鳥籠の王女とネズミの太陽
9.禁忌の塔

 伸ばせ。繋げよ。地上へと。
 我らがいつか日の元に、顔を出す日が来るまで、
 禁忌の塔を、伸ばしやれ。

 子守唄代わりに歌っていたのは、おれを育ててくれた教会のばあちゃんだった。
 その昔、地上では遥か天空の高みを目指して高い高い塔を建てたのだそうだ。どこまでもどこまでも伸ばして、でも、天に辿りつく前にその塔はバランスを崩して倒れてしまった。塔の住人達もろとも。
 この地下の世界は、その塔に似ているのだという。
 地下五層まで掘り進め、普通なら人口が増えればさらに地下へと延伸を試みるだろうが、上の奴らは違う。いつか地上の光を見たいと願っているのはおれだけじゃない。地下に暮らす奴らなら、皆、地上の光に憧れる。目が潰れてもいいから、一度でいいから太陽の光を見てみたいと憧れている。
 誰も口にはしなかったけれど。
 地上の話は禁忌だ。
 この世界の上に、さらに世界が広がっているなんて、夢物語なのだ。信じてはいけない。
 地上。
 太陽。
 その言葉を口にするだけでも、この世界では大罪に値する。
 公的に罰されることはなくても、社会的には抹殺される。
 でも、馬鹿な奴はおれだけじゃなくて、最下層に落されたご先祖様たちの中には、そういう思想犯もいたのだとか。
 だから、おれが憧れて手を伸ばしても仕方がなかったのだ。おれにはそういう血が流れているのだから。
 幼い頃おれを育ててくれたばあちゃんはもういないが、教会は朽ちながらもまだ白亜の塔とその上に掲げられた十字架を維持していた。壊れかけた柵を乗り越えて、草ぼーぼーの庭を突っ切り、半ば歪んで灰色のネズミが出入りする隙間まで開いた扉を開けると、薄暗い玄関から埃と黴のにおいが湿り気を帯びて体内に入り込んできた。そのにおいからして懐かしい。昔からここは黴臭くて埃っぽくて、古びたにおいがしみついていた。懐中電灯が無くても、奥にある階段の手摺や聖堂の扉、牧師館への扉が見える。目の前にあるのは静寂と薄闇だけなのに、ともすれば牧師館の方から、ばあちゃんが困ったように笑いながら出迎えてくれるのが見えるようだ。
『お帰り、ソル。今日は怪我しなかったかい?』
 そう言いながらばあちゃんは素早くおれの全身に視線を走らせる。どこも怪我がないと分かればほっとしたように小さく息をつき、廃墟から転げ落ちて捻挫した腕を庇ってばれないようにしていたら、烈火のごとく叱られた。今思い出しても、あの時のばあちゃんほど怖いものはなかった。ネコと喧嘩して、頬や額に擦り傷を作った時は、『馬鹿だねぇ』と笑って済ませられたものなのに。
 今なら、どうしてばあちゃんがあの時あれほど怒り狂ったのか分かる。おれが腕を捻挫した廃墟は、地上へのエレベーターへの入口だった。
 一歩間違えば、おれは子どもながらに地上に出ることさえできたのだ。
 その廃墟は、今カラスの研究所の一部となっていて、おれの住処の近くでもある。この教会からもそう遠く離れてはいないから、小さい頃からネコやカラス、ウサギとかくれんぼなどをする遊び場となっていた場所だった。
 だからこそ、ばあちゃんは気が気ではなかったのだろう。
 いつかこの子たちが地上への扉を開けてしまうのではないかと、心配でたまらなかったに違いない。
 この教会は、最下層の見張り番が置かれた場所だったのだ。
 ばあちゃんの親もご先祖様も、みんな教会で牧師やらなんやらをしながら、最下層の人たちの懺悔を聞いたり、喧嘩の仲裁をしたり、信仰を集めたりしながら、その実、人々の心に抱えた秘密の中に地上への憧れが助長されるものが含まれていないか、地上はもちろん、上層に行きたいと人々が徒党を組みはじめないか、そういう反乱分子を監視し、場合によっては人心を掌握して向上心を奪い取り神に依存させ、地上や上層への憧れを封じ込める役割を果たしていた。
