武州
人の往来も多く安心して歩けるエリア。特に東京都内はよく整備されている。
旧東海道と箱根駅伝のルートはかなり違っていた (*_*)
日本橋を出発
6:50 馬喰横山駅から室町まで歩くだけで疲れてしまった。こんな調子でこの先大丈夫なのか。 さすがにまだ三越はまったく人気を感じない、朝の日本橋界隈は静かな様子であった。 そして日本橋のたもとに到着。日本道路原標がかっこいい。いよいよ東海道へ…、 |
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さあ出発しよう!江戸時代の日本橋に比べると高速の下の橋はなんとも…(T_T) 道路原標の元には各地までの距離は記載されている碑があった。 京まで503キロもある…人間の歩く距離とは思えないなぁ。 |
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ただいま7:10 銀座の4丁目と5丁目の交差点に達した、左手には和光が見える。 日本橋から京橋にかけては江戸創業のお店があったものの銀座にはそのようなものはなく、銀座が明治以降の繁華街であることが想像できる。 そもそも銀座っていうくらいだから元々職人の街でしょう。 銀座松坂屋、今年営業を終了してしまった。正確には一旦終了らしい。 東京に来たての学生時代、右も左もわからない銀座で松坂屋を見たときホッとした記憶がよみがえった。しかしここまで来る途中ゴミや吸い殻ひとつ落ちていない、本当に東京の街はきれい、感心しますね |
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芝大門通過、ここは増上寺の門って最近知った (◎_◎) 徳川家の菩提寺である増上寺が東海道というメインストリートに接していたとは…さすがにしっかり一等地を占めていたわけだ。 8:00 笹川記念会館まで来た、ここまで約1時間強。 笹川良一氏の碑文を見る、いろいろあった人だけど偉大な人物には相違ないなと思う。そういえばこの会館はかなり以前に入社式で来たっけな。この辺りなんだか懐かしい。 |
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高輪大木戸跡、街道の南側のみ土塁が残る。 ここで交通規制や治安の維持の役割を果たしていたとのこと。 こんな平日にこの辺りウロウロしている筆者は当時ならここでとっ捕まったんだろうなあ。 高輪大木戸跡の案内板 史跡だそうな…… |
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おなかすいたので公園で持参のおにぎりをいただく、この公園は車町児童公園だって。 おにぎりを食べた車町公園の由来 寺社の建立など土木工事に江戸時代は牛車を使ったそうで、牛屋を京都四条車町から招いたとか。 当時はこの辺りに牛が1000頭もいたというからビックリ…。 再び歩き始めると品川駅を通過し八ツ山橋の先の品川宿に到着。 |
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品川は大宿場町
現代の大名行列に行く手を阻まれました。 ずいぶんと多数の藩が一度に通ったのでしばらく土下座しているしかなかった m(_ _)m 京急の踏切を各藩の大名行列が渡り終えたためようやく品川宿に入ることができた。 雰囲気といい道幅といいようやく旧東海道らしくなってきた。今は騒々しいところから静かなところへ来たのでそう思ったが、この先はどうなるのやら。 |
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品川宿の案内 この辺りはいたるところに旧宿場町のアピールをしているし、案内板にも力を入れている。都内で一番東海道らしいところかもしれない。 9:00 品川本陣跡に到着、すっかりと公園のようになっている。 この域内にある保育園の子供たちの騒ぐ声がとてもかわいらしくうれしい気持ちになった。この時間になると気温が上がってきた。 |
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品川橋、何とも言えない雰囲気。 流れている川は目黒川だそうな、中目黒あたりのそれと同じ川には思えない。 品川橋の案内にはかつては漁業が盛んで大いににぎわったと、威勢のいい掛け声が飛び交っていたんだろうか…… |
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こんなすてきなお店がありました、まるで江戸時代にタイムスリップ。 このあたりは本当に寺院が多い、やはりメインストリートに近い立地が信仰を集めるにも都合が良かったのだろう。 |
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涙橋と言われた浜川橋、この先の刑場へ護送される罪人を縁者が涙して見送った場所だとか。 9:53 旧街道が第一京浜にぶつかるので急に喧騒に包まれた。 鈴ヶ森の刑場跡があったが何とメインストリート沿いに刑場とは…見せしめの意味もあったのか。 |
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刑場跡でいったん第一京浜に合流するが、またすぐ平和島口の交差点先を左へ。ここからは美原通りとなっている。 梅屋敷という地名にも云われがあるんだなぁ…、当時のメインストリートならでは。 |
