鳥籠の王女とネズミの太陽
7.地下へ
◇ソル◇
「起きろ、ソル。夜だ」
起こすなら朝だろう? せっかく地上にいるのに月ばかり見ていては気が滅入る。たまには太陽の見える朝に起こしてほしいものだ。
せっかく馴染んできた猟師小屋を捨ててネコから逃げて、夜明けの太陽から逃れるように転がり込んだ無人の民家に併設された納屋。今は馬も牛も鳥も飼われていないことを確認して、怪我した肘の手当てを簡単に済ませると、二人、黴臭い藁を頭からかぶって中に潜り込み、泥のように眠りこけた。
夢見は、あまりよくない。
あいつ(ネコ)が約束通り地上まで追いかけてくるようなことをするから、あんな夢を見たんだろう。
貼りあわせの緩んだ壁の隙間から純白の光が細く忍び込んできている。
月の光。
噂に違わず穢れない光の端緒。手を伸ばせばルナの元に連れて行ってもらえそうだ。
いやいや。
やれやれと首を振って寝返りを打ち、おれは目に映る影に目を凝らす。
闇の中で灰黒くもやもやしていたものは次第に実体を伴って、熱を帯びる。
丸くはない。
いや、これからどんどん女性らしい丸みを帯びた曲線は出てくるんだろうけど、太陽のように真ん丸ではないという意味だ。
それでも、覗き込むぬばたまの黒い瞳は、闇の中だというのに潤んで、差し込む月の光に輝いて見える。
手を伸ばす。
王女さんは何も言わずおれの腕に引き寄せられ、顔を胸に埋められても何も言わない。
こんな風に隣同士寝転がったまま抱き寄せたのははじめてなのに、抵抗一つしやしない。身の危険すら感じていないかのように、人形のように大人しく抱きこまれている。
(おれの太陽)
本物の太陽を目にする前に、おれの心を焦がした黒い太陽。目に宿るぬばたまの黒い光。
決して彼女は月じゃない。おれがいなくても彼女は一人で勝手に輝く。どんな暗闇にいても、彼女がいれば、おれにとってそこは明るい。
「なんか言いなよ。抵抗しないの?」
あまりにも大人しいので逆に不安になって、先に口を開いてしまう。
「こういうのは……慣れてる」
「……慣れてる?」
腕の中で、小さく頷くのが分かる。
あいつに慣らされてる?
とたんに、昨日の夕方偶然出会っちまったあいつの顔が目の前に浮かんで、締めつけるように胸が熱くなった。
「こんな人形みたいに抱きこまれるのが?」
「……そうだな」
思い出すように王女さんは口ごもる。
「嫌じゃないの?」
むしろこうなったら嫌だと言ってほしかった。あいつと同じことするな、とか、いっそ気持ち悪いと突き飛ばされたっていい。
「……何かするわけじゃないことは、……なんとなくわかるから」
言いにくそうにする王女さんの声に、身体中に満たされていたはずのものが、臍あたりから頭のてっぺん、足の爪先まで、悪寒と共に一斉に引いていく。
それはつまり、ここからその気になられちゃ困るってことだ。うすうす、この先に何かがあることを察しているからだ。もしくは王女さんのような地位の女性なら、小さいうちに何があるか教え込まれているのかもしれない。あるいは、あいつにすでに教えられた?
