遠州

全国一のふぐの産地をはじめ名物うなぎパイまで豊かな国のイメージ。
山内氏で有名になった掛川城や企業城下町の色彩が濃い浜松など楽しみなエリアである。

箱根以来の石畳

大井川 大井川
ようやく大井川を渡りきり遠江にと到着、さりげなく東海道の案内が出ているところがありがたい。こんどは遠州側の川渡し場へ向かう。
遠江国側から駿河を望む、はるか彼方からたどり着いたような錯覚を覚える。筆者も高校のころ大河を渡って通学していたがこんなスケールではなかった。
金谷の渡し場 金谷の渡し場
川渡し場の入り口の水神社に「八軒屋板橋」なる案内があった。この先には島田側と同様に会所や宿などが軒を連ねていたことだろう。
今は一般のご家庭であろう軒先に「三番宿跡」の案内が。町ぐるみで保存活動に参加されているところが素晴らしい。
往還橋 金谷
9:55
川渡し場付近を通過すると大井川鉄道の踏切を渡る。ここで偶然の蒸気機関車に遭遇、すっかり時間を使ってしまった。ようやく先に進んで往還橋なる立派な歩行者用の橋を渡るといよいよ金谷宿だ。
街道は道の脇にあった絵図のように次第に登り坂で高度を上げていく、さらに先を目指したいが帰宅する時間も考慮してJR金谷駅で本日終了。
金谷大橋 石畳入り口
前回の終了地点、金谷駅から改めてスタート。朝が早過ぎてまだ幾分暗かった、まあ七つ立ちですから…。ここは金谷大橋というらしく金谷坂の登り口にあたるようだ。
坂を上るといったん国道に出るが、国道を渡ると金谷の石畳入口になっていた。久しぶりに石畳の山越えだ。
金谷石畳 諏訪原城
ここ金谷の石畳は箱根よりかなり歩きやすい。近年になって手を入れられているようだが、かえって江戸期の状態に近いのではないかと思われる。
いったん石畳を登り切ってしばらく行くと諏訪原城址に着く。 城址なんだか茶畑なんだかよくわからなかったが立ち入りが制限されていたので先を急ぐことにした。
菊川 菊川
遠くを見ると山肌に「茶」の文字が…。向きの加減なのか、これ以降1時間近くこの文字を見ながらの行程となった。
菊川の里に向かって下っていく道となったが、また石畳が復活していた。旧街道を現代の道がところどころ交差しているあたりは仕方がないでしょう。
菊川 小夜の中山
間の宿菊川。現在の菊川駅からはかなり内陸の位置になる。しかし菊川というとどうしても墨田区のイメージですねぇ。
菊川の里から再度登りにかかる。通りを挟んで旧道が整備されていた。いよいよここからは東海道三大難所のひとつ、中山峠に向かう。別掲の小夜の中山もご参考にされたい。

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小夜の中山

白菊姫 久延寺
しばらく茶畑の中を登っていくとこのあたりは日坂宿との中間地点にあたるようだ。案内にある菊川の「白菊姫」ってどれだけ美しかったのかなぁ、お目通りしたかった…
久延寺という立派なお寺を発見、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。夜泣石という言い伝えのある石があった。
茶亭 西行詩碑
またこの久延寺には境内に茶亭の跡というのがある。徳川家康が上杉討伐軍を催したとき山内一豊が境内に茶亭を設けて家康をもてなしたとか。
小夜の中山公園にある西行の詩碑、「年たけてまた越ゆぼしと思いきや命なりけりさやの中山」。西行も二度までこの峠を越えるとは思っていなかったのだろう。この付近には詩の碑が至るところにある。
鎧塚 中山東海道
中先代の乱のおり、名越邦時が戦死した場所に作られた「鎧塚」。静岡には足利直義に関わるポイントが多い気がする。
のどかな風景の分岐点、旧街道は左だが右に行くと国道に出るらしい。小夜の中山では東海道本線は迂回していて通っていないが国道一号は付近を通っているようだ。
小夜の坂道 小夜の坂道
「命なりわずかの笠の下涼み」松尾芭蕉が歌った「涼み松」。それほどこの峠越えはキツイものがあった。毎日十里の行程を行く江戸時代の健脚さえこの峠では命がけで越えていったものと思われる。
坂を下りきったところに浮世絵が…、この坂を描いたものだろう、絵のほうが急坂に見える。
小夜の坂道 日坂
8:17
二の曲り、沓掛を経て日坂へ向かう坂道、恐ろしく急に下っていく。少年野球の子供たちとすれ違った。バイパスを見下ろす位置から一気に道をくぐるまで降下する。逆方向に戻るには強烈な登り坂となり旅人と少年野球チームを苦しめただろう。
日坂に入る手前にお店の名前と思しき板がかかっていた。これから宿場町ですよと言わんばかりでようやく人里に下りて一休みできそうな期待感が募る。

