神話を訪ねて(第13回)出雲大社(島根県出雲市) |
平成26年、明けましておめでとうございます。 今回は、古事記ファンなら、一度は訪れてみたい「出雲大社」をご紹介します。昨年(平成25年)は、出雲大社が60年ぶりの遷宮を行ったということで話題になりました。また、伊勢神宮も20年ぶりの式年遷宮の年でもあり、大勢の人が両社を訪れたようです。 私も、この機を逃すまいと昨年の9月に出雲大社を初めて訪れました。ここで、あらためて出雲大社について勉強させられることがありました。まず、「遷宮」です。どうも遷宮というと、伊勢神宮の式年遷宮のイメージがあったので、出雲大社もてっきり、社殿を全部建て替えるのだとばかり思っていました。しかし、実際に行ってみると、遷宮が終わったという御社殿の木材の色もやけに古めかしい、、いったいどこを建て替えたのだろうと思っていましたら、出雲大社の遷宮というのは、完全に建て替えるのではなく、御本殿の屋根の葺き替えなどの大規模な修理ということだったのです。御本殿の御祭神である大国主大神は、平成20年より、その修理の間、仮御殿(現在の拝殿)に引っ越し、仮住まいをされ、平成25年5月に無事、改修が終わった御本殿に遷座されました。(これを「御遷座祭」といいます。) 詳しくは、出雲大社ホームページ「平成の大遷宮 事業の概要」参照 ところで、あなたもすっかり古事記ファンだと思いますから、出雲大社に祀られている神様の大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)は、もうご存知のはず、、、、えっ、ご存じない?これは、困った(-.-!) では、古事記を簡単におさらいしてみましょう。 アマテラスオオミカミは、現在の皇室のご先祖の神様と言われておりますが、その孫のニニギノミコトが地上に降りて来た(天孫降臨)のが、日向の高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の間)と言われております。 一説には、この天孫降臨伝説は、古代天皇一族が朝鮮半島から渡って来たことを象徴しているのではないかともいわれていますが、いずれにしろ、ニニギノミコトの子孫である初代「神武天皇」の東征以前、関西より東の地方には、土着の豪族(私は、この人たちが日本に何万年も暮らして来た縄文人と考えています。)が支配していたと考えられます。この縄文人をルーツとする土着の勢力である「国つ神」(オオクニヌシ)と天皇家の先祖である「天つ神」(アマテラスオオミカミ)の勢力争いである「国譲り」神話は、こうした古代日本における歴史的な事実が裏付けとなっていると思っています。 国譲り神話では、天の国のアマテラスは、タケミカズチ(鹿島神宮に祀られている軍神)に、地上の世界(葦原の中つ国)を支配していたオオクニヌシ(大国主命)を倒すことを命じました。 タケミカズチが、出雲の国に行って、大きな険を海に突き立て、あぐらをかいて座り、オオクニヌシに降伏を迫ると、オオクニヌシは自分ではなく、息子のコトシロヌシに答えさせると言います。しかし、このコトシロヌシは、あっさりと、この国をアマテラスに明け渡すことを約束し、自分は隠れてしまいます。(自殺か?)するとオオクニヌシは、もう一人の息子の「タケミナカタ」がいるとタケミカズチに言います。しかし、このタケミナカタも、タケミカズチに簡単に投げ飛ばされ、恐れをなして逃げ出し、長野県の諏訪湖のあたりまで追いつめられ、「この地上の国は、天の神のお子さまに差し上げます。」と泣いて謝ったとされています。こういうことで、長野県の諏訪大社は、タケミナカタを御祭神として祀っているのです。 タケミカヅチは、再びオオクニヌシのところへ戻って来て、降伏を迫りました。これに対して、オオクニヌシは、こう答えました。 ということで、それ以降、オオクニヌシは、敗者として、出雲大社にお隠れになっているということになります。 さて、出雲大社には、東京からは、羽田空港から出雲縁結び空港(この空港が、畑や民家のど真ん中にあり、びっくり)まで飛行機で約1時間半。