一度引いたはずの熱は一気に身体の端々まで迸るように駆け巡る。
造作もなく王女様を組み伏せ、上に跨る。
漆黒の目には少しの驚きと、ああこいつもか、とばかりの大いなる失望。
心の目は閉ざされ、視線を外されて、好きにしろとばかりにそっぽを向かれる。
「女の子なら、その気がない相手なら少しは抵抗した方がいい」
「抵抗? したところで私は逃げることも、お前を組み伏せることもできない」
「逃げることと、意志表示をすることは別だと思うけど」
「ならどうすればいい? 平手でも食らわせられたいのか?」
「おれとしては王女さんの平手なんて、この世で一番痛そうだから喰らいたくなんかないけれど、手を使うってのは抵抗の仕方としてはありだな」
「お前、抵抗するいたいけな少女を手籠めにするのが好きなのか?」
冷たい視線がおれを貫き、おれは平手を受ける覚悟も何もかもが粉々に砕け去った。
「いや、別にそんな趣味はないけど……誰彼かまわず来るもの拒まず、みたいな感じだと心配だな、と思って……」
「今の体勢が、心配している者の取る体勢だとは考えにくいのだが」
「ゴメンナサイ」
観念しておれは王女さんから離れた。
背中越しに王女さんの吐息がかすかに伝わる。
「ソル」
「ん?」
「言っておくことがある」
「ハイ。ゴメンナサイ」
「言う前から謝るんじゃない」
「ゴメンナ……っと」
王女さんがじっと天井を見ている気配がする。
そういえば、王女さんはちゃんと眠れたんだろうか。
「人形扱いは、しないでほしい」
ちょっと振り返る。
仰向けになったまま、予想通り、王女さんは天井の虚空一点を見つめている。
「玉座の隣に座らされるだけの、血筋が確かで綺麗なだけの人形。口づけるわけでもなく、許しを得られるまでただ抱いて眠るだけの人形。――私はもう、人形には戻りたくない」
それが、あの鳥籠の部屋を出るまでの彼女の役割。
城に息づく親族たちを亡くしてから、ひとり生かされた彼女に与えられた役割。
「好きじゃなかったの? 先生のこと」
好きなら許せばよかったんだ。
抱かれて共に眠るくらいなら、平手の一発でも返して首根っこに抱きつけばよかったんだ。
それができなかったのは。
「わからない」
ぽつりと寂しそうな声が返ってきた。
「もし、口づけられたら唇を噛みきるくらいしたかもしれない。平手の一発くらいお見舞いできたかもしれない。もし、求められたら……私に逃げる術はない。恨み言を呪詛のように囁きながらも……体のどこかで悦んだかもしれない。あの人は、私を求めてはくれなかった。私の機嫌を窺い、そのくせ部屋に閉じ込めて自由を奪い、自分の所有欲を満たし、物のように、……私を扱った。私の親族一同を殺したことは謝っても、私を殺さなかったことは一度も謝らなかった。あの人は、私の求めるあの人じゃなくなっていた」
過激なことを言っているという自覚はあるのだろうか。いや、ないな。彼女の中では一族を殺されたことよりも、自分が生かされたことの方が罪なのだ。なんて捻じ曲がった思想。なんて、かわいそうな考え方。
何年も一緒に勉学に勤しんできたというのなら、彼女のそういう思考の癖は理解していそうなものなのに、「先生」も結局は自分のことしか見えなくなっていたというわけか。
おれは、そういうのにしがらみがないのはありがたい。
「残念ながら、おれには王女さんがただの人形には見えない。ただの人形は喋らないし、主張しないし、自分の意志で鳥籠から出ようなんてしないはずだ」
「なら……それなら、二度とあんな真似はするな」
強張った声が本当は恐かったのだと訴えている。それでも我慢するしかなかったのだと。
恐かったのは、自分の身を男に委ねることなのか、心が通じないまま何もなく過ごすことなのか――王女さんの口ぶりからして、後者か。惚れた男に抱かれたいと思う女は五万といる。王女さんもその点、女には変わりないってことだ。その相手がおれに変わっているかどうかは分からないが。いや、むしろ今の感じだと形勢的にまだまだ不利?