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日阪から掛川へ

日坂宿 日坂川坂屋
日坂宿に入ってきた。趣のある建物に出会ったが住んでいらっしゃるのだろうか、澤屋の名板が粋だ。近所の家から上品なご婦人が出てこられご挨拶をいただいた。やはり粋な宿場町だ。
すっかり日坂に気を良くして進んでいくと川坂屋という名の通っているらしい旅籠屋があった。江戸後期の再建築で山岡鉄舟や西郷従道も泊まったことがあるとか、日本の動脈が通っていたんですなぁ。
日坂古宮橋 事任八幡宮
逆川にかかる古宮橋、宿場の高札場跡のすぐ近くにある。これまた粋な風景だ。日坂宿は江戸当時も今も街の規模があまり変わらないとのことで江戸当時の風情を味わえる。
約700mにわたった宿場町を抜けると事任八幡宮、「ことのまま」と読む。八幡ということから武家の守り神であるが、なんでも願いのまま叶えるということから「ことのまま」というらしい。
掛川 掛川本村橋
しばらくのどかな田園地帯を行き国道一号と交差する、ここでは掛川バイパスになっていた、もうすぐ掛川だ。交差した後、すぐに八坂の歩道橋を左に入っていくのが旧街道。
国道一号につかず離れずで進んでいくと本村橋の交差点にさしかかる。ここから左折で掛川宿方面へ向かうとしばらく国道とはお別れ。本当は本日掛川泊まりにしたかったがまだ時間があるので一気に浜松を目指すことにした。大丈夫かな。
掛川 掛川七曲り
年代モノの道標、旧街道を歩いていても残っているものは常夜燈より数が少ない。この道しるべは大頭龍大権現への道を指し示していた。
この分岐点を左折するといよいよ掛川の七曲りに入ってくる。真正面の電柱の脇に東海道であることを示す小さな案内板が見えた。掛川の七曲りに大まかなイメージを載せてみた。
掛川 掛川城
七曲りを終えて城下町のエリアに来ると掛川信金の洒落た建物が目に入ってきた。ここは新幹線停車駅でもあるため街中がキレイな道路になっていた。
掛川城、元々この町で宿泊するつもりでその際にゆっくり見学しようと考えていたが、浜松まで行くと決めたので今回見学はパス。なんでもこの大手門から天守を望むのが一番美しいという。なるほど納得。
西掛川駅
天竜浜名湖線西掛川駅のホームでひと休み、自由に立ち入りできてしまうので駅の小屋でのんびりできた。線路が高いところを走っているため駅が小高いところにあり、おかげで眺めがよく富士山も遠望できる。
掛川郊外高速 原川
またまた国道一号のバイパスに旧街道をブッタ切られた。なんかトンネルにするとか方法ないんですかね。
岡津から原川までの間に松並木が残っていた。かつてはもっと長かったらしいがマツクイムシによって大半がやられてしまったとか。原川は間の宿となっているが袋井宿はもうすぐのような気がする。
同心橋 同心橋が旧街道を複雑に切断している。地下道をくぐって国道の反対側に出なければいけなかったが、わからなかったため強引に国道を横切った。
橋を渡るとすぐ左に入る道があるので旧街道に戻れる。長かった掛川市がようやく終わってこの先は袋井だ。

