鳥籠の王女とネズミの太陽
10.夜明けのアルバ

 その子供は、暗闇で異様に白目のよく光る三白眼の持ち主だった。
 悪臭と汚泥が練り込まれた地下最下層の窖でさえ、まだましに思えるような、この世の掃き溜めのような場所に、その子供はいた。
 名を、楊輝という。
 その名は、見つけた後で私がつけた。
 八、九歳くらいのその子供は、垢に塗れた黒い皮を張りつかせただけの、棒切れのような手足を折り曲げて、崩れかけた石積みの建物の隅に座っていた。
 長らく飢餓状態にあったのだろう。痩せぎすに似合わずぽっこりと膨らんだ腹からは、ずるりと臍が飛び出していた。顔も、頬がこけているというよりは、かろうじて頭髪が抜け落ちた頭蓋骨に黒い皮が張りついているような状況で、落ち窪んだ眼の中で、やたらぎらつく白目が印象に残ったのも仕方のないことだった。
 そも、地上をそぞろ歩くような趣味があって、このような場所に出くわしてしまったわけでもない。
 ネズミが聞けば、二度と口を利いてくれなくなりそうだが、職務で、私は地上に放り出された。
 おとぎ話程度にしか伝えられていない地上の存在。
 本当にあるかどうかさえ分からない、いや、地上について考えることさえが禁忌とされている世界において、なんと呆気なく私は地上の夜明けを見る羽目になったことか。
『アルバ。お前の名はアルバだ。地上で言う夜明けっていう意味なんだぞ』
 太陽という意味の名を冠する名付け親は、私を拾った時にそう名付けてくれた。
『ああ、夜明けに啼くカラスというやつか』
 捻くれた子供の私はそう茶化して奴の御機嫌を損ねてしまったが、今ならあれが照れ隠しだったことが分かる。
 黒い髪。黒い目。
 ゴミ置き場に急降下して生ごみをつつき荒らすカラスのようだと、気づけばカラスと呼ばれていた。だが、ネズミは違った。
『お前の髪と目はカラスの濡れ羽のように黒いな。知っているか? 地上は夜明け前が一番暗いんだ。星もなく、地上に明かりもない、誰一人起きていない、何かが見えそうで見えない刹那の時間。お前の髪と目は、黎明の黒だ。その全てに、夜明けの訪れをはらんでいる』
 何を言われているのかよく分からなかった。
 子供心に、そういう本ばっかり読んでどっぷりと浸かってるめでたい奴なんだと思った。
 だけど、夜明けの訪れをはらむ黎明の黒、と言われたことは、そう、顔と耳が熱く真っ赤になったことを鏡を見ずとも自覚できたくらい、忘れられないことだった。
 奴にその気はなくとも、幼いからこその絶妙な殺し文句だったと思う。
 私が楊輝を拾ったのは、偶然ではない。
 そこに、戸籍もなく、親も兄弟もいない、使い勝手のいい天才(駒)がいるから拾って育てろと言われたからだ。
 知能指数まで確認してきたのなら、その時点で保護するなり手なずけるなりすればいいものを、上司たちもさすがにこんな小汚い子供には触れたくなかったということだろうか。
 そういう場所から這い上がってきた私なら、上手く手なづけられると踏まれたのだろうか。
 生まれに関しては、心外だとは思わなかった。
 ただ、女の私を期待されたことは、心外だった。
 子供には女をあてがっておけばいいと思われたのか、男の子には年上の女をあてがっておけばいいと思ったのか、上の考えることはいちいち詮索しても面白くないだけだ。
『ネズミに手を出されたくないのなら』
 それが、上司が私に仕事をさせる時の脅し文句だ。
 それを言われると、私は何も抵抗ができなくなる。
 窖から上層の公安の訓練施設に連れて行かれた時も、施設から窖へ戻るときも、私はその上司に言われるがまま、ネズミを連れて行き、ネズミとともに窖に戻った。そして、今も、心ばかりのサングラスと日よけのマントを与えられただけで地上に放り投げられた。
 もしこれがネズミだったら、あいつはどうしただろうか。
 手放しで喜んだだろうか? いや、拍子抜けして怒りはじめるだろう。
 あいつは、世界の謎を解きたがっている。自分の方法で、一から探って上に行こうとしている。
 すでに見つけられた解法で解答を目の前に突き付けられるのは、良しとしないだろう。
 崩れかけた建物の中に腰をかがめて入り、暗がりに、かけていたサングラスを外す。
 睨みつける子供の目は、たとえ動くことはできなくとも、それ以上私を近づかせない迫力に満ちていた。
 さて、地上と地下と、言葉はまだ通じるものなのか。
「迎えに来た」
 こんにちはでもこんばんはでもなく、私は単刀直入に用件を切り出した。
 挨拶などで懐柔できるほど、余裕があるようには見えなかったからだ。
 子供は答えない。
 その代わり、純白の白目から放たれる迫力に怒気が混ざる。
 何をしに来たのだ。
 雄弁に、その目は語っている。
 前回、調査団が来た時、この子供に一体どういう接し方をしたのか、ここまで静かに敵意を剥き出しにされると、子供の方に同情したくなった。
 暗闇の中、目だけが光り輝いているのは、涙の量が多いか瞳孔が開いているからだ。泣いているからではないことは確かだが、敵を前にして瞳孔が開く人間というのもまたいない。単に顔の肉が無くなって、目ばかりが盛り上がって見えるだけかもしれない。
 それでも、唯一生きていると思われる目だけは、私を威圧し続けてくる。
 私も、ネズミの祖母に見つけられた時、こんな目をしていたのだろうか。
 傾いたバラックの片隅に寄りかかり、破れた布切れが腹のあたりに纏わりついている程度の姿で、次もやられるか、次こそ死ぬか、の二択だけで、次の瞬間、瞬間を過ごしていた自分。身体の代償に、申し訳程度に残飯の欠片が置かれていくくらいならまだいいが、大概は殴ったり蹴ったりが追加されて、青痣が置き土産になるだけの毎日だった。
 だから、自分に近づく者は、嫌でも目で品定めをしてしまう。目が合えば威嚇するように睨みつけ、決して逸らすことはない。
 この子供も同じだ。
 誰も信じていない、自分の運命すら信じていない、未来を映すことのない敵意だけの空っぽの目をしている。
「自分ではもう動けないか」
 手も足も動かす気配がないのを見て、私はもう一歩、おそらく彼のテリトリーとされている部分へ踏み入った。
 眼光が鋭くなる。
 出張った膝を抱えていた枯れ枝のような手が、さび付いた錠を回すようにぎこちなく組んだ指を外しにかかる。
「敵じゃない。お前を害する気は全くない」
 いや、敵といえば敵だが。きっと、私がひきとったところで、この子供にとっては最悪な結果になるだけだ。死ぬ時機が今になるか、それとも数年伸びるかの違い。まぁ、運がよければ玉座を手に入れることもあるかもしれないが、その時は須らく、地下の傀儡となって、地下への扉を解錠してもらうことになることを考えると、いずれ楽しい人生にはならないだろう。
