鳥籠の王女とネズミの太陽
6.ソル

「ねぇ、起きてよぉ、ネズミぃ」
 甘ったるい声で起こされるのは好きじゃない。
 これだから、顔だけで寄ってくる女はいけ好かない。中身まで見ろとか言うつもりはないけど、朝までこうべったりされちゃ意気も下がる。
 絡みついてくる生っ白くて柔らかい二本の腕を適当に解いて、接客スマイルを顔に貼りつかせてから振り返る。
「おはよう。元気そうだね。それじゃあ、さようなら。二度と会うこともないと思うけど」
 朝は苦手だ。
 昨日の夜はよく見えた女の子でも、朝になると大概のものは剥がれ落ちている。
 手早く衣服を身に着けて、呆然とする女に二、三繕いの言葉をかけて外に出る。
 こんな窖の最深部にまで、朝だというだけで偽りの太陽は皓皓と光を届けてきている。
(ていうか、やけに明るいけど、ここ窖だよな? 上層階へのパスなんてとうに無効になってるだろうし)
 ここ、どこだっけ――。
 左右にきょろきょろと目を走らせながら、目覚めかけの街を見渡す。
 ここからまた、人々には虚飾に満ちた日中の時間が始まるのだ。そう思うと、胃の奥底がきゅうっと縮こまって吐きそうになった。
(別にもうここで働いてるわけじゃないけど)
 風に吹かれるゴミ袋が通りかかった一台の車に轢かれるのを横目に見ながら、どこにでもある歓楽街の傷んだボロビルの中に入る。
 ひんやりとして薄暗い静けさが居心地いい。もう何十年も修繕や改装をされていないクリーム色の塩ビシートの床が、ひときわ目と心にやさしく映る。
 はぁ〜っと深く息を吐きだして、もう一度昨夜のことを思いだそうとしたところで、やめる。
 思い出したところで、どうせいつもと同じパターンだ。
 酒を飲みに行って、綺麗な女性に声を掛けられて、ついでだからふらっと寝る場所確保に行って、今に至る。
 うん、同じだ。
 肝心なのは、昨夜どこで酒を飲んでいたかだ。
 この街の光景に見覚えがある気がしないのは、朝方で車も人通りも少ないせいで、ビルが乱立するオフィス街のどこにでもありそうな景色に見えるからだろう。
(何時だろう)
 4時40分。
 人工の朝の日差しが皓々と照らしはじめるには若干早すぎるような気もするが、夏だからこんなものなのかもしれない。
 あー、でも、マンション出てすぐにビルが乱立するオフィス街ってところで、すでにここ、窖じゃないじゃん。
 頭を掻いて抱えて、しまったなーなんて呟いたところで、モバイルの電話がしつこく震えはじめた。
 ネコ。
 いいところに!
「もしもしー、おれおれー」
「なーにやってるんですか、貴方は! こっちは朝っぱらから彼女が来て叩き起こされたんですよ!」
「彼女? おれ、今付き合ってる女いないけど?」
「貴方の彼女じゃない! 私の彼女です!」
「えっ、なんで? なんでネコの彼女の件でおれに電話来るの?」
「私としては、どうして貴方が彼女のモバイル持っているかを知りたいんですが」
 一度耳からモバイルを離して、まじまじと見る。
 女物のピンク色のモバイル。かわいいストラップまでついている。
 うん、おれのじゃない。
 てか、おれ、窖に戻ってからモバイル持ってない。
「ごめんごめん、間違って持ってきちゃったわー。今返しに行くからさー、ここどこか教えて」
 モバイルの向こうