鳥籠の王女とネズミの太陽
8.義足と自由

 暗闇の中、ソルは迷わず地下水道を駆け抜けていく。足元の黒い水が、時折跳ねて着物越しに染みてきて冷たかったが、文句を言うつもりはなかった。
 私はソルの胸元の着物の端を掴み、俯きながら考え続けていた。
 何故、あそこにあの人が。
 何故。
 そして、今どうなっているのか。
 ぎゅっと掴む。
「花琳、痛い」
 感情のこもらない声が落ちてきて、私ははっと手を離す。
 おずおずと顔を上げると、ソルは立ち止まり、ただ一点を見つめていた。その先には何も見えない。ただ闇があるだけだ。
 ソルは私を片手で支えられるように肩にのせると、もう片方の手を何もない真っ黒な壁に向けて伸ばした。
 と、その手のひらは淡い水色の光を帯びて光った。
「ソル?!」
 私は驚くが、ソルは一向気にもせず、手を引っ込める。すでに手から光は失われている。
「今のは、なんだ……?」
 私たちを取り巻く微妙な空気に気づかないふりをして、私は尋ねる。
「手のひらの静脈認証。開けゴマ、なんってな」
 ソルが手を向けなおした岩壁が、呪文に応えるように微かな軋みを上げながら左右に開かれていく。
「ソルは……魔法使いだったのか?」
「ぷっ。馬鹿だなぁ。そんなんじゃないよ。地下の科学技術の一つだ」
「地下の科学技術が、なぜ地上の我が王城の地下に使われているのだ?」
 ソルはしばし沈思する。
「答え合わせはエレベーターの中でしようか。後ろから誰かが追って来ている」
 確かに、いつからか後ろから複数の足音がついてきていた。到底ソルの足には追いつけないものと思っていたが、ここで立ち止まった分、少し距離を詰められたらしい。
 開いた岩壁に滑り込むようにして中に入り込むと、再びソルは同じように手に淡い水色の光を宿して扉を閉めた。その代わり、暗闇ばかりだった空間に少しずつ乳白色の光が拡がっていく。同時に、耳障りなキュィィィィンという聞きなれない音と金属が軋む音が続き、がくんと足元が揺らいだ。
「何!?」
 思わずソルにしがみついたが、ソルは慣れたように笑った。
「エレベーターだよ」
「えれべーたー?」
「昇降機、といった方がいいかな。地下に降りるための機械だ。といっても、下りで使用するのははじめてだろうから、無事につくかはわからないけど」
「昇降機……地下に降りるための道具……」
 ソルの足元は再びがくんと揺れ、その揺れは私にも伝わってくる。続いて、足元の方向に急激に引っ張られるような感覚が襲ってきた。
「ソル!」
「あはは、大丈夫だって。すぐ慣れるから」
ソルの言葉通り、吸い込まれるような感覚はすぐに薄れていったが、少しばかり気持ち悪さが残り、袖で口元を抑える。
「少し、下ろしてもいいかな」
「あ、ああ」
 冷たい金属の床に降ろされ、壁に背を凭せ掛ける。揺れは直接伝わってきたが、やがて抱えられているときよりも込み上げるような気持の悪さは薄らいでいった。
「ソル、お前が来た時もこのエレベーターとやらを使って来たのか?」
「そう。何? モグラみたいに土を掻いて出てきたと思った?」
「そうじゃない。が……」
「『何かあった時は地下へ行け』、歴代王になる者だけに受け継がれている古の書物、だっけ? ついでに『地下にはもう一つの都がある』とかっていうのも聞いたことない?」
 私は口を噤む。
「むかーし昔、地上には二つの大国がありました。大国は互いに争いあって、地上を人が住めない世界に変えてしまいました。そこで勝った国は地下にもう一つの都を築き、地上で人が住めるようになるまで、人々を地下に避難させました。いずれ、地上が浄化された暁には迎えに行くと約束をして」
「地下がソルの来た国。地上が、私の国、か?」
「そうだね。とはいえ、地上もまた大分様変わりしているようだけど。当時は一国しかなかったのに、また分裂して国境作って戦争やってるんだろう? 本当、変わらない世界だ」
 くすりとソルが笑う。
「国境越える以前に、国の中で反乱だなんだとやっていたがな」
 目裏に見送るあの人の姿が見えた。
 ぎゅっと着物の裾を掴む。
 孔冀章は、一体何を考えていたのだろう。私と楊輝と同じことを思っていると思っていた。同じように世界を変えようとしていたのだと思っていた。
 世界、だなんておこがましいくらい、私たちの視野は狭かったのだが。
 ただのちっぽけな国一国変えることすらままならず、私は今、逃げている。
「地上は浄化のために、当時の科学技術力を最低限必要なものにまで抑え込んで国を維持した。地下に降りたおれたちの祖先たちは、科学技術力を維持したまま新たな世界を築いた」
 小さな匣の中、昼間のように皓皓と光を発する天井を見上げる。
 火の気もなく、太陽もさしていないのに、この明るさ。
 これが、科学技術とやらの力。
 我々が、昔、手にしていたという力。
「ソルの世界の話をしてくれ」
 ソルは私のはす向かいに腰を下ろし、両手を組んで後頭部と壁の間に挟んだ。
「地下には太陽がない。太陽の代わりに、昼の間中はのっぺりした高ーい天井に薄水色だったり灰色の光が映し出される。夜は少し青みがかった黒い天井に、銀色の星が映し出されたり、雲を出すときにはそれっぽく赤紫色に反射させたりしている」
「雲を出す?」
「必要に応じて雨を降らせているんだ。できるだけ地上に似せた環境にしておきたかったらしくてね。太陽がなくとも、光はいろいろと波長の加減もつけているから植物も育っている。地下の天気予報は百パーセント当たる」
「それは、すごいな。気象など、地上では祈りによってしか変えられぬ」
「そっちの方がすごいだろ。祈りで変えられるんだから」
「いや、祈るだけだ。結果的に時が満ちて、雨が降る。雨が降らぬ土地は捨てられて、新たな国土を目指して人が流れる」
「それはまあ、どこも同じだ。地下では気象は人を統べる手段だ。さっきのような地上のような環境も、上層部だけが享受できる恵まれたシステムだ。おそらく、地下に渡ってきた当初は層はひとつだけだったはずだ。そこから人口が増えて、偉い奴らはどんどん上に層を重ねていって、自分たちは最上層に移動していった。力のない者たちは下層に取り残され、力ある者たちは上層へと昇っていく。だから今現在、おれたちの世界は、最上層に政治家が住み、第二層に官僚や医者、第三層に平民、第四層に貧民、第五層に戸籍さえないような者たちが住んでいる」
「ソルは、どこから来たんだ?」
「第五層」
 そう言って、ソルはにやりと笑った。
「戸籍のない、貧民たちよりもさらに下層。何の保護も受けられないし、何の補償も受けられない。食べ物も寝床も家も、その他必要なものも、全部自分で調達しないと生きていけない。さらに、気象はコントロールされているから、そうそう雨なんて降らせてもらえない。生かさぬよう、殺さぬよう、月と呼んでる監視衛星が逐一おれたちを監視していて、上層部への不満が募った頃合いに雨を降らせて黙らせるんだ。大地に種蒔くことも、その層から出ることも、おれたちはできない。ただ抜け殻のように息をするだけの存在」
「ソルはそうは見えないがな。これから連れて行ってくれるカラスとやらも、そんなやる気のない奴ではないのだろう?」
「ま、大概やる気のない奴はさっさと死んでいくからな。でも、そういう奴らが多いのは確かだよ。何しろ無法地帯だから、食い物も誰かのを奪ってくるしかない」
「ソルはネズミのようにすばしっこいと自慢していたな」
「食糧のありかを見つける嗅覚にも優れているんだ」
「それはそれは」
「あ、ほんとだぞ? おれ、鼻が利くって有名なんだ」
「鼻が利くのはネズミよりも犬だろう」
「失礼な。犬よりもおれの方が百倍も千倍も賢くて、何でもすぐ嗅ぎ分けられて……」
「どうした? ネズミとカラスとネコがいるなら、イヌもいるのか?」
 ソルは少し上を見上げて、思い出したものを打ち消すように首を振った。
「そろそろ着く頃かな」
 露骨に話題を変えて、ソルは私の前にしゃがみ込んだ。
「第五層は、乾燥した大地と薄ら昏い空だけの世界だ。人々は基本岩盤に穴を掘ってその中に住んでいる。昇降機の扉が開いた途端にさっきの地下水路の何万倍もやばい下水の腐ったような臭いが入ってくるかもしれないけど、それはもう慣れてもらうしかない。足さえ歩けるようになったら、もう自分でどこへでも行ける。それまで少し、我慢して」
 私はごくりと唾をのみ込み、小さく頷いた。
 開かれた世界に染みついた汚臭よりも、この足が自由に歩けるようになった後のことを思っていた。
 自分でどこへでも行ける。
 それは、この地下世界に留まることもできるし、あえて危険を承知で地上に戻ることもできる、ということ。
「ソルは、どうする? 家に帰れるわけだろう?」
「そうだな。しばらくはこっちにいてもいいかな。でもきっとネコがしつこく追いかけてきそうだからね。頃合いを見てどこかに身を隠さなきゃならないだろう。王女さんは心配しないで。第五層民はそもそも身分を証明するようなものはない。あんたが一人増えたところで、大して目立つこともないから。そうだ、ついでにカラスに身を守る物も作ってもらおう。拳銃とか、王女さんでも持てるような小さいものを」
「拳銃……」
 昔、宝物庫で見たことがある、少し前までは使われていた人を殺すための武器。殺傷能力に優れるものの、作れる者がいなくなって廃れてしまった物だ。
「人を殺すのは恐い?」
「恐いなどと私が言えるものか。私はすでにたくさんの命を死に追いやってきたのだ。怖いなどと、死んでも言えるものか」
「それでも、この手はまだ直接人を手にかけたことはない」
 ソルはわたしの手を掬い取り間近に引き寄せる。
 私はソルから顔を逸らした。
「離せ、ソル」
 しかし、ソルは言うことを聞こうとはせず、私の手を握った自分の手に額を当て、目を閉じた。
「まだしばらくは、おれが花琳の足でいるから」
 祈るように呟く。
 私は顔を背けた。
 もし、自分で歩けるようになったら――どこへでも行ける。この地下に留まることもできる。だけど、この昇降機に自分で飛び乗ることができれば、再び地上へ帰ることもできる。その時、私は――。
 耳障りな金属の擦れる甲高い音は、次第にまた大きくなりはじめていた。身体にかかる負荷も大きくなる。
「失礼、王女さま」
 ソルはおどけて許しを請うと、私を両腕に抱え上げた。
 籠が落ちる速さはゆっくりになっていき、やがてがくん、と止まる音がして揺れは収まった。
 音もなく、銀色の扉は開く。
 途端、パンッという弾ける音と共に白い煙と硝煙の臭いが鼻を衝いた。
 本能的な恐怖に身が竦み、目を瞑りながら長い沈黙に耐える。
 耳元に絶えず伝わってくるソルの鼓動は途切れてはいない。私の身にも痛みはない。それとも、麻痺してるだけなのか?
 ソルは長く、身体を振り絞るように深く息を吐きだした。
 私はおそるおそる目を開け、顔を上げる。
 私を支えるソルの腕の力はいささかも衰えてはいない。慌てた様子もなく、むしろ予想通りといった雰囲気すら、見上げたソルの顔にはあった。
 苦くも懐かしそうな、ソルの微妙な笑顔。
「ただいま、カラス」
「お帰り、ネズミ。早かったじゃないか」
「そういうお前は、ずいぶんと野蛮な出迎え方してくれるじゃないか」
「らしくてほっとするだろう?」
「誰がだ。いいからしまえ、その物騒な花咲かした拳銃を」
「お前が女の子を連れ帰ってくるのが見えたからな。歓迎の花束だよ」
「監視カメラ付きか。変なことしなくてよかった」
「全くだ。いくら私でも見せつけられるのはかなわん」
 ぽんぽんとやり取りされる悪口の応酬に、少しばかり慣れたところで、ソルとカラスは二人して示し合わせたように私を見た。
「ごめん、王女様。こいつが……」
「これはこれは失礼した。私の悪友めが……」
 二人同時に詫びの言葉のために口を開き、被ってしまったことに気づいて二人顔を見合わせる。すでに拳銃から発せられた硝煙は霧散し、カラスの手に握られた黒い筒からはピンク色の造花が艶やかに飛び出していた。
 カラスは、ソルから聞いて想像していた姿と、似ているようでもあり、あまり似ていなくもあった。粘着味を帯びた剣呑な光さえ宿しそうな切れ長の目の印象をさらに際立たせるかのような細い銀縁の眼鏡をかけ、細い鼻梁に連なる唇は薄く青白い。不摂生を重ねているのか肌も蝋のように青白く、背中半ばまである長い黒髪は無造作に後ろで束ねられたまま流されている。着ているものも、元は白かったのだろうが、どことなく薄汚れた下着のような上衣に、ふくらはぎのあたりが膨らみ足首のあたりで細く絞られた変わった形の濃灰緑色の袴のようなものだった。全体的に線は細く、男性にしては虚弱そうな体つきをしている。黒い筒を握った指先も細く尖っていたが、どこか優雅な佇まいを感じる手だった。