 でも、ばあちゃんには子供がいなかった。ばあちゃんは結婚もしていなかった。一人で細々と教会を守るようになり、孤児たちを拾い集めて養い、それとともに監視業務はおろそかになっていった。
 ばあちゃんは、殺されていた。
 確かこの辺、玄関ホールと聖堂の入口との間で、銃で撃たれて大量に血を流しながら倒れていた。
 ばあちゃんは、おれとカラスとネコとウサギが上層部の育成機関に連れて行かれるのを阻もうとしたらしい。以前から何度もばあちゃんには上層部からおれ達を上に寄越せと言われていたらしいが、ずっと拒み続けた末の結果だった。
 おれたちがばあちゃんに拾われて育てられていたのは、何のことはない。戸籍もない、盗みと喧嘩とすばしっこさだけが取り柄のおれたちを、体よくスパイやら公安やら、家族や親族がいては勤めにくいような職に送り込むためだった。
 監視機能は落ちても、人材確保機能はまだ残っていたというわけだ。
 だが、結局ばあちゃんは人の心を捨てきれなかった。おれ達に情をかけすぎた。
 その結果が、あの惨劇だ。
 幸い、と言っていいのだろうか。ばあちゃんが倒れたあたりに残っているはずの血の染みは、いくら暗闇に目が慣れているこのおれでも見分けにくい。昔見た映像を重ねあわせて場所を特定することはできるけれど、ばあちゃんの遺体が残されているわけでもない。これ以上、過去の記憶と遊んでいても仕方がない。
 おれは、階段を上らず、階段の踏板のすぐ手前にある床の隙間に指を差し入れた。
 湿った埃が爪に入り込んでくるが、構わず板を持ち上げる。
 軋みを上げて持ち上げられた板の下には、ぽっかりと深い暗闇が沈んでいた。中からはより一層濃い黴のにおいが漂ってくる。
 その暗闇の中に、おれは体を滑りいれた。
 この教会は最下層の監視者たちの住まいだった。即ち、ある程度、職務に関連する書物が残されている場所がある。それが、この階段下から繋がる地下室の書庫だった。
 おれがこの地下書庫を知っているのは、何のことはない。階段から勢いよく落ちた拍子に羽目板が跳ね上がり、僅かばかりずれた隙間から暗闇が手招きをするようにおれを見ていた。好奇心の塊だったおれは、かすり傷も打撲も無視して、その隙間を広げ、暗闇の向こうに行くことだけに向かっていった。
 その結果、見つけたのがこの書庫だ。
 教会全体が黴臭いのは、地下にこんな大量の時代遅れな紙の書物を有しているからではないかと、おれは密かに思っているのだが、電気も通らなくなってしまったこの廃墟にあっては、電子化してしまうよりも紙媒体で残してもらった方が、見る方としてはありがたい。
「あった」
 地下書庫の中に入り込んだところで、おれは注意深く扉を閉め、ポケットに入れてきた懐中電灯を点灯した。さすがにこの闇の中で文字までは読み取れない。
 眩しさに目を眇め、慣れるのを待つ。
 欲しかった本は、その昔この書棚に収められた本を読み漁った時と同じ場所に保管されていた。四方の壁を埋め尽くし、なおかつ天を衝く四つの書棚が中央に並ぶこの場所にあって、入り口から入って最奥の壁の左端、上から二段目の四冊目。
 この世界の起源書。
 地上に太陽が輝き、その光の下で暮らしていた人々が、何故地下に降りたのか、どうやって地下に降ったのかを記した書。中身は神話のように曖昧で現実離れしているが、神話も元を辿れば事実が元になっている。神などとはいっても、その実、遥か昔強大な力を誇った一族のことだったりする。夢物語などではない、真実の書。
 おれが何度も読み漁って、手垢にまみれた皮の装丁は、しばしの時を経てもよく手に馴染んだ。
 花琳に見せたい。
 花琳が地上で読んだ王の書とどれくらい同じなのか。どれくらい違うのか。
 それから、この世界の歴史書、生物史、地理……これからしばらく、花琳はこの世界で暮らすのだ。生きていくのに必要な書物はもちろん、本来は好奇心旺盛な少女だ。地上世界とのつながりが記された書は、見せてやればきっと喜ぶだろう。