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10:51 京急蒲田駅着、外から見ると異様な形の駅になったなあ、この付近は地図によると日本橋から16キロとなっているけど一里塚はなく、この先の六郷神社付近がその跡らしい。 六郷神社を過ぎたところで第一京浜からわずかにはずれた左方向の脇道を行く。多摩川が近い。 |
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多摩川を渡る
とうとう六郷橋を渡る。 これで神奈川県に入った、多摩川は結構キレイな流れ。ただ多摩川の河原に住んでるヤツいたぞ (?_?) 11:35 六郷橋を渡り切って神奈川県へ。 明治天皇が渡河されたときの記念碑、当時は橋が架かっていなかったので船を並べてその上を橋にしてお渡りになられたようだ。 |
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11:52 神奈川最初の宿場、川崎宿に到着。六郷橋を渡るとすぐに第一京浜から離れ街道らしい道を行く。 お昼時なので食事をとるためお店を物色しているとこじんまりとしたとんかつ屋さんを発見。店名は「喜多八」、この旅にはうってつけの店名だったので迷わず暖簾をくぐってカツライスを注文。これがやたら美味しかった。 八丁畷の由来、この辺りから出てきた人骨の供養塔があった。 神奈川に入ってから道路がかなり汚くなってきた。東京側では見なかった歩行喫煙も普通に…、江戸時代もこうだったのかなぁ。 |
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沿道に旧東海道を示す表示がある。神奈川県に入って川崎市でも引き続き旧道の案内に力を入れているようだ。これは助かる。 本日初のちゃんとした一里塚跡に遭遇。 どうやら日本橋から5つ目の一里塚とのことらしい。 |
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地元の方々の努力によってこの一里塚が守られてきたことがわかる。 そういえば同潤会アパートは跡形もなく壊され表参道ヒルズになってしまったからなぁ…、関係ないか。 鶴見橋関門旧跡。 横浜開港以降、外国人を守るため神奈川奉行所が建てた見張り場所ということらしい。 確かに近くでは生麦事件も起きているけど、外国人の保護のために20ヶ所ほどこのような番所を作ったようで、なんか日本らしい。 |
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中心地である神奈川宿
14:00 キリンビール工場を発見!予期せず現れたスポットを無視するわけにもいかず訪ねてみることに。守衛さんに「予約がないとはいれませんよ」って言われたけどそれで諦めてたら話にならない。受付のお姉さんに聞いたらたった今キャンセルが入ったので特別に工場見学できますとのこと。 東海道を行く旅の目的とは少々異なるが、これも「袖すりあうも多少の縁」ということで参加。まあ無理やり袖をすり合わせた感じだが (^^; |
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15:10 さあ、すっかり英気を養って再び出発。ほどなく神奈川宿に到着。 神奈川湊を見下ろす景勝地だったとの記述があったが、見渡してもなにも見えない。 京急神奈川駅付近から旧街道をだらだらと登っていくとこんな案内に遭遇。文久三年から続く田中屋さんとのこと。文久三年って京都で政変のあった年だ。 しかも明治になってあの坂本龍馬の元妻のおりょうさんがここで働いていたらしい。 なんでも外国語ができたから外国人客の接遇に重宝されたんだって、すごいねぇ。 |
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「田中屋」さんはお店の風格がただならなくて近寄りがたかった。 それよりビール見学で熱心に勉強し過ぎたせいか足元が覚束ない、しかも坂が続くし急激に疲労感が襲ってきた (>_<) ちょっと右手の坂を上り「歴史の道」なるところに来た。 三寶寺から青木橋を見るとこんな感じ、旧街道は矢印のようであったはずだ。 |
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神奈川宿エリアのはずれ上台橋を過ぎると何かを避けるように左カーブが続く。 江戸期にはここまでが入り江だったためだ、つまりここは当時の海岸通り。 17:32 ふらついた足どりで何とか保土ヶ谷を通過しようやく権太坂の下にたどり着いた。 旧街道の勾配は強烈で階段を付けて欲しいほど急だった。こんな坂では箱根駅伝は到底できない。 |
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とうとう武州と相州の境界地点に着いた。かなり夕方に近づいてきているのでもう一頑張り。 この「立場」は馬子や人足が休憩をしたところというがこちらは急いで先へ進む。しかしこの無理が後で大変なことになろうとは…、 |
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