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天竜川の三角州

袋井市名栗 袋井市まんなか
同心橋を越え袋井に入ると堤防の片隅に小さな公園があって休憩するのに好都合だった。このあたりは名栗というらしく花茣蓙(はなござ)公園と記してある。旅する者には何とも有難い。
12:00
袋井東小学校には一里塚跡が大切に保存されていたが、校門には「東海道どまんなか」の文字が…。江戸と京のちょうど中間地点ということで町おこしの活動をしているようだ。確かに至るところにどまんなかの旗が立っていた。
袋井市新屋 まんなか茶屋
比較的大きな「新屋」という交差点を左折すると布団屋さんの塀にこんな案内を見つけた。ここにもどまんなかがあった。
袋井市役所を右に見ながらその先に進むと交差点のところに先ほど案内にもあった「どまんなか茶屋」を発見。ここから先が袋井宿となっているようだ、江戸からも三条大橋からも27番目の宿場町、文字通り「どまんなか」
袋井宿 木原
本町と言われるところに袋井宿場公園なる施設がある。日向ぼっこができそうな椅子があったりゆったりとしたスペースがあるが、寒かったのでさっさと先を急ぐ。
当時の川井村と言われる地域を歩くとしばらくは県道に沿っているが、一里塚の手前で右に入っていく。その先が木原の一里塚。その後はすぐ県道と合流してややしばらく県道と国道という排気ガス攻撃を受けることになる。
その中を子供連れのお母さんが強烈な向かい風の中を歩いていた。子供のマフラーが落ちたのに気づかなかったようなので拾ってあげて覗きこんだらかわいい顔が眠っていた。すごい得した気分(^^)
木原畷 三ヶ野
県道との合流地点の直前に木原畷という場所がある。ここは三方が原の合戦の前哨戦が行われたところらしい、知らなかった。さらには時代が下って上杉征伐時に家康が腰かけたと伝わる石が残っていた。
この三ヶ野地区には松並木が残っているが、後世に補植されたものらしい。松の管理は大変なんだろう、ご苦労様です。
遠州鈴ヶ森 なみだ橋
久しぶりに坂道を上って少し小高い場所を歩いていくとその先で国道一号に合流する。歩道橋を渡るのが正しいようで階段を上ると「遠州鈴ヶ森」って。またもメインストリートに刑場ですか、大森と同じだ (*_*)
なみだ橋があるってところも大森と同じではないか。ということは罪人は見附方面から連れてこられたのであろうか。それにしても人生のはかなさを感じます……
見付宿 ジュビロ磐田
見附宿に入ってきた。今日の終着点まであと宿場ひとつだ、頑張ろう。宿場町エリア内は道路がやたら区画整理で広くきれいになっていた、おかげで旧東海道を感じられない。
加茂川という交差点で国道一号とクロスした後一気に磐田方面に向かって南に進む。一瞬左の脇道が旧道の正解ルートだったりするので間違いなくトレースしていきたいところ。この先はジュビロードってなってたぞ、さすが磐田。
八百桂 氏神
磐田駅の少し手前、東町を右折してまた西に向かう。おなかがすいて死にそうだったところへまたも救いの神が。お肉屋さんなのに八百桂さん?しかしゲキ旨のコロッケでした。
静岡県内はこのように家の敷地内に氏神さんを置いているお宅が多い。置いている場所は土地の北西に当たる場所がほとんど、これぞ本当の救いの神。
長森かうやく 天竜川
長森の立場跡らしい、ここで人や馬はいったん休憩したのだろう。「長森かうやく」の説明もあったが当時は土産にまでなるほど人気だったようだ。子供の頃よく貼ってもらったけどそういえば最近「こうやく」って言わなくなったな。
とうとう天竜川に到着、この川は県内最長の川と言っていい。源流は諏訪湖の釜口だ。実際には渡しのあった場所より若干上流に作られた橋ではないか、これを渡れば浜松も近い。