 地下と地上を遮る扉の解錠に、血筋はいらない。
 そう聞かされたものの、この子供は前王朝の末裔だというのだから、何を思ってこの子供を探し出してきて手なづけようとしているのかは、火を見るより明らかだ。
 それ以前に、この子供が自分の血のことをどれだけ知っているかは甚だ疑問だが。
 私は、敵意がないことを表すために、供え物のように子供の前に飲み物を入れた器と食べ物を入れた袋を置いた。
 子供はしげしげとそれを眺め、私の顔を見上げた。
 私は笑顔など造らない。
 動物の観察者の如く、子供の次の動きを観ながら待つ。
 子供は、ぎこちなく動き出した手で、飲み物を入れた器を持ち上げ、次の瞬間、私に向けて中身をぶちまけた。
 私は、一瞬何をされたかわからなかったが、腹のあたりから服が水に濡れそぼち、裾からはぴたぽたといくつかの水滴が滑り落ちていった。
 悲鳴は上げなかった。
 落ち着いて、服についた水滴を素手で払い落とす。
 それを見ていた子供は、さっと食糧の入れられた袋に手を伸ばした。
「ああ、なるほど。水に毒が入っていないか確かめたかったのか。毒入りなら素手で払ったりしないものね」
 バリボリと音を立てて、子供はクラッカーを口の中に頬張る。時折むせながら、それでも私から目を離さず、口を動かす。
「それだけだと喉が渇くだろ。飲みな」
 私がもう一本、自分用にとっておいたボトルの蓋を開けて一口目の前で飲んで見せてから子供の前に差し出してやると、子供はひったくるようにボトルを受け取り、ぐいぐいと中身を喉に流し込んだ。時折喉に詰まらせながら、それでも必死に次はいつありつけるかわからない食糧を腹に流し込む。
「お前、生きたい?」
 クラッカーの残りが少なくなったところで、私は尋ねた。
 子供は、改めて私がまだ目の前にいたことに驚いたようだった。
「あ……ウ……」
 はじめて聞いた声は声とも言えない唸り声。音といった方がいいかのような、喉に空気を通しただけの音だった。
「お前、喋れないの?」
 白い目がぎょろりと私を睨む。
 私の口の端は少し上がる。
「ああ、もしかして言葉が分からないか」
 言葉を投げかけた途端、子供はそれまで同化していた壁から背を離し、弾丸のように私に飛びかかってきた。
 子供らしくもこの生活に似つかわしくない純白の歯を剥き出し、私の腕にかぶりつく。勢い余って私は子どもに押し倒され、馬乗りになった子供は案外強い力で私の肩を押さえつけた。
 一体、骨の関節の形さえ如実に浮き出た枯れ枝のようなこの腕のどこにこんな力が残っていたのだろう。クラッカーがエネルギーになるにはまだまだかかるはずだ。しかも、しばらく食事をしていないなら、あれほどの量の炭水化物、消化しきれずに腹を壊して終わりだ。
 ツーンと垢の凝った臭いが鼻を衝いた。久しぶりに嗅ぐと、本当にひどい臭いだと思う。掃除の行き届いていない汲み取り式の便所とはまた別の種類の、肌に触れた色々なものが凝った臭い。窖の人々の方がまだましな生活をしていたらしい。ここは本当に、ただの掃き溜めだ。
 何かを喋ろうと開いた子供の口から、透明な唾液が零れ落ちてくる。それは、ゆるゆると私の唇の端を穢した。
「っ!」
 私は思い切り子供を殴り倒し、起き上がった。唾液の触れた口の端を拳の甲で拭い、唾を吐きだす。
 地面に転がった子供は殴られた頬を抑えながらのろのろと起き上がった。
 白い目が恨めし気に睨んでいる。
 私はそれを冷たく見返した。
「来い」
 選択権を与える気はなかった。が、結果として、私は子どもに触れることを厭い、命じただけで背を向けて歩き出したことで、子供はついていくか、残るか選択することができたはずだった。
 この世界の車――御者と馬を必要とする馬車のところまで辿りついた時、後ろには子供がよれよれの姿でついてきていた。立ち止まってもふらふらと海藻のように揺れている。
 ついてこなければよかったのに。
 舌打ちが出ていた。
 途中、二、三度ガラの悪い男たちに囲まれ、殴り倒してここまで来たはずだが、この子供は絡まれなかったのだろうか。それともうまく逃げおおせていたのだろうか。
 いずれ、面白くはない。
 私が振り向くと、子供はさっと顔を逸らした。そして、これ見よがしに殴られた頬を抑える。男娼でもやっていたような仕草だったのが、余計私を苛立たせた。
 それから私は子どもをこちらの世界の屋敷に連れて帰り――笑えることに、窖での生活とは天と地の王侯貴族並みの調度品が揃った屋敷だ――召使たちに、子供を白くなるまで磨き上げろと命じて、一度窖へ戻った。
 帰った私を見て、ネズミはキラキラした髪を空気に跳ねさせながら、犬のように私に飛びついてきた。
「お帰り、カラス!」
 私は問答無用で奴の後頭部に手を回し、無理矢理に唇を合わせた。
 唇の味、唾液の味、舌の感触。
 特に、子供の唾液が落ちたところを重点的に舐めさせる。
 息が荒くなってきたところで、私は奴の分厚くなってきた胸を押し返した。
「なんだよ」
 お預けを喰らった犬と同じ表情で見てくるネズミがかわいくて、私は金色の髪の中に指を通した。
「やらない」
 にっこりと微笑んで、突き放す。
 床に転がって歯噛みしていたネズミは、ふと真顔でわたしを見上げた。
「ねぇ、どこ行ってきたの?」
 一瞬、ぎくりとしなかったかと言われれば、実は少し自信がない。そんなの、聞かれることは予想できていたはずなのに、いつも仕事帰りに奴と顔を合わせると上手く自分をコントロールできない。
 私が言い訳を口にする前に、ネズミは鼻をすんすんと動かして首を傾げた。
「あまりいい匂いがしなかった」
 真顔で告げられて、私は逃げ出すようにバスルームに走った。
 身体を洗って、洗って、洗って。シャワーで水を全開に出して肌を打ち付けて、上皮を引き剥がしてしまいたいくらいに擦り洗った。
 膨らんだ胸。何もついていない下半身。丸みを帯びた手足。
 まるでどれも、自分のパーツじゃないみたいだった。
 もっとも実感の湧かない足の間から、するりと赤い線が腿を伝い落ちていく。続いて、ぱたぱたと血が二、三滴滴り落ちる。
「女なんて……!」
 浴室の壁を打った拳には、長らく痛みだけが残った。
 それから腹の調子が落ち着いてしばらく経った頃、地上で拾った子供の様子を見て来いと上司にせっつかれた。様子を見るだけじゃなく、情操教育、英才教育、いろいろと教えてやれ、としたり顔で告げられる。
