三州
三河といってピンとくるモノがないというイメージだが日本を代表(?)する企業もある。
そのせいかどうかよく車にひかれそうになるので三河に限らず交通安全でまいりましょう。
昔も今も
愛知県に入ってきたあとしばらくの間、国道一号をひたすら歩く。まさしく今も昔も同じルートで西に向かうというわけだ。この地域からは「コクイチ」なのだ、東京近郊で使う「イチコク」とは言わない。ちなみに関係はないがカレーのココイチの本部は愛知県だ。 「コクイチ」をいいだけ歩いてようやく右折し、新幹線のガードをくぐった先に小さな梅田川にかかる橋を渡る。右を見たらすごい形の岩が見えた。 |
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橋を渡った先に踏切があるが、その先の家屋の軒の向きを見れば旧街道が直進していたことが見て取れる。旧街道をブッタ切った犯人はまたも東海道本線、静岡から引き続きの犯行だ。 ようやく二川宿の本陣に到着。見学ができると聞いていたが、今日はこの施設も休みらしい、ええかげんせい。 |
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疲れもありこの付近のお饅頭屋さんで休憩。店内に休める椅子があったので許可をとって食すことに。世間話か情報でもと思ったが、座ると同時に店員全員がサァーッと裏に引いていった。相変わらずの愛知クオリティを早くも実感。当方も中部地方モードにチェンジをしよう。 繊細な筆者は居づらくなってさっさと店を出て他にゆっくりできるところを探す。JR二川駅でなんとか休んだ後再出発。伊良湖岬への分岐らしい碑が立っていた先を進むと「火打坂」に出る。ここからは少しずつ登っていく。 |
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見事なクロマツの切り株だけあった、生前は圧巻の威容だ。 |
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てれてれ歩いていると地面に手筒花火の絵柄を発見、豊橋が近いことを実感する。筆者が子供のころ手筒花火をさせてもらった記憶が蘇った。 一里塚のある殿田橋から東八町まで「コクイチ」をトレースした後左折してめまぐるしく進む。平穏なこの十字路も左折だ。その先の行き止まりは右折で広めの通りに出る。 |
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札木という路面電車の駅を横切ると今日の旅籠が見えてきた。時間はまだ午後4時だが季節的にもう暗くなり始めているので吉田城見学は諦めよう。 旅籠に着いた後、近年流行りという豊橋カレーうどんに挑戦。予想だにしない結果が待っていた。勢川本店というお店で店員さんが何とも…、素晴らしい。 |
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カレーうどんのあとはやはりこれ、ヤマサの本店を発見したので乱入。お客さん全員が気合いで品物選びしている、どうみても全員地元民だ。やはり豊橋はちくわだよね。 昔も今も変わらぬ…、 6:34 前日のカレーうどんとちくわで膨満感のまま気合いでスタート。意気揚々と歩き始めた矢先に松尾芭蕉の碑文を読んで落ち込む羽目に。 |
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豊川にかかる「とよはし」地名の由来になった橋である。ここは国道が通っていないため落ち着いた雰囲気だ。 聖眼寺という大きな寺院を発見。松尾芭蕉と親鸞聖人の碑があった。 この寺はどうやらあの「牛窪記」に出ている家康の馬印「金扇」の起源説ゆかりの場所のようだ。「牛窪記」には我が家の先祖も出ているので身近に感じる。 |
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「ヤマサン」という会社の工場のようだがなかなかの建物。ひょっこり馬車でも走ってそうな雰囲気で文明開化の音がしそう。 早朝の時間帯にもかかわらずやたら多くの人が集まっているゾ。広大な駐車場も併設されている。おさかなの市場のようだがすごい活気だ、まさしく東海道クオリティ。 |
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これこそ街道松並木
市場の一帯を抜けるとすぐに豊川の放水路を渡る。ここから先は豊川稲荷の縄張りか。しかし歩道はないのかい。危ないじゃないか (T_T) JR飯田線の小坂井駅の踏切を渡る。まだ朝が早いので魚市場を除けば人が見当たらない。まあ昼間でもクルマばかりで人は歩いていないけど… |
