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うたづ広報12月号 | 2014/11/30 |
宇多津俳壇投稿分
「行く秋や 夜行列車の 轍音」 kento 「ふるさとの 廃家訪ふれば 鶏頭花」 カナ子 |
さつま芋堀 | 2014/11/29 |
朝露で濡れている芋のつるを刈り、地割れした畝を鍬で掘り起こす。 朝陽を浴びてさつま芋がにっこりと白い顔を出す。 子供の頃よく親の手伝いでこの時期、宇和島の段々畑で忙しかったことを思い出した。
「芋掘りて 手に付きし脂(ヤニ) 取れもせず」 |
金比羅宮の紅葉 | 2014/11/28 |
心残りだった金比羅のモミジ、先日からあれやこれと中々時間がとれず、晴れる日曜日に行く予定にしてた。 ところが予報が雨に変わってしまった。
それで今日午後になって思い付き、晴れていたのに曇天になるが行って来た。 だがもう雨は降ったし遅く、落ち葉もしおれているのが大半であった。 東京の団体さんや福岡からも、ネットで見たと愛媛の方も来て居られた。 |
庭の草抜き | 2014/11/27 |
花壇と云えるようなところは無いが、枯れた紫欄や秋名菊なども刈り取った。
だが秋名菊が一本のみ風にも雨にも負けず、頑張って凛として咲いている。 その生命力に何かいとしさすらおぼえる。 |
情けは人の為ならず | 2014/11/26 |
スーパーで年配のご婦人が買い物をされ、片手でバックと買った袋を2個提げて、
その一つに氷を入れようとしてた。 だが思うように入らず外にこぼれて困っていた。 見かねてその1つの袋を持ってあげた。とても喜ばれていた。 そしてその後近くのコメリーで種物や肥料と重い石灰を買い、車に積むのを店員に頼んでいると、手伝いましょうと若い男性が積み込んでくれた。 そして私も胆のうがんに前立腺がんなど4回手術をしてるのですと話さていた。 とても元気そうであった。 何か温かい気持ちになった。 |
晩秋の雨 | 2014/11/25 |
まだ小さくて銀杏並木といえるほどでもないが、それでも舗道にいっぱい散って黄色いじゅうたんを敷き詰めている。 裸木になった幹は小雨に濡れて黒ずんでいた。
静かに晩秋を迎えて、後ひと月もすると正月が来るなんて信じられないくらいだ。 「晩秋や 子等は元気に 走りさり」 |
京都の紅葉 | 2014/11/24 |
兵庫に住んでる友達に久しぶり電話をした。 連休を利用して京都のお寺の紅葉を観てきたと。真如堂、洛北や光明寺とか云っていたが、何処も綺麗だったと。
我輩も行って見たいのだが今年は行けそうにない。 |
学ぶべきものは | 2014/11/23 |
「我以外皆我師」なりとは宮本武蔵の言葉らしい。 先日も朝陽を撮っていたら、後から近くに来た人がEOS50DVをもっていた。 話していて一つだけ参考になる事を言っていた。 ちょっとした事でも我意外皆我が師なりであると思った。
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五色台へ | 2014/11/22 |
すすきなら塩塚高原だが、五色台で少々あったような気がして行ってみたが休暇村の辺りも無かった。 途中白峰寺によるとモミジが見頃であった。 下界のモミジは意外と傷んでなく、最近ではましな方である。
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爽やかな秋空 | 2014/11/21 |
自転車で走っていると日向ぼこしてる、知り人に久しぶりに会い近況を話合った。 山登りが好きな彼は腰を痛めて、来月専門医のいる岡山で手術をすと言っていた。
我輩は病気をして以来山登りは出来てないが、彼曰く無理はすられないと・・・。 |
散歩道 | 2014/11/20 |
このところ海岸を散歩すると、天候が良いので見事な夕陽を見ることができる。
その夕焼けは瀬戸内の海を真っ赤に染めて、空と海とが一つになって暮れてゆく。 海の近くに住んでいればこそ、この素晴らしいひと時を度々眺めることができる幸せを感じる。 「空と海 瀬戸の夕凪 染めあげて」 |
晴天の秋晴れ | 2014/11/19 |
「紅葉谷 断崖そびえ 迫りくる」
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岡山へ | 2014/11/18 |
うたづフォトクラブでの豪淵・宝福寺・国分寺へ行って来た。 紅葉は今が見ごろであったが、中々満足ゆくのは撮れたとは云えないが、まあ一枚でもあれば良が・・・。
宝福寺はあの雪舟が足で描いた鼠で有名な寺とのこと。国分寺の五重の塔は春に来る下見で寄った。 何より天候に恵まれたのが良かった。 |
紅葉 | 2014/11/17 |
今年は紅葉をあまり追っかけてない。先日今大窪寺が見ごろだとのことだった。 明日はうたづのクラブの方で、岡山の豪淵とお寺に行くようになっている。
あまり天候がぱっとしないようだが、さてさて紅葉は如何なものか・・・? |
吊るし柿 | 2014/11/16 |
やはりこの時期になると、吊るし柿を作らないと落ち着かない人がいる。
剥きたての柿ベランダで宝石に化けていた・・・ ** 夕陽うけ ファイヤーオパール 吊るし柿 ** |
旭日 | 2014/11/15 |
今朝も早起きして日の出を求めて走った。 晴天にちかい空で雲らしきものなし。
少し雲が欲しかった、それはそれなりに何とか撮った。 |
少し寒くなってきた | 2014/11/14 |
朝5時起床、目的の場所に朝日を撮りに行った。晴れの予報が曇が切れず駄目だった。う〜む残念。
