大神神社(奈良県桜井市)
大神大社の拝殿
今から35年ほど前、大学進学のため田舎から上京したちょうどその時、私は、三島由紀夫の「豊穣の海」四部作を読んでいました。その中でも、第1巻の「春の雪」が特に好きでしたが、この作品の主人公である松枝清彰は二十歳で夭折し、その後、第2巻以降、異なる時代に異なるキャラクターとして生まれ変わっていきます。仏教の輪廻転生をテーマとした三島のライフワークといえるこの四部作の第2巻「奔馬」では、昭和初期のテロリストの右翼青年として生まれ変わるのですが、この冒頭の印象的な場面の舞台が大神神社になっていて、それ以降、一度はこの神社を訪れてみたいと思っていました。が、なんと今回の訪問はあれから35年もたってやっと実現したものです。
三島由紀夫の小説でこの神社を知ったのですが、同じ大学生の頃、初めて古事記も読み、その中に大神神社に祀られている大物主神(オオモノヌシノカミ)について書かれていて、古来由緒ある神社であるこも知りました。
古事記では、このオオモノヌシは、オオクニヌシの国作りを助けるために、「海の上を光で照らしながらやってきた神様」で「自分をヤマトの国の東の山(三輪山)に祀りなさい」と言ったと簡単に書かれています。古事記が編纂された時点で既に三輪山の神として大神神社に祀られていた神様の由来を記述しているのだろうと思いますが、文脈から推測すると、「海」というのは、日本海であると思われるので、この神様は、おそらく外国(朝鮮半島)から来た神様ではないかと私は思っています。オオクニヌシは、国つ神ですから、現在の天皇の祖先であるアマテラス系の神々より以前に日本列島を支配していた土着の神です。古事記では、この国の基礎を作ったのは、国つ神であるオオクニヌシということになっていますので、はるか以前から朝鮮半島から来た人々が、日本の国作りに大きな貢献をしたという歴史的な事実をこの神様の逸話が物語っているのではいかと思っています。
詳しくは、日本の神話・古事記で「スクナビコナ」でおさらいしください。
さて今回、夏休みを利用して、大神神社を訪問したのですが、奈良県もよく考えたら、高校の修学旅行以来の訪問となりました。東京から新幹線で京都で下車し、電車を乗り継ぐこと小一時間。まずは奈良市内に一泊しました。35年ぶりに奈良市内をぶらぶら観光。興福寺の阿修羅像は宝物館の耐震工事で閉館中のため拝観できず。がっかりし、奈良公園、東大寺をぶらぶらしましたが、外国人観光客ばかりで、日本語がまったく聞こえてきません。日本人である自分が観光しているのがなんとなく恥ずかしくも思えるような状況でありました。
翌日は、朝早くホテルを出て、JR桜井線(万葉まほろば線)に乗り三輪駅で下車し、いよいよ念願の大神神社を目指します。ちょうどこの日は9月1日で毎月1日の例月祭と大神神社の末社の久延彦神社例祭が行われていました。今回の参拝の一番の目的は、三島由紀夫の「奔馬」の重要な場面である三輪山の登拝です。大神神社は御祭神のオオモノヌシノカミが宿る三輪山そのものが御神体であるため、本殿がありません。三島の小説の設定の時代は、昭和初期という設定で当時は、三輪山の一般の登拝(登山ではありません。神様である三輪山に登り拝むことから「登拝」といいます。)は禁じられていいました。大神神社のホームページで調べると、現在は、条件付きで御登拝ができるということを知り、是非体験させていただきたいと思ったのです。
さて、三輪駅で下車すると、大神神社側の降車専用の改札口を出ます。朝早くホテルを出てまだ8時半。しかも平日なのに、神社へ向かう参道には参拝に向かう大勢の人と様々な食べ物の出店が連なり、もの凄い賑わいで驚きました。ほとんどが観光客といった感じではなく、どう見ても地元の方が99%といった感じです。駅から大鳥居までは5分程度でつきます。大鳥居の前では皆さん一礼をして進みます。大勢の参拝者と共に玉砂利を進みます。しばらくして、正面に朝日に照らされてまぶしく輝く拝殿(重要文化財。1664年徳川四大将軍家綱により再建。)が見えて来ました。手水舎で清めてから、拝殿でまず参拝します。拝殿は、桧皮葺(ひわだぶき)の切妻造の屋根形式で正面には唐破風(からはふ)の見事な向拝(こうはい。屋根の出っ張り)が付いており、威風堂々たる建築美を誇っています。
大神神社は、境内も広く20余りの摂末社があるのですが、ゆっくりとしている時間はなく、三輪山御登拝の入り口である摂社の狭井神社を目指します。さてこの狭井神社ですが、先ほどの拝殿を小さくしたような社殿なのですが、大物主神の荒御魂をお祭りしております。この神社の小さな境内に御登拝の受付場所があります。
まずは、御登拝を申し出て、登拝料300円をお納めし、受付票に氏名、連絡先を記入します。その後、受付の方から注意事項を教えていただきます。入山中は、「三輪山参拝証」の襷をお借りし首からかけ、敬虔な気持ちで御登拝しなければなりません。なお、御神山でありますから、写真撮影、飲食など厳禁です。入山入り口の前に各自御幣でもってお祓いをしてから登拝開始です。(三輪山登拝案内図)
三輪山は、標高が467mということで、東京の高尾山に比べても低い山です。高尾山には数百回登っている自分としては、感覚として、2時間以内には登って降りてこれるとたかをくくっていました。しかし実際には思ったよりも急な坂も多くありきついのです。汗が出てきます。しかも、白装束で登っている信者の方(老若男女問わず)は皆さん、なんと「裸足」で登っているのではないですか!!!護神体ですから、靴で登るは失礼ということは分かっているのですが、若い女性までが裸足で登る姿を見て、自分はこのために、登山用の靴を履いてきたのをとても恥ずかしく思いました。
