老伴Story「夢400年」 文責 岡 久司
おことわり:私は歴史家でも小説家でもなく、浅学無知な菓子屋の店主で、しかも理科系で文学などとは程遠い存在です。以下の文は祖祖父・祖母・ほか色々な方々から聞かせて頂いた話を基に、「想像の翼」はためかせ、松阪弁で表現したもので、菓子屋の戯言と一笑して頂ければ幸いです。ただ私ももっと学びたいと思い書き始めましたので、歴史考証上の訂正や異論があれば、是非メールにてご指導ご鞭撻をお願いいたします。
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第1話「Kogawara1575」(「古瓦」天正3年)
あのなぁ昔々、近江の国(滋賀県)の日野にちょっと変った御仁がいてなぁ、武家の家系やのに、自由気ままが好きでなぁ、そいでお茶や歌など芸術も好きやった。確か村田家の人と思うたけど、まちがっとるとあかんで、ここでは「初代」としとく。そいで日野の城主、蒲生氏郷様はそれは立派な殿様で、信長様の家臣の中でも3本指に入っとったけど、残念ながら早死にしたんで知らん人も多いやろうなぁ。この頃はすぐ近くで信長様が安土城を建築中で、お侍さんは皆燃えとったのに、初 代はお茶菓子に燃えとった。氏郷さんはお茶と相撲が大好きやったで、その影響もあったんかなぁ。とにかく寝ても覚めても新しいお菓子の事ばっかりで、ある日、家宝の丸い中型のすずり石を裏返したりして長いこと考え込んでましたわ。このお宝がまた珍しい物で、中国の東漢(前漢)の時代に焼かれた瓦が、模様の部分を切り取って裏返してすずり石にされた物が渡来したか、渡来してからすずりにされたか、まだよう調べとらんのやけど、む ちゃくちゃ古い物には違いない。そいでその模様やけど、中国では幸せを運ぶと言われとる鴻の鳥が、真中で大きく羽根を広げとって、両翼の上には延と年(不老長寿)の2文字が描かれとった。そのお家が子宝に恵まれ長生きして繁栄するように、と願いを掛けて焼かれた瓦やったんやろなぁ。現品は無いけど、瓦の拓本が残っとるでこりゃ想像やないでな。初代はこのめでたいすずり石の鉄型を取って、最中の皮を作ったんや。この皮1枚の片面に羊羹を流し込んで完成。「古瓦」と命名したんや。そやけど、当 時羊羹(ようかん)を流したか、餡(あん)を盛ったかは謎なんや。
第2話「Youkan1582」(羊羹?餡?)
羊羹は、中国の羊肉の羹(あつもの)を原形とし、禅宗文化とともに渡来したが、日本では小豆を主原料として羊の胆の形につくって蒸し、汁に入れて供された。後、蒸し物のまま茶菓子として供されるようになったのが蒸し羊羹の始まりで、今日ふつうに見られる、砂糖を加えた餡(あん)に寒天を混ぜて煮つめた練り羊羹は、安 土桃山時代につくられた。(国語大辞典より)と言うことで、時代が重なっとる。別の文献やと、この時代、羊羹は京の一部でしか作られとらんし、全国に普及するんはもっと後や。素直に推理すると、日野と京都は近かったし、中国の瓦模様の最中に、中国から来た羊羹なる物を入れたんやろなぁと思うけど、1 7代としては、どっちかと言うと餡やったような気がする。イメージとしては、最中はコースターの様な物で、その上に当時貴重な砂糖を入れた粒あんを少なめに盛って、朱塗りの足高の菓子器に並べ、御城へ献上しとった感じがする。その後、一般に販売されるようになって、取 り扱い易くするために羊羹になったんと違うかなぁ、なんも証拠は無いけど。間違ってたらごめんね初代さん。もうひとつ気になんのが味やけど、最中の部分は今より美味しかったと思うけど、粒あんは甘味が少なく少し灰汁(あく)っぽかったと思う。なんせ当時は精製した砂糖(上白糖など)が無かったで、素朴な黒砂糖の塊を削っとったはずなんや。3年前に「あいの会松坂」のイベントで「古瓦」の再現をしたけど、食べた人曰く「あっさりしてうまい、なんで販売せんのや!」でした。話を戻して、と にかくやっとの思いで新しいお茶菓子を創った初代やけど、この数年後に時代が大きく変化するんや。1582年有名な「本能寺の変」で信長様が自刃されて、氏郷様は秀吉様に仕える事にしたけど、6年後には初代の人生をも変える命令が秀吉様から下るんや。
第3話「Matusaka1588」(天正16年)