「おれが言ったこと、覚えてる?」
「お前の言ったこと?」
「あんたがほしい」
真っ直ぐ、王女さんの目を見つめて一言告げる。
攫ってきた日に、早々に告げていた言葉。
あの時、王女さんは額に口づけて答えてくれた。
世界に飛び立つ同志として、共に行こうと。
あの時よりも、いくらか時は進んでいる。四六時中一緒にいるような毎日が続いて、それでも飽きることなくおれの日常は回っている。
彼女は、おれにとって今までで一番刺激的な女だ。
それは、手に入れがたいという一点によるものなのか、手に入れた後でも永久に続いていくものなのか、今のおれには分からないけれど、ただ、今までのように一度付き合えばすぐに飽いてしまうような気はしなかった。
王女さんはゆっくりと体を起こす。途中から少し手伝ってやると、差し出した両腕を引き寄せて間近からおれを覗き込んだ。
黒い瞳が困ったように揺れている。
あの時とは違った反応だった。
攫い出したあの昼下がり、彼女は躊躇いなくおれの額に口づけた。だが今は、見つめるだけだ。
「花琳」
白磁のように滑らかな頬に指を滑らせ、耳たぶよりも伸びた黒髪の先をつまむ。
「髪、少し伸びたな」
「また、切り揃えてくれるか?」
逃げる時に自身で切り落とした毛先はあまりに長さが違いすぎて、都を離れてから折を見て切り揃えてやったのが、もうだいぶ前のことのように思える。
「いや。気にならないなら少し伸ばせばいい。せめて掬い取って口づけられるくらいに」
少し伸びて指に絡められるようになった黒髪の毛先に唇を寄せる。
壁の隙間から差し込む月明かりに、彼女の頬が少し赤くなっているのが見て取れた。
「お前がそう言うなら」
薄暗いからこそ、甘酸っぱい恥じらいを含んだ彼女の声が耳から伝わって胸のあたりを痺れさせる。
見つめ合いながら、少しずつ顔を近づけ、彼女が大人しく目を瞑ったのを確認して軽く口づける。ぴくりと震えた肩をそっと抱き寄せて、もう一度、今度は少しずつ探りながら深めていく。
はじめてにしては長くなったキスが終わると、彼女はほぅっと小さく息を漏らした。それから潤んだ瞳で非難がましくおれを見上げてくる。
「お前こそ、慣れているのか?」
「え?」
「……口づけ」
ぼそりと低く呟かれた声に、おれは思わずぷっと噴き出した。
「慣れていない方がよかった?」
「っそれは……何とも言えないけれど」
とりあえず、今まで付き合った人数は言わないでおこう。
「でも、自分からキスしたいと思ったのは初めてだよ」
隙をついてもう一度キスをする。
今度はわずかながらお返しが返ってきた。
キスに不慣れな女の子と付き合うのも初めてだ、とも言わないでおこう。
誰かを欲しいと思ったのは、これが初めて。
太陽を求めて地上に来て、その気になればこの手に抱きしめられる小さな太陽を手に入れた。それ以上、何を望むことがある?
いや、願わくば、この先もずっと一緒にいたい。朝、目覚めて一番に聞く声が君のものであればいい。目を開けて一番に映すものが君であればいい。
なんて。
そんなことは叶わないことは、おれが一番よく知っている。
「もう一晩、ここにいても見つからないかもしれないな」
壁の隙間から差し込む月の光を見つめながら、王女様はぽつりとつぶやく。
二人で一緒にいる他愛ない幸せを、もしかしたら彼女も感じてくれたのかもしれない、なんて。
でも、刻限はもう近づいている。
『明日、夜中の十二時。地下水路の門を開けておこう』
あいつの――孔冀章の生真面目な硬い声が脳内で蘇って、途端におれの幸福感は半分以下に粉々に砕かれる。
今夜の月の出は夜八時。今のこの月の光の入り具合からして、今は大体夜九時くらいというところか。
少し、寝坊をしてしまったらしい。
しかも、昨日のどさくさに紛れて、結局おれは昨日、孔冀章に会ったことも、これから地下に向かうことも言っていない。ただ、城から離れた森から、いくらネコに追われたとはいえ、今度は城下町に近い村に忍び込んだことくらいは、王女さんも分かっているようだった。
「怪我、あまりよくなってないな」
出発の支度を済ませ、昨夕ネコに撃たれて怪我をした肘の包帯を取り換えながら、姫さんはきゅっと眉根を寄せた。
「そうすぐにはよくならないよ、超人じゃないんだから」
地下に行けば、窖でもここよりはましな抗生物質や何やらが手に入るが、こっちの世界じゃカビた藁をかぶって寝て傷が膿まなかっただけでも良しとしたい。
