切もありすさまじい喧騒の中にあるのでおちおち休んでいられない。
地元の方の熱い意志で復元されたことに敬意を表するが…、碑だけで良かった気がする。

鎌研橋
鎌研橋 鎌研橋


 

笠寺

笠寺観音の少し手前の街道右側に一里塚が現存する。交通量が少なく今も休めるエリア。
熱田まであと一里、さあもう一息頑張ろうといったところ。

笠寺
笠寺 笠寺


 

伝馬

常滑線の高架をくぐったところに小さな公園があり一里塚跡となっている。
いよいよこの先が尾張の終わりの宿、宮宿に到着。当時の旅人たちもホッとしたところではないか。

伝馬
伝馬 伝馬


 

伊勢湾上

ここから七里にわたって海路となるため一里塚はない。(あたり前か)
江戸日本橋からはちょうど九十里目となる。当時の旅人にとっては船上でしばし休憩の時間となったであろう。

伊勢湾

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伊勢湾上

七里分が海上なので九十六里まで海の中。
ちなみに佐屋街道を行っても三里は舟で進む。

伊勢湾


 

縄生

員弁川を渡った後の集落に突然碑がある。まったく前触れもないような場所にあるので見逃す可能性大。
桑名の渡し跡からは一里よりかなり距離があると感じた。

縄生
縄生 縄生


 

富田

富田の町に差し掛かって三岐鉄道と近鉄のガードをくぐると立派な碑が確認できる。
電車がかなり頻繁にとおるのであまり風情はないが逆に賑やかで重要な道筋だという証でもある。

富田
富田 富田


 

三ツ谷

四日市に入る海蔵川の手前に一里塚があったようだが現在の堤防の内側であったためなくなってしまったようだ。案内板が何者かにチョークで塗りつぶされていてほとんど読めなかった。

三ツ谷
三ツ谷 三ツ谷


 

日永

単調な道だが街道情緒の漂う雰囲気の中にひっそりと碑が立っている。この近辺はクルマの無法地帯になっていてひとつ前の一里塚で残念な気持ちになった以上の大事件が発生したが、あまりにも呆れて書くことができない。

日永
日永 日永

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采女

交通量が半端ない国道一号のガソリンスタンド脇に碑が立っている。
当時の雰囲気は微塵も感じられないが見通しの良い場所ではあった。

采女
采女 采女


 

石薬師

石薬師宿を通り過ぎて蒲川橋の先に一里塚の碑が立っている。
榎が植えられ周囲も人家がないため当時の雰囲気が漂っている。

石薬師
石薬師 石薬師


 

中富田

川俣神社の境内に一里塚がある。神社や一里塚は人の集まるところだったのだろう。

中富田
中富田 中富田


 

和田

住宅地の真ん中にいきなり大きな榎が現れ一里塚とすぐわかる。
ここで休んでから亀山宿に入っていったのだろうか。

和田
和田 和田


 

野村

この一里塚も立派な榎がそそり立っている。
国の文化財に指定されていて当時の面影を伝えている。

野村
野村 野村


 

関宿の東の追分、木崎の大和街道との分岐点に碑が建っている。ブロックの上にあるためわかりにくい。
到着した時には暗くてよく写らなかった。

関
関 関


 

市之瀬

国道一号沿いの人家の脇に碑があった、国道の右側しか歩けないため左側にある碑には近づきにくい。
ひっきりなしに大型トラックが行きかうなか写真を撮った。

市之瀬
市之瀬 市之瀬


 

荒井谷

どこにも碑や痕跡がないためどこと特定できないが、おそらく街道の勾配が急になる手前の比較的平らな地点にあったと思われる。
旅人が休憩するにも適した場所ではなかったか。

荒井谷
荒井谷 荒井谷


 

山中

一里塚のあったところが公園になっているため休憩するのに適している。到着した時は豪雨だったため休めなかった。はるか頭上を新名神高速が走っていて時代の対比を見る思いだった。

山中
山中 山中


 

土山

土山宿エリアに足を踏み入れたところで街道の右側に碑を見つけることができる。この一里塚の少し手前の「道の駅」でしっかり休んできたが、一里塚は江戸期の道の駅だったのだろう。

土山
土山 土山

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市場

野洲川を渡ってしばらく土山町内を進んでいくと住宅地の茶畑のところに碑が建っていた。
塚の高さは2.5m、周囲は12mだったという。

市場
市場 市場


 

今在家

水口に入ってほどなく榎が見えてきて一里塚にたどり着いた、塚の跡地に復元されたらしい。
かつては桜の木が植えられていたそうだ。

今在家
今在家 今在家


 

林口

水口宿を通り過ぎて街並みが終わるあたりの曲がり角にある五十鈴神社に碑が建っている。当初はもう少し南にあったらしい。
五十鈴神社とはお伊勢さんと関係あるのだろうか。

林口
林口 林口


 

野洲川の近くにかわいい塚のモニュメントが作られていた。
実際この道が本当の旧街道なのか疑惑が残った。

泉
泉 泉


 

夏見

すでに湖南市に入っていて次第に平地に近くなってきたあたりの一里塚。碑や案内板はなく道路に標識が埋め込まれていた。
道路工事だらけで歩きにくかった。

夏見
夏見 夏見


 

石部

石部宿の中心部を通り過ぎたあたりの民家の軒先に案内板が建っていた。
朝早く日の出前で暗すぎでうまく写らなかった。

石部
石部 石部


 

六地蔵

とてもわかりやすい場所にある一里塚、通勤時間帯になってきたためクルマを避けながらの撮影。
小学校が近いせいか子供たちの元気な姿が嬉しかった。

六地蔵
六地蔵 六地蔵


 

目川

目川池で右折した先の通勤と思われるクルマで充満した街道の脇にあり当時は椋の大木があったという。
クルマが途切れるまで待って撮影したため時間を食ってしまった。

目川
目川 目川


 

野地

国道一号を斜めに突っ切った先が小さな公園のようになっていて行き止まりになっている。その公園が一里塚の跡。休憩できる椅子もあり一里塚本来の役目を守っていた。

野地
野地 野地


 

月輪池

いくつかのため池が点在する尾根伝いの街道が大きな通りに出たところで左側に案内板があった。進行方向の先のほうを向いているので左側を意識していないと見逃す可能性大。右側へ坂を下りていくと瀬田駅だった。

月輪池
月輪池 月輪池

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粟津

石山駅の駅舎とルネサスの工場で街道を正確に歩けない場所だが「東海道分間延絵図」ではこのあたりに塚が見える。
クルマの量が少ないのでじっくり観察できた。

粟津
粟津 粟津


 

石場

大津宿の江戸方の入口となる付近にあったようで「東海道分間延絵図」でこの辺りと勝手に決めた。
民家が多く生活感のある場所だ。

石場
石場 石場


 

走井

この一里塚も場所がよくわからない、これも「分間延絵図」でアタリをつけるしかなく。複数の小川の位置から想像してほぼこの辺りとした。
国境の狭い山道にひっそりと立っていたように見受けられる。

走井
走井 走井


 

御陵

一里塚の痕跡も何も残っていない。「東海道分間延絵図」に記載されている場所から推察してこの場所と決定。
御陵の名前の由来は天智帝の陵墓があるところからこの地名らしい。

御陵
御陵 御陵

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