 いやな女。
 そう思うのも、自分が女だからだろうか。
 地上の立派なお屋敷は、その昔この子供の御先祖様がまだ王様だった頃、使っていた離宮の名残なのだそうだ。そうとも知らず、連れ戻された子供は無表情で私を部屋に迎え入れた。
「ほう」
 さすがに、思わず賞賛の声が漏れた。
 品定め、値踏み。この際何でもいい。
 私は、縹色の布に金糸銀糸で縫い取りを施した貴族の少年用の衣装を着せられて椅子に座らされた子供の周りを、ぐるりと見て回る。
 子供は一言も発せず、目だけを動かして私を見ていた。
 印象的だった三白眼は、思いのほか形を潜めている。はじめは水が文字通り黒くなった、と入浴を手伝った召使に愚痴混じりに聞かされたほど堆積した垢をこそぎ落とされ、半月ほどかけて滋養の取れた餌、もとい食事を与えられた子供は、抜けきっていたと思われた黒い頭髪も地肌からはがされて今はふわりと外を向いていた。
「ふむ」
 綺麗な衣装と適度な食事。見た目と身体を整えてやれば、人間一週間でも見違えるものだ。馬子にも衣装とは、まさにこのことだな。
 あとは、中身。
 中身が獣では話にならない。
 ネズミが私を人にしてくれたように、私はこの子供を人にしてやれるだろうか。
 いや――無意識に私は唇の端を拭う。
「お前、名は?」
 ぎろり、と三白眼が私を睨んだ。
 白目の部分は相変わらず純白だ。が、黒目の純粋に憎悪だけで凝り固まった漆黒の艶は少し、色が変わったようだった。
「私はカラス。お前、名がないなら私がつけてやろう」
 こいつの先祖の姓は楊。
 短く刈られた黒髪を額から撫でるように指を通す。
 ふむ。ハリネズミのように、こいつの黒髪は硬いんだな。
 そんな棘を背負って、闇の中、お前は輝けるかな。
「おれの、名は……」
 かすれた声を遮って、私は上から命令した。
「楊輝。お前はこれから楊輝と名乗れ」
 楊輝は、開きかけた口を噤んだ。
「お前は私についてきた。お前はあそこにいるよりも、私についてきた方が生き残れる可能性が繋がると思った。違うか?」
 ぐっと楊輝は唇を噛みしめる。
「大丈夫。まだ殺してやらないよ。お前にはやってもらうことがある。その上で生きながらえられるかどうかは、お前次第だ」
 私の手を押しのけ、楊輝は顔を上げた。
 はじめて、憎しみと敵意だけだった目に隙ができていた。
 私は口の端を歪めた。
 子供の顔だった。目の前に希望をちらつかされた時の、昔の私と同じ顔をしていた。
 でも、お前には純粋な優しさは与えられないんだよ。任務のために並べ立てられた優しい言葉しか与えてやれない。それでも嬉しいというのなら、私はいくらでもお前の母になってやろう。
 地上と地下との二重生活は、思いのほか心身ともに疲労が積もった。特に、あっという間に高等教育に追いついた楊輝に勉強を教えながらの地上での生活は、まかり間違っても地下の存在を悟らせないために、使う単語にも気を付けなければならなかった。
 それなのに、度重なる往来の疲れで、うっかり使ってしまった言葉がある。
「クーデター? なんだ、それは」
 茶色くなった骨董ものの紙の本から顔を上げた楊輝が、怪訝そうに私を見る。
 しまった、という私の表情に楊輝が気づいていなければいい、そう願いながら、私は言葉を取り繕う。
「反乱のことだよ。王権をひっくり返すときに使う」
「……ああ」
 そう言った時の楊輝の表情は、暗く歪んで口元が嗤っていた。
 楊輝の先祖が玉座を追われたのは、楊輝が生まれる何代も昔のことだったはずだ。貧民窟に落ちてからは、両親たちとて自らの血に流れるものを知らなかったはずだ。それを、さもウチのことか、と過去を思い返すような口ぶりに、私はぞくりとさせられた。
 仕込んでなどいないのに、立ち居振る舞いや仕草には優雅さが滲み出、召使たちとのやり取りの中で習得したのか、ネコを重ね着することも人馴染のいい笑顔を作るのも上手くなっていき、おまけに背丈も伸び始めたとあって、次第に家の者たち――主に女どもだが――の見る目は変わってきていた。家の者たちには、楊輝のことは旦那様の御落胤だよ、と言ってある。旦那様、というのは私もあったことはないが、この国で一、二を争う商家の大店の主らしい。その主が、実は地下と繋がりいろいろと便宜を図ってくれているとは、口が裂けても誰にも言えない。おそらく、地下と地上を繋ぐ唯一無二のパイプ役だ。勿論地下のことなど口外しない。商人は信用がモットーだから、と胸を叩いているらしいが、その実、こちらの世界の王家も、地下の政府も、彼ら一族には逆らえないのが現実だ。
 その旦那様の二番目だったか三番目の息子がえらくよくできる奴で、王女の側近として勉学を教えていて、先ごろついに婚約者に取り立てられたらしい。
 口性ない女たちの口を閉じようとしても、旦那様のえらくよくできる息子の話はあっちで湧き、こっちで湧き、ついには楊輝の耳にも入っていた。
「なぁ、孔冀章という男を知っているか?」
 人としての形を身に着け、人としての教養を身に着け、人以上の知識を得た掃き溜めの息子は、私にだけ見せる歪んだ笑みを浮かべて、棚から本を引きだしながら尋ねた。この屋敷が楊輝の育成場所に選ばれたのも旦那様の提案で、元は先祖が所有していた家なのだし、この屋敷には地上で与えられる書物のうち、王立の図書館には敵わなくても、古いものであれば大半が揃っているから、というのがその理由だった。勿論、楊一族が玉座を占めていた時の史誌もそのまま残されている。その見立て通り、知的好奇心旺盛な楊輝は、私との授業も含め、一日の大半をこの図書室で過ごしていた。
「さぁな。会ったことはない。旦那様の息子だと聞いたことがあるだけだ」
「なんだ、意外につまらないんだな。カラスと同じくらいの年らしいぞ」
 ぎくりと私は肩をそびやかす。
「私よりは年上だ!」
「その年上が、おれと同い年くらいの王女をものにしたらしいじゃないか」
 ぎろりと私は楊輝を睨む。
「少し俗っぽくなったんじゃないか?」
「そうか? 元からおれは俗どころかこの世の掃き溜めで垢に塗れて生きていたくらいだからな。今更俗に塗れようが綺麗なものだろう?」
 ねっとりと絡みつく蛇のような視線から、私は思わず目を逸らす。
 なんだ、今の視線は。
「それよりも、昨日の課題は終わったのか?」
「ああ、歴代王家の興亡と市民政府の誕生、だっけ。そこに」
 机の上に載せられた紙の巻物を解いて、私は中身に目を走らせる。
「クーデターって言葉は使わないでおいたよ」
 再び私はぎくりとしたが、顔は上げなかった。本棚の向こうで嗤っている楊輝なら容易に想像がついた。
