日本の手技「白石紙布」とは

日本人の知恵と技の結晶
白石紙布の技法を
今に伝え、後世に残すために織り続ける

こだわり「手漉き和紙を使って和紙糸を作り、高機で手織ります。」

和紙屋さんに、春先に和紙を200~300枚(一舟)の単位で和紙の注文をします。

和紙屋さんは、それを聞いて植え付けをし、冬に刈り取り、年が明けるとすぐに神様に祈りをささげて紙漉きを始めます。

手元に届くのは1年先です。漉きあがった紙は、3~5年寝かせます。漉いたばかりの紙を2㎜に裁断すると張り付いてしまい、作業が大変になりますので、しばらく寝かせて枯らします。

その後、和紙糸を作ります。着尺の糸は1反分3~4か月かかります。機にかけて手織るのに1か月合計で4~5か月、1年2~3反です。大変な仕事だと思います。


こだわり「基本は白いまま使う。木染め和紙を使用する。」

『白石紙布』は、基本たて糸には、座繰りの手引き糸が使われています。江戸時代ですから。

草木染めの経糸は、藍染めのもののほかに、茶系、ネズ系もあります。赤を染めることができるのは、1軒だけだったと記載がありました。

よこ糸は、和紙糸を白いまま使い、仕上げの時に染料の藍色などで藍に染まるものが多いです。なので私も白いまま織ることが多いです。

奈良吉野の草木染和紙を使うこともあります。草木染めがとても上手なので自分で染めるより『餅は餅屋』と思い購入します。高いですが、自分で染めるよりずっとと安いです。


 

『白石紙布』のこと

『白石紙布の起源』は?
関ケ原の合戦、大坂夏の陣の際に、仙台藩家老の白石藩主片倉公が捕らえた武士や忍者が『紙布』を着用してることに、仙台藩主伊達政宗が目をつけ、いち早く召し抱え、武具として使う目的で庇護して、仙台藩家老の白石藩主片倉公に命じ、作り上げたものが、『白石紙布』です。
『紙布』は、真田幸村が九度山蟄居で困窮の中、合戦に駆け付けるために和紙で作り出した『武具』の一つです。『武具』であったため、手法は秘密にされ、10工程ほどに分け作業は分業としました。盗み出しても作れないようにという事です。
九度山には、高野紙がありました。この紙の半端ものを仕入れ、使ったものと思います。家中の者が、紙漉きに行っていたのかも知れませんね。漆を塗った鎧や兜、鎖かたびらのように編まれた肌着(ハジキ)、そして衣や袴、足袋、わらじなどがありました
真田の家臣を中心に武士が家禄をもらい威信をかけて織った和紙の布が、『白石紙布』です。全国的に知られ、徳川や宮家に珍重されたので仙台藩の財源の一つになりました。
武具として発達したために秘法となり、文書になったものが殆ど見受けられません。宮家や徳川に献上された『高級白石紙布』は、江戸中期に完成したと言われています
江戸後期に珍重され、普及した、たて糸に絹・よこ糸に絹と和紙糸を使った『紅織りの絹紙布』と、たて糸に絹、よこ糸に強撚糸の和紙糸を使った『縮み紙布』『縮緬紙布』が究極の『紙布』かと思います。池田は『紙布紅梅』『縮み紙布』『縮緬紙布』までの再現に成功しました。『紙布紅梅』を織るのは私だけのようです。その理由は、着物に使える座繰り糸を引き、上代お召用の糸のように生絹糸を仕上げることができないためと思われます。また、『縮緬・縮み』は、強撚の和紙糸を作り、織ったものを縮ませるという技術が大変難しいからです。江戸時代レベルの縮緬は、多分ですが、現在は池田以外に織れる人はいないかと思います。
『白石紙布』の復興
片倉信光氏・佐藤忠太郎氏・遠藤忠雄氏が中心となり、昭和16年に復活し、皇太子(現上皇)に献上されました。貞明皇后がお買い上げになり、「紙布でなくてはならぬものがある」と言わしめた『白石紙布』は、当時は、明治の古老に手ほどきを受けるのみで、現在では知る人も殆どなく『白石紙布』を織るのは至難の業となっています。江戸・明治期に広く流通した『紅梅織り絹紙布』は、2019.6王子『紙の博物館』で開催された『白石和紙・紙衣』展で始めて周知されました。池田の織る紙布のほとんどは、『紅梅織絹紙布』です。
一般的に言われる各地の『紙布』を織る人は、多数いらっしゃいますが、現在、『白石紙布』の技法を受け継いでいる人は10人に満たないと思われます。『白石紙布』とは、一般的に『絹紙布』です。
紙布の特徴
『白石紙布』は、武士の威信をかけて作られた織物のせいか、織りのデパートと言われる程、その種類は多く、技術に優れています。
その着心地は、、汗をよく吸い、乾く時に気化熱で体感として涼しく、蒸れることがありません。
また、静電気も起きず、洗濯機で洗えるほど強く、着れば着るほど肌触りが良くなります。紫外線を通さず、夏は涼しく、冬は暖かい布です。
その起源は、四国徳島に古来より伝わり、現在は織れる人のいない穀(カジ)の繊維で織られていた『白妙』や『繪服(にぎたえ)』と思われます。和紙になる前の原料である靭皮の繊維で織られた布です。この繊維を糸にして織るのはとても大変で、古代のような布に仕上げるのは、既に江戸時代には難しかったと思われます。その時に真田幸村が目をつけたのが、真田紐などを織る時に、織り始めに使う和紙の紙縒りだったのでしょう。そしていろいろな武具があみ出されました。
その中で、仙台藩を潤すことになったのが『白石紙布』です。
工芸に秀でた真田一族は、その他にも座繰り糸で織る複雑な紋織りも残しています。『白石紙布』よりも作るのが容易で、衣料として喜ばれたのでしょう。
池田は幸いにも、真田が残した複雑な紋織りの伝書(特位と書かれている複雑な紋織り。)を手に入れました。2024年からはその紋織りの再現を始める予定で、『紙布』の注文を受け付けていません。伝書の解読は、既に済んでいるので、あとは織るのみです。2023年に70才になりましたので、のんびりと老後の楽しみにやって行こうと思っています。
紙布に使われる『楮』のこと
楮・・・和紙屋さんに、穀(かじ)の木で漉いた和紙が欲しいというと、「えっ?」と言われてしまいます。
  うちの和紙は、自家栽培の楮だとか、赤楮、青楮、那須楮、山楮などとおっしゃいます。
  特に昨今は、版画用というか、字を書くため印刷するための用途が大きいので、俗に日本
  で一番強くて良い紙は『烏山和紙』と言われたり、その原料の那須楮の方が、四国の青楮
  より良いと言われたり。また、和紙屋さんの多くが、栃木の那須楮を購入していると聞きます。

