いざ鎌倉 かまくらみちを行く
横浜(小菅ヶ谷)〜鎌倉(小袋谷)〜北鎌倉駅



 つん の住む辺りは、古くは相模国は鎌倉郡の一角にあり、地理的に現在の鎌倉市の至近にあるため、歴史的な色々なものが残されています。.
 近くには鎌倉に通ずる歴史の道が何本も通っています。源頼朝が幕府を開いた時に造った鎌倉道の「中の道」「下の道」。幕府第三代執権の北条泰時が造った中の道の新道にあたる「山の内道」などです。
 これらの道は、鎌倉時代以降も長く利用されてきた。江戸時代には庚申塔や馬頭観音など数多くの石仏が鎌倉道近くに祀られ、鎌倉道が交差する所には、道案内の目的で道標なども立てられました。
 今回は つん が鎌倉道周辺を散策し、これらの石仏や道標を訪ね歩いてみた時のことを書いてみました。
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  師走に入った休日、家近くを通る「下の道」から鎌倉方向に散策してみました。
 先ずは、小菅ヶ谷の春日神社そばにある延命地蔵へ向います。
 小菅ヶ谷幼稚園前交差点にある、お堂の中に奉られたお地蔵さん。
 地蔵の後ろの石碑には正保四年(1647年)との年号がある。
 
延命地蔵(いぼとり地蔵)

  今から360年も前に信奉された、お地蔵さんなのである。なお、このお地蔵さん「いぼとり地蔵」ともよばれ、神奈川県下で2番目に古い石地蔵なのだそうだ。
 さて、先程右折した丁字路まで戻って、坂を下り幅広の大通りに出た。
( この坂「神子坂」とも云われ、春日神社の巫女が通った坂であることが語源ともいわれている )
 大通りは桂町戸塚遠藤線だ。横断歩道を渡ると左手にお寺がある。
 
長光寺山門
 
 
 山門には「菅谷山」と書かれた扁額が掲げられていた。この寺が徳川家康ゆかりの薬師如来が奉られている長光寺だ。
 西暦1226年創建のこの寺。石段右には「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる樹齢300年のクロガネモチの古木が観える。
 山門を潜り境内に御邪魔すれば、本堂左手の墓所入口には、多数の石仏群も観られます。
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ぐみやうし道の道標
  長光寺〜本郷台小〜本郷台滝ノ前公園と歩き、小道になった所で大きな道を横断する。この小道がかっての鎌倉道(下ノ道)だ。
 道は鎌倉方面から見ると上り坂となっており、追上と呼ばれている。
 鷹狩りに来た徳川家康が長光寺の境内にあるこの坂を上るのを、家来たちが追ってきて警護したことに因んだ地名らしい。
 追上の坂を下り、下水処理場のある通りとの分岐にでた。
 やはり、この坂道は昔からある道なのである。分岐の角地に立つ民家を見てビックリ。立派な長屋門を改装され、現在も長屋門内で生活されている様なのである。
 
 左上の写真は、この鎌倉古道の分岐にあった道標である。道標に刻まれた文字は、風化が進み読みにくくなっているが、「従是ぐみやうし道」だろうか。

 道なりにしばらく進むと、小菅ヶ谷1,2丁目の境界の所で根岸線のガード下を潜る。
     
   
双体道祖神さん

  狭くなった道の右手に、赤い鳥居と丸彫りのお地蔵さん。二体のお地蔵さんの向って右側には二つの庚申塔。左側には馬頭観音が並んでいます。

          (地蔵  宝永元年)
          (馬頭観音  文久3年)
          (庚申塔  明和元年、蔓延元年)
 
 更に、この赤い鳥居を潜り左手を観れば、双体道祖神さんが、ちょこんと祀られていました。
  再び幅広になった道を進み、西本郷小前を通過する。
 しばらく住宅街を歩いてゆくと、前方に横断歩道と交差点の信号が見える。
 いたち川に架かる新橋(にいばし)、手前の交差点に到着です。
 橋の袂の信号脇には、延命地蔵が祀られていました。
 