 その頃から、だったのかもしれない。次第に「我が子」が化け物じゃないかと思いはじめたのは。いや、本当は会った時、押し倒されて馬乗りになられた時から、本能では気づいていたのかもしれないが、見た目の小ささ汚さにその可能性を除外していたのだ。
「ねぇ、カラス。カラスは何でカラスなの?」
 召使の若い女にするように、ある日楊輝は、勉強を教えるために隣に座る私の髪に指を絡ませて、無邪気を装って聞いてきた。私はぱしりとその手を叩き落とす。しかし、楊輝は性懲りもなくまた手を伸ばしてきた。
 勢いよく私は席を立つ。
「今日の授業はこれまでだ」
「カラス。僕、孔冀章様にお会いしたいな」
「僕?」
 背中に粟立つものを感じながら、ぎろりと私は後ろを顧みる。
 思いのほかすぐ近くに楊輝は立っていた。
「気配殺すの上手でしょう? 女たちはね、みんなおれが僕って言ってこうやって見つめると、顔を赤らめて力が抜けるんだよ」
 後じさりするうちに壁に追いやられ、逃れられないように楊輝は両腕を壁について私を間に挟み込んだ。
 いつの間にか背まで私より大きくなっている。
 ごくりと唾をのみ込む。
 これは、モンスターだ。綺麗な人間の皮をかぶったモンスターだ。あの印象深い三白眼にも、今は瞼にふっくらと肉がつき、二重になって目元を縁取っている。ハリネズミのようだった黒髪は伸び、頭上で一つの団子にまとめられて布で巻かれている。健康的なオレンジ色の唇は口の端がいつも笑んでいるように持ち上がり、初心な娘なら口元だけでも誘惑されかねない色香に満ちている。
「お前、本当に十二歳か?」
「誰が十二歳だなんて言ったの」
 ふふ、と楊輝は鼻で嗤う。その吐息が私の鼻先にまでかかってくる。
「拾ってから三年経った。あの時、お前は九歳くらいだっただろう? だから今は……」
「長年栄養失調で動けなくなってたおれのこと、見た目通りの年齢で判断しちゃってよかったの? おれの血を採っていったとき、年齢までは調べられなかったの? カラスのところの科学力って、その程度?」
 はっと顔を上げて、次の瞬間私は手をあげていた。
「残念。何度も同じ手にはかからないよ。本当、手癖の悪い女だな。こんな女、他にいない」
 目を開けたままキスをされたのははじめてだった。
「な……んで……こんな、こと……」
「口づけする時は、どの子もみんな目を閉じるのにね。礼儀じゃない?」
 大きな掌が目の前に降りてきて、強制的に目の前を遮られる。二度目の口づけは、唇の柔らかさや香りが如実に伝わってきて、ネズミとしたキスの感触が消されていくようで、慌てて私は楊輝を突き飛ばそうとしたが、楊輝はよろめきもしなかった。唇を舌でなぞられ、舌を絡められ、存分に吸い取られる。理性が必死に拒んでいるというのに、腹の下はじんわりと疼きはじめ、手足が震えだす。
 ふと、閉じた目裏に初めて楊輝と出会った日、楊輝の唾液が零れ落ちてきた瞬間が蘇った。
「っ! 離せ!」
 渾身の力を込めて押しやると、楊輝はようやく口を離した。
 私は情けないくらい息が切れていたが、楊輝は余裕で口元を拭う。
「カラスって、こうやって見るとぼくたちとちょっと顔立ちが違うよね。砂漠の向こうから来た人みたいだ」
 にこやかに、愛でるような目で楊輝は私を見る。
「お前、どこでそんな人間に会った?」
 この屋敷に出入りできるのはごく限られた旦那様の息のかかったこの国の者たちだけ。
「気配殺すの、上手くなったでしょって、さっき言ったでしょう?」
「お前、ここを抜け出して……!?」
 そんなにセキュリティレベルは低くなかったはずだ。門兵がいるのは当たり前として、それ以外にも監視の目はつけていたはず。
「……誑し込んだか。男まで……」
 蔑むような目を向けると、さすがに楊輝の表情はわずかに曇った。
「これくらいの身体はちょうどいいみたいでね。子犬抱いてるみたいで楽しいらしいよ? もっとも、あそこにいる時よりはよほど優しくしてもらえるけど」
 唇を噛むと、自分のものではない味がした。
 唾を吐きだしたいのを我慢して、身を翻す。
「待ってよ。上出来だと思わない? 人心掌握の術も心得たよ? 街に出れば同志がたくさんいる。みんな、今の王政には不満を募らせているんだ」
 恐る恐る振り返ると、自信満々のくせに褒めてほしくて不安げな子供がそこに居た。
「煽ったのか?」
「そんな、まだ先のはずだったとか言わないでよね。おれにだって時間がないんだ。急がないとタイミングを逸する」
「タイミングを……」
 また、地下の言葉を。これは私が教えていないものなのに。
「気にしなくていいよ。クーデターもタイミングも、昔の本に載っていた。異国の言葉だよね。蔡よりも、陶よりも遠い、海を渡った遥か向こうの国の言葉」
 旧式のアルファベットの並ぶあの本を、読んだというのだろうか。私が教えていないのに? この国の言葉以外を使った本は、どうせ読めるまいとそのままにしていた。きっとアルファベットもキリル文字も、装飾か何かくらいにしか見えないと思っていた。それを、読んだ?
「そんなに驚かないでよ。どうせ本棚の中味吟味するなら、辞書は捨てておかなきゃ」
 私は軽く掌で顔を覆う。
 たった三年で、ここにある本を全て読んだのだろうか。
 だからこその、孔冀章に会いたい、か?
 こいつは、化け物だ。知的好奇心のモンスターだ。
 だが、その気持ちは、私にもわかる。
 お前は、この屋敷だけでは世界が狭くなってしまったんだな。
「お前の、時間がないとはどういうことだ?」
「おれがカラスの傀儡でいられる時間だよ。担ぎ上げるつもりだったんだろう? 今の王朝と倒した暁には、旧王朝の末裔として、おれを玉座に就け、この国を――この世界を自由に操るつもりだったんだろう?」
 ごくりと、唾をのみ込んだ喉が鳴った。
「どこまで、知っている? 何に、気づいている?」
「おれを迎えに来る輩はろくな奴じゃない。その辺で野垂れ死んでたはずのたかが栄養失調のガキなら誰でもよかったろうに、わざわざおれを見つけ出し、身なりを整えさせ、教養を与え――歴史や社会論、政治経済論に大分偏ってはいたけれど、そこまでした上に、カラスはおれに楊の姓をくれた。つまり、楊になれ、っていうことなんだろう?」
「全部自分で気づいたみたいに……」
「カラス、おれの名前、知ってる?」
「何を言ってる。お前の名は……」
「楊輝はカラスがつけてくれた名だ。カラスも、本当は別の名前があるんだろう?」
 アルバ。
 君は、夜明けのアルバだ。
 ネズミ――ネズミ、ネズミ――!!