  繊維が長く、漉くと少しモワッとしていて、薄くしなやかで、柔らかい風合いの和紙。
 清少納言が称えた『みちのく紙』です。
  『白石紙布』に向く和紙の原料は、那須楮とは少し違うようです。
  白石では、穀(かじ)の木のぼうしかぶり、虎斑(とらふ)と言われるものを使用しています。
この『穀(かじ)の木』は何処からきて白石で和紙として漉かれるようになったのか?
何故、『紙布』に使われたのか? 気にになって調べました。
そうしたら、日本建国に寄与したとされる『忌部氏』に行きつきました。
忌部一族は、日本全国を開拓して回り、農業・養蚕・建築・鍛冶・織物・音楽などを伝えた祭祀民族、且つ海洋民族であり、産業技術集団です。もしかしたら、真田一族も辿れば忌部一族なのかもしれません。
忌部氏は穀(かじ)の繊維で、木綿(ゆう)を作っています。木綿(ゆう)は正倉院に保管されています。
穀(かじ)で織られた上等のものが木綿(ゆふ)、白妙ですね。粗いものは太布(たふ)という分類でしょうか。
祭祀に当たっては、大麻(青幣アオニキテ)、穀(白幣シロニキテ)を使います。
本来それらで作られた衣が、『麁服(あらたえ)』『繪服(にぎたえ)』です。
天皇が、延喜式で『新嘗祭に於いて、今後は秦氏のもたらした絹を繪服(にぎたえ)とする』と決める前迄は。
四国祖谷渓には今も太布が残り、天皇即位に当たっては、忌部の末裔の三木氏が麁服(あらたえ)を作ってお納めしています。

忌部氏は、はるか昔、阿波より紀伊、静岡掛川、千葉立山(安房)、東京湾を通って神奈川川崎を抜け、私の住む西多摩にも痕跡を多く残しています。
長野の諏訪神社には、秋葉街道や天竜川を上っていったようです。
山の尾根伝いに長野から群馬、福島、山形、新潟へと、その道筋には樹皮で織られたり、編まれたりしたシナ布や藤布、籠、藤縄やシナ縄が残されています。藤縄は、奈良田の博物館で見ることができます。地機や楮布も。奈良田の楮布や藤布は、孝謙天皇が8年に渡る奈良田湯治で、その地に伝えました。
山形にも新潟にも『紙布』があります。シナ布は、縄文のころからあったのかもしれません。
弥生時代に農耕を拒んだ種族が、出雲の神により農耕を受け入れた頃からかもしれません。
弥生中期の長野の遺跡からは、靭皮の繊維で織られた畝織りの炭化した布が発見されています。

この頃、忌部の人々は、全国に麻、穀、粟などを植え、農耕やいろいろな技術を教え、日本語の統一に寄与しました。  
そして、忌部研究家の林博章氏によると、忌部氏は長野諏訪神社に穀を植えています。
片倉氏は、山形県米沢市川西の八幡神社の宮司で、元は諏訪神社の下社の宮司の家と言うことです。
片倉家も真田一族も長野出身で、古い家紋は同じだったそうです。そのような関係から諏訪の『穀(かじ)』を『紙布』にしたのではないでしょうか。
江戸時代に入って、家康の命令で歩留まりの良い虎斑カジを全国的に使うようになり、白石でも虎斑を育て使いました。
『紙布』の起源は?
関川原で『紙布』を武士や忍者が着用していたなら、それ以前に有った可能性もあります。少なくとも大坂夏の陣に駆けつけた真田の武士たちが身につけていたのは確実です。紙布は、平安以前より阿波や讃岐、紀伊に有ったのかもしれません。
蘇州大学で出版された染織の本に、2世紀ごろ中國江南で穀の繊維を布にしていた事が書かれています。『穀(カジ)』は、かつて衣類の原料として、中国江南から日本(多分島根県出雲のオゲツ達が祭祀に使うために)に持ち込まれ、それが時を経て『紙布』になったということですね。だから、『紙の原料の楮』より『木綿(ゆふ)の原料の穀(カジ)』が『紙布』に向いていると言うことなのでしょう。

日本にしかない伝統の技術を未来に継承することと共に、『白石紙布』の着心地のよさを知って頂きたく織り続けています。
そして、日本の良い和紙を残すためにも『白石紙布』制作者を増やしたいと願っています。