「ソル、下ろしてくれ。お前の友に挨拶をするのに、お前に抱きかかえられたままというわけにはいくまい」
 少し戸惑いながらもソルは丁寧に私を下ろしてくれた。
 用を為さない足で触れた地下の大地は、赤黒くごつごつとしていた。
 よろけそうになるのをなんとかソルの手を借りて堪える。
「貴方がカラスか? 私は花琳。そなたのことは、ソルから聞いておる。大層腕のいい発明家であり、技術者であるとか」
 一礼した後、私はカラスを見上げる。カラスの身長はソルよりもやや小さいが、柳のようにしなやかな細身の体は、はじめの見立てよりもしっかり存在感を伴っていた。
 カラスの観察する目は、ソルの腕から下ろされる時から私の足に注がれていた。いま、ぐらつきながらも堪え立っている姿もまた、彼の目に映し出されているはずだ。
「纏足か。間近に見るのは初めてだ」
 カラスはすっと私の前に跪き、私の足に手を伸ばしたところで、はっと使用に動きを止めた。
「これは失礼。興味が先に立ってしまった。私はカラス。ネズミとは古い付き合いになる」
 カラスは跪いたまま頭を垂れた。そして、一度引きこめた手を再び伸ばす。
「少し、見せてもらってもいいだろうか?」
「構わぬ。私はそなたに会いに来たのだ。自分の足で歩けるようになるために」
 カラスははっとしたような顔で私を見上げた。切れ長の目元に好奇心の光が宿る。
「カラス、おれからも頼む。彼女が再び歩けるように義足を作ってほしい。そのために戻ってきたんだ」
 ソルの言葉に許されるように、カラスは私の足に触れた。親指側と小指側を真っ二つに折られ、布できつく巻き上げられて作られた小さく縮こめられた足。足の指先まで感覚は残っているが、自由に指先を動かすことはできない。
「この時代に纏足とはな。地上はそこまで時代が下ったか」
 カラスの華奢な手のひらの上にさえ載ってしまう我が足が、まるで自分のものではないかのように得体の知れないものに見えた。
「カラス、私は自分で自由に動き回れる足が欲しい。作ってもらえぬだろうか。礼はいくらでもする。といっても、今は一文無しだが、足が得られたら、いくらでも働いて返すつもりだ」
「作れるかどうかは聞かないのか?」
「ソルもネコも、カラスなら作れると言っていた。ただし、安全性は起爆装置さえつけなければの話だ、とも」
「はっ! それはいい! ネズミもネコも同じことを言ったか。あっはっはっ、それはいい!」
 額を抑えてひとしきり笑った後、カラスは立ち上がり、私の前に手を差し出した。
「一つだけ望みを聞きたい。花琳、君は自由に動き回れる足を得た後、どうするつもりだ? 代金を支払うために働くと言ったが、それだけか?」
 意地の悪い光がカラスの目に宿っていた。
 この人は、知っている。
 おそらく、私のことを知っている。
 どうやってかは知らないけれど、私が地上の安国の王女であることを知っている。
「カラス、花琳もこの後のことは足を得てからゆっくり考えたいと思ってるんだよ。義足の礼金なんておれがささっと用意するからさ、ケチなこと言ってないでやるって言えよ」
「黙れ、ネズミ。私は彼女に聞いているんだ。彼女も、それを理解している」
 狙われた獲物のように、私はごくりと唾を一つ呑みこんだ。
「今はまだ……決められない。この地下で、自由に生きる夢を見たこともある。だけど今は……決められない」
「地下での生活は楽じゃないぞ。ネズミがいつでもそばにいるというなら別かもしれないがな。働くと言っても、働き口など決まっているものではない。自ら他者が欠けているものを見出し、探し出してきて提供することができなければ、日々の糊口を凌ぐことさえできない。花琳は食べていくために、捨てられた食べかけのパンを拾ってくることができるか? それを口に入れることはできるか? 誰かの目の前に置かれた皿の上から焼き魚を引っ掴んでくることができるか? その綺麗な手に胼胝を作って岩を掘り進み、石炭や宝石の原石を探し出すことはできるか? 嘘をつき、人を騙してでも生きていこうという気があるか?」