「君は、誰?」
 クズ、クソ、ベンジョ、オンナ、ゴミ、ガキ――
 名前など、なかった。
 ネズミがつけてくれるまで、私に名前など……皆が呼んでくれる名前など、一つもなかった。
 唇を噛みしめる代わりに、緩むはずのない涙腺から一つ、涙が零れ落ちていた。
 楊輝はそれを人差し指で掬い取り、唇で啜る。
「悲しい時の涙はしょっぱいって、本に書いてた。本当だね。これ、すごくしょっぱいや」
「うるさい!」
「おれにも名前、なかったよ。多分、カラスと一緒。だから……名前をくれた人のことは特別なんだ」
 楊輝が俯いた隙に、私はそこから逃げ出した。
 体当たりで扉を開け、転がりだし、召使の女たちが呼び止めるのも聞かず、一目散に屋敷の自分の部屋に閉じこもる。
 帰ろう。
 いったん帰って、ネズミとキスをして、ネズミの体温を感じて、ネズミの声を聞いて、ネズミをうんと甘やかして、ネズミと――
「カラス」
 扉の外から呼びかけてくる声に肩を震わせる。
 私は、あの子供の母となろうと思っていた。持ち合わせているものは何もないが、庇護くらいはしてやろうと思っていた。だが、あいつは私の庇護下などとっくに抜け出していた。私は、あの子供に母だなどと思われていなかった。
 あれは、誰だ。何者なんだ。
 私は、何を拾って育てた?
「さっきの話の続きだけどね」
 楊輝はわざと周りに聞こえるくらい大きな声で呼びかけてきた。
「やめろ! 続きなどない! 黙れ!」
 どこまで知っているかわからないのに、これ以上騒がれても困る。
 だけど、この部屋に入れることだけはできない。
 身の危険もさることながら、この部屋には地下へ通じる扉が刻まれているのだから。
 聡いあの子なら、それがどこにあるかすぐに気づくだろう。
「カラス、孔冀章様のこと、考えておいて。カラスのこと差し置いてって思うかもしれないけど、僕はもっともっと広い世界を知りたいんだ。ね、頼んだよ」
 猫かぶりの楊輝の声が聞こえて、反吐が出そうになり、去っていく足音に安堵する。
 私は、立ち上がりその足で旦那様に連絡をした。
 楊輝が孔冀章に弟子入りを志願している。一度会わせてもらえないか。
 そうすれば、二度と私が楊輝と会うこともなくなる。楊輝はもう一つの望みが叶う。計画は早まるのか、それともぶれるのか分からないが、いずれ楊輝を王宮に入れるつもりだったのだから、構うことはない。
 三日後、旦那様から連絡が来て、楊輝を孔冀章と会わせることになった。
 結論から言えば、楊輝は満面の笑みで帰ってきた。旦那様から聞くところによると、孔冀章も楊輝を弟子として受け入れたいということだった。一体どういうやり取りがなされて、二人の間で何が取り決められたのかはわからないが、こちらとしても好都合に違いはない。私も二度と、地上になど出なくても済む。
 だから、その晩、私はすっかり気を緩めていたのだ。
 紅茶を一杯飲んで少し休んだら、地下に帰るつもりだった。
 まさか、眠るなどとは夢にも思っていなかった。
 安楽椅子で転寝していたはずなのに、気づくと寝台の天蓋が見えた。手足は何かに抑えつけられていて動かない。首筋には生暖かい吐息がかかっていた。
「カラス――目が覚めたの」
 上には、一人の男が乗っていた。
「ネズミ……?」
 暗くて顔はよく見えない。だけど、私がこんな悪戯を許すのはネズミしかいない。
 そうだ、私はいつ地下に帰ってきたのだろう。どうやって? さっき、アラベスク模様の施されたカップで紅茶を飲んだところまでは覚えているけど。
 口を塞がれる。
 生暖かい唾液が舌とともに流し込まれる。
 知らない味がした。
 これは、日向の味じゃない。糞尿に塗れた鉄錆の味。
 目を開けてもがく。それでも口は塞がれたままだ。
 こいつはネズミじゃない。ネズミは、私にこんな悪戯は仕掛けない。仕掛けるのは、いつも私からで……
 こんな奴、舌を噛み千切ってやる。どれだけ血を流そうが、死のうが、構うものか。
 そう思ったのに、ネズミのことを思い浮かべた途端、私の身体からは力が抜け落ちていた。
 私だけがいつも一方的に追いかけていた相手。
 求めれば応えてくれるけど、求めてはくれない男。
 それでもいいと思っていたのに、――ネズミ。
「どうしたの? 抵抗しないの?」
 口が離れる。地上で最も聞き慣れた声が降ってくる。
 返事がないと知ると、男は上着のボタンに手をかけた。
 そこで、ようやく私は我に返る。
「寄るな、汚らわしい!」
 寝台に身を埋めるようにして身を引き、手足の代わりに声で威嚇する。
「貴女も女の子だったんだね」
 哀愁を帯びた男の声が耳元でして、そのまま唇で首元をなぞられる。
「楊輝」
 震える声で男の名を呼ぶと、首の真ん中あたりを柔らかく噛まれた。
「ねぇ、もしおれが王位を簒奪できたら、カラスはおれの王妃様になってくれる?」
「何を、馬鹿な……」
「この国の王妃だよ?」
 おれたち、もう惨めな孤児じゃなくなるんだ。
 そんな声が、聞こえた気がした。
「ふっざけるな! 私はそんなものなど望んではいない!」
「でも、おれはネズミにはなれない」
 暗くても、じっと真正面から見下ろされているのが分かった。
 親に見放されて途方に暮れた子供のようだった。
 だけど、私はこいつに女の私を与えてやるわけにはいかない。私はこいつの恋人じゃない。母になろうと思ったことはあったが、それとて産んだわけでもない。年端の行かない子供を引き取って育てる心構えのようなものだ。誰が、子供の皮を被った大人だなどと思う? 誰が……
『でも、カラスはウサギじゃない。ルナじゃない。一生かかっても、ルナにはなれない!』
 ネズミ、分かっているよ。私はルナじゃない。私では、一生かかってもお前と対を為す月にはなれない。夜明けなど、太陽(お前)がいてこそ訪れるものだろう?