 
 
いたち川・新橋の延命地蔵
  帽子に赤いよだれ掛けを着けたお地蔵さんです。ここにもお花が手向けられていました。

 延命地蔵さんの脇には道標がありました。歩いてきた道に向って、左面に「従是とつか道」右面に「従是ぐみやうじ道」と刻んであります。
 やはり、今歩いてきた道が鎌倉古道(下ノ道)の名残りで間違いないようです。
 江戸時代には生活の道として利用され、当時の物見遊山の地であった鎌倉への道として、また、観音信仰の地、弘明寺への道として旅人、馬などが行き交っていたのでしょう。なお、とつか道は江戸時代に整備された道で、戸塚で東海道に繋がっている訳です。
 (道標  元禄四年)
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左面(従是とつか道)
 
右面(従是ぐみやうじ道)

 因みに、ここより弘明寺方向に向かうときは「ぐみやうじ道」、同じ道を、鎌倉方向に向かうときは「かまくらみち」である。同様に、ここより戸塚方向に向うときは「とつかみち」、同じ道を、鎌倉方向に向かうときは「かまくらみち」という訳です。

 二つの鎌倉道の合流(戸塚及び弘明寺方面の分岐)点にあたる新橋を、鎌倉方向に渡ります。
  
  ところで今、新橋で渡った「いたち川」は鎌倉時代に兼好法師も詠っています。
 【 かにわが たちにしひより りのきて ぜだにねやを らわざるらん 】

 橋を渡れば直ぐに、いつも混雑の笠間十字路に架かる歩道橋が目の前です。

歩道橋を「いたち川」方向から見る
 
 
不動道標
  歩道橋で環状四号線を渡り、笠間側の鎌倉道に入ります。
 歩道橋を降り、しばらく歩いて畳屋さんの前を過ぎると左側に写真のお不動さんがあるのに気がつきました。
 今泉村不動と銘があります。この場所は笠間5丁目の法安寺への入口にあたり、鎌倉側の岩瀬から今泉へ抜ける道の入口にもあたります。
 お不動さんは鎌倉道の進行方向に対峙して祀られていることから、昔はこの前を通って今泉不動尊(称名寺)へ参拝に向ったのでしょう。いわば、お不動さんへの道しるべと言ったところでしょうか。
(不動道標  寛永七年)

 しばらく行くと、今度は道の右側に、通りに向って何体かの庚申さんが並んでいます。庚申塔の傍らには、庚申塔のいわれの書かれた掲示板があります。
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笠間の庚申塔
 

  説明によれば、この辺りがかつては笠間の集落の出入り口だったそうで、魔除け、厄除けとして祀られたとの記載がありました。三猿のいわれも書いてありましたよ。
 (庚申塔  延宝八年、正徳八年、文政六年、蔓延元年など)
  笠間の庚申塔の先で、道路の左手に青木神社の案内があった。
 左折すると笠間の鎮守さま、青木神社の長い階段がみえます。
 この階段100段ほどもあり、往復するのに一汗かきました。

 鎌倉道はこの青木神社と、隣の資生堂・鎌倉工場との間で、現在の横浜、鎌倉の市境界を越え鎌倉市側へ入ります。
 
青木神社の長い階段をみる

 資生堂・鎌倉工場の前を通り、道なりに進みます。今泉不動尊の中を水源とする、砂押川を渡り更に行くと、様変わりした街並みとなります。
 
資生堂・鎌倉工場前を通過

女子大前より左に芸術館〜三越
 
 大船駅前を真っ直ぐ進んだ所に、かって在った松竹大船撮影所は撤去され、跡地は再開発されています。
 松竹前交差点の左に大型スーパーの店舗、右側に三越を挟んで、鎌倉芸術館となっている。そして、旧大船撮影所跡地の多くは、鎌倉女子大の敷地となっているのである。
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    様変わりした街並を貫け、三菱電機の脇を通り交差点にでた。
 交差点前のバス停留所名は離山だった。
 交差点を左折すれば、古刹の常楽寺も近いがここは直進します。
 先へ進むと左手に郵便局があり、その斜め向かいの分岐に、お堂を覆うテント小屋がみえます。
 石柱があり、離山富士見地蔵尊の銘が大きく彫られていました。