「カラス!」
 窘めるソルの声に、カラスは肩を一竦めして少しばかり表情を緩めた。
「意地悪を言うのは趣味のようなものだ。許してくれ。まあ、大丈夫だろう。王女様に騎士はつきものだ。ネズミが手厚く保護してくれるだろうさ。その意味では、君はもう足を手に入れている。これほど望むべくもないくらい、最上級の足を」
「私は自分の足で歩きたい。誰かに縋って生きるのは、もう……やめにしたい」
「ククッ、ネズミ、聞いたか? お前、用無しだってよ?」
「なっ、そこまでは言ってない! ソルとともに歩むとしても、その腕の上ではなく、隣に立って歩きたいのだ!」
 勢い込んで口から出た言葉に、私ははっとする。
 それは、私の本心か?
 地上の地下水道で黙礼する孔冀章の姿が甦る。
 私は、帰らなくていいのか?
「くっくっくっくっくっ。役得だな、ネズミ。しょうがない。お前のために一肌脱いでやろう。代金はいらない。その代わり、その纏足を施された足をよく研究させておくれ。なに、痛いことはしないから」
 カラスは暗く笑んで私の手を握った。
 そして、もう一度興味深そうに私の足を見下ろしたのだった。
 それから、私はソルとカラスが暮らしていた居宅兼研究所に招かれた。
 第五層の人々は岩壁に穴を掘って暮らしていると聞いていたが、カラスが何度も爆発騒ぎを起こすせいで、窖には住めなくなって、少し離れた砂漠に石積みの家を作ったのだという。居宅と研究所を兼ねているとは言っても、居宅部分は僅かばかりに食事のための卓と椅子が置かれているだけで、片隅に石を削った長椅子と寝台を兼ねた場所があるくらいだったが、地下から三階までを吹き抜けにした研究所には、見たこともない機械や工具が所狭しと置かれていた。書類と書物がいくつも積み上がってできた塔は今にも崩れそうで、というかすでに何か所か崩壊していたが、その書物を払って出てきた診察台の上に、早速カラスは私に横になるよう言った。
 ネズミは食糧を調達してくると、さっき出ていったばかりだ。
「そう緊張しなくてもいい。痛いことはあまりしないから」
 にこにこと上機嫌なカラスの笑顔の理由が、私には少しわかる。好奇心が満たされる直前の高揚感。あれは、何物にも代えがたい。
「さっきは痛いことはしないと言うたに」
「花琳、この足は誰に造られた?」
 私の非難など無視して、カラスは私の小さな足を両手に包み込むように手に取り、じっと観察していた。
「誰……と言われても、そんなこと、もう……」
 覚えていない。そう言おうとしたのに、目の前には一度も思い出したこともない記憶が蘇っていた。
『貴女は女。上の姉たちに負けず、貴女が王に気に入られ、よき嫁ぎ先を与えてもらうためには、美しい足をしていなければ。王は特に小さい足がお好みだから。だから、いい? 大きくなってはだめよ。小さく、男の手のひらに収まるほど小さな足でいなければ』
 その後の痛みを、私は覚えていない。
 娘の足を作るのは、母親の務めだと聞いている。だが、母は一度もその時の話を私にしたことはない。私を見下ろすあの鬼女のような黒い影が母だったとはとても思えないのだが、血を分け、腹を痛めて産んだ娘の足を真っ二つに折るのだ。正常な精神状態でできることではないのだろう。
 この足は、私のため。
 私のために、母からもたらされたもの。
 でも、私は、人の手を借りなければ生きていけない女より、自分で歩いていける女になりたかった。
 纏足の美しさなど、これっぽちも理解したことはなかった。
「これほど小さく端正な足だ。さぞかし鼻も高かったろうに。君はこの足を美しいと思ったことはあるかい?」
「……いいえ」
「足の甲と指が綺麗に折られて畳みこまれている。これほど綺麗な足を作るには、一分の迷いもあってはいけない。迷いは手元を狂わせる。狂った手元で造られた小さな足は、ぼこぼこと骨が出張って見るに堪えないものになる。纏足は母親が造ると聞いたことがある。娘可愛さに手元を緩めれば、それは娘のためにはならない。娘がかわいいなら、心を鬼にしなければならない。そうやって造られたのが、君の足だ。君は、よほど母親に愛されていたんだね」