 四、五冊見繕ったところで、階段の入口がある上の方から物音がした。
 身を隠すところ、といっても、ここは本とそれを収納する棚しかない。
 足音は堂々とこの地下書庫への階段を下ってくる。
 隠す気のない足音。殺気はない。
 足音は軽いが、決して軽やかというわけではない。
 あまり、言い報せではないな。
 ため息交じりに、見繕った本を本棚に戻す。起源書を除いて。
 城の下水道で、あいつにさえ会わなければ。
 会わなければ、花琳は迷わなかっただろうか。ずっとここにいるという選択もしてくれただろうか。
 いや、まだわからないだろう。まだ彼女はここに来たばかりで、カラスにも引き会わせたばかりなのだから。
 三度のノック音とともに、カラスが入ってくる。室内は遠慮なく室内灯レベルの明るさで照らし出される。おれの手元の懐中電灯の明かりがあっさりと霞んだ。
 眩しさに目が眩む。
 慣れる間も与えず、カラスは言った。
「義足にしてほしいそうだ」
 ざくり、と胸に包丁が差し込まれた気分だった。
 前置きもなくそれを言うか? と責め立てたい気分だったが、カラスだから容赦しないのはいつものことだ。
「ひとまず、と言っていた」
「……ひとまず……」
 鸚鵡返しに呟いて、言葉の意味を悟る前に首を振る。
「なら、帰ってこないよ。せっかく自分の足だけで歩くことも可能だったのに」
「ネズミ、手術にしようか?」
 何気なく、今日の晩ご飯の献立を聞くような気安さでカラスは言った。
 おれは、振り向く。
「好きなんだろ、あの子」
 何の感情も載せない、仮面のような無表情さでカラスは尋ねる。いや、尋ねてさえいない。決めつけて確認してくる。
「ウサギと似てるか?」
 ようやく、口元に意地悪な笑みが浮かぶ。
 嫌なカラス。
 おれは顔を背ける。
「お前、ここ好きだったな」
 カラスは本棚の間を歩きはじめる。
 おれに向かって、一歩一歩歩いてくる。
 逃げるわけにはいかない。逃げる場所もない。
 ひた、とカラスはおれの前で立ち止まった。
 向き合うと、いつの間にか少しだけおれの方が背が高くなっている。
 顔を背けつづけるおれの胸倉を、カラスは乱暴に掴み寄せた。
「どうして帰ってきた!?」
 耳元でひっそりと怒りを爆発させたその声は、囁くレベルの音量だったのに、おれの全身を震わせるに十分な迫力だった。
 おれは視線だけをなんとかカラスに向ける。
 カラスはその黒い目でおれを睨み返す。
 恐い。
 本能が逃げ出してしまえと囁く。
「あの子はただの言い訳だ。お前は帰りたかった。帰ったら後がないことくらい、分かっていただろう?」
 息を整えておれはカラスを押しやろうとするが、カラスは頑として動かなかった。
「離せよ。苦しい」
「言っただろう、二度と帰ってくるなって」
 確かに言われた。おどけるような笑顔で。ちょっとさびしそうだったのも、どこか少し安堵しているようだったのも、覚えている。
『充電完了』
 滑らかに機械化された女声のオペレーターが出発の準備完了の時を告げる。
『うぉっしゃ。じゃ、行ってくるぜ、カラス!』
『二度と帰ってくるなよ』
『分かってるって』
 軽く頷いて、おれは意気揚々とエレベーターの個室の中に入っていく。
『サンキュー。愛してるぜ、ダチ公!』
 調子に乗って言った一言が、カラスに届いたのか確かめる前に、エレベーターの扉は閉まってしまった。
 ただ、閉まる扉との間に、噛みしめるように苦い笑みを浮かべた瞬間だけは、おれの目にも焼きついてしまっていた。
 あれはそんな遠い昔じゃない。指折り数えれば事足りる程度の、数十日前の話だ。
 たった数十日で、何がそんなに変わる?
 ――いや、変わったか。おれは花琳と出会った。
 花琳はウサギに似ているかって?