そこから出雲大社行きのシャトルバスもありますが、わたしは、まず、初日は、出雲市駅のホテルで一泊し、この駅の近くにある出雲そばの名店「羽根屋」さんで、隠岐の島の地酒で一杯やった後に、大正天皇も召し上がったといいわれる三色割子そばをいただきました。出雲大社の周辺でも出雲そばの有名店に入りましたが、ここが一番うまかった。 翌日、早起きして一畑電車で、出雲大社駅に向かいます。出雲大社駅は、たいへんレトロな駅で気に入りました。駅を出て、右手に7分も歩けば、出雲大社なのですが、反対側にある、ぜひ見てみたかった旧JR大社駅を先に行ってきました。大正13年に築造されたという駅舎とは思えないレトロで豪華な建築様式に感心しました。しかし、朝早すぎて、駅舎の中を見学できなかったのが最大の失敗でした。。。 さて、それではいざ、出雲大社に向かいます。参道を歩いていくと、出雲大社の立派な鳥居が見えてきます。広い境内の参道を歩き、松の参道の中を通りすぎると銅鳥居があります。ここをくぐると、まず、大きなしめ縄がかかっている拝殿が見えます。この拝殿は、上述したように、御本殿の改修中に仮御殿になっていた建物でもあります。巨大なしめ縄も出雲大社の象徴になっていますが、この拝殿のものでも1.5tもある大きなものですが、西側にある神楽殿のものはさらに大きく、長さが8m、重さが4.5tもあり、参拝者の目を引きます。 拝殿の奥に回廊の塀に囲まれた御本殿等の建物群が見えます。その左右の両脇には、十九社(じゅうくやしろ)という末社があります。10月の旧名は、「かんなづき(神無月)」といいますね。これはなぜかというと、逆に出雲大社には、全国の神々が10月に集まってくるといわれるため、出雲では、「かみありづき(神有月)」と言っています。この十九社は、全国から集まった八百万神(やおよろずのかみ)がその間、御滞在になる場所なのです。 さて、古事記にも書かれたように、オオクニヌシのために「地面の底深くに石で基礎を作り、その上に太い柱を立て、高天原にとどくほどに高く千木(ちぎ)を上げて」作られた御本殿ですが、高さ24mという圧倒するスケールの大きさです。一つの建築物としては、伊勢神宮のどの御社殿もかないません。しかし、古代の出雲大社は、さらに大きく、最古のもので高さ96mもあったと伝えられ、平安時代でも、46mもある巨大神殿で、奈良の大仏よりも大きかったということです。実際、当時の御本殿をささえたと思われる巨大な柱も発掘され、近くの島根県立古代出雲歴史博物館に展示されています。この博物館には、当時の神殿の想像復元模型も展示されています。 御本殿は、「大社造り」と呼ばれて、平面は正方形をしているのが特徴で、屋根は切妻(きりつま)、殿内には、妻入り(伊勢神宮は平入り)。屋根には、巨大な千木(剣をクロスしたような装飾)と鰹木(かつおぎ。丸太ん棒のようなもの)が三本乗っています。特に私の目を引いたのは、今回の大改修で、何と70万枚もの檜皮を使って葺き直された御本殿の見事な屋根の芸術的な美しさでした。そして、以前から異様な感じがして注目していた御本殿正面入口に取り付けられた雨除けと思われる傾斜のついた屋根。なんとなく、後から無理にしつらえたような気がしていたが、実際に見るとこの屋根も葺き直されていて美しい。 伊勢神宮とは建築様式において異なる点もありますが、基本的には、仏教建築の影響を受ける前の日本古来の高床式の建築様式を残しており、パルテノン神殿の巨大な柱と同様なそのシンプルながら堂々たる威厳を持ち、かつ洗練された美しさを感じました。スケールの大きさも建築物の美しさも、素晴らしい!まさに、オオクニヌシのために作られた日本一の神殿でしょう! さところで、実は、この出雲大社には、いくつもの謎があるのです。