朝夕めっきり冷えだしたのでエアコンも使っているが、とりえず灯油も買ってきた。 そうそう毎日小春日和と言うわけにもゆかぬわい。 「少しでも 歩いておこう 小春日に」 |
皇帝ダリア | 2014/11/13 |
彼方此方でよく見かけていたが、ご近所に今年はじめて、皇帝ダリアを植えられた家がある。 あっと言う間に咲き、二階の窓まで伸び北風に揺れいる。
「 皇帝ダリア はや夕月を かかげたり 」 渡邊紅華 |
鴨 長明の「方丈記」 | 2014/11/12 |
京都のことをちよっと調べていたら、昔よく聞いたこの詩に出くわした。
長明は1155年〜1216年 平安時代から鎌倉時代の歌人。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」 800年ほど昔に詠まれているが、移り行くもののはかなさを語っているのである。 |
スーパマケーケット ビブレ解体 | 2014/11/11 |
イオン系大型店舗であったが営業不振で、大が小に負ける面白い時代だ。
壊して再度建設するようだ。 映画館が残っているのは楽しみである。 |
水道・ガス工事 | 2014/11/10 |
先般本管工事をしていたが、各家庭のメーターまでの引き込み管の交換だ。
掘ってつないで埋め戻して舗装をしているよだ。古い鉛の管を新素材の管に交換しているとのこと。 どちらも屋敷内にメーターあるので時々工事の立会いをしてる・・? 水道はエア抜きをしないといけない。真っ赤な錆びた水と空気を抜いた。 人間も古くなると、体内や頭の中に錆がたまっているのでは・・・。 |
行く秋 | 2014/11/09 |
桜よつつじよと言っていたのに、いつの間にか暑かった夏も終わり、すっかり紅葉の季節となった。
「幾山河 越えにし歩み 野菊みち」 |
昨日は立冬・満月 | 2014/11/08 |
先日町の行事の収穫祭で、長野からきれいな白菜が出していた。それとスーパーで宇和島のじゃこてんが手に入ったので、サトウーの餅とで早々に一足早くお雑煮を食べた。 お雑煮を食ったとて 、まだ歳はとりたくもなし・・・。
寒暖の差もこのところあまりないので、紅葉を憂う人多し。 |
予防接種 | 2014/11/07 |
高齢者インフルエンザの接種は何時も12月にしていたが、ついでに初めての高齢者肺炎球菌(23価)ワクチンの予防接種もした。インフルエンザは毎年だが、肺炎球菌は5年間有効という。 まあ最小限のできることはやっておこう。
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白粉花 | 2014/11/06 |
昔はよく道端や畑の隅に大繁殖して咲いていた。 紅・白・黄・絞りなど可憐な花はよい香りを放っていた。最近でも飯野山の登山口でもよく見かけていた。
美しくなりたいと願う気持ちは、何時の時代もおなじであるが、こんな句がある。 「白粉の 花ぬって見る 娘かな」 一 茶 |
露草 | 2014/11/05 |
「露草の 露千万の 瞳かな」 富安 風生
あのきらきら光る露を瞳にたとえ、何ときれいな句であろうかと思う。 その露を覗かれている、作者の澄んだ瞳が映っているのでしょうか。この頃山里への出歩きの少ない我輩など、露草もめったにお目にかかれなくなってきた。 |
広島の帝釈峡 | 2014/11/04 |
PC仲間33名が大型バスで遊びに行っていた。 帝釈峡では遊覧船に乗り40分間眺めてきたが、緑色の湖面に紅葉が映るという期待はきえ、そそり立つ断崖絶壁がうりもののようだった。
数年前に泊まったことのある休暇村へ廻り、真っ赤に燃える紅葉を観てきた。 帰途岡山の井倉洞へ寄る、入り口の横に細いが高い滝があつたが、白い石灰岩がバックでは絵にならなかった。 初めてだったが階段の登り降りが多く、体力勝負ですっかり汗だくになった。 今日一日で8,800歩あるいた。 |
木槿(むくげ)の花 | 2014/11/03 |
「白木槿 夕陽に酔いて 風をまち」
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「今」をいかに生きるか? | 2014/11/02 |
ある書に、「死」をどう見つめるか。ここでは、死から目をそらすのではなく、生死という根本の一大事を正しく見据え、死の重みを意識してゆくことが、人生を高める契機になると訴えています。
人間はだれしも、「いつかは」自分も死ぬと知っている。しかし、あくまで「いつかは」であって、まだまだ先のことだと思っている。青年はもちろん、年をとっても、否、年をとればとるほど、「死」から目をそらす場合がある。しかし、人生の実相はどうか。 じつは人間、次の瞬間には死んでいるかもしれない。 地震、事故、急病その他、死の可能性は「いつでも」あるのです。それを忘れているだけです。 「死は自分の前にあるのではない。死は背中から自分に近づいてくる」と言った人がいる。 「いつか頑張ろう」「これが終わったら頑張ろう」と思っているうちに、あっという間に年月は過ぎ去ってしまう。気がついてみると、何ひとつ、生命の財宝を積まないで、死に臨まなければならなくなっている。それが多く人の人生でしょう。その時に後悔しても遅いということです。 よく考えてみれば、死が三日後であっても、三年後であっても、三十年後であっても、本質は同じなのです。ゆえにいつ死んでもいいように「今」を生きるしかない。・・と。 |
霜月 | 2014/11/01 |
気が付けば庭にあれほどあった菊、姿を消してもう何年になるのだろうか・・・?
今は秋明菊のみ残り風に揺れている。来年のために菊の苗を植えねばと思う。 そうこうしてると向寒の季節になってきた。 「菊恋し 胸に空洞 あるを知る」 |