 名前の様に、このお地蔵さん昔は山の上に祀られていたものが、今ではこの場所に移され祀られているそうです。(石柱の右面に地蔵さんのいわれが刻まれていました)
 「お地蔵さん、山の上に祀られていた時は、名前の様に富士山を見て居られていたのでしょうか?」

 ところで、石柱の向って左面に旧鎌倉街道中ノ道とありましたがどこで下の道から中の道になったのか分かりませんでした。あとで、調べてみる必要がありますね。
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離山のお地蔵さん
 

 鎌倉道のお地蔵さん、どこでも大事にされているようですね。なお、右上の写真は地蔵さんの祀られたお堂の裏手にあった馬頭観音ほかの石仏達です。初冬の陽射しを浴びて、暖かそうでしたよ。
 それから、お地蔵さんのお堂を覆う白いテント。Googleマップで上空からハッキリと確認できますね。この、Googleマップの「地図+写真」(航空写真に道路名を表示したもの)は色々と役立ちますね。)
  
 さて、郵便局の先で、左折し斜めに進む道を行きます。
 バス通りとの交叉後は、大船から小袋谷に入ります。
 更に進めば、左手に竹薮と黄葉した銀杏の木が見えました。成福寺(じょうふくじ)です。
 つん の好きな小津作品の多くに出演されていた、名優、笠智衆さんもここに永眠されています。

成福寺山門

踏切を横断して
 茅葺の山門は横須賀線の車窓からも、よく見えますよね。

 いよいよ鎌倉道の起点も近くなってきました。
 成福寺の山門前は横須賀線の線路です。
 成福寺脇を通る鎌倉道を、踏切を横断して先に進みます。

 しばらく歩いて行くと、右手の小袋谷公会堂と書かれた建物の前で、何か配布しているようでした。よくみると、殺鼠剤などでした。「あぁ〜師走なんだなぁ〜」

 道は直ぐに車の行き交う県道302号と合流します。そして、この交差点の所に小川が流れています。実はこの地点が「かまくらみち」(鎌倉古道)の起点なのです。

観音道標

せゐ志くはし道標

 交差点信号の手前右側に風化の進んだ観音道標が、フェンスに隔離され在りました。近づいて確認できず。また、風化のため道標に刻まれた銘はよく判読できませんでした。
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 しかし、交差点の信号脇にある、もう一つの道標はハッキリと銘の確認ができました。
 「せゐ志くはし」です。現在名が水堰橋(すいせきばし)なので(せいしくはし)⇒(すいせきばし)は呼び名が訛ったものでしょう。
 数百年前には、頼朝を首領とする東国武士団が、この川岸に馬の轡を揃えていたのでしょうか。

水堰橋 交差点

北鎌倉駅
 昔、頼朝の軍勢が、鎌倉に出入りするときは、必ずここで勢揃いをして隊列を整えてから歩を進めたそうです。
 もしかすると、「せゐ志くはし」の(せゐ志く)は隊列を整えるための掛け声「静粛 !!」だったのではないか?

 遥か昔に思いを巡らし、考えごとをしながら歩いていたら、いつのまにか北鎌倉駅に到着しました。
今日は休日、駅前は観光の人達でいっぱいです。駅舎越しに観える北鎌倉の山なみも、そろそろ紅葉の見頃になってきたようです。

 9時前に家を出て、のんびり歩いた師走の散策。家に帰り着いたとき、丁度12時でした。
 
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   つんの
とぼとぼ