「おれが、カラスに与えてあげられるのは、王妃の冠だけ」
「いら……ない……私はそんなもの、いら、ない……」
 涙が湧き上がってきた。視界が白く霞んで、余計に暗闇の中の影が見えにくくなる。
 泣くな、自分。
 そんな女々しい私を、あいつは望んでいない。あいつが望む私は、凛々しくて、自立していて、誰にも頼らず周りの迷惑など顧みずひたすら自分の道を突き進む変人で――あいつが望む私は、ネコと同じ。男の親友。
 分かっているだろう。
 あいつがまだ、いつかウサギが帰ってくると信じていることを。
 分かっているだろう。
 私のことなど、女だなどとこれっぽっちも思っていないことを。
 ――ウサギはもう、死んでいるのに。
 ――地上など夢おとぎ話だと嘯いてきたのに。
 一体、私は、ネズミに必要とされているんだろうか。
「カラス」
 私を泣かせているのはお前だというのに、楊輝は心配そうな声で私を呼び、頬の涙を吸い取っていく。
「また悲しんでる」
「こんなことをされて怒らない奴がいるか」
「怒っている時の涙の味もしょっぱいのか。どうしてだろうね。カラスは知ってる?」
「私の授業はもう終わっている。あとは孔冀章から教えてもらえ。女の身体のことなら、すでに学習済みだろう? 私はお前にとって用済みだ」
「いくら孔冀章でも、涙にナトリウムが含まれているなんて知らないと思うな。悲しい時、体内に必須の要素が多く排出される。それって、積もり積もった悲しみを体外に出そうってことじゃない? そういうホルモンが脳下垂体から出されるからじゃない?」
 私は目を見開く。
「おれ、歴史や政経もそれなりに楽しかったけど、本当は生物とか医学とか、そっちの方がもっと知りたかったな」
 額にキスを一つ落とされる。
「どうして……」
 私は、楊輝を男としては見られない。
 だが、惜しいと思うのだ。
 できることなら地下に連れ帰り、思う存分研究をさせてやりたい。
 きっと、こいつも私と同じだと思うから。
 好きなことに没頭できたら、きっと世界が変わるほど――いつも煩わされる女とか男とかの性に絡む問題を超越したところで、満たされることができると思うのだ。
 そして、楊輝の場合は私と違って、きっと人の役に立ついい研究を発表することだろう。
『ああ、壊してしまいたい。街も、人も』
 爆薬の研究ばかりしている変わり者のカラス。それが地下での私。
 ネコは、ネズミを地上に出してやるための火力として研究をしていると思っていたようだが、それを聞くまでは、純粋にいつか上層の公安も政府も全部吹き飛ばしてやろうと思ってた。私とネズミの自由を奪うものは須らく、消えてしまえばいいと思っていた。
 私の研究は、壊すための研究だった。
 人を生かそうなど、これっぽちも思ったことはない。
「そっちの方の応用が、睡眠薬か」
 まぁ、導いてやるものが近くにいないと、このモンスターもどっちへ走るかはわからないが。
「カラスの体型から体重とか色々目分量で測って、庭で見つけられない薬草は街に買いに行って、自分で調合してみたんだ。一応、安全かどうかの実験は済ませてあったけどね」
「目分量で測るにしても経験がいるだろう」
「そんなの、街に出たついでにたくさん積んどいたから」
 にっこりと「僕」という悪魔の笑みで微笑まれたのが分かる。
 だんだん、本当に自分と違うとは思えなくなってきて、困る。
 このまま野放しに孔冀章の元にやってもいいものだろうか。それで果たして――そこで逃げるも、使われて死ぬも、こいつ次第なのだろうけど。
 私は、上手く逃げてくれればいいと思っているのだろうか。
 私がいなくなれば、きっと別の監視がつく。それでも、こいつならうまく逃げおおせることができるのではないだろうか。
「カラス、おれから何か質を取っておかなくていいの? おれ、孔冀章のところから逃げるくらい、簡単にできるよ? クーデターも、王位転覆も、本当はどうだっていいんだ。やらなくていいならそれに越したことはない。だって、興味ないもん。興味ないことはめんどくさい。めんどくさいことはやりたくない。そうでしょ?」
「私にお前の人質になれ、と?」
「おれのこと、子供だと思っているでしょう? 旦那様には十四歳って伝えたんだっけ? でも、この身体、最近栄養がいいせいか、すごく成長が早いんだ。今までの分、取り戻すみたいに、どんどん成長してる。来年の今頃、十五歳って言って通じるかどうか、怪しいものだと思うんだよね。傀儡は、子供の方がいいでしょう? うまく操れている感じに見えて」
「……お、前……」
「化け物見るみたいに見ないでよ。拾ったのは、君だよ」
 額を合わせられ、目を覗き込まれる。
 全てを見透かされそうになる。
 楊輝を恐れていることも、その才能を惜しんでいることも、ネズミのことも、地下のことも、全て、見透かされている気がしてくる。むしろ、全てを打ち明けたくなってくる。
 それがこいつの誑しのテクニックだと分かっていても、騙されそうになる。
「カラス、望みを言って。命令でもいい。おれに、安家の王族支配を終わらせてみせろって、言ってみて」
「玉座は、欲しくないのか?」
「君が隣にいない玉座なんていらない」
 思いのほか強い口調に、私は一瞬毒気を抜かれる。本気で、信じそうになる。
「でも、君が望むのなら、君のために玉座を得るよ。隣に君じゃない女性が座っていようと、王になってこそおれにできることがあるのなら、おれは王になるよ」
 譲歩、の声だった。
「孔冀章は手ごわいぞ。第三王女との仲も睦まじいと聞いている。第三王女も足の小さい透き通った玉のような美人だそうだ。隣に侍らせるには格好のお人形だ」
「お人形、ね」
 楊輝の失笑は無視して、私は続ける。
「お前たちの国では、足が小さい方が綺麗なのだろう? 私は纏足も施していない、大きな足の女だ。それもどちらかといえば大柄な方で――」
「おれは纏足の女なんて知らない。見たこともない。いつも誰かに手をとってもらわなきゃ歩けないような女より、自分の足で歩ける女の方が好きだ」
 楊輝の言葉にはいつになく熱がこもっていて、思わず胸の奥底の何かに打ち当たった気がした。
「違う。違うんだ。私は……私だって、誰かに手を引かれて導いてもらいたい。いつも側にいてほしい。大丈夫だと言ってほしい。綺麗だと言ってほしい。好きだって言ってほしい。私のことだけ、見てほしい……」
 ネズミ。
 辛くなると、いつも心の中で呼んでいる。
 ネズミ、ネズミ。
 貴方がいるから、私は、私は――強くなれない。自由になれない。貴方のことだけ、考えてしまう。
「――依存してるのは、私の方だ」
 わななく口を抑えられなくて、楊輝から顔を背けた。
 どうして楊輝相手にそんなことを口走ってしまったのか、自分でも分からなかった。
 できることなら顔を覆ってしまいたかったが、両腕を抑えられていてはそうもいかない。なのに、ふと、察したように腕を抑える力が緩められた。