「超人? そうか、そうだな。お前も人だったのだな」
「なんだよ、その言い方。まるで人じゃないみたいに」
「人じゃないみたいだと思っていたよ。鳥みたいだと思ってた。お前は飛ぶように駆けるから」
ふふふ、と思い出すように王女さんは笑う。
「お前の足は翼だな。どこへでも飛んで行ける翼だ」
臆面もなく褒められて、思わず顔に血がのぼる。
「早く、お前を青空の下、堂々と歩かせてやりたいよ」
青空の下を、堂々と、か。
その傍らに彼女はいるんだろうか。
これから起こるであろう事態を予見して、微かな不安を呑みこんで笑顔を作る。
「そういう王女さんの目は人を魅了する目だな。見つめる者を魅了し、やる気にさせる。見つめられたら、嫌とはいえない。全部見透かされてる気がしてくる。黒曜の鏡のようだ」
見つめ返すと、なにやら赤くなったらしい王女さんはすっと視線を逸らした。
もう一度キスしておきたい気持ちを堪えて、気持ちを入れ替える。
「王女さん、話しておくことがある」
「ああ」
王女さんの方もすっと表情がよそゆきになった。
「これから向かう場所のことだけど、地下に行こうと思ってる」
「うん」
「分かってた?」
「何となく。城の方に戻っているとは思ってた。だが、どうやって中に入り込む気だ?」
「十二時に地下水路の門が開いていることになっている」
あえて、隠すような言い方はせず、悟られる言い方を選んだのは、王女さんの聡さを見込んでのことだ。思う通り、王女さんの表情は曇る。
「昨日は帰りが少し遅かったな。――誰に会った?」
「いろんな人。掏摸の子供から王様まで」
王女さんの肩が小さく跳ねる。動揺を隠そうと、逸らしそうになる視線にわざと力を込めておれを睨みつけてくる。
「会いに行ったわけじゃないよ。できることなら会いたくなかったんだけど、あいつの手のひらの上だったっていうか?」
「よい、気にしていない」
「してるだろ」
「するものか。それで、あいつが地下水路の門を開けておくと言ったのか?」
「ああ」
しばし花琳は腕を組んで考え込む。
「罠だと思う?」
「お前は思わないのか?」
「フィフティ、フィフティってとこかな」
「ふぃふてぃ、ふぃふてぃ? なんだ、それは」
「半々って意味。ま、おれには翼の生えた足がありますからね。逃げおおせて見せますよ。王女様、どうぞご安心を」
丁寧に手を付けて頭を下げて見せても、花琳の表情は晴れなかった。
「心配?」
おれの問いにも無言だけが返ってくる。
「王女さんが絡んでいるのに、あいつは危険なことはしてこないよ。もしおれの手から離れることがあっても、せっかくだから元気なその手で一発お見舞いしてやればいいだろ」
「人形扱いしないでって?」
「そうそう」
おれはにやにや笑っていたが、花琳はそうでもないようだった。疲れたような弱々しい笑みにはかすかに怯えが見て取れる。
「恐い? あいつに会うの」
「……恐い」
「大丈夫。ちゃんと地下に連れてって、足を取り戻してやるよ。おれのこと、信じて?」
見つめるおれから視線を逸らし、彼女は返事をする代わりにおれに抱きついてきた。
覚悟が決まってないんだと、分かった。
○花琳○
その両腕に抱きかかえられていると、どこまでも行けそうな気がしてくる。自分の足でもないのに、どこまでも駆け抜けて新しい景色を見せてくれるソルは、まるで昔絵本で見た韋駄天か何かのようで、そんな時、ふと彼を見上げると、神々しいまでに凛々しい顔を顎から斜めに見上げることになる。
綺麗な顎だと思った。
尖りすぎず、丸すぎない、まして四角くいかついわけでもないするりとした形のいい顎。髪と同じ色の無精髭が生えていることが多いけど、黒いわけではないからそれほど気になることはない。
一度、触れてみたくて無意識に手を伸ばしていたことがあったけど、ついぞ、あの形のいい顎には触れる機会はなかった。
走っている時のソルは、まるで飛んでいるようで、どんなに見上げた綺麗な形の顎が私に触れるように誘惑してきても、彼の風を切って駆け抜けるのを邪魔してはいけないと思うのだ。
腕の温もりよりも何よりも、私は走っているソルの鼓動を感じる。
小さなものを腕で守るように抱えられていると、自然と耳は左胸に押しつけられ、鼓動を聞くことになる。
タッタカ、タッタカ、タッタカ。
途切れることなく同じリズムが刻まれつづける。