 似てるかよ。ちっとも似てないだろ。ウサギはもっとか弱くて純真で天真爛漫で、いつもおれの後をついてきて、馬鹿みたいにおれの隣で笑ってばかりいた。おれのことが好きで好きで仕方ないんですって、表情からもろバレになっていて、隠す知恵もないくらい馬鹿な子だった。
 花琳は違う。いつも口を引き結び、険しい目つきであたりを眺め、ともすればこの世界からいなくなることを考えていそうな危うさがある。おれの後をついてくるどころか、おれが彼女の足となり、おれを慕うどころか、心は恩師であり偽りの夫に捧げられたままだ。
 それでも彼女は、おれの髪を太陽のようだと言ってくれた。目は青空のようだと言ってくれた。憧れていた地上の色に例えてくれた。
「彼女には、カラスの技術が必要だった。どうしても、自力で歩けるようにしてやりたかった」
「どうしてそこまで思い入れる必要がある?」
「おれは地上で太陽の光を見た。青い空を見た。緑の草木を見た。赤茶けた大地を見た。でも、その前に見たのが彼女だった」
 カラスは面食らったような顔をした。
「美しかった」
 重々しくおれは付け足した。
 カラスは唇を噛み、グーで握った拳をおれの頬にぶち込んだ。
 殴り飛ばされて、すぐ後ろの本棚にぶつかると、容赦なく何冊かの本が頭の上に降り注いできた。
 呆けたように座り込みながら、おれは怒りで顔を赤くしているカラスを見上げ、続けた。
「こんなに美しい女がいるのかと、心が震えた。欲しいと……思った」
 自分が酷なことを言っている自覚はあった。
 自惚れているのなら、だが。
 でも、全てはもう、廃墟の爆発事件の時に終わってしまっていたはずだった。カラスは女の身体を捨て、心も封じてしまった。
 おれとカラスは、とうに男と女じゃない。対等なダチ公。
 そうしようとしたのは、カラスの方じゃないか。
 今更嫉妬されたって、おれは困る。おれはカラスを愛せない。女としては、愛せない。それは昔からのことで、女性の身体を失ったから愛せなくなったわけじゃない。
 カラスは呆然とおれを見下ろしていた。
「お前が色に狂うタイプだとは思わなかった」
 ようやく吐きだされた一言に、おれは至極素直に同意する。
「おれも思わなかった。寝てもいないけどな」
「馬鹿じゃないか?」
「馬鹿だから今、カラスに罵倒されているんだろうな」
「……インプリンティング、か」
「卵からかえったひ雛が最初に見たものを親と思うあれ? かもな。おれが地上で初めて見たのは彼女だった」
「地下下水道は飛ばしてか」
「暗くてよく見えなかったからな」
「嘘をつけ」
「どうでもいいものはよく見えない性質なんだよ」
「都合のいい」
 カラスは吐き捨てた。
「で、どうする?」
「何が?」
「彼女をここに残してやる、と言っている。起源書だけじゃなく、歴史書も、生物も地理も、教え放題だぞ。ついでに、上層階の奴らは早々にエレベーターが戻ってきたことに気づいて動き出している。ここにいられるのもそう長くないと思え」
「えー、もう気づかれたの?」
「当たり前だ。上るだけ上ってネコが仕留め損ねて、籠が地下に降ってくるのを知覚したら、普通誰かが乗って戻ってきたと思うだろ。だから二度と戻ってくるなといったんだ」
「そんなこと言われたってさ」
「私は今から彼女の足の手術を行う」
「今から? 明日じゃだめなの?」
「早くしないと、上層階の公安にこのエリアごと吹っ飛ばされる可能性もある」
「そんなに早いのか」
「手術が終わったら、お前はさっさと王女を抱えて上に戻れ。リハビリしている余裕はない。上でお前が何とかしてやれ」
 一方的に命令してくるところは相変わらずだ。
「カラスは? カラスも一緒に地上に行こうよ。上にはネコもいるしさ。楽しくまた三人でやろうよ。ネコの奴、カラスに会いたがっていたよ」
 カラスは一瞬面食らった顔をし、苦笑した。
「そうだな、手術の後片付けが終わったらな」
 ふと、カラスは一冊の本に手を伸ばした。
 おれが片付け損ねたこの地下の歴史書。
 ぱらぱらとめくりながら、独り言のように呟く。
「地上のクーデターは、成功したのか? 失敗したのか?」
 はて、とおれは首を傾げる。
 おれが出た地上の国で、丁度折も折、クーデターが起き、王女がクーデターの首謀者の仮の妻となって閉じ込められていたから攫ってきた、などと手の込んだ話を、おれはしただろうか。
「クーデターの首謀者である花琳の夫が、今玉座に座っている」
 様子を窺いながら、おれは言葉を選びつつ知っている範囲で現状を告げる。
「そいつの名は?」
「孔冀章」
「……もう一人、若い弟子みたいな奴はいなかったか?」
「そういえば、花琳は弟弟子もいたと言っていたな。婚姻の儀の時にクーデターの実行犯を任せて、予定では花琳を斬り殺す予定だったそうだが、孔冀章に裏切られて、逆に斬られて殺されたと言っていた」
 適当に本のページをめくっていたカラスの手の動きが止まる。
 震えだすのを抑えるように、カラスはゆっくりと本を閉じる。
「そうか」
 もたらされた一言は、濃密な怒りと、重荷から解放されたかのような安堵感と、全てを手放してしまった危うさが込められていた。
 そんなカラスを、おれは見たことがなかった。愛情、だろうか? おれに対しては、好きなくせにどこか距離を置いて自分を保とうとしていた余裕があったくせに、そいつに向けられたそれは、恋する想いよりももっと重い、肉も運命も分かち合った者に向けられるそれだった。
 ちりりと腹の奥底を炎の舌がさらっていく。
 そっけなく地下書庫を後にしようとするカラスの背中に、おれは呼びかけた。
「カラス。カラスは本当は知ってたんじゃないの? 地上が確かに存在するってこと。もしかしたら、地上にも行ったことがあるんじゃないの? たまに、こっちのにおいがしなくなっている時があったもん。ああいう時、本当は……なぁ、公安なんておれたち辞めてきたんだよな? もう金輪際何の関わりも持たなくていいように、この最下層に逃げ込んだんだろう? ――なあカラス、お前、本当はおれに何を隠しているの?」
 呼び止められて立ち止まったカラスは、しばし背を向けたままでいたが、結局何も言わずに上へと上がっていってしまった。
 それが回答だ、ということなのだろう。
 カラスはまだ、上層階の公安と繋がっている。その繋がりで、何らかの仕事を任され、地上にも出たことがあった。
 今回、おれが公安に邪魔されることなく地下最下層から無事に地上に出られて、再び戻ってこられたのも、奇跡に近いことだと自分でもわかっているつもりだ。
 もし、それが奇跡でもなんでもなく、カラスの力で護られていたものだとしたら?
