12年7月 | ||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 | 31 |
干ばつ | 2012/07/31 |
世界の穀倉地帯が干ばつで、大豆・小麦・トーモロコシが被害を受けていると伝えていた。 他人事ではなくやがて家庭にも影響が押し寄せてくる。
|
思い返せば | 2012/07/30 |
この世に産声を上げて77年、この歳になってまさかこのような天と地をひっくり返すような状況に置かれようとは、想像だにしていなかった。
しかし今回の病気で内臓を一つ失ったが、それ以上に得るものが多かった。 当たり前の様に思っていた健康であることの幸せ、命の尊さ、家族の絆の素晴らしさ、人々の真心のありがたさ等等、あらためて感じる事が出来、また教えられるものが多かった。この病を無駄にせず、これからの人生を全てに感謝しながら生きてゆきたい。 今日は最初に入院してた地元の病院に行き、お世話になった先生や婦長さん看護師さんにご挨拶をして来た。元気になって帰ってきた姿に大変喜んで頂いた。 「生きるとは 万難排し 掴むもの」 |
多くの人に支えられて | 2012/07/28 |
1ケ月間家を空けるのは初めてである。 長い間留守が続くと近所の人に心配かけるので留守になる旨だけ伝える。 親しい友人にはいざという時のために、鍵を預けておいた。
折りしも梅雨の時期である。友人2人で梅雨晴れの日には窓を開けて風を通してもらっていた。また台風4号の時は雨戸を閉めて台風に備えたので、安心するようにとの連絡を頂く。庭の植木や花の水やりまでして頂いた。 帰宅すると決った日には、掃除をして食卓におやつとピンクのバラを挿して気持ちが晴れるよう気配りをしてもらっていた。 こんな心遣いが嬉しくて妻は涙ぐんでいた。 本当にありがたい友人である。 今回私達を多くの人が支えて頂き、励まし応援して下さったからこそ、この病に打ち勝つことが出来たのだと、感謝してもし尽くせない。、 |
隣のYさん退院 | 2012/07/27 |
Yさんとは色々なことをよく話をした。 彼は膵臓がんに膿がたまり再入院していた。
今回今までに数値が下げれば退院と、2度退院の許可が出てが、2度とも夜の検査で下がらず延びていた。 今回は大丈夫と神奈川までの電車の乗り継ぎなので、立たないように車椅子をレンタルされた。 2週間したら又検査に来るとか、何だかもうがんと上手く付き合っているようだった。 当の我輩も予定どうり3週間で退院が決っていたのに、最後の管を抜いてから、38℃の熱が出て、3日間延期になった。地元なら抗生剤を持たすので退院できるのだが、香川だから安心のためにと延びた。 |
体温計と薬箱 | 2012/07/26 |
体温計は各自1個つづ最初に貸し出され、1日4回計温して記録することになっていた。
また小さな薬箱を与えられ毎日飲む薬を入れておく。 朝・昼・晩・寝る前となっていて、毎朝その日飲む薬を看護師にチエックされてていた。 そして後から確実に飲んでいるか、空きからを確認して持って帰っていた。 ある時の血液検査の結果、塩分が不足しているとのことで食塩1グラムが毎食付くようになった。 なにぶんハーフの量で1gを何にかけて食べるか。 ご飯は何時も塩辛く慣れてきたが、パンの時は困ったが、やむを得ずパンに振り掛けて食べた。 |
ウィクリーマンション | 2012/07/25 |
妻は病院の近くに息子達が借りてくれてる、銀座のウィクリーマンションの11Fから、毎日片道10分余りを一日2回通って来てくれていた。
よく汗をかくので毎日洗濯物が沢山できる、又あまり食が進まない為食べれそうなものをあちこちと探して買ってきてくれてた。 病院に来れば歩行練習やシャワーの手伝いなどと結構休む間もない。馴れない環境で看護疲れで倒れるのではないかとの周りの心配をよそに、一ヶ月間何とか頑張ってくれた。そんな妻の何よりの支えとなったのは、やはり2人の息子達である。 晩ご飯は1人では寂しいだろうと必ずどちらかが、或いは2人一緒に食事に誘ってあちこち連れていってくれたという。 香川と東京では会えるのもせいぜい年に1度か2度、それを今こうして息子達が傍にいて、この厳しい現実を一緒に共有して励ましてくれる、これが大きな支えとなり、「元気のもと」であったようだ。 |
久し振りの散歩 | 2012/07/24 |
「 ぼらはねて 見慣れし河口 黄昏る 」
何時も見慣れていたはずなのに、残照に染まった水面を勢い良く飛ぶぼら・・・ 何故か新鮮に映る。 |
悠久の流れ | 2012/07/23 |