走ると少し、早くなる。
そのリズムを聞いていると、私はとても眠くなる。
今自分が追われている身であることも、過去にあったことも全てを忘れて、薄暗い闇の中に引き寄せられていく。
目を閉じると世界は完璧に闇に閉ざされる。
そうでなくても夜中の移動が多いから、見える景色など限定されているというのに、さらに私の世界は狭くなる。
甘い香りが鼻孔をくすぐった。
ソルの、汗のにおい。
胸に押し当てられた頬は、汗ばんだ湿り気を感じることはない。そこまでぐしょぐしょになるほど、汗をかいているソルを、私はまだ見たことがない。だけど、走っていればほんのりと鼻孔をくすぐる甘い香りが漂いだす。特に、形の綺麗な顎の下、闇に白く浮かび上がる首筋から、とてもいい匂いがするのだ。
人の汗のにおいなど、皆臭くて同じだと思っていた。
香を焚きしめているのでもなければ、いい匂いがすることなどあり得ないと思っていた。
でも、ソルは違う。
とてもいい匂いがする。
孔冀章――先生の香りとはまた違う、甘く、とろかすような香りだ。
先生にはほとんど匂いがなかった。
毎夜、抱き枕のように胸に顔を埋めさせられて眠っていたが、何の香りも感じたことはなかった。強いて言うなら、着物に焚き染めた香の薫りが黒い髪にもしみついていた。私はその香りを嫌いだと思ったことはないが、好きだと思ったこともなかった。周りにあって当たり前の香り。そこにほんの少し、木の幹の皮を少し剥いだような生々しさを持った清冽な香りが潜んでいる。
孔冀章に抱かれている時、私が見るのは初夏の冷たい雨に静かに雫を散らす針葉樹林の森だ。一方で、ソルは甘いリンゴの赤が見える。ぽかぽかのお日様に照らされて赤く熟しはじめた少し甘酸っぱさを残した赤い果実。そこにはまぎれもなく太陽の日差しのイメージがついてくる。あるいは、快晴の日に洗ってよく乾かした衣類の香りとでも言おうか。ソルからはあたたかな太陽の匂いがするのだ。
ぼんやりと、目を開ける。
ソルは走っている。
今夜は月夜だ。
私を抱えて走るソルの影が道端を滑らかに移動していく。
見上げると形のいい顎が白く輝いている。
私の頭の中は、相変わらず白く靄がかかり、どことなく、未来のことを考えようとすると、まるで自分で止めようとしているかのように思考が鈍くなる。そのせいか、ぼんやりとする時間が増えた。ソルに会う前から、あのクーデターの日から、私はずっとそんな状態だったが、ぼんやりしながら考えることといえば、今目の前にあること、感じることについてだった。
昔の私は、けして夢想したりなどしなかっただろう。鼻孔をくすぐる香りについて、何か頭の中に描かれる映像について考察しようとも思わなかっただろう。むしろ、人から香水以外の香りがすることなど、それもこれほどまでに甘くよい香りがする者がいるなど、思いもしなかっただろう。そして、灼き焦げるほどの気持ちを傾けた人から、何故雨の針葉樹林しか見えないのか、考えることもなかっただろう。
ぼんやりとする時間は大切だ。
立ち止まり、心を空っぽにして世界を感じることは、私を新たな世界へと誘ってくれた。
孔冀章とは、口づけを交わしたことさえなかった。
毎夜、同衾しても、額を合わせることすらない。ただ、腕に軽く抱かれるだけで、子供のように、しかし子供に聞かせるにはあまりに酷い寝物語を聴かされているうちに、うつらうつらと舟を漕ぐ。舟を漕いでは、また目を覚まし、憧れた人物のあどけない寝顔を見つめながら、時に怒りに駆られ、時に名ばかりの夫婦という実態に不思議なものを覚え、時に、楊輝の顔を思い出したりする。
あれだけ偉ぶって講義を授けてくれた先生でも、眠る顔はただの人であった。目を閉じ、鼻からは規則的な呼吸が漏れ、口は時にうっすらと開く。もし、ただの人の寝顔とは違うところをあえて挙げろというならば、その顔に安息が宿ったのを見たことがないくらいであった。
もしかしたら、それが一番大事だったのかもしれない。
孔冀章は、私を手にしておきながら、一度も安心して眠れなかったということなのだから。
あの人の欲しいものは、私ではなかった。
私を欲しそうにしていながらも、きっと、本当に欲しかったのは私だけではなかったのだ。
胸を張って私を満足させたと思える地位、背景。それを得た上で、王女の私を妻に娶りたかったのかもしれない。