氏郷様は秀吉様の命令で伊勢の国の松ヶ島城〔後の松坂〕へ入城し、南勢12万石の領主になったんやけど、すぐに「四五百の森」(よいほのもり)へ新しい城を建てたんや。当時四五百の森付近は一面の田畑で、脇には参宮道が有って、その街道沿いに新しい城下町を作り、「松坂」(現在は「松阪市」)と名づけたんや。余談やけど、秀吉様から大坂の坂をもらって「松坂」、5年後には会津に移動し、また新しい町を作り「若松」、氏 郷様は本当に「松」大好き人間やなぁ。で、城主が移動すると家来以外にも大工や城の催しに関係する職人たちを連れてくるわけで、初代さんも家来の家族として来たか?茶会用の献上菓子職人として、連れてこられたか?あるいは献上菓子職人に成る事を夢見て新天地を目指したか?全く手がかりが無いけど、3番がいいなぁドラマチックで。最も第4の説を唱える親友がいるので一応紹介しとく。彼によれば、「初代は仕事せずに趣味や遊びに浪費し、サラ金地獄から脱出するために松坂城 築城の人足として日銭を稼ぎに来た、オマエ見とったらすぐ分かる。」やて。とにかく松坂へ移った事は確かで、人生の大きな転機やったと思う。それで中町(現住所)に住み、せっせと菓子作りに精を出したんやなぁ。この時代から宝暦(1750年頃)までは資料不足なんで、松坂を中心にお話します。あっ!それから、そろそろ初代さんの時代も終わるんで、13代目の非常にユニークな方が出てくるまで(2代〜12代までを)、まとめて「ご先祖さん」と表現致します。さて、第4話の予告やけど、松坂には謎が多い。たとえば「四五百の森に築城」と書いたけど、その時参宮道まで路線変更して、わざと城の近くを通る様にしとる。街道に近いと言う事は、外から持ち込まれた疫病や流行病に感染する危険性や行商人に化けた忍者・スパイ・隠密剣士(古いなぁ)に偵察される可能性が高いんで、大体は離れたとこへ築城すんのになぁ。てな事で私なりの解釈で謎に迫ろう。
第4話「MUSYAKAKUSHI」
城と街道が近い事は戦略的には不利やけど、経済面や情報収集は有利な事が多い。それと市内のクランク状に曲がった道は「隅違い」とか「武者隠し」とかゆうて、敵の騎馬隊が城へ直進するスピードを落としたり、味方が身を隠しながら応戦したりする為と言われとる。けどそれやったら、城から放射線状に伸びた(つまり城に直進できる)道に「武者隠し」が無くて、それらを結ぶ道、特にお伊勢さんへの参宮道が「武者隠し」だらけなのはなんでやろ。その他にも神社仏閣の配置の仕方など戦略的には不利な事が多いけど、これを商売あるいは街づくりと言う視点から見ると実に巧みな構造になっとる。
400年前の参宮道をイメージしてほしい。「おかげ参り」が流行した時、1年間に日本の総人口の約1割が松坂を通過しとる。疲れ切った旅人が松坂の入り口に立ったとき、参宮道がまっすぐで見通しが良ければ疲れは倍増し、近くの旅篭で宿泊し、翌朝まっしぐらに伊勢に向かうやろ。松坂への経済効果は期待できへん。けど700m以上連続した「武者隠し」は見通しを悪くし、片側にずらりと並んだ看板は数10m先の遊郭や団子屋の情報を与え、反対側の看板は旅人が一歩進むたびに新たな発見を与える。かくして、東西の旅人は松坂で合流・交流・回遊を繰り返し、金銭と新鮮な東西の情報を与え続けたんや。東西の旅人の口コミによる情報は、江戸でこんな芝居が受けているとかこんな着物が流行っているとかで、文化・芸能・経済・政治のあらゆる方面の庶民情報だったと思う。つまり松坂は東西の情報のるつぼで、これを有効活用した三井家・国分家(缶詰めのKKK)らの商人は、後に「松坂商人」と言われる大富豪に成長したんやなぁ。いきなりクイズ「後に両替商の三井家と乾物屋の越後屋とが日本で始めて作った百貨店の名前は?」(屋号の合体です、解るでしょう)
さて「武者隠し」に話を戻すと、見通しを悪くする事により精神的疲労感を軽減する手法はここだけや無い、近年ではIBM本社の長い廊下に使われ話題を呼んだ事も有るんや。松坂の参宮道とIBMの廊下が同じ構造をしとるなんて面白いやんか。それとこの参宮道には商業ポテンシャルの高い交差点が2箇所あるんや。1つは関西方面の旅人が通る紀伊熊野街道との交点で、氏郷さんは連れてきた日野系の商人をここに配置し実質的な利益を上げさせた。もうひとつはお城の大手門通りとの交点、ここには地元(主に射和系)の豪商を配置し、お城と取引をさせ名を取らせた。つまり両商人に名と実を与え、その上信仰する神社も別にして競わせたんや。せやから松坂の神輿はけんか神輿なんや。もうひとつ感心するインフラは「背割り排水」で、石垣で作られた排水路が、年に一回どぶ掃除するだけで今も十分機能してる。電気もポンプも使わずに自然の勾配だけで流れとんのやから、よっぽど設計がしっかりしとったんやろなぁ。最近やっと下水道の工事が始まったけど、エネルギーの問題で21世紀には自然勾配方式にもどるような気がするなぁ。すべて考慮の上でこの様な街づくりをしたんやったら、もしかしたら氏郷さんは未来人やったかもしれん。きっとタイムマシンでやって来たんや。この時代の風景に溶け込むように天守閣型のマシンで。せやから松坂城には天守閣が無いんや。焼け落ちたらしいけど、そう見せかけたんやろぅ。なんかSF小説が作れそうやなぁ・・・・。あかんあかん、寄り道しすぎや。次回は、宝暦に生きた13代目のご先祖さんに登場してもらうわ。それとクイズの答えは「三越」でした。
第5話「HOUREKI」宝暦 ―*もどる*―