「え……」
 思わず楊輝を振り返る。
 楊輝は困ったような顔で目を逸らす。
 おそるおそる、私は自分の手を引き寄せる。
 今更顔を覆う気にも慣れなくて、掌を見つめていると、そっと楊輝に抱きしめられた。
「ねぇ、帰んなきゃだめなの? そいつのところ」
 顔を上げたが、抱きしめられていては楊輝の顔は見えない。
「どこの国から来たのか知らないけど、もういいじゃん。おれのこと拾って育てるまでがミッションだったんでしょ? 君がやれって言うなら、クーデターでも玉座獲りでも、何でもやってやるよ。国に帰りたくないって言うなら……一生見つからないところに逃がしてやるよ。それとも、君が帰らないとネズミは殺される?」
「……」
 深く、腹の底からの溜息が漏らされた。
「誰もかれも、考えることは同じだね。人の心利用して。おれが君の上司なら、国に帰ってきた君のこともネズミも殺すけど」
「それは……ない。ネズミには、まだやることが、ある、から……」
「でも、君はもう用済みじゃないの? ネズミにやることがあるなら、君が無理に帰らなくてもネズミは生き残るよね? むしろ、帰らない方が得策じゃない?」
「それでも私は……」
「やっぱ一つ訂正。一生見つからないところに逃げるなら、おれも一緒に行く。逃げちゃおうよ、二人で」
「それは……でき、ない」
「おれのことが嫌いだから? 信用できない?」
「そうじゃ、ない。いや、そうだけど、私は、仕事、で、お前を拾って、この国を……」
 くらくらと頭の中が霞む。
 自白剤も飲まされていたのかもしれない。
 できることなら仕切りなおしたい。そうでないと、押し切られてしまいそうだ。
「仕事、か」
 楊輝はぱっと腕を解いた。
「なら、君の仕事が完璧だったとぼくが証明して見せよう。君の望みは安家の王位転覆。ついでに次世代リーダーを傀儡にこの国を操ること。いいよ、叶えてあげる、その望み。だから、仕上げに――君をちょうだい。おれが君の言葉以外、従えなくなるように」
 明るい作り笑顔で、顔を覗き込まれた。
 ご主人様の機嫌を窺う犬のような笑顔。
 そんなもので縛りたくないと、私の心が悲鳴を上げた。
「やめろ。そんな理由で抱かれたくはない」
「我が儘だな。じゃあ、どうすればいいの? 君は人心掌握についてどう思ってるの? どんなに理性で自分を戒めたって、最後には感情で全部吹き飛ぶことだってあるんだ。心を握っておくことは悪いことじゃないだろう? しかも握らせてやると言っているのに」
 言外に、そんな馬鹿だとは思わなかったと言われているようで、むっとするよりも自分で自分が情けなくなる。
「睡眠薬まで飲ませたくせに……今更、同意が欲しいのか?」
 この期に及んで言ってはいけないことだと、頭では分かっていた。でも、口から滑り出してしまった言葉は、もう取り戻せない。
「私の心まで、手に入ると思うな」
 顔を背けたまま、突き放す最後の一言を投げつける。
 怒気が放たれたのが分かった。両肩を掴まれ、首筋から腹まで、血が滲み歯形が残るほど噛みつかれ、肉を引っ張られ、ついに足を開かれる。
 その間、私は呻き声一つ漏らすまいと手で口を押えていた。逃げ出す気力はなくなっていた。楊輝が本気で今のことを言ってくれていたとして、何故心が添えないのかと、そればかり自問していた。ネズミは決して私には言ってくれないこと。女なら、心がくすぐられても、揺らいでもおかしくはないこと。今更貞操など気にするような純潔さも持ち合わせてはいない。それなのに、どうして、頑なに私は楊輝を拒むことしかできないのか。
 仕事だと言った。
 これが仕上げになるのだと。
 楊輝の言う通り、正しいのは楊輝に私の言葉をしみこませ、計画の完了まで遂行させること。仕事なのだ。人を欺くことも、利用することも、嘘をつくことも、身体を与えることも、今まで難なくやってきたことだろう、カラス?
 だって、それが生きるためだったから。
 誰も信じないと決めただろう。ネズミさえも、本当は私が心から信じきれていないから、ああなんじゃないのか? 本当は、私が思っている以上にネズミは――。
「やめなさい」
 私は楊輝の肩を両腕で押しのけた。
 脹脛に歯形をつけていた楊輝は、我に返って不思議そうに私を見下ろす。
「足を離して。おろしなさい」
 言われたとおりに、楊輝は私の足を寝台の上に降ろした。
 私は身を起こす。
 楊輝と同じ目の高さになる。
「私の望みを教えます」
 怪訝そうな目で見る楊輝の溜飲が大きく揺らぐ。
 私は大きく息をつく。
 そして、正面から楊輝を見つめる。
「私を、信じさせて」
 そう、それが、全て本当のことだったとしたら。
 幸せなことなんじゃないだろうか。
 もし、それが真実で、私が心から信じることができたなら。
 片腕を伸ばす。
 手が、楊輝に触れる前に抱き寄せられる。
 ぎゅっと、ネズミよりも力強く、同化してしまうのではないかと思うほど強く、抱きしめられる。
「ありがとう」
 耳元で囁かれたその言葉だけで、十分だった。
 私の心は、この男の今後の働きを信じることに思い定まった。
 きっともう、自分の弱さに揺れることはない。
 交わした口づけの味は、少し苦いベリーの味に変わっていた。悪くない。
 その後の楊輝は、優しかった。窖最下層の男たちはもとより、貪るように甘えてくるネズミとも違う。丁寧に、細心の注意を払って、まるで処女を抱くように姫心地を味わわせてくれた。
「一つだけ我が儘を聞いてくれないか?」
 夢見心地の途中、楊輝が囁いた。
「何?」
「名前を教えて。カラス以外の」
 アルバ。
 ネズミの声で聞こえて、私はぎゅっと目を瞑る。
「じゃあ、名前をあげてもいい? 今夜だけ」
 私は目を見開く。
「せっかくの夜なのに、呼び名がカラスじゃあんまりだろ? だから、黎」
「黎?」
「そう」
 楊輝は、私の髪を一掬い指に絡めて唇にあてた。
「黎明の黎。夜明け前の、最も暗い空の色。君の、この髪と瞳の色。日は必ず昇ると約束された空の色。太陽を、迎え入れるための空の色」
 泣き出した私を、誰が責められよう。
 こらえきれずに嗚咽が漏れる。
 楊輝は私の目元に口づけた。
「……悲しいのかと思った」
 驚いたように顔を上げて報告する。
「ばか、嬉しいのよ」
 楊輝の首に腕を回すことに、もう躊躇いはなかった。
 ネズミ、夜明けにも、地上では色んな呼び名があるんだな。
「君の髪を見て、いつも思ってた。君の髪は、夜明けが約束された色なんだ」
 今の、この国と同じ。
 夜明け前の混沌とした空の色。
 全てを呑みこみ、全てを内包し、全てを覆い隠し、全てを知っている。
「黎」
 苦さはなくなり、透き通るような甘さだけが残る口づけ。
「輝」
 与えたその名が、よもや太陽を想起させるものだったとは私も思っていなかったが、この国の夜明けを開く人物になれるのか、いや、なればいいと、心の中で小さく願った。