王の玉座に腰かける者となっておきながら、この人はまだ、私が真に手に入っていないことを苦痛としているようだった。いや、むしろ、夜毎、私という苦痛を腕に抱えることで、己を律していたのかもしれない。
己は、まだ何一つ成し遂げていないのだ、と。
私は、「景品じゃない!」とでも言って泣き叫べばよかったのだろうか。
政治が望み通り軌道に乗ってうまくいった時のご褒美ではないのだと。その時まで、私が黙って貴方の元に居続けるわけがないのだと、言って脅してやればよかっただろうか。
私は、何のために父を殺し、母を殺し、遠く嫁いだ姉たちを殺し、顔すら忘れた親族たちまで策略に嵌めこの手にかけたのだろう。
私は、少女のように憧れの先生に懸想をし、先生の心を手に入れたいと思ったのだろうか。野心に溢れた先生を得るためには、玉座という地位をちらつかせるのが一番だと、子供心に思っていたのだろうか。
私は、先生の何が欲しかったのだろう。一体、何にあれほどまで静かに恋い焦がれ、欲していたのだろう。
それはきっと、先生に人ではなく先生であることを求めた結果だ。
私が好きになったのは、孔冀章という男ではない。先生という、私よりも豊富な知識と知恵と知能を有する者に、想いを懸けたのだ。
私が欲しくても持ちえない地位、名誉、知識、そして、両足。
彼は私の欲しいものを全て持っていた。
私は、いっそ孔冀章のようになりたかったのかもしれない。
到底、それは恋とは呼べない。
毎夜抱かれて過ごすことが嫌じゃなかったのか、とソルに問われたが、生理的に嫌だと思ったことはない。むしろ、何も感じない自分に腹が立った。
ソルは違う。
香りを吸い込めば吸い込むほど、無条件に心がとろける。
これが、本能というものなのだろうか。
何のしがらみもないこの男だからこそ、そんな匂いを嗅ぎ取るのだろうか。
自分が女だということを受け入れる気になるのだろうか。
「ソル」
呼びかけた声は少し掠れた。
「どうした?」
にもかかわらず、ソルはすぐに気づいてさらりと視線を落とす。
「孔冀章は――先生は、何か言っていたか?」
昨日、会ったのだろう? その時、何か私のことを言ってはいなかったか?
ソルはもう一度私に視線を落とす。苦い、視線。
「教えない」
すぐに切り上げられた視線に続いて、冷たく凝った声が落ちてきた。
ふっと私は微笑む。
安心して、こんな場面だというのにまた微睡みそうになる。
聞かなくてよかった。
教えてもらえなくてよかった。
軽々しくそんなこと、ソルの口から聞きたくない。
私は微睡む。
目を閉じ、一つ深く息を吸い、地を蹴る度に揺れるソルの振動に身を任せる。
今から私は夫に会う。名ばかりの夫。婚姻の儀すら成立しているかも怪しい、ただの婚約者。
私から足を奪い、あの後宮に閉じ込めた男に。
私は、あの男を憎みきれるだろうか。怒りをぶつけることができるだろうか。深く、抉るような一生ものの傷を残してやることができるだろうか。
想像しても心は躍らない。
すでに、私はあの男に何も望んでいないのだと思った。
平らかな気持ち。
願わくは、この気持ちがあの男に本当に対峙した時、崩れなければいいと思った。
湧き上がるものに出くわしてしまったら、とっさに抑え込む自信などなかった。
あの男は私の家族を殺した。
父、母、姉たち。遠い遠い親族たち。
そう願ったのは私。あの男は、私が全て背負い込んで持って行こうとしたものを奪ってしまった。
だけど、楊輝。
私が背負おうとしたものを全て奪い取っていった男。
楊輝までは殺さないでほしかった。あの子はこれからのこの国に必要だったのに。
私の代わりに私の望む男の私を引き受けてくれる者。もう一人の私。
そう、たとえば、足を持ち、自由闊達に議論をするあの頃の私。
ああ、だから殺したのか。
いつまでも私が未練を残さないように、孔冀章は楊輝を殺したのだ。
もう一人の私の代わりに。
足が、歩けたら。
「あっ」
小さくソルが叫ぶ声がした。
「どうした?」
目を開く。
立ち止まったソルに抱きかかえられたまま、私はソルが見晴るかす方を共に眺める。
「地下水門の門開けとくって、こういうことかよ」
舌打ちと共に溜息が落ちてくる。
城は燃えていた。
あちこちから赤々と昇り立つ炎に包まれて、地上の篝火の如く皓皓と輝いていた。
「ああ……っ」
思わず、私は歩こうとしていた。
自分の足で、城に向かおうと、ソルの胸を押しやり、腕から飛び降りようともがいていた。