「 悠久の流れの中に佇ずめり 」
何億年という時間からみると、人間の一生など針で押したほども無いかもしれない。 だが今こうして生きている、生かされているありがたさをつくづく思う。 生きている、という事は何と素晴らしいことか!。 |
百日紅 | 2012/07/22 |
庭の百日紅の花が満開になった。 小さい木だが暑さにめげずピンクと薄紫が同時に咲いた。
|
香川医大からも先生が。 | 2012/07/20 |
胆肝翆外科では香川からの患者は、我輩が初めてのようであった。
担当医の3人の中の1人に、香川医大の若くてとても優しく笑顔のいい先生が研修で派遣されて来ておられた。 同じ香川ということもあって、朝な夕なとよく面倒を見て頂き、心丈夫であった。そしてまだ後2年はいますと話されていた。 看護師さんたちも地方から優秀な方が来てるようだった。 |
眠れぬ夜 | 2012/07/19 |
一日ベットに横になってはいるが、昼間はなるべく寝ないようにしていた。
だが眠れない夜が続き、毎晩睡眠導入剤の世話になっていた。 消灯の21時に薬を飲んでいたが、24時ころになるときまって目が覚める。 脇腹の傷も痛い。暫くの間まどろむが又目が冴えてくる。こうして朝を迎えるが頭がぼーっとしている。眠れぬ悩みも辛いものである。 向のベットでは痛い痛いと小さな声で呻いていた。 「相部屋の夜半に呻く彼 梅雨しきり」 「見込み無きと奥涙せり 慰める言葉なし」 |
鼻につき食べたくなき飯食う梅雨の朝 | 2012/07/18 |
流動食から全粥になり、帰る少し前やっと普通食になった。
臭いには鈍感なはずであったのに、手術をすると匂いが敏感になる人がいると聞いていたが、まさしく我輩がそうだ。 食事が来ても匂いが鼻について食べれない。プラスチックの臭い、料理の嫌な臭い部屋の匂い果てはティッシュの匂いまで。それで少し箸をつけただけが度々であつた。容器も陶器に替えてもらった。 あまり食べないので全て半分の量になった。これは退院するまで続いた。 いまだかって食事が鼻について食べれないなど、経験したことが無かった。 半分の量に慣らされてか、帰ってからもその量は変わらない。良い点は箸を置いてゆっくりよく噛んで食べるようになった事かな? |
L字型に | 2012/07/17 |
手術は胸のみぞおちから臍の手前まで切り、右側へ脇腹の近くまでLの字に切っている。
胆管を除いた跡に小腸を引っ張ってきて継ぎ、更にその腸に穴を開け胃からの十二指腸を接続してある。 胆汁は消化を助ける働きをして、あの黄茶色のうんちに色をつけている。 胆汁を抜ていると白っぽい便になる。 繋ぎ合わせた部分は違和感があるが、これも日にち薬とのこと・・・。 患部をとり除きさえすれば、それですべて終わりと思っていたが大間違いだ。 最低でも2・3ケ月は無理な運動は禁止である。うっかり体を捻り ピリッとしてヒヤッとする。 |
16Bへ | 2012/07/16 |
16Bー8の4人部屋へ移動した。この部屋へ来るまで再3再4「おならはまだ出ないか」と聞かれていた。丁度男性看護士が血圧を測ってくれている時大きいのが2発出てから水が飲めるようになったり、点滴のみでなく流動食へと変わっていった。 毎朝 8時頃主治医が大勢のお供(医師)を連れて回診に来てくれ、お供の先生が傷口のガーゼ等を交換してくれたりしていた。
16Bに変わったその夜、急に咳き込みお腹が裂けそうな程痛くて蹲り、ナースコールすることも出来ず苦しんでいる時、相部屋の人に助けをもとめ、呼んでもらった。 あの時の苦しみは忘れることは出来ない。 |
術後処置病棟 | 2012/07/15 |
手術後8階の処置病棟に移動した時は、体に7本の管がついていた。液が出ている管が5本あった。左右の胆汁の他同じように左右からピンク色の液が出ていた。
手術前にCVカーテル管を胸から16センチ心臓の近くまで入れて、全ての点滴をそこからしていた。8階の看護師さんは皆選りすぐられたベテラン揃いであった。 夜中までガチャガチャとよく働いていた。麻酔の管は早く抜けたので度々夜中でも痛み止めや熱さましを点滴して貰った。 妻や息子たちや嫁が度々来てくれ励ましてくれた5日間であった。 |
手術の日 | 2012/07/14 |
8日の手術の朝を迎えた。
