香のこと

 皆様、いつもお世話になります。年が明けてあっという間に成人式も終わりました。香も日本髪を結って嬉しそうに成人式に行ったこと思い出します。もうあれから20年にもなるのかと思うと感慨もひとしおです。昨年は私自身もいろんなことがありましたが、希望に燃えて新しい年を迎えました。内外ともに不安定な時代ですが、今年もよろしくお願いします。TOPICSにも紹介しましたが、XJapanのグッズよろしければ見に来てください。
皆様方のご健康をお祈り申し上げます。
  又、わが家にも、事務局の方にもお越しください。お待ちしております。
 

2005年4月16日。最愛の娘、香は遠くへ逝ってしまいました。いまだに残念でたまりませんが、こうして皆様からの激励を受け、私たちは幸福者であると実感しています。

 お別れ会に参加されなかった方はじめ、今回リサイタルを行っていただくことを契機に、香が亡くなるまでの経緯を知らせてはとの提案を受け、言葉や習慣の違う異国でのあまりの出来事に、私たちも事実誤認があるかもしれませんが、このホームページをお借りして、お話しさせていただきます。

香は、農業経営学科でグリーンツーリズムや園芸療法などを学び、大学院修士課程を修了し、医療環境事業の会社へ研究員として就職をしました。

同時に大学時代から興味のあった建築の勉強も通信制の大学ではじめていました。

そして一度は海外で暮らすという夢を持っていました。

そんな折、メキシコで画廊のお手伝いをさせていただくことになりました。

敬愛する建築家(ルイス・バルガン)がメキシコの出身ということもあり、まるで、お隣の県へ行くような気軽さで香は2003年春、メキシコのベラクルス州に1年間の予定で、旅立ちました。

メールで現地での暮らしぶりをよく伝えてきました。着いた翌日には市場のおばさんたちとも親しくなったとか、街の様子や映画が安くて週に何度も通うとか、遺跡巡りにサルサにと充実した生活を送っていたようです。

メキシコでの生活に慣れてきた頃、画廊のお手伝いをする傍ら、ベラクルス州立大学の日本語講座の講師もさせていただくようになりました。

当初の予定を1年延長してその後講師専業になりました。

2004年春にメキシコの全州から予選で勝ち抜いた方の日本語弁論大会があり、教え子たちが、入賞をしたものの惜しくも優勝を取り逃がしたと悔しがっておりました。

年齢が近いせいもあってか学生たちと友人のように親しくさせてもらって、一緒に遊びに行ったり、日本語以外にも 茶道、華道、習字、空手や折り紙などと自分の特技を生かして日本のことを皆さんに教えていたようです。

2004年夏にはメキシコの学生さんを日本へ連れ戻ったりもしました。

講師生活もとても楽しく、又勉強になったようです。

『私先生、案外むいているかもわからん』といっていました。
 2004年、年末に突然連絡があり、2005年1月5日再び帰国しました。これが彼女との最後の正月になるとは、当時まったく想像もしていませんでした。   

春の日本語弁論大会を目指して、今度は優勝して日本へ戻ってくると2月8日、『ちょっと早いけど』とバレンタインのチョコを渡して彼女はメキシコへと起ちました。 

2月の末、盲腸の手術をするかもしれないと。電話がありました。
 数日後退院をしたの知らせに安堵していました。が、しばらくして『お腹が痛いのが治らない』と連絡がありました。
 彼女はこども時代から病気とはまったく縁遠い人で、高校時代も皆勤賞を受けたほどなので、こちらも、安易に考えておりました。
 腹痛をかかえながらも、目前に迫った日本語弁論大会に向けて、授業を続けていたのでしょうか。しかし事態は相当悪かったようで、3月に入り、住んでいたハラパという町から6時間近くかけてメキシコシティの病院に搬送されました。