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このあたりは「宿」というらしい。東海道の宿場ではないが…。おそらく近世東海道成立のもっと前にあった宿場ではないか。豊川には国分寺もあったからね。でも国分寺はもっと先か。 …と、ここでまさかの街道ブチ切れ。現代の街道が立ちはだかった。迂回する元気がなかったので強行突破したが、そのほうがかえって疲れることに。このあとすぐ久しぶりに国道一号に合流する。 |
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合流したのも束の間、「国府町藪下」の交差点でまたお別れ。ここからは国分寺だ。 「八の蔵」なる建物があった。八平次記念館とも書いてあったが案内もなく何が何だかわからない。資料が見れるわけでもなさそうだが、まあ「八」は縁起の良い好きな数なので良しとするか…、 |
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県道との交差点に秋葉山の碑、例によって常夜燈があった。また姫街道との分岐点にもなっている。この先は御油の宿場町で、常夜燈は木戸口を守っているように見えた。 音羽川を渡るとその先で右折する。ところどころステキな建物が建っているが維持管理は大変だろうと思う。写真の場所はベルツ夫人生家跡と高札場跡の付近。 |
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御油の本陣跡近くまでやってきたらイチビキの工場が鎮座していた。愛知県以外ではなじみの薄い会社ではあるが、愛知県人でイチビキを知らない人はいない。 いよいよ来ました御油の松並木。しかも天然記念物だというからすごい。 |
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松並木といってもほとんどのところはクルマが並木の中を通り、人間は並木の外の歩道を歩かされるが、この松並木は人が中心。クルマもスピードを出せないような作りになっている。こうでなくっちゃいけない。まさしく本当の松並木だ。 松並木を過ぎるとまもなく赤坂宿、尾崎屋さんがかっこいい。大橋屋旅館が有名らしいが、先の左側に見える。筆者の大嫌いな「クルマ」が停車していたため撮らなかった。 |
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忍び寄る名古屋テイスト
赤坂を通過し高架道路のトンネルをくぐると長沢地区に入る。現在の長沢小学校が長沢城跡。長沢松平といえば徳川忠輝だ、実は優秀な人物だったことがわかってきているが、そのため秀忠に警戒されたのだろう。 国道一号の関屋の交差点で合流しそうでしない。旧街道は橋を渡って「コクイチ」に一旦出るがすぐ脇の左の道を行く。手前から見ると結構直進しているように見える。 |
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結局すぐ国道に合流、しばらくは山あいのせまいルートをたどる。あるのは名鉄の線路とコクイチだけだ。出た~!そこへIKKOの文字が。やはりここは愛知県、ご当地スタンドだ。福岡で言えば新出光、新潟なら敦井産業ってとこか。 …と、今度は名物「赤い特急」が登場。ひたひたと名古屋の香りが忍び寄ってくる。このあたりはなかなか見晴らしがいい場所で、山や電車が良く見える。文字通りこちらがパノラマ席だわ。 |
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単調な道をしばらく行くと間の宿「本宿」の標が。この先の新箱根交差点先を左に入っていくと旧街道。本宿は法蔵寺で有名らしい。本宿は子供のころ数回連れてこられた場所でもある。 法蔵寺は家康が幼い頃、手習いをした場所で遺品も保存されているという。境内に近藤勇の首塚もあると記されていた。法蔵寺団子は近在にかなり名前が売れていたらしい。そんなの見たら余計におなかがすく。 |
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本宿を過ぎて再び国道一号と並行して歩く。山中が近づくと再度側道が現れるのでそちらへ旧街道はそれていく。山中は古来交通の要衝で大規模な山中城があった。 山中から舞木を過ぎてコクイチをしばらく歩くと旧街道は左へ入っていく。すると藤川はこっちと案内が出ていた。赤坂宿からちょっと距離があったなと感じたが、御油と赤坂の間が近すぎたのだ。 |
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宿場の棒鼻跡、見付のようなものだ。浮世絵をもとに復元したな。 |
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藤川宿を抜けると吉良道との分岐地点がある。ここの道標は文化年間のものだとのこと。吉良道は左、東海道は右、その先は線路を越えると松並木だ。 名鉄の線路を越えたところの松並木。ここもクルマが主ではなく当時の雰囲気が良く出ていると思う。通り過ぎた後で気がついたがこの並木の左側はあのレッドバロンの工場だった、いよいよ岡崎なんだなぁ。 |