「なんでおれだけ何も知らないんだよ」
 おれは頭を抱えて呟いた。
 しばし落胆に沈んだ後、カラスの研究室がある廃墟に戻った時には、花琳の手術が始まった後だった。
 おれは、世界の起源の本を鞄に詰め込み、そのほか身を守るための武器やら食糧をかき集めて逃げる支度を始めた。
 手術が終わった後、麻酔も醒める前に、カラスはおれたちをここから追い出すつもりだろう。おそらくは地上に向かわせるはずだ。そりゃそうだろう。一度地上を見て地下に戻ってきて、この地下で無事に逃げおおせられるわけがない。この地下のどこにももう、安全な場所なんてない。
 カラスが守ってくれる? はっ、いつまで? 何のために? カラスにそれほどの重荷を背負わせて、これ以上平気なわけがない。
 地上に出たら今度こそ、二度とここに戻ってくることはできないだろう。
 きっと今度こそカラスは、あの昇降機を爆破してしまうに違いない。
 そのために、カラスもここに残ると言ったのだろうから。
 いっそ、最下層、いや、この地下世界ごと吹き飛ばしてしまうのかもな。
 カラスの破壊願望は、昔からスケールが大きかったから。
 今まではきっとおれや何かがカラスの常識を繋ぎとめてきたのだろうが、さっきの様子からするに、カラスにとって、おれはとうに彼女の常識の楔ではなくなっていたようだ。おれの知らない誰かがいつの間にか彼女の心の楔となっていたようだけど、その楔も、おれが不用意に取り除いてしまった。
 不用意に?
 そうだろうか。意図的に、だ。
 何かあると分かっていて、わざと隠すことなく事実を告げた。
 地上で何が起きたのか、史書に記されるであろう事実だけを淡々と伝えた。孔冀章が斬った反逆者の少年の名など知ったことか。
 嫉妬、したのかもしれない。
 おれ以外の誰かが、カラスの心を占めていたことに気づいて、面白くなかったのは確かだ。
 でも、それじゃあ、カラスの心が傾いていた相手というのは、花琳よりも年下のガキだったって言うのか?
 ため息をつく。
 おれだってガキだ。図体ばかりでかくなったって、おれの心はガキのまんまだ。
 だから地上に行けた。
 だから、花琳に逢えた。
 じゃあ、その後は?
 その後、おれは地上に戻って何をする?
 花琳を城に送り届けて、孔冀章と添い遂げるのを遠くから見守る?
