尾州
東海道の行程中、唯一の親藩領内であるが意外と歩ける距離はあまり長くない。
理由はご存じ「宮の渡し」による海上を行くルートとなっているためである。
宮宿と桑名宿の間の航路復活が待たれるところで関係機関の方にはぜひ頑張っていただきたい。
歴史の舞台とはいうものの
尾張に入国したが街道はすぐに伊勢湾岸自動車道でブチ切られるので、仕方なく国道一号の下を通るトンネルで西側に一旦出て豊明方向に進む。 豊明駅から先にしばらく行くと国道一号から阿野一里塚方向にそれていく。ただこのあたりはバイパスもあるせいか比較的交通量が少なくて助かる。 |
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…と喜んでいたのも束の間、前後を過ぎた後ふたたび国道一号に戻る。午前9時頃ではあるが旧街道なのにまったく通行人に会わない、動いているのはクルマだけのようだ。 名鉄のガードをくぐった先には桶狭間古戦場と名付けた普通の公園が街道から少し入ったところにある、江戸期には旅人にアピールできただろう。街道近くのほうが客寄せしやすかったから本当の古戦場の場所じゃなくて良いのだ、旧街道はその先をビミョーに左にそれる。 |
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歴史マニアの方なら知らない人はいないというほど有名な「大将ヶ根」、かの信長はここを通って駿遠三の連合軍に迫っていった。その「大将ヶ根」交差点を右に入って有松へ向かう。 有松の街に入ってきた。なんとも言えない雰囲気だ。宿場町風だがこれが実は「間の宿(あいのしゅく)」つまり宿泊することはご法度なのである。すぐ先に鳴海宿があるからねぇ。そのせいか有松と鳴海はどうも対応意識があるように感じていた。 |
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有松と言えば「絞り」で有名、しかし鳴海にも絞はある。んー、これまた両地域の対抗意識の火種だ。この辺りは古戦場もあり歴史の舞台とは言われているものの、筆者は当世の盛り上がり方に若干戸惑いを隠せない。 有松と鳴海を分ける役目のような「かまとぎ橋」。東海道分間絵図にもはっきり描かれている。この橋の手前にあった一里塚が平成の世に復元されていた。 |
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対抗ついでに双方が名古屋市に編入される前のそれぞれの庁舎跡を公開。そもそも郡が違うでしょ。それにしてもどちらもすっかり名古屋市になったんですなぁ。そういえば大高町も知多郡だった。 |
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鳴海の中心地に入る手前にある中島橋、東海道分間絵図にも出ている。この橋、東海道の成立以前からあったのであろうか…もしそうであれば、かの永禄三年、織田軍はこの橋を渡ったであろう。確証はないけど… 中島橋を過ぎると瑞泉寺という寺院があった。なんか薩埵峠の先の上道に同じ名前のお寺があった気がする。こちらの瑞泉寺はなぜか中華風の変わった形の門だ。 |
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またまた登場の曲がり角、白須賀の「かねんて」以来だ。やはりここでも交通安全に寄与していた、みなさん安全運転でお願いします。 10:16 ようやく作町に到着、佐久間信盛の知行だったことから地名となった。ここから90度曲がって北に進んでいく。 |
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鉾ノ木貝塚、縄文早期の遺跡らしい。このあたりはかなり古くから人々の生活があったようだ。 織田信長が築いた丹下砦跡にもほど近い。 中環状線に出て来ると交通量が激しくなる、この信号はなかなか変わらない記憶が残っていたが相変わらず変わらない。山下交差点を経由しないまま天白川へ向かうのが旧街道。 |
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天白川を越すと左右、つまり南北に歩行者用道路がつながっている。かつての筆者の通勤路だ、住宅地ではあるが治安が…、イヤな経験まで思い出した。 鶴里に向かうバス路線と交差する、左に行けば国道1号…その先は筆者の元勤務先。ほんとこのあたりはおっかないのでさっさと直進する。 |
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あったさんのご加護
一里塚跡を過ぎようやく観音様の近くまで来た。この辺りまでくれば少し安心して歩ける。ここの観音様にはかつて仕事の企画でお世話になりました、感謝しております。 笠寺観音の門前ストリート、あまり人は歩いていないが節分の時などは人であふれている。 |
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名鉄の踏切を越えて北に右折すると、その先には富部神社の鳥居が見えてくる。ここの本殿は国指定の重要文化財、夏の炎天下での仕事中にはよく境内の木立で休ませてもらった。 歩いている東海道が東海道(とうかいどおり)と交差した。東に名鉄の踏切があるためいつもゲキ混みの場所、いい加減立体交差にしないのかな。 |
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呼続の先は一気に坂を下って山崎川を渡る。山崎川のもう少し上流は桜の名所になっていて賑わうところ。 ブラザーの看板が見えてきた、つまり堀田が近い。名古屋でメジャーなブラザーは市内の南部地域に拠点が多い。 |
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空港線を横切ると松田橋のモニュメントがある。このあたり八丁畷と言われていた。この八丁畷公園はいつも怪しい人が寝ている場所だが、今回も占領されていて全体の写真を撮れなかった。 宮の宿内に入ってきた、裁断橋は擬宝珠に刻まれた文が日本女性三名文とされている。戦で子を亡くした母親の子に対する想いが刻まれていたという。 |
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宮の宿内で旧街道は左へ折れる、右への道は熱田神宮、あったさんのご加護がありますように。この分岐点にあるのがほうろく地蔵と呼ばれている。 宮の渡船場へ向かう道は現在国道が貫いているため歩道橋を使って進む。本陣跡付近に建つ料理屋さんに人だかりができていた。 |
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この宝勝院にある阿弥陀如来は国の重要文化財だそうだ。湊にある常夜燈の管理を江戸初期から三百年以上この寺が担当してきたとあった。 渡船場跡に建つ公園に到着、ここからは七里の渡しとなる。眼前のエリアは明治という地名で、名前からしておそらく江戸期には海だったのだろう。現在、船は出ていないので佐屋街道を使って桑名を目指すことに。船があったらラクだったと思うが… |
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