江州
京を目前に控えいよいよ道中も残りわずか
鈴鹿峠を越えて道中最大都市大津まで琵琶湖からのさわやかな風が包んでいるエリア。
峠の先は暴風雨
峠を通過し滋賀県側に入ると「歴史の道東海道」という旅人を描いた案内板がところどころに建っている。鈴鹿峠は国定公園だった。 路傍休憩地なるスペースが設けられていたが残雪もあり休める状況ではなかった。 |
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久しぶりに国道一号と合流するとようやく人家が見えてきた。カラオケって文字が見える… 少しずつ高度を下げてくるとまた国道を右へそれる。この時間にはかなり雨がきつくなってきた、思えば街道旅初の雨中突破だ。今まで奇跡的にすべて快晴に恵まれていたことに感謝。 |
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猪鼻村に到着、村の街道手前エリアが工場で破壊されていたため国道から迂回してこの場所までくる。 猪鼻村は旅籠もあり50軒ほど家が立ち並ぶ立場であったらしい、赤穂浪士である詩人の歌碑が建っていた。 |
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猪鼻村を後にしてすぐに蟹ケ坂に着く。その間国道一号しか歩けないが実は川沿いの街道だったらしい。 蟹ケ坂古戦場跡、北畠具教が江州山中を攻めたときのもの、山中氏は六角定頼と連合し迎撃して防衛に成功したとのこと。 |
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田村川にかかる田村川橋を模して作られた海道橋。当時は武家と生活上必要な地元住民が無料で渡橋できた。手前に高札場が復元されている。 橋を渡り切った場所は田村神社の境内。田村とは地名かと思ったら何と坂上田村麻呂なんだとか。 |
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豪雨の中をようやく道の駅までたどり着く。これで休めると思ったら何と定休日だった。 土山宿に差し掛かると往時をしのぶ雰囲気になってきた。ただ架空電線が多過ぎる。 |
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土山宿の中心地に東海道伝馬館という施設があった。情報収集と休憩をしたかったがこちらも閉まっていた。休むことができず仕方なく歩き続ける。 土山町市場の松並木。見事な眺めだが道路標識で注意を促していた、現在では少しやっかいな存在なのか。 |
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三好赤甫という俳人のゆかりの地らしい、赤甫亭という懐石料理屋さんになっていた。街道はここで国道一号と交差する。 再び大野西交差点で国道一号と交差するといよいよ水口に入る。しかし人家はまだ先のようだった。 |
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水口の城下町
竜が丘団地とされる辺りはかつて松並木が美しく絵のような景色だったとか。残念ながら先の大戦ですべて焼き尽くされたらしい。しかしあの戦争を終わらせるために必要な代償だったのだろうか。 山川に架かる橋を渡ると水口の町中という雰囲気になってくる。橋の先の休憩所で休んでいこう、ここは屋根もあって雨をしのげるのでとても有り難い。水口は50番目の宿場町だ。 |
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近江鉄道の踏切の手前にお洒落なからくり時計があった。ここまでの道は三通りあって「三筋の町」となっている。つまりどの道を通ってもいいってことなんだろうか。 この先は水口城の木戸があって直進できなかった、街道はここで右折することに。 |
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せっかくなので水口城をチラ見していきましょう。 百間長屋跡、城内を守るため下級武士たちが隣り合って住んでいた住居がここにあったとのこと。水口宿は城下町でもあったのだ。 |
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北脇縄手と呼ばれる田の道、松並木があって旅人の疲れを癒したとか。今回は雨が降り続けているためただひたすら寒さに耐えて前進あるのみ。 飛び出しはもちろんいけないが、こんなかわいい忍者には会いたいものですねぇ。 |
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ひたすら真っ直ぐ畷を歩いてくると野洲川に行き当たる。この先にはかつて横田橋という橋が架かっていた。現在はここより下流に橋が架かっている。橋以外は当時のままのようだ。 明治期にできた橋、江戸期は渇水期に土橋が設けられ通常は舟渡しだったようだ。 |
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今の横田橋、先の橋と比較するまでもなくコメントは差し控えたい。この先は甲賀市を抜けて湖南市に入っていく。 JR草津線が街道を遮断した先の地点に案内板があった。この先は東海道きずな街道というらしい。しかし工事中だらけで至極歩きづらかった。 |
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三雲城址、観音寺城の六角義賢は本城を攻められるとこの城に逃げ込んできたらしい、まさに守りの城だ。 このあたりは夏見の里と呼ばれ立場となっていたようだ。茶屋でところてんやお酒を出していて賑わったとのこと。藤棚が広重によって紹介されている。その藤棚はつい数年前まであったのだそうだ。 |
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夏見地区には隧道のようなところが数か所あった、しかしどこもかしこも工事中。 いっこうに雨は降り止まずこの辺りで本日は終了、体が冷え切っているためさっそく旅籠に向かう。 |