 冗談じゃない。
 おれはそこまで器は広くない。深くもない。
 花琳を城に送り届けたら……ネコに追われる毎日になるのかな。それならそれで、毎日飽きなくていいかもしれない。地上のありとあらゆる場所に赴いて、地下にはない原色の世界を堪能する。夏のぎらつく太陽、真白い入道雲、秋の燃えるような紅葉、冬のふわふわと綿のように軽いという冷たい白い雪。静寂に閉ざされた一面の銀世界。
 色だけじゃない。海もおれはまだ見ていない。どこまでも広がる青い青い水溜り。寄せては返す白い波。光に煌めく波涛。それから山に入っては白い滝、迷い込むようなジャングルの奥にあるという巨大な大地の割れ目、それから、それから――
 不意に、窓から光の洪水が押し寄せ、辺りを真白く焼きつくした。
 恐れが忍び寄るように重低音が窓と壁を震撼させ、一瞬の後、遅れて耳を劈く爆音が轟く。
 意識と身体の自由を取り戻すまでに幾ばくかの時を費やし、恐怖に強張った脳で、カラスが爆発させたのか? と、不穏なことを考える。
 だが、すぐにそれは否定する。
 カラスがいるのはこの部屋の真下を掘って作った地下室だ。外から閃光が入り込むような爆発の仕方はしない。
 ひどい耳鳴りは続いていたが、爆風に家が軋みを上げる音は聞こえていた。天井からぱらぱらと落ちる破片に、おれは荷物を背負い、固まった手足を意識的に右、左、と動かして地下への階段を駆け下りる。背後となった一階から、機関銃の一斉照射の音が聞こえる。玄関の扉を壊して中に入るつもりなのだろう。上に残っていたら、今頃穴だらけになっていたところだ。一時的な時間稼ぎに叱らなないだろうと思いながら、何段か置きに設えられた防火扉を下ろすボタンを押しながら、一気に地下まで駆けおりる。
 地下実験室前の銀色の扉を前にして、ようやくおれは一息つく。
 上階から近づいてくる爆音は、確実に分厚い防火扉を破って近づいてきている。
 早く、早くしなきゃ。
 焦る指先を認証ウインドウに押し当てて、虹彩確認のカメラを見つめる。
「認証、されました」
 目の前の扉と同じくらい冷たそうな女の声とともに、通用口用の片扉が静かに開く。
 全て開き切る前に隙間から身体を滑り込ませ、閉じるボタンを押し、閉まったのを見計らって自動ドアの電源を切る。
「騒々しいな。もう来たか」
 頭上のスピーカーからカラスの呆れた声がする。
「一階がぼろぼろだよ、多分。途中の扉も順調に壊されてるっぽい」
 監視カメラなど探さなくても、カラスはきっと手術室で全てを監視しながら聞いていることだろう。
「まあ、二度と戻ることはないだろうからな。この先はどう考えても一方通行だろう。ひとまず走れ、ネズミ。王女の手術もあと少しで終わるところだ」
「分かってるよ」
 カラスはもうこっちに戻る気はない。それなら、この地下実験室から手術室へ続く道も防火扉で塞いでしまった方が安全だろう。
 カラスは、おれと花琳をエレベーターに載せたら、自分はこっちに残るつもりだろうが、そうはさせない。カラスも一緒に地上に連れてってやる。いざとなったら片手に一人ずつ抱えて走れば問題ない。痩せぎすのカラスと小さい花琳となら両手があれば十分だ。
 手術室の前に辿りつき、おれは一声告げる。
「着いたぞ!」
 スピーカーからの返事はなく、かわりにカラスが花琳を寝かせたストレッチャーを押して出てきた。
 花琳の意識はまだ戻っていない。足は白い包帯に覆われている。
「定期的にメンテが必要な義足ではなく、快癒すれば自力で歩けるよう、拘縮した足の甲を開いておいた。それでも、身体を支えるにはいささか小さいだろうが、バランス感覚は慣れだ。地上で杖を使って歩いていたような王女なら、すぐに自分のものにするだろう」
 カラスの言う通り、花琳の足を包み込む包帯は、義足を取り付けたにしては細いままだ。
「本人は義足を望んだんじゃないのか?」
「ここはもう無くなる。あっちの世界に行った後、メンテができる人間はいないだろうからな。お前に教える暇もなかったし。それに、正真正銘、自分の足で歩けた方が彼女の望みに適うだろうよ」
 カラスはストレッチャーの取っ手をおれに譲り、花琳の枕元に置いてあった巾着袋の中からカプセル状の薬を取り出して見せた。
「お前にできるのは、朝夜、定期的に彼女にこの薬を飲ませることだけだ。痛みを和らげ、化膿を防ぎ、組織の再生を助ける薬だ。ずぼらなお前のために一回一カプセルでいいように作ってあるから、忘れずに飲ませてやれ。彼女の意識が戻ったら、この薬を渡してやってもいい。一か月分入っている。その頃には、足の方はよくなっていることだろう。ただし、甘やかしてお前が抱えて歩けば、彼女はいつまでたっても自分で歩けないままだ。目が覚めたら容赦なく歩かせろ。用を足すときも、食べる時も、沐浴する時も、お前は決して抱き上げてはいけない。肩と手を貸してやるだけだ。いいな?」