 翌朝、それこそ黎明のまだ薄暗い時間に、私達は別れた。
 私は地下へ。
 楊輝は孔冀章の元へ。
 それが、私が地上の夜明け前の空を見た最後になった。
 三か月後、原因不明の体調不良の中、私はネズミが切望していた地上へ繋がる遺跡の扉を開くため、爆薬を仕掛けて邪魔な岩石を破壊しようとしたのだが、時期を少し見誤ったらしい。ちょうどネズミが帰ってきてしまって、遺跡が崩れたらどうするんだと爆破範囲内に飛び込んでいってしまい、結果、私はネズミを庇って、知らないうちに芽生えていた一つの命を失った。
 私がネズミの上にぶちまけてしまった様々なものの中に、それはいた。
 もしかしたら、地下で生き生きと研究に没頭する楊輝と瓜二つの姿を見られたかもしれない、大切な命だったのに。
 換えの身体ならいくらでも作れる。
 でも、命はもう、作れない。楊輝の遺伝子を受け継いだ命は、もう。
 私はネズミに言った。
「私はお前の側にいたいんだよ。だから、女であることをやめたいとつくづく思っていたんだ」
 嘘じゃない。いい機会だ。あれほど望んでいたじゃないか。
 そう自分に言い聞かせて、ネズミに腹を閉じさせた。
 本当は、楊輝と別れる前までは、という言葉がちらついていたが、ネズミに悟らせるわけにはいかない。
 眠りに落ちる直前、楊輝の姿が見えた気がした。
 振り下ろされた剣に斬られて、血しぶきを上げて倒れる姿だった。
 ネズミは私の身体の一部を保存していたようだが、そこに、望んだそれは含まれていなかった。期待した自分が馬鹿みたいで、悔しくて、ネズミに八つ当たりした。
 埋葬してやることもできず、地上の様子を知ることもできず。
 いっそ、一緒に逃げようと言ってくれた時に手をとることができていたら、今よりも幸せになれていただろうか。
 そんな私の憂鬱を知らず、ネズミは地上への扉へと近づいていく。
 そうだ、ネズミを地上に行かせよう。
 今までもそのつもりだったが、最近の私はどうも本調子じゃなかったからな。
 ネズミを地上に行かせて、土産話を持ち帰ってもらおう。
 一方通行の扉ではなく、帰ってこられる扉を作るのだ。
 そして、地上の夜明けの話を聞かせてもらうのだ。
 地上に残してきた太陽は輝けたのか、教えてもらうのだ。


10.5 楊輝

「楊家は王族の末裔だったのよ。今はこんなに落ちぶれてしまったけれど、本当はこの国の誰よりも、今の安家よりも、ずっとずっと高い血筋を持っているのよ」
 母の呪いが、未だに耳元でこだましている。
 じゃあどうしてこんな目に遭ってるんだ、と胸の中でおれが叫ぶ。
「貴方は楊家を再興するの。いつかじゃなく、今の王女の婿になり、いずれは王となって返り咲くのよ。だから、貴方の名前は楊帰(ようき)。いずれ王宮に帰り、楊王家を再興させるのです」
 人の思いの詰まった名前が、こんなにも重いものだとは思わなかった。
 どうでもいいものを背負わされる子供の気持ちを、この人は何も考えていないのだと思った。
 おれの意志は? 望みは? 夢は?
 夢――ははっ、この環境で、夢?
 周りは糞便塗れの茶色に満ち満ちているっていうのに?
 ここは、地獄だろ。
 地獄の王になら、おれでもなれる気がする。
 そう思ったこともあったけど……きっともう、だめなんだろう。骨と皮だけで、生きているだけでも不思議なこの身体。もう買ってくれる大人もいなくなった。この意識が途切れるのも時間の問題なのだろう。
「迎えに来た」
 カラス、おれ、あんたにそう言われた時、嬉しかったんだ。
 地獄でもどこでもいい。
 ここから出られるのなら、あんたについていって、あんたの望むものになろうと決めたんだ。
「おれにも名前、なかったよ。多分、カラスと一緒。だから……名前をくれた人のことは特別なんだ」
 嘘をついたのはこの一度きりだよ。
 それくらいおれは、自分でもおかしくなるくらいあんたには正直でいようとしたんだ。
 楊帰と楊輝。発音は同じだろう?
「ああ、おれ、カラスの故郷に行ってみたかったなぁ」
 正直、見た目が人形みたいに綺麗でかわいい王女のことは何とも思わなかった。事前に孔冀章から打診があった通り、有能な弟子として王女と王宮の図書館で議論討論を重ねるうちに、完璧に女としては見られなくなっていた。どうせカラスが手に入らないのなら、カラスの任務を全うさせてあげられるのなら、この王女に色目を使うのもありだと思ったこともあったが、とっくに王女は孔冀章に夢中だった。孔冀章も、王女に夢中だった。
 年の差は、笑えない。
 おれは何も見ぬふりをして、クーデターに参加する人々を集め続けた。
 王女にクーデターという言葉を吹き込み、孔冀章をその中心として担ぎ上げ――本来であれば、楊家末裔のおれを中心にして担ぎ上げさせるつもりだったが、王女は市民権や平等という言葉にひどく憧れていて、王族支配には拒否反応を見せていた――それと気づかぬように離宮時代に読み漁った市民政治の在り方について議論を深めさせ、王女に下手な噂が広まらないように、必要以上の接触を控え……そこにきて、王女は次第に死にたがりの王女になってしまった。自分の血ごと安家を絶やす覚悟なのだと豪語し、恐れる様子の全くない王女。
 死を理解しない王女は、おれにはさらに理解不能だった。
 しかもおれに、孔冀章と婚礼の儀を執り行っているときに自分を殺してくれというのだから。
 おれはますます、この王女が苦手になっていった。
 もちろん、表情には出さない。
 でも、花嫁姿のこの女を斬る時、きっと自分は何も思わないのだろうと思った。
 だから、孔冀章に裏切られても、別におれは何とも思わなかった。
 孔冀章と第三王女の婚礼の儀の最中に押し入って、血に塗れた剣を振りかざし、絢爛豪華な広間を踏み荒らして――まるで、おれが王女を奪い取りに行くかのようなシチュエーションだったが、それも我慢して――王女に切りかかる。
 孔冀章は、ある意味予想通り、王女を左腕に抱きしめたまま離そうとせず、右手でおれを切り捨てた。
 派手に血飛沫が上がる。
 それが自分のものだと気づくまでに、しばし時間がかかった。
 倒れて仰向けになって、見たこともないほど豪華な天井絵が見えて、かすんだ視界にカラスが見えて。
「ごめん、黎。おれ、しくじった」
 何をしくじったかって、あれほど彼女に偉ぶって人心掌握がどうのと説いておきながら、自分の気持ちを甘く見ていたことだ。
 黎以外の女だってたくさん抱いてきたのに、いざ結婚話となったら、おれは孔冀章を押しのけて王女を口説く気にさえならなかった。自分をごまかして、ひとまず孔冀章をリーダーに担ぎ上げて自分は温存して、クーデターに失敗したら今度こそ自分が出張ろうとか、王女から逃げることばかり考えていた。
 黎、ごめん。
 おれ、自分で思ってたよりあんたのこと、好きだったみたいだ。

(10201608210010/10.5201608202018)