聖徳太子



厨子稚児聖徳太子像
 


 聖徳太子は、用明天皇の皇子として生を受けた。母は欽明天皇の子
穴穂部間人。幼名を厩戸豊聡耳皇子と称した。推古元年(五九三)に
摂政となり、『和なるを以て貴し』で始まる十七条憲法等を制定して
綱紀を正した太子は、民心の依るべき道を、『篤く三寶を敬え』とい
う仏教信仰においた。また、遣隋使を派遣して仏教を中心とした大陸
文化を受け入れ、飛鳥文化の礎を築いた。更に法隆寺、四天王寺、広
隆寺、中宮寺、妙安寺などの大寺院を建立し、自ら経を群臣に講じ、
法華・勝鬘・維摩の『三経義疏』を著述して大乗仏教思想の真髄を示
した。

 当院の東側に聖徳太子堂があるが、このお堂は、五重塔建立の記念
として建てられたと伝えられている。扇垂木や側壁に極彩色を施す
等、かなり鍛えられた建造物である。本尊は厨子に入り彩色の聖徳太
子で、現在は五重塔の須彌壇に安置されている。この聖徳太子も古く
から信仰を集め、現在でも大工等職人八職で構成された聖徳太子講が
毎年四月初旬に行われ、太子の遺徳を偲ぶと共に、講員一同の身体健
全、商売繁盛、家内安全を祈念している。また、旧暦六月十三日の牛
頭天王尊例大祭宵宮にあわせ、聖徳太子堂前に講中信者が集まり交歓
の宴を催し、古よりの祭りの一部として、連綿と聖徳太子信仰が語り
継がれている。




十七条憲法
一に曰はく
『和なるを以て貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ。人皆黨有り。
亦達る者少し。是を以て、或いは君父に順はず。乍隣里に違ふ。然れ
ども、上和ぎ下睦びて、事を論ふに諧ふときは、事理自づからに通
ふ。何事か成らざらむ。』

二に曰はく
『篤く三寶を敬へ。三賓とは佛・法・僧なり。則ち四生の終歸、萬の
國の極宗なり。何の世、何の人か、是の法を貴びずあらむ。人、尤悪
しきもの鮮し。能く教ふるをもて從ふ。其れ三寶に歸りまつらずは、
何を以てか枉れるを直さむ。』

三に曰はく
『詔を承りては必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。天は覆ひ地
は載す。四時順ひ行ひて、萬氣通ふこと得。地、天を覆はむとすると
きは、壊るることを致さむ。是を以て、君言たまふことをば臣承る。
上行ふときは下靡く。故、詔を承りては必ず慎め。謹まずは自づから
に敗れなむ。』

四に曰はく
『群卿百寮禮を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、要ず禮に在り。
上禮なきときは、下齊らず。下禮無きときは、必ず罪有り。是を以
て、群臣禮有るときは、位の次亂れず。百姓禮有るときは、国家自づ
からに治る。』

五に曰はく
『餐を絶ち欲することを棄てて、明に訴訟を辨所めよ。其れ百姓の
訟、一日に千事あり。一日すらも尚爾るを、況や歳を累ねてをや。頃
訟を治むる者、利を得て常とし、賄を見てはことわりまうすを聴く。
便ち財有るものが訟は、石をもて水に投ぐるが如し。乏しき者の訴
は、水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき 民は、所由を知
らず。臣の道亦焉に闕けぬ。』

六に曰はく
『悪を懲し善を勸むるは、古の良き典なり。是を以て人の善を匿すこ
と无く、悪を見ては必ず匡せ。其れ諂ひ詐く者は、國家を覆す利き器
なり、人民を絶つ鋒き剱なり。亦佞み媚ぶる者、上に對ひては好みて
下の過を説き、下に逢ひては上の失を誹謗る。其れ如此の人、皆君に
忠无く、民に仁无し。是大きなる亂の本なり。』

七に曰はく
『人各任有り。掌ること濫れざるべし。其れ賢哲官に任すときは、頑
むる音則ち起る。許しき者官を有つときは、禍亂則ち繁し。世に生れ
ながら知るひと少し。剋く念ひて聖と作る。事に大きなり少き無く、
人を得て必ず治らむ。時に急き緩きこと無し。賢に遇ひて自づから寛
なり。此に因りて國家永久にして、社禝危からず。故、古の聖王、官
の為に人を求めて、人の為に官を求めず。』

八に曰はく
『群卿百寮、早く朝りて晏く退でよ。公事鹽靡し、終日に盡し難し。
是を以て、遲く朝るときは急きに逮ばず。早く退づるときは必ず事盡
きず。』

九に曰はく
『信は是義の本なり。事毎に信有るべし。其れ善惡成敗、要ず信に在
り。群臣共に信あらば、何事か成らざらむ。群臣信无くは、萬の事悉
に敗れむ。』

十に曰はく
『忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各
執れること有り。彼是すれば我は非す。我是すれば彼は非す。我必ず
聖に非ず。彼必ず愚に非ず。共に是凡夫ならくのみ。是く非き理、た
れか能く定むべけむ。相共に賢く愚なること、鐶の端无きが如し。是
を以て、彼人瞋ると雖も、還りて我が失を恐れよ。我獨り得たりと雖
も、衆に従ひて同じ挙へ。』

十一に曰はく
『功過を明に察て、賞し罰ふること必ず當てよ。日者、賞は功に在き
てせず。罰は罪に在きてせず。事を執れる群卿賞し罰ふることを明む
べし。』

十二に曰はく
『國司・國造、百姓に斂らざれ。國に二の君非ず。民に兩の主無し。
率土の兆民は、王を以て主とす。所任る官司は、皆是王の臣なり。何
にぞ敢へて公と、百姓に賦斂らむ。』

十三に曰はく
『諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ。或いは病し或いは使とし
て、事を闕ること有り。然れども知ること得る日には、和ふこと會よ
り識れる如くにせよ。其れ興り聞かずといふを以て、公の務をな防げ
そ。』

十四に曰はく
『群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無れ。我既に人を嫉むときは、人
亦我を嫉む。嫉み妬む患、其の極を知らず。所以に、智己に勝るとき
は悦びず。才己に優るときは嫉妬む。是を以て、五百にして乃今賢に
遇ふ。千載にして一の聖を待つこと難し。其れ賢聖を得ずは、何を以
てか國を治めむ。』

十五に曰はく
『私を背きて公に向くは、是臣が道なり。凡て人私有るときは、必ず
恨有り。憾有るときは必ず同らず。同らざるときは私を以て公を妨
ぐ。憾起るときは制に違ひ法を害る。故、初の章に云へらく、上下和
ひ諧れ、といへるは、其れ亦是の情なるかな。』

十六に曰はく
『民を使ふに時を以てするは、古の良き典なり。故、冬の月に間有ら
ば、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでに、農桑の節なり。民を
使ふべからず。其れ農せずは何をか食はむ。桑せずは何をか服む。』

十七に曰はく
『夫れ事獨り斷むべからず。必ず衆と論ふべし。少きことは是輕し。
必ずしも衆とすべからず。唯大きなる事を論ふに逮びては、若しは失
有ることを疑ふ。故、衆と相辯ふるときは、辭則ち理を得。』



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