例えば、 (第1問)なぜ、御祭神である大国主大神は、御本殿の正面である南側を向いておらず、西側を向いて鎮座しているのか? (第2問)なぜ、出雲大社の建築平面図は、正方形(真四角)なのか? (第3問)なぜ、出雲大社での参拝方法は、一般的な神社(二拝二拍手一礼)ではなく、「二拝四拍手」なのか? (第4問)なぜ、出雲大社やしめ縄など、すべてが巨大に作られているのか? こういった謎について、井沢元彦氏が「逆説の日本史」第一巻第二章「大国主命編」で興味ある仮説を唱えられています。オオクニヌシは、アマテラスに滅ぼされた(おそらく殺された)神であり、征服者であるアマテラスは、オオクニシが怨霊となって、災いをもたらすのを恐れ、出雲大社という「日本一立派な宮殿=オオクニヌシの霊を祀る墓所」を築造し、オオクニヌシは、現世の世界ではなく、幽冥(かくりごと。霊界)を支配させることにした。つまり、オオクニヌシが鎮座している西の方向は、国譲りの舞台とされる稲佐の浜(オオクニヌシが滅ぼされた)の方向であり、四拍手というのは、つまり四=死を暗示しているというのが、井沢氏の説だ。おそらく、井沢氏の指摘は、かなり的を得ていると思っている。ちなみに、わたしは、大社造の様式で、平面が正方形というのも、特徴的なのだが、つまり、これも「真四角」=死という意味が隠されているのではないかと感じた。 念願の出雲大社は、予想していた以上に、巨大で伊勢神宮を凌ぐ建築技術で作られた見事な神殿でした。しかし、何と言っても、島根県立古代出雲歴史博物館の案内をしていた、島根美人が忘れられない。。。島根県も美人度が高い、、また来よう。 (訪問日 平成25年9月27日) |
社名 |
出雲大社(いずもおおやしろ) → 出雲大社 オフィシャルサイト |
鎮座地 |
島根県出雲市大社町 一畑電車大社線「出雲大社駅」下車 徒歩7分 |
御祭神 |
大國主大神 (おおくにぬしのおおかみ)→「日本の神話 古事記」第3話 第1章 系譜→「日本の神話 古事記」第4話 第3章 タケミカズチ |
御由緒 |
大國主大神は、須佐之男命の御子神で、お若い頃から、かの「稲葉(因幡)の素兎(しろうさぎ)」の神話からもわかりますように、非常にご慈悲深くいらっしゃいましたので、周囲から大変にお慕われになっていました。(中略)(須佐之男命の命により)国づくりの大任をお受けになった大神は、葦原中国(あしはらのなかつくに)にお帰りになると、まず須佐之男命からお受けになった生太刀・生弓矢をお執りになって邪神を追い払われ、みずから鋤や鍬をお執りになって荒れ果てた山野を開拓されて人々に農耕の方法をお教えになり、また人々が最も悩み苦しむ病気やその他の災厄からのがれるためには、医薬・禁厭(まじない)の法をお授けになり、温泉をおととのえされるなどして人々の生活が豊かになるようにお導きになりました。(中略)これによって、大神のみ恵みは国内のすみずみまで行き渡り、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)と讃えられる国土が国づくりされました。 やがて、皇孫ニニギノミコトがこの国に降臨されるに際して、大神は辛苦されてご経営になったこの国土を皇孫にお譲りになり、それからは目に見えざる世界の幽冥(かくりごと=神事)の主宰神となられ、御子神たちと共に国の守り神として、万民の幸福をお護りになることになりました。そこで、天照大神は、大神の誠実な真心を非常にお悦びになり、大神のためにとくに諸神に命じられて、広大なる宮殿を御造営され、さらにご自身の第二の御子の天穂日命(アメノホヒノミコト)にその祭祀をお任せになられました。これが、今の出雲大社の起原です。(中略) (出雲大社は、)古来種々の御社号で称えられましたが、現在は「出雲大社」(いずもおおやしろ)と申しています。ことに、平安時代中頃の「延喜式」神名帳に名神大社(みょうじんたいしゃ)として「大社」と記されたのは、「杵築大社(きづきのおおやしろ=出雲大社の古名)」のほかにはなく、単に「神宮」と申せば伊勢神宮を示すように、「大社」といえば出雲大社のことをいうのです。 ※境内で販売している「出雲大社由緒略記」より抜粋 |
出雲大社の見所紹介(写真をクリックすると拡大します。) |