 母の愛など、感じたことはあっただろうか。
 物心ついたころには住まう場所も別であったし、そうそう甘えた記憶も甘やかされた記憶もない。それでも、この小さな足は唯一といってもいいほど数少ない、母の愛情の証、ということか。
 母に愛されていなかったとか、もっと愛されたいと思ったことはなかった。纏足にされたことを恨んだこともなかった。纏足は、王女に生まれたからには当たり前のものだと思っていたから。図書館で自由に本を取り出せなくて不便に思うのとはまた次元が違う。母は、同じ女でありながら、私にとって父よりももっと遠い存在だった。何しろ私は、室内に籠って琴絃や詠歌を嗜むよりも図書館で書物を紐解いている方が性に合っていたのだから、そうそう母の部屋へ足を運ぶこともなかった。それについて、母が何かを言ってきたという記憶もない。
 今となっては問うて確かめることはできないが、好きなようにさせてくれたことこそが、母のおおらかな愛の一部だったのかもしれないと、想いを馳せることくらいはできる。上に二人姉がいたのだから、三番目の王女にはお喋り相手も何も期待していなかったのかもしれないし、女にしては風変わりな自分に美しい足を与えただけで満足し、美しい足さえあればよい嫁ぎ先が見つかるはずと安堵していたのかもしれない。
 纏足は不便だと思いこそすれ、この足によって自由を与えられていたなど、思いもよらないことだった。
「義足は、どうやってつけるの? 一度つけたら一日中つけたままになるの? この足だけではもちろんもう歩くことなどできぬのであろう? この縮こまった足を開くことも叶わぬのよな?」
「そうだな、足を開くことならやってやれないことはないかな。あちこち折れることになるだろうけど、関節ごとに足を開き、骨を一から構築しなおして、砕けた骨や歪んだ骨はこっちの部品と入れ替えて動きをよくしてやって、神経と繋いで……この美しく小さな足を広げるなんてもったいないことだと思うがね。ただし、太腿に伝える信号、脹脛に伝える信号、足首に伝える信号、その後、足の裏と指に至るまで伝える信号、全てに慣れなければならないよ。もしくは、この纏足の状態を保ったまま、義足を上からつけてしまう。見たところ、君はその状態でも立っていられるように訓練はしているみたいだし、脳から足の筋肉に伝わる信号を感知して動くようにきめ細やかに調整してやれば、手術するよりも幾分早く歩けるようになるだろう。さて、どうする?」
「……義足をつけなくても歩けるようになるの?」
「君が望むならね。ただし、手術の傷が癒えるまで一か月、歩けるようにリハビリするのに二、三か月はかかると思った方がいい」
「リハビリ?」
「歩く訓練のことだよ。赤ん坊だってはじめは何かに掴まり立ちをして、歩く練習をするだろう? それと同じさ。まあ、一度歩けるようになれば、その後はメンテナンスも何もいらないから楽かもしれないけれどね。義足は定期的なメンテナンスが必要になるから、度々私のところに来てもらう必要がある。ネズミが側にいるというなら、あいつにメンテナンス方法を仕込んでもいいが、あいつは大雑把だからあまりお勧めはできない。せめてネコなら細やかに調整できるとは思うが、友人というわけではないのだろう?」
「ああ、むしろネコには追われている」
「そうだろうな。ククッ、ネコはネズミを追うものだ。さて、どうする? その気ならどちらの方法にしても今すぐ始めたって私は構わないよ」
 選択を迫られて、私は自分の足を見つめる。
 この小さく纏められた足と別れて正真正銘自分の足で歩けるようになるには、数か月かかる。その間、きっとネズミは嫌な顔一つせずに私の分まで面倒を見てくれるだろう。だけど、地上ではもしかしたらいろんなものが引っくり返ってしまっているかもしれない。
 義足をつければ、数日で歩けるようになる。数日で、地上に戻ることができる。ただし、地上からここまで、そう何度も足を運べるとは思えない。それでも、今歩けるのならそれでいいのではないか?