そのときは、もう危険な状態にあったようです。
 現地から連絡があり、『両親はすぐにメキシコに来なさい』と。

ともかく母親だけでもと3月9日、メキシコに飛び立ちました。
 母親の顔を見て安堵したのか、緊急手術が功を奏したのか、ともかく、危篤状態からは脱したようです。 
 体の中はすでにぼろぼろの状態だったようですが心は元気でした。医師団の方々も奇跡を起こす子だと驚異の目で見ていたようです。
 
 強力な薬で幻覚状態になったこともありました。
 集中治療室で会話ができないときは筆談で、それもかなわないときは、指で文字を指しながらも意思を表していました。
 
 その頃に着たFAX(A4用紙に元気いっぱいの大きな字で)がこれです。

(リスというのは我が家での彼女の愛称です。)

 容態は一歩前進二歩後退という状態で、とうとうわたしもメキシコに行くことになりました。わたしが着いた当日3度目の手術が行われました。その日は手術をする体力がなく、あきらめかけていたところ、突然数値が安定し、夜の10時から明け方まで行われました。翌日は会話もできるようになり、一瞬の平和でした。 

が3日後、突然心停止してしまいました。医師団の懸命の蘇生術により、息を吹き返し、またまた奇跡を起こしたと病院中でも、大きな話題になったようです。彼女が入院していたスペイン病院は、メキシコで5本の指に入るところです。

日本からは、叔母や叔父もかけつけてくれました。現地では日本の政府機関の方々、現地法人の方、日系人の方だけでなく、多くのメキシコの方々から絶大なる応援をいただきました。もちろん日本国内でも、支援の輪が広がり、ものすごく勇気を与えていただいたものです。

 そうこうするうちに、香の容態も悪いながらも安定状態になりつつありました。何とか日本に連れて帰れないかということになり、航空会社との交渉、医師との相談と前向きになることができました。

そして、多くの方々のご支援により、4月15日(現地時間)メキシコをたつことができたのです。 飛行機に酸素ボンベを積み込み臨時集中治療センターのようにしていただき、病院からは最高のスタッフ(移送のスペシャリスト・集中治療室のボス・入院受け入れ時から関わってくださった日系人の医師)3人の素晴らしい医師を揃えていただき、帰国の途に着いたのでした。

 同乗した母親の話によると、機内で香はたくさん話をしたようです。
 そして『お母さん、私は幸福者やなー、治ったらもっと人の役にたたなあかんなー』といっていたそうです。とても元気でもうこれで一安心とだれもが思いました。

 定刻よりは約2時間遅れで成田空港に着きましたが、飛行機から直接、待ち構えていた搬送車で上野にある病院へと向かいました。車中でも少し疲れた様子はあったものの、会話をしておりました。しかし病院に着く5分ほど前頃からスペイン語、英語、日本語でなにやらうわごとを言いはじめました。ともかく病院に入り待ち構えていただいていた日本の医師団による治療が始まると思っておりました。

アーこれで、何とかなると。

 しかし10分もたたぬうちに、医師から呼ばれ、心停止したと。その後懸命に蘇生を試みていただいたのですが、還らぬ人になってしまいました。

3時間だけ日本にいました。

 この間、皆様には本当にお世話になりました。現地では莫大な医療費がかかり、帰国に際しても多くの費用がかかりましたが、ともかく日本の地に帰り着いただけでも満足しないといけないのかもわかりません。

 支援の会を立ち上げていただき、帰国を待ち望んでいただいた方々の期待に沿うことができませんでした。しかしその後も、素晴らしい心のこもった温かいお別れ会をしていただいたり、励ましに来て頂いたりと、今尚変わらぬご支援を頂戴しております。

 こんなにも多くの方々からご支援をいただき、本当に感謝にたえぬ思いでおります。

また、1周忌にあたる4月16日には、小学校時代からの親友のキオザイラーさんが、お母様の和子さんと一緒に、リサイタルを開いていただくことになりました。

 この場で、表すことを躊躇しておりましたが、いま少し香のことを知りたいとの声を寄せていただきましたので、書き尽くせない思いはありますが、ご報告方々お知らせすることにいたしました。

 皆様、ありがとうございます。私たちは幸福ものです。

黒柳史朗・敬子

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