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遠江最大都市

天竜中野 中野町
天竜川を渡ってかつての舟橋や木橋のあった地点に案内杭が残っていた。このあたりは中野町と云って江戸と京の間の真ん中の町だから中の町となったそうだ。
ここ中野町は旧街道の保存に力を入れているようで案内板も目立つ。写真は天竜川橋の架設に功績のあった浅野茂平を称えた石碑。
軽便鉄道 かやば高札場
明治の終わりから昭和にかけて約30年ほど活躍した軽便鉄道の跡。自動車が普及する前は様々な形の交通機関が存在したようだ。クルマは自由に移動が出来て便利なようだがクルマ嫌いの筆者には自動車に対してビミョーな想いだ。
かやんば高札場跡、旧萱場村の高札場のようだ。手書きで南住民五か条、私たちは地域の行事に積極的に参加します…などと書かれていた。江戸時代もそんなことが高札場に掲げられていたのかなあ。
金原明善 浜松
摩訶庵蒼山なる句碑があるところでベンチがあったのでやっと休憩。座り込んだと思ったら目の前に豪邸があった。金原明善の生家と記されていたが全然知らない人だった。何をした人なんだろうか??
琵琶橋を渡り浜松の街中に入ってきたころには日が傾いて急激に暗くなり始めた。夜道は切り捨てられる恐れがあるため旅籠へダッシュ!
浜松連尺 浜松
連尺交差点に差し掛かった頃にはもう真っ暗。今回は道なりに左折だからいいがいつもはこの交差点無理やり地下を歩かなくてはいけない。手前の子安の信号もそうだし静岡市の江川町も不便極まりない、車いすの方はどうすればいいのかな。
17:46
またも強制地下道の伝馬町交差点を過ぎたら旅籠に到着。疲労困憊したため家康くんと一緒にさっさと寝てしまいました。明日も頑張ろう…、
雄踏国道 浜松ガード
6:42
夜が明けてあらためて出発だ、旅籠を出てすぐの成子交差点を右折。右折後のこの道は雄踏(ゆうと)街道というらしい、かなり広い道だ。さらにその先の菅原町交差点を左折する。
東海道本線のガードが旧街道をブチ切っている。静岡県内では珍しくないブチ切りだが、仕方がないので道なりに左へ折れて交差点を突っ切る。
浜松鎧橋 可美
鎧橋なる史跡を発見。平安期の末期の合戦にまつわるものらしい。この合戦では1000人ほどの戦死者が出たらしく橋の北側に葬って塚を作ったようだ。しかし当時の戦死者1000人はかなりの規模だ。
松並木が朝日に映えて美しい。しかもクルマがほとんど通らず静寂の中でいい感じ。ただ旧街道がひたすら真っ直ぐモードになったためちょっと退屈かな。
可美村旧庁舎 高塚駅付近
可美村合併記念の碑が立っていた。ここは旧村役場かな。しかし可美村がなくなったからもう20年以上経っていたとは驚いた。スズキさん頑張ったんですねぇ。
真っ直ぐ街道はJR高塚駅を過ぎると国道を離れていく。道幅もいつもの東海道クオリティに戻るのでのんびりと進めるがその先も相変わらず真っ直ぐモードだ。

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浜名湖のめぐみ

松の木 本徳寺
国道を離れ交通量の少なくなった道をのんびり歩いてくると小学校の先に道から溢れんばかりの松に出会う。なにも説明はなかったがずいぶんと存在感のある松だ。
ひたすら真っ直ぐな道を少し飽きそうになりながら進むとふたつの同じ名前のお寺がある。本徳寺というらしく東本徳寺と西本徳寺が並んでいた。写真は西本徳寺。西東なんてなんだか本願寺みたい。
舞阪松並木 舞阪松並木
JR舞阪駅の付近から松並木になってきた。松のたもとには日本橋から順番に宿場町の絵が描かれた碑が作ってあり面白い。すべての宿場町の分が東からあり、よく作ったものだと感心する。
舞阪の説明の碑だけは特別に大きかった、そりゃそうだよね。舞阪の紹介の絵は今切の渡し、やはり舞阪と言えば今は無き「渡し」なんでしょうね。
浪小僧 舞阪宿
松並木が終わるところで国道一号と交差するが、そのあたりは小さな休憩エリアのようになっている。これはありがたい。そこには「浪小僧」という像が立っていたが何でも波が高くなるときに村人に太鼓をたたいて知らせた海底に住む小僧だとか、わりとかわいい (^^)
国道一号を真っ直ぐ突っ切り、その先の舞阪宿へ入っていく。宿場町の入り口には見付の石垣跡が残っていた。そこから宿場の西端まで700mくらいなので数分で歩き切れる長さだった。
本雁木 湖西市
ここから先は現代においては行き止まり、当時はここから今切の渡しに乗って新居関までひとっ跳びだったんだろう。当時はこの船着場のことを本雁木(がんぎ)と言ったらしい。現代は仕方がないので右折して弁天島の橋をひとつひとつ歩いて渡っていくとしよう。
新幹線のけたたましい音と一緒に新居へと向かう。橋を何本も渡ってしばらく行くと湖西市に入る。新居は湖西市だったんだ。
新居歩道橋 浜名橋
湖西市の看板がある交差点に面白い歩道橋がかかっていた。二本の歩道橋がつながっているようでつながっていない、元々一本の歩道橋でもない中途半端でウケタ ( ̄∇ ̄)
室町期の地震津波で浜名湖が海とつながる以前は浜名川を浜名橋で渡っていたようだ。その後江戸期は舞阪からの今切の渡しとなる。
当時の橋は現在の浜名橋の位置ではなかったようだが、今の橋は浮世絵が設置され楽しませてくれる。
新居関所 新居関所
新居の関所は今切の渡しの船着き場のすぐ目の前にあったようだ。
この新居の関所の建物は江戸時代に建てられたそのものが残っているらしく全国の中でも珍しいという。…なのに今日はお休みで見れなかった。どこの施設も全部休みで見れないよぉ。
峠の地蔵堂 「おいしいコロッケあります」って言うものだからつい寄ってしまう。わざわざ看板出すだけあって別世界のうまさだった。人生最高のコロッケだったかもしれない。一回食べ終わってまた買い直して食べた。お店のお姉さんも粋でサイコーでした。
これは浜名湖の恵みに違いない、ごちそうさまでした!

