由緒、沿革
 


 最勝院(以下当院)は具には金剛山光明寺最勝院と号す。この名称
の起源は、『金光明最勝王経』という仏教教典に由来し、五穀豊穣、
国家安泰等の深い願いが込められている。総本山は京都市東山の智積
院、宗派は真言宗智山派の密教寺院である。本尊は金剛界大日如来
秘仏として五智如来猫突不動明王文殊菩薩聖徳太子牛頭天
歓喜天(聖天)、 青面金剛、如意輪観世音菩薩等を祀る。
 天文元年(一五三二)に高僧弘信上人が、堀越城外萩野の地に三宇
の伽藍を造営し開基した。慶長十四年(一六〇九)二代津軽藩主信枚
が高岡の新城(現在の弘前城)を築いた折、当院第六世日雄が地鎮の
法式を執行し、慶長十六年(一六一一)新城の鬼門に当たる田町へ移
転し弘前八幡宮別当となり、そこに十二ヶ寺の塔頭寺院を擁してい
た。また、津軽藩永世祈願所に定められ、寺禄三百石を賜り、手厚い
保護を受けた。
 幕府からの預人慶光院と、江戸寛永寺開山の天海は、相談の上寛永
三年(一六二六)に京都五山、鎌倉五山にならって当地における津軽
真言五山の制度を定めたと伝えられる。最勝院(田町現在銅屋町)、
百澤寺(岩木町百沢の現在岩木山神社)、国上寺(碇ヶ関村古懸)、
橋雲寺(岩木町植田)、久渡寺(旧小沢村現在坂元)がそれである。
当院はその筆頭に位置し、領内総寺社を統轄する僧録に定められ、更
には修験、座頭、巫女等を支配し、社人頭を通じて領内の社人をも支
配した。当院には、領内壱千百三十三社の明細を記した重要文化財
神社微細社司由緒調書上帳』が現存し、当時の権勢の程を窺わせ
る。
 明治三年(一八七〇)神仏分離令により支配下の多くの寺院を合併
して田町より当地へ移転した。その頃まで当地には、大圓寺という真
言宗の寺院があったが、その大圓寺は大鰐町蔵館の高伯寺と合併しそ
こへ寺格を移転した。当院は五重塔や本堂、諸堂、境内地など旧大圓
寺の総てを受け継ぎ、寺院としての発展の中で境内整備を為し現在に
至っている。
 当院の境内では、弘前市教育委員会の発掘調査により縄文時代後期
の土器類や住居跡が多数出土している。これにより往古よりこの地に
人が住み、また信仰の為の霊地として崇拝を受けていたと考えられ
る。正面の仁王門の金剛力士像は岩木山旧百澤寺の山門に安置されて
いたものと伝えられる。また、現在の当院護摩堂は旧大圓寺の本堂で
あり、明和九年(一七七二)に奉納された本尊牛頭天王尊がそのまま
に、に奉安されており、旧暦六月十三日はこの牛頭天王尊のご縁日
(例大祭)として善男善女が多数参拝し、大変なにぎわいが藩政時代
より連綿と続けられている。
 また、当院の文殊菩薩は古くから卯年生まれ一代様として親しまれ
てきた。学業に御利益があるとされるため、近年においては修学旅行
生も多く立ち寄り、受験合格を祈念しお守りを求めてゆく。
 弘前近郷においては宗派を問わずに多くの人々より信仰を受け、正
月の元朝祈願参拝者数は、弘前市最大の規模となっている。




現在の最勝院の法類寺院
山号 寺院名 住所 備考
金剛山 最勝院 弘前市銅屋町 明治五年まで田町、卯年生まれ一代
古懸山 国上寺 碇ヶ関村古懸 酉年生まれ一代様
愛宕山 橋雲寺 岩木町植田 辰巳年生まれ一代様
護国山 久渡寺 弘前市坂元 旧小沢村
朝日山 常福院 青森市横内 最勝院の隠居寺
岩木山 求聞寺 岩木町百沢 丑寅年生まれ一代様
 法類とは、同じ宗門、宗派に属しお互いに助け合うべき関係にある
僧侶および寺院のこと。



藩政時代の津軽真言五山
山号 寺院名 住所 備考
金剛山 最勝院 弘前市銅屋町 明治五年まで田町。その後大圓時
あとの銅屋町へ移転。
岩木山 百澤寺 岩木町百沢 明治排仏棄釈にて廃寺。現木山神
社となる。
古懸山 国上寺 碇ヶ関村古懸
愛宕山 橋雲寺 岩木町植田
護国山 久渡寺 弘前市坂元 旧小沢村。



藩政時代に田町にあった最勝院塔頭(たっちゅう)寺院
寺院名 備考
東覺院
正覺院
大善院 高賀山、明治排仏棄釈後、最勝院と共に銅屋町
教王院
觀喜院
寶成院
西善院
徳恩院
普門院
龍蔵院
神徳院
吉祥院



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