『あんたがおれの目になってくれると言った。だから、おれはあんたの足になろう』
 はじめて会った日、彼女にそう誓った。
 地上で、彼女は知識をフル稼働して逃げ回るための道を見出す目となってくれた。
 おれは確かにあの頃、彼女の足として彼女を抱えて走りつづけていた。
 もう、おれはいらなくなるのか。
「傷心に浸っている場合か。行くぞ」
 カラスは早足で昇降機のある古代遺跡への通路を歩きはじめる。
「袋の中には替えの包帯と傷あてのゼリーも入れておいた。ゼリーの交換は週一回で十分だ。役割を果たせばひとりでに剥がれるようになっているから、その時に交換してやれ。それから、もし万が一足が膿んだ時のためにスプレーを一本入れているから、それを傷に噴きかけてやれ。それから……」
「カラス。主治医も一緒に来てくれなきゃ困る。おれ、血とか見るの弱いし」
「……それから、一錠で一日分の食料カプセルと、種々、新作の手榴弾や拳銃、それにナイフ……」
「カラス!」
 エレベーターがある古代遺跡の入口の前まできたところで、カラスは立ち止まる。滑らかに指を舞わせて暗証キーを入力し、扉が開く。
「入れ、ネズミ」
 残る気だ。カラスはここで、後から来るやつらの足止めをする気だ。古代遺跡の中に入られては、エレベーターがあるから威力の高い爆弾を使うことができない。だから、カラスはここで残るつもりだ。
 そうは、させるか。
「カラス!」
 おれが叫んだ瞬間、思いのほか近くで爆音が弾ける音が聞こえてきた。通路全体が天井から壁から床まで大いに揺れる。
「早く来い、ネズミ」
 カラスから目を離し、振り返っていた隙に、カラスは先に古代遺跡への入口を越えて中へと入っていた。
 不意を突かれて、おれは思わず茫然とする。
「馬鹿、ぼーっとしている場合か。早く王女を連れて中に来い」
「あ、ああ」
 眠る王女が目覚めないように、そっとストレッチャーを古代遺跡の中へと押し入れる。
 カラスは扉を閉じるために、内側の操作卓を操りだす。
「ネズミ、お前は地上で夜明けを見たか?」
 指先を動かしながら、カラスは口元にうっすら笑みを浮かべて尋ねる。
「夜明け?」
「そう。夜は意外に明るいんだ。月が出ていたり、星が瞬いていたり、雲が出ていても真っ暗にはならないし、雨が降る日は明るいくらいだ。一番暗いのは、夜明け前だ。黎明の黎は黒。夜と朝が混じりあう混沌の時、月は沈み、星は瞬きを失い、黒い山並みと黒い地上だけが黒い空に閉じ込められて残される。地上は、今が黎明期だ。いや、この世界そのものが、今、新たな黎明期を迎えようとしている」
 扉を閉じるためのコードが照合された音がして、銀色の扉はさっと閉まる。カラスは、未練なく先へと歩きはじめる。
「地上へのエレベーターがあるのはここだけじゃない。地下の政府は、大分前から地上に出るための塔を作っていた。第一層の限られた一握りのエリートたちだけが、外に逃れるための計画だ」
「逃れる?」
 おれは慌ててカラスの後を、花琳を乗せたストレッチャーを押しながら追いかける。
「この世界は、最下層でなくても窖だ。モグラが地下を掘って作った世界と何ら変わりない。地殻は緩やかに変動し、どこの層でも押し潰される部分が出てきていた。間もなく、この最下層も、私が爆破するまでもなく空が落ちてくる。第四層以上の重みを支え切れなくなってな。ここだけじゃない、この世界は地下へと掘り進められた巨大な塔だ。そうでなくてもたまに大きく揺れることがあっただろう? お前が地上に行って間もなく、地震の回数がさらに頻回になった。土砂崩れもあちこちで起きている。空間そのものが潰れた場所もある。この世界は、もう長く持たない。上層の政府は、ずいぶんと以前からこの世界が限界だということを知っていた。だから、自分たちだけでも地上へ戻ろうと目論んだ。ネズミ、お前が無事にその王女を連れて地下に戻ってこられた理由が分かるか? 人質だよ。その子は、上層部にとっては地上へ進出するための人質だ。その子の命を盾に、地上の残された王国と交渉するつもりなんだ。ネズミ、お前はそのために地上へ放たれた」
 おれは立ち止まる。
「私は、お前を地上に行かせることが役目だった。地上に憧れるお前の夢を叶え、地上に僅かに残った人類が暮らせる地の王女をこの地下に連れてこさせる。それが、私に与えられた役目だった」
 ついにエレベーターの入口の前で立ち止まり、カラスはおれを振り返って困ったように微笑んだ。
「ネズミ、お前は私が敵だと思ったことはないのか?」
 どきりとおれの心臓は跳ねる。
 カラスが、敵?