 ――私は、地上に戻る気でいるのか? 今更戻って何ができる? 自由に走り回れる足を手に入れたとして、私のこの手で何ができる? 国を取り戻す? 国を救う?
 そんな大層なこと、私にできるのか?
 私にあるのは王家の血筋のみ。クーデターを仕掛けようとしていた時も、自分が上に立つことなどいささかも考えてはいなかった。この血の礎の上に師匠と楊輝が新しい市民社会を築くものだと思っていた。
 生きるつもりなどなかった時間がまだ続いている。楊輝は手を結ぶはずだった孔冀章に殺され、孔冀章は、きっと今頃俄かクーデターを起こした奴らに捕えられていることだろう。そして私は、希望も自由もなかったはずなのに、今、自由を手に入れようとしている。あわよくば、希望を叶えることだってできる。その希望さえ、よく見極めることができれば。
「地上でのことなんて全て忘れてこっちで楽しく暮らすのも、私はアリだと思うよ。君は足とともに自由を手に入れる。自由は脅かされるべきものではない。守られるものだ。私の言葉にいちいち惑うことなど何もないんだよ。ネズミはあの通り君に惚れこんでいるらしいしね。これほど美しい置き人形なら、誰でも心を動かされずにはいられないだろう。おっと、失礼、置き人形などと呼んでしまって。ただの置き人形ではなかったね。燃えるような闘志を内に秘めた怖いお人形さんだった」
「やめて!」
 思わず叫んでしまって、途端に私は俯いた。
 この人の言うとおりだった。私は王女である限り、置き人形も同然だった。座っているだけでいい。そこに居るだけでいい。何なら、姿など無くとも、部屋に横たわっているだけでもよかった。
 自分では何もできないただの人形。
 でも、今は違う。
 変われる。
 私はまだ、変われる。
 師匠、どうしてあの時、私たちのことを見逃したの?
 どうして。
 貴方にはもうお人形の第三王女は必要なかった? 自分一人で王位を維持できると?
 違うよね? 諦めたのでしょう? 王位も、私も。だから、夫として私を引きとめるのはやめて、せめて私が自由になることを選ばせてくれたのではないの?
「義足なら手術するよりも幾分早く歩けるようになると言っていたけど、具体的にはどれくらい?」
「今日、これからひとまず検査して、明日から君に合う義足を設計して作製する。作製は二、三日かかる。出来上がったら、義足と君の足の神経を接続する。多少痺れたり痛かったりするかもしれないが、調節すればすぐに慣れるだろう。その作業に一日。次の日から義足に慣れて歩くための訓練が始まるわけだが、君は自力で立つことはできても、ほとんど自分の足で歩いたことなどないだろう? 歩く動作のメカニズムを身体に覚えさせる時間も必要だから、一週間から二週間くらいはリハビリに費やすことになるだろう。しめてひと月、といったところだろうかね」
「歩く訓練は、上手くいけば短縮できる?」
「君次第だけれど、あまり体に負担をかけるのは感心しないね。足だけでなく、君の胴体も首も腕も、歩くことには慣れてはいるまい。思わぬところに筋肉痛も起きるだろうし、歪みも生じるかもしれない」
 早く、と焦る気持ちがあれば、その分遅くなるのだろう。
 ひと月、あの人は無事でいられるだろうか?
「ひとまず、義足を作ってほしい」
「ひとまず、というと?」
「謝礼と時間が用意出来たら、手術してほしい。二度も同じ足に手をかけるのは嫌か?」
「いや、そんなことはないが……時間がないなんて、ネズミは思っていないんじゃないかと思ってな」
「そうだな。私も、今の今までそんなことは思っていなかったが……」
「地上に戻るつもりか?」
 カラスの問いに、私はこくりと頷いた。
 カラスはそれ以上、何も問わなかった。
(201612260030)