「城が、城が……」
城が、と言いながら、赤い炎の中に先生の顔を思い浮かべていた。
あの男は無事だろうかと、胸が締め上げられていた。
「どういうことだ! ソル、どういうことだ!」
私の心はとうに潰えて、あの男には何の感慨も残っていなかったはずなのに。
「どういうことって……おれにも分からないよ。ただ、もしかしたら自分で城に火を放ったのか、それとも、足元掬われてさらにクーデター起こされたか……」
「それならもう一つあるだろう?」
「わざと隙を見せて、クーデターを起こさせて城に火を放たせた?」
「急げ、ソル。急いでくれ」
胸に縋りつく私を、ソルは困ったように見下ろしていた。
「俺には助けられないよ、あの先生は」
「分かっている。そこまでは望まない。ただ、私を早くあの人の元へ……」
はっとして口を噤んだ。
送り届けてくれ。
私はそう言いかけていた。
あれほど逃げ出したいと思った場所へ、再び戻してくれと懇願しそうになっていた。
私は、あの男のことを何とも思ってはいない。
雨にそぼつ針葉樹林の匂いがする男。
おそらく、見えぬところで泣いてばかりのあの男の涙を、わたしは一度たりとて見たことはない。まして、この指で拭き取ってやったことすらない。それなのに私は、今、あの男が泣いていると思ったのだ。慟哭しながら私を待つ姿が見えるような気がしたのだ。行かなければならないと、奮い立つ己に驚き、もがく己に呆れ、炎の向こうにあの男の顔が見えた自分が情けなくなった。
「それは聞けない」
冷たい声が落ちてきた。
見上げた私から、ソルは視線を逸らした。
「どうして」
「あいつがわざと、城に火が回るようなことをしたのだとしたら、それはあんたに足を返してやりたいからだ」
「何を」
「教えないって言ったけど、教えてやるよ。あいつが言ったんだ。花琳に足を返してやってくれ、って」
ぶわっと、身体の奥底から全身に向けて膨れ上がった想いが身体の境界を越えて弾けていった。
「花琳、に?」
「そう。花琳に。蘭樹様じゃなく、花琳に足を、って」
ソルの言葉を最後まで聞くまでもなく、私は泣いていた。
体内から迸っていった想いが、引きずり出すように私の腹の奥底にひそめていた想いを呼び覚ましていた。
ソルは「あーあ」と呟いた。
「すまぬ」
私はそれだけ言うのがやっとだった。
ソルは再び走り出した。
城下町もすでに恐慌状態となっており、平民も兵も構わず逃げ出す人々の合間を縫って、炎の燃え盛る城へと向かっていく。熱い火の粉がかからないように濡らした衣を頭上に掲げながら、ソルは迷うことなく監獄塔の中へと入り、見知った道を辿るように地下へと下っていく。
地下水路の門は開いていた。
地上の騒動とは打って変わって、ここは轟々と単調に流れる水の音以外静かなものだった。そこにバシャバシャと水を掻きわけて走るソルの足音が反響しながら混ざり込む。
私の目ではもうただの暗闇にしか見えない道を、ソルは迷わず進んでいく。
おろしてくれとはもう言えなかった。
その先、不意に小さな明かりが見えた。
「あれは……」
地下への道だろうか。
ソルは、次第に走る速度を緩めていく。まるでそこの前は通りたくないとでも言うように左右を確かめるが、やがて諦めたように首を振り、慎重に私を抱えて光の元へと進んだ。
光の正体は、一本の松明に灯された炎だった。
その松明を持つのは、一人の男。
黒を基調とした衣に金糸と銀糸で龍と鳳凰を縫い取った立派な衣を纏い、頭には顔を隠す簾のついた冠を載せた男。
ソルはその男の前を、立ち止まることなく駆け抜けた。
私はソルの腕に抱きかかえられたまま、松明を掲げ持つその男を振り返る。
目と目が合い、男は、僅かに目を伏せた。
それは黙礼だった。
意味は分からない。
行ってらっしゃい、だったのかもしれないし、申し訳ございません、だったのかもしれないし、御武運をという意味だったのかもしれない。
真偽など分からなかったが、私はただ、泣いていた。
泣くことしかできない己に腹を立てながらも、流れ出る涙を拭う術を持っていなかった。
白くぼやけた視界の中、ソルを見上げる。
形のいいはずの顎も、太陽の光を透かした髪も、白い肌も碧い目も、今は何も見えなかった。
ただ、見送る孔冀章の顔だけが、くっきりと鮮明に目裏に焼きついてしまっていた。
(201607190020)