 そんなことが、あるわけがない。
 反射的に花琳の手術された足を見る。
「あはは、自爆するための爆弾なんて埋め込んでないよ。その子の足の手術は、誠心誠意やらせてもらった」
 おれはカラスに視線を戻す。
「冷静に考えて、たかが地上一国の王女の命が、質になるとは思えない。孔冀章は、地上を守るためなら彼女のことだって……」
「斬れないから、楊輝が斬られたんだろ?」
 ごくりとおれは唾をのみ込む。
「そして、お前が側にいる限り、彼女は自殺することもできない。王女に惚れたお前は全力で彼女の自殺を止めることだろう。王女とて、自力で歩ける足まで与えられて、希望が叶うこともあることを覚えてしまった」
 花琳は、ぴくりとも瞼を震わせることなく眠りつづけている。
「まさに傾国の美女、というわけだ。二人の男の心を虜にし、地上という世界を傾かせる女。地上は、彼女を返してもらうために地下のエリートたちと文明を受け入れざるを得ない。文明のレベルは、お前も地上でたっぷりとみてきただろう。あっという間に地下世界の奴らの方が征服してしまうことだろう。たとえはじめは対等だ、と笑って手を握っていても。そうでなくても、今地上は民主主義の種を植え付けられて王権が揺らいでいる。地下の人々を受け入れるか否か、議論する間もなく、地下世界の人々は地上に散らばっていくだろう」
「……孔冀章、楊輝、それにこの花琳に、民主主義の種を植え付けたのは、こっちの世界の企みだった、と?」
「地下深くに伸びた塔は、もはや改修くらいでは持たなくなってきている。一刻も早く地上に出たい。それが政府が今考えていること。地上を制圧するためにはいくらか兵(人手)も必要だから、その分は窖や第四層の貧民街から寄せ集めて盾にする。まあ、こっちの武器の方が進んでいるから、地上制圧は赤子の手を捻るようなものだ。それに、地下政府には大義名分がある」
「地上の浄化が終わったら、地下世界に迎えが来る?」
「その子が、迎えの象徴だ」
「地上にいくつか残された数少ない国の、それも最後の生き残りの王女という身分は申し分ない。ドラマティックだ、とか?」
「地下から抜け出したネズミと出逢って、自ら攫われることを望み、この地下に戻ってくる。ボーイ・ミーツ・ガールの話は昔から人々の大好物だ」
「カラス!」
 怒りにわななきながら叫んだおれの後ろで、扉が開く音がした。振り返ると、銃を持った兵士たちが足音高く入り込み、銃口をおれ達に向けていた。
 悠々とカラスはおれの脇をすり抜け、彼らの前に立つ。
「地上の出口はここも含めて二つ。もう一つは第一層から直接掘り進めて地上に穿たれた穴だ。私達はそこから地上に出入りしていた。ネコもおそらくそこから出ていただろう。ネズミ、お前は地上を取るか? それとも、地下の幸福を望むか?」
 地上を取るか、地下の幸福を取るか?
 それは、地下の地上進出を許して地上が踏み荒らされるのをとるか、地下が地殻変動の波に負けて地上に出られず滅亡するのをとるか、と?
 ぐらり、と足元から空間が歪むような嫌な圧力を全身に感じた瞬間、地鳴りと共に部屋全体が揺れはじめた。
 ストレッチャーの取っ手を握る手が緩んでいたせいで、ストレッチャーは花琳を乗せたままエレベーターの中へと吸い込まれていく。おれは慌ててその後を追う。
 しまった、と思った時には、エレベーターの扉が閉まりはじめていた。
「カラス! 早く来い!」
「ばぁか。言っただろ、私は敵だ、と。一緒に乗ったらその王女を政府に連れて行かなきゃならなくなる」
「ば、馬鹿はどっちだ! 早く……!」
「ネズミ、どっちを取るかはお前たち次第だ。あるいは、お前ならどっちも生かせるかもしれない。だが、ひとまずこれだけは言っておく。――ネズミ、今度こそ、二度と戻ってくるなよ」
 振り返ったカラスは、極上の笑みを浮かべておれを見ていた。
 その身体の中心は、溶鉱炉を閉じ込めたようにすでに赤く膨らみはじめていた。
 自分の身体に、爆弾埋め込んでいやがったのか。
 馬鹿だろ、そんなこと、いつの間に……。
 おれの爪先を擦りながら銀色の扉は閉まり、おさまらぬ揺れの中、がたんと籠が揺れて足元がふわりと浮きあがる感じがしたかと思うと、床に抑えつけられるような圧力が襲い掛かってきた。上昇するエレベーターの遥か床下で、低く、世界を揺らがすような爆音が轟くのが聞こえた。
(201703122142)