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さらば静岡県

新居宿 橋本宿
新居宿から南下してきた行程は国道一号に出たら右折して国道一号を歩くことになるが、浜名バイパスがあるため国道一号といってもそんなに交通量は多くない。しかしすぐに国道と別れて右方向に分岐していくのが旧街道。
分岐後なかなか雰囲気のある家並みがあり、まるで宿場町的だなと思っていたらあるお宅の前に「橋本宿」と。宿場町はなかったようだが、江戸期東海道より以前にどうやら宿場があったようだ。
松並木 元町
並木をしばらく行くと前大納言藤原為家の歌碑がある。「風わたる浜名の橋の夕しおほにさされてのぼるあまの釣舟」。また側室となった阿仏尼の歌も刻まれている。
元はこの辺りに宿場があったらしいが津波で壊滅し現在の高台へ移転したそうだ。移転後津波の心配はなくなったものの西風が強いので頻繁に火事が起きたらしい。なかなかうまくいかないものだ。風が強くて都合がいいのは現代の風力発電くらいだろうか。
潮見坂 潮見坂
平坦で海に面した街道をずっと来たが、ようやく潮見坂への右折地点が見えてきた。この急坂を上るのは鉄道では無理だったため東海道本線のルートから外れることになった。
結構登っている、今は舗装道路だからいいのだが当時はどのような道だったのであろう。確かにこれだけ高いところへ移転すれば宿場町も津波から逃れることができる。
潮見坂公園 潮見坂
潮見坂公園の跡地、武田討伐後の信長の帰路、ここに茶亭を建てた家康がもてなしたという場所。明治帝もお立ち寄りになったようだ。この眺めはだれでも見たいよね。
昔も今も旅人を楽しませてくれる景勝地として名高い潮見坂。
白須賀 曲尺手
高台移転後の白須賀宿に入ってきた。東海道本線が通らなかったため町としては明治以降なかなか発展しなかったようだが、その分街並みは風情を残しているように見える。けっこうステキだ。
曲尺手(かねんて)という曲がりくねった道。軍事的な役割と大名行列同士を鉢合わせにしないための機能を持っていたそうだ。きれいに曲がりくねったまま現在も存在していることがすごい、クルマは速度を落として通過しているので交通安全にも一役買っているようだ。
境宿 境川
宿場町も県道に合流する地点で終了、このあたりは境宿という地名だ。宿場町の境だから境宿とでも言ったのであろうか、県道を右折していく。
白須賀を抜け少し行くと小さな川を渡るが名前は「境川」、そう遠江国もこれで終わり。箱根峠以来歩いてきた静岡県ともお別れだ。この先は三州いわゆる三河だ、愛知県に入ることになる。クルマにひかれないように気を付けて行こう。

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