口から酸素マスクを着け、動かないようテープを貼るとのことで、口髭を剃る。 9階の手術室へ着替えて移動する。 背中を曲げて脊髄に麻酔の管を入れる。口に酸素マスクを着けたとこまでしか記憶に無い。 控え室では妻や息子達と息子の嫁などが、待機していてくれた。5時間経っても6時間経っても出てこない。皆内心はこれはどこかに転移しているのかと思ったという。 7時間経ってナースさんから電話で、「今終りました。後ほど先生から説明があります」と連絡があったと。 やがて先生に呼ばれ、先生の部屋へ移動、開口一番「1 でしたよ (胆管の切除だけ)良かったですね」 張り詰めた空気の中、かたずを飲んで説明を聞く家族達に一瞬安堵と歓びのどよめきが起こった、と言う。今後抗がん剤も使う必要ない、勿論輸血も必要なかったとの事。肝臓膵臓も大きく切除することなく限界まで掘って癌細胞をとり除いたと、云って頂いた。面会の許可が出て家族と対面した時は麻酔まだ覚めやらず、頭がぼーっとしていた。が大きな声で「おめでとう!」と云ったそうだが、当の本人は覚えていなかった。こうして難関突破し8階の「術後処置病棟」の個室で5日間を過ごした。 |
手術の説明 | 2012/07/13 |
6日夕方執刀医から手術について説明があった。私・妻と二人の息子の4人が聞いた。画像を見せてもらったり、図を描いてもらったりしながら、息子達が医師に突っ込んで質問していた。
胆管がんと言っても実際には開いてみないと分からないと。そして4通りの想定が出来ると話された。 1) 胆管がんのみをとる手術。 5時間。 2) 胆管がんと肝臓に転移している場合。 プラス数時間。 3) 胆管がんと膵臓に転移している場合。 〃 4) 胆管がんと肝臓・膵臓の両方に転移している場合。 若し第4の場合は年齢からして無理なので、手術はしないと。 そう告げられたのである。 |
入院の知らせ届く | 2012/07/12 |
5月30日、 4日に入院の知らせを頂く。 私と家内の荷物を送る。2日に息子が東京より迎えに帰り、3日空路東京へ。ひとまずホテルに落ち着いた。
家内には病院に近い銀座のウィクリーマンションを用意してくれていた。入院の手続きも結構複雑であるが全部息子達がやってくれた。16Bの二人部屋が最初の部屋であった。 不思議なことに癌の手術をするというのに、何のストレスも無ければ恐怖心もなく、”切るなり突くなり何なりせよ”と腹が据わっていた。 8日の手術まで色々な検査や説明などがあった。 |
5月14日退院〜東京へ | 2012/07/11 |
肝臓に管を入れて2週間しないと動けないと入院していた。
そして2週間経ち手術を何処でするかとうことで、2人の子どもたちが奔走してくれて、東京の国立がん研究センターの専門医にパイプがつながった。 迎えに帰ってくれた息子達に連れられて、16日に診察を受ける事が出来たが、いくら香川から来たと云っても、順番がありすぐには出来ないので、連絡するので自宅待機せよとのこと。 その間胆汁の抜き方を家内が教えてもらい、朝夕2回看護師をしてくれた。 一日450mlの胆汁が出ていた。 |
2日目 | 2012/07/10 |
2日の午後検査の結果で胆菅に何かあると、ちょうど香川医大の先生もおられ、早速喉から内視鏡を入れ十二指腸から胆菅へ、そこから鼻まで通す予定が詰まって出来なかった。硬いものがあって駄目ですと。 ことき癌とわかった。 それでお腹に穴を開けて肝臓に管を差しこみ、胆汁を外にだすことに成功。 此れで命拾いをした。5月の1・2の連休の谷間。 それが3・4・5・6の連休だったなら、どうすることも出来ず死んでいただろう・・・。 |
一命をとり止める | 2012/07/09 |
5月1日熱ありて回生の内科へ。採血の結果特にALP・y-GTPともに正常値の100倍を越えていた。
明日入院の用意をして消化器の先生に看てもらいなさいと。 そして家内だけ呼んで至急身内を呼びなさいと・・・。 2〜3日前から真着黄色の小便がでていた。 2日CTなど検査 |
東京の台所築地市場 | 2012/07/07 |
16階の病室の窓からは、築地市場が真下に見え、早朝は仲買人等の車で埋まっていて、観光バスも押しかけて来ている。見学に行きたかったが、この体では無理、結局行かずに退院して帰ってきた。
入り江の右手には浜離宮が緑の樹木で覆われて船舶が停留してる。 沖の方にはレインボーブリッチが掛かって夜には灯りが点る。 環境的には素晴らしいところだが、ここは病院・・・・。 |
胆管がん | 2012/07/04 |
「 天 我に この病を 与えしか 」
東京の国立がん研究センターの専門医に手術をして頂きました。 膵臓、肝臓に傷つけることなくがんを取り除き、抗がん剤を使うことなく、一ヶ月の入院で無事1日に退院し、昨日帰って参りました。 多くの皆様の励ましに支えられましたこと、御礼申し上げます。 |