さて、少々罪悪感、劣等感、よそもの感にかられながらの御登拝でしたが、三島もかつてこの山を登ったのだなと思いを馳せながら登り進み、小説に出てきた三光の瀧、山頂近くの高宮神社(こうのみやじんじゃ)を過ぎ、山頂の「奥津磐座」(おきついわくら)まで登り着くと、誠にこの山が神が宿る霊験豊かな聖域である実感しました。写真撮影は禁止ですので、皆さんもには想像していただくことしかできませんが、山頂の奥津磐座には、黒い不思議な鉱石の大きな塊があり、これがまさに御神体かと思わせるような異様な周囲の雰囲気を醸し出しております。また奥の方から、姿は見えませんが、女性の祈祷する声が聞こえて来まして、なおさら禁断の地に踏み込んでしまったという感覚を覚えます。白装束の信者の方は、この前で金縛りにでもあったかのようにお祈りの姿勢のまま微動だにしません。世間でいうパワースポットですが、ここはとんでもない霊験を感ずる場所でした。
この奥津磐座の様子は、三島の小説に描かれていますので、是非読んでみてください。さて、神の存在を感じた御登拝を終え下山します。下山の途中では、靴で登った罰なのか、スズメバチにつきまとわれました。(汗)
結局、御登拝の時間は、私の足で1時間30分でした。
三輪山は、杉で覆われた山です。オオモノヌシは、酒の神様でもあります。日本酒の造り酒屋では新酒ができると軒先きに杉の葉で作った大きな杉玉(酒林(さかばやし)ともいいます。)をつるしますが、この習慣は、大神神社の神木である霊験ある杉を軒に下げたことが起こりとのことです。日本書紀には、崇神天皇に新酒を醸(かも)すように命じられた高橋活日命(タカハシイクヒノミコト)が詠んだ歌が記されています。
この神酒(みき)は、わが神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 いく久 いく久
実は、この前夜は奈良市内の居酒屋さんで、奈良の美味しい地酒(善童鬼、篠峯、風の森)をすでにいただいていました!
さて大神神社を後にして、三輪駅に戻る途中の老舗のお寿司やさんで、名物の三輪素麺と握り寿司のセットをいただきました。
35年ぶりの奈良旅行、滞在時間は1日強という短時間でしたが、念願の三輪山御登拝も果たし、悔いなく奈良を後にしたのでした。
社名 | 大神神社(おおみわじんじゃ) → 大神神社 オフィシャルサイト |
鎮座地 | 奈良県桜井市三輪1422 (JR万葉まほろば線 三輪駅下車 徒歩5分) |
御祭神 | 主祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ) 配祀神 大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神 少彦名神(すくなびこなのかみ) →「日本の神話 古事記」 第3話 第7章 スクナビコナ |
御由緒 | 『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀(まつ)られることを望んだとあります。また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂(みたま)として顕現(けんげん)され、三輪山に鎮(しず)まられたということです。 「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神(すじん)天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤(あつ)く祀(まつ)られました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観(じょうがん)元年(859)に最高位の正一位(しょういちい)となりました。延喜式(えんぎしき)の社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)で、のちに大和国一之宮(やまとのくにいちのみや)となり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。 中世には神宮寺(じんぐうじ)であった大御輪寺(だいごりんじ) や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入ると幕府により社領が安堵(あん)どされて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社(かんぺいたいしゃ)となりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。 (大神神社HPより) |
(訪問日 平成29年9月1日)
Photo Gallary |
JR 三輪駅 |
JR 三輪駅 降車専用口 |
参道の賑わい |
大鳥居 |
朝日に輝く拝殿へ |
拝殿 (重要文化財) 1664年徳川四大将軍家綱により再建 |
狭井神社の石段の前の池のほとりにある三島由紀夫による石碑 |
狭井神社 |
狭井神社境内にある三輪山登拝申込受付所 |
三輪山参拝証の襷を首にかけご登拝 |
三輪山登拝の入り口 手前の御幣で自分でお祓いをして入山。以後写真撮影禁止。 |
久延彦神社例祭 |
クエビコは知恵、学問の神様。学業成就のたくさんの絵馬 |
境内にいた神猫!? |
三輪駅近くのお寿司やさんにて三輪素麺をいただきました。 |