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中山道と合流
朝まだ暗きうちに出立、早々に石部宿を通過する。いよいよ旅もクライマックス、最後の旅路にお天道様も機嫌が良くなったようで雨は上がった、さあ京を目指そう。 石部宿の西見付跡を通り過ぎた後、西縄手という松並木のあった場所にさしかかる。なんでも宿場へ入る前に大名行列が整列した場所だというが真っ暗で何も見えなかった。 |
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名神高速を越えるころにようやく明るくなってきた。近江富士を見ながら先を急ぐ。 歴史ある建物が現れた。大角氏庭園とう国指定の名勝らしいが通りから庭が見えない。この辺りは栗東市だ。 |
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手原駅の南を真っ直ぐ歩いて行くとステキな街並みが見えてくる。手原は栗東市の中心だったのだ。JR栗東駅からはかなり離れている。 足利将軍義尚の陣所跡、まがりの陣所というらしい。義尚公は若くしてこの陣所で亡くなったという。応仁乱以降の混乱期に生きた悲運の将軍か。 |
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目川のT字路を右折してしばらく行くと岡という場所に来る。このあたりには田楽茶屋と呼ばれるお店があり賑わったとか。写真はその田楽茶屋のうちの一軒、こじま屋の跡。 堤防への道が見えてきた、ここを左に上がっていくと草津の宿場町に至る道となる。この分岐点が草津市内になっていた。 |
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草津宿に入るとすぐに草津追分と言われた中山道との分岐点に着く。当時も賑やかでテンションのあがる町だったのであろうか。 草津の町を通り過ぎて瓢箪のお店の前に道標があった。案内には矢倉道標となっている。 |
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平安末期からこの野路は宿駅として栄えたとのこと、源頼朝も逗留したらしい。江戸期になるとその地位は草津に取って代わられることになる。 池の小島が美しい、この小島には弁財天があるとなっていたが入ることは出来なかった。 |
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大津宿は人口密集地、いざ京へ
寮っぽい建物の敷地内に大津の案内が建っている。シャレた案内だ。このあたりはため池が多く耕作が大変だったことが偲ばれる。 月輪池の立場跡、ため池の中でも大きな月輪池が上下二つ残っていた。 |
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街道はこの曲がり角を右折していくが、真っ直ぐ行くと近江国の政庁跡となる。奈良中期から平安中期まで存在し1000名もの官吏が働いていたとのこと。 神領交差点手前の分岐路、確実に街道をトレースしていく。もう唐橋は目と鼻の先だ。 |
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とうとう唐橋に到着、琵琶湖を越していくことになる。唐橋って山岡景隆に壊されたけど、すぐに架け直されたくらい重要な橋だった。 唐橋名物の真ん中の島、名前はついているのかな。島内に料理屋さんがあったがこんなところで食事をするなんて風流だろうなぁ。 |
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松原町西の交差点、ここは真っ直ぐしか先に進めないような道路となっているが旧街道は左折していた。現在の石山駅を貫通していたと思われる。 松原町西を左折すると宮本むなしがやっていたため思わず入りたくなってしまう。そういえば宮本むなしを都内で見ないな。 |
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JRが旧街道をブッタ切っているため正確に街道をトレースできない。したがって駅の跨線橋を渡るのが一番旧ルートに近いと判断、奇妙な街道を歩く。 膳所の町に来ると立派なお社があった、若宮八幡というようだ。膳所辺りは琵琶湖の湖畔を通る風光明媚な場所だったのではないか。社の手前にはかねんて状の道路も見られた。 |
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西の庄のスーパーでひと休み、付近にはかねんて状の街道があった。いよいよ最後の宿、大津宿が近い証拠だ。 義仲寺、文字通り木曽義仲の菩提寺だが建立したのは六角氏とあった。巴地蔵堂もあるようで巴御前も祀られているとのこと。巴御前役の小池栄子さんカッコよかったな。 |
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いわゆる大津事件のあった場所、ロシア皇帝も驚いたであろう。しかし旧街道の路上だったとは知らなかった。 東海道中最大の人口を誇った大津宿も今や歴史の中に埋没した感があるか、それがまた何とも味のある街の風景を作り出している。 |
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国道に出た交差点を左折するとあとは県境に向かって真っすぐ、道路を走っていた京阪電車が軌道へ入って行く。 しばらく国道を行くと脇に入る旧道があり進んでいくと蝉丸神社があった。なんでも街道の守り神であの猿田彦命と合祀されている。 |
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大津算盤という幕府御用達の算盤をこの付近で売っていたらしい、この家もその算盤師の片岡家の方が昭和初期まで住んでいたとのこと。頭が良かったのだろう。 峠を越えてすっかり京に入ったかと思ったら街道の右側はまだ大津市だった。この辺りの県境はどうなっているのかな。 |
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