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美合まで来るとまた旧街道は国道一号をそれて左に入っていく。ここから先はしばらく国道一号「コクイチ」を歩かなくて済む。 農村という言葉が合うようなのんびりした場所を歩いている感覚。小さな川を渡る、橋には「高橋」って文字が…、人の名前みたいだ。 |
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のんびり歩いていたら突然目の前に川が、しかも橋がない。遠目で対岸を見るとなんとなく切れた行程が先に延びているような感じだ。当時は橋が架かっていたんじゃないかな。 仕方がないので右方向にクルマの走る橋があったので迂回することにした。川は乙川だった、やはり岡崎に近いと実感。とりあえずこの自動車道を渡ることに。 |
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乙川を渡って先ほどの切れた道の先に見えたところまで戻ってみる。そこには大平川神社という小さな神社があった、川の恵みに感謝する水神社なのだ。三河は水で苦労した地域だからさもあろう。 おっ!西大平藩陣屋跡ということは大岡越前守ではないか。街道からわずかにそれるがさっそく訪問。しかしかの忠相は西大平に来たことあったっけ。もうかなり年になってからの大名取立てだったし。 |
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西大平藩陣屋跡、こんな立派な門が作られていたとは驚き。忠相の領地は大部分が三河だったそうな、大出世ですなあ。 大平の一里塚跡、「跡」というより現役みたいに整備されていて、国の史跡に指定されている。しかし現代のランドマークも100年経てば史跡になるものなのかなぁ。何はともあれこの先の岡崎のエリアに進んでいく。 |
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味噌と花火の町で迷子
国道と高速にやられてこんな道に追いやられている。これは京方から見たもの、国道の東を抜けてきた感じ。場所は岡崎インター。 岡崎インター西の交差点の先を見るとそれなりの雰囲気に作ってある。岡崎宿が近いので演出にも力が入ったのか。 |
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交差点を渡って松の間を歩くとその先はこのような作りになっていた。当局の気持ちはわからないでもないが、どうも取ってつけたような道だ、しかも歩道に作っては… そうこうしているうちにとうとう二十七曲りにやってきた。全部載せたらきりがないので他のところに岡崎二十七曲りをアップした。 |
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簡単に通過できるかと思った二十七曲りだったが、思わず苦戦を強いられる。へんてこな歩道橋でボーゼンとしてしまった。 このへんてこな歩道橋には徳川四天王が鎮座していた。一番好きな榊原はんに正しい道を教えてもらいたかった。そういえばこの交差点、花火を見に来た時に通った記憶があるぞ。花火見た後のクルマの渋滞には気持ちが悪くなったっけ。 |
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もう岡崎のお城まで隠れて出てこないという状況。いったいどの道が正しい旧街道なんでしょう、当時の旅人も迷わなかったのだろうか。 岡崎市内をウロウロしていると宮崎あおいさんの手形に遭遇。そういえば「純情きらり」は岡崎が舞台だった。放送当時は勤め先が徒歩圏内だったから朝出かける前にしっかり放送を見ていたのを思い出した。 |
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どうやら二十七曲りが終わったようだが、ここは八帖往還通りというらしい。この往還に接続しているのが「きらり通り」とのこと。朝ドラに便乗して町おこしをしようとしたんだ。八丁味噌も一枚かんだっぽい。 さっさと矢作川を渡って先を急ごう。…とは言え川を渡っても岡崎市だ。現在の市町村はあまりにも単位がデカすぎる。岡崎市だけで23区全部の3分の2の広さだ。 |
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矢作橋を渡り終えたらすぐ右折したいのだがあいにくコクイチは渡れないので一旦左に下りてから国道をくぐる。国道から下りるときに間違ってかなり遠回りをして体力を消耗した。やっとくぐってそのあとは写真のように左折し国道と平行な道を行く。 矢作の一里塚が見つからずにさらに体力を消耗してヘトヘトになりながら先へ進む。安城街道入口の交差点で再び国道に合流するが旧街道は矢印のようなたてつけだったのでしょう。 |
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ひたすら国道一号
和志王山薬王寺というお寺。古墳の上に建てられているとか。 織田信秀と今川勢とのいわゆる安祥城の戦いで一度焼失しているらしい。この付近は織田と松平が死闘を繰り返した地でもある。その後のことだが、家康が本当に松平の人間なら果たして織田と組んだであろうか。 国道を歩いてきたが尾崎東の交差点手前を右に入っていく。このあたりの国道一号は恐ろしいほどに交通量が多いため轟音と強烈な排気ガスで苦しくなっていた。 |
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せっかくの旧街道沿道に椅子を持ち込んだ不届者がいるらしい。どうも笑ってしまうような注意書きだが…、いや書いた人は困っているんだ。 松並木になっているようでなっていない不思議な雰囲気。ただ歩道にあたるところに松が根を張っているから歩きづらいことこの上ない。いっそ車道を歩きたいよ。 |
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普通に明るかったのが一気に暗くなってしまった。今本町8丁目の信号から左に旧街道をそれて旅籠に参ろう。 6:10 まだ真っ暗なうちに安城の宿を出発。今本町8丁目で旧街道に戻る。この先に来迎寺の一里塚が現れるが、出発直後だったので休憩せずにさっさと通過する。 |
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衣浦道路の陸橋をくぐると国道まで松並木が続く。早朝だったので並木の内側の車道を歩いてしまった。 松並木の終了地点が御林の交差点、しかし横断歩道がない。この交差点を斜めに進みたいのだが…どうやら地下道を使うしか方法はなさそうだ。んー、クルマ優先。 |
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地下道の中に旧東海道の表示が。親切に案内を掲げてくれてありがたいといいたいが、やはり一抹の寂しさが残る。 地下道を上がるとこの先は知立、いわゆる池鯉鮒宿だ。宿場の中心に向かう道はどちらでも行けそうだが道幅からして左の道をチョイス。 |
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池鯉鮒宿を通り過ぎるとまた国道一号に合流、一里山町付近の一里塚で休憩する。その後また国道一号から右へ入っていくが、道幅といい右側の家といい…ほんとに東海道かな。 明らかに旧街道関係なしに家を建てました的な場所を通ったらその先は急に家がなくなった。恐ろしく広大なクルマ工場が前方右に展開している。街道は工場を避けるよう左方向に向かう。 |
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再び国道一号と交差することになるが旧街道通りには進むことができない。そのまま行ったらクルマにひき殺されてしまうので仕方なく前方の歩道橋を渡って手前までいったん戻ることに。 気がついたらもう刈谷市になっていた。ここは洞隣寺というお寺、なかなかの構えだが、奥のお堂も気にかかる。案内板には「めったいくやしいの墓」があるとなっていたが、めったいくやしいって何だろう。 |
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富士松の駅近くまで来ると行き止まりになっていた。代わりに歩道橋があってこれを行けみたいなことになっていた。これは旧街道というより普段の生活で面倒ではないのかな、車いすの方などどうされているのだろうか。あくまでもクルマ使えってことか。 今川町の交差点で国道一号と交差する。この時間になると国道はクルマであふれていた。このあたり今川町という地名の由来はどこからきているのだろうか。 |
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敷島パンの工場に遭遇、中京圏以外の人だと「Pasco」のほうが周知されているのではないか。以前、同社で横領事件が発覚した時期に同本社の受付の方の対応がすごく良くなったのを思い出した。 それなりの橋が見えたので案内を見たら「境橋」と。いよいよクニ境いまで来た。江戸初期に架橋されたようで東側が土橋で西側が板橋だったらしい。交通量も少ないので雰囲気を味わえる。境川そのものはそんなに大きな川ではなかったが大井川を除くと国境いの川はいつもそんな感じだ。ここより先は尾張国、街道旅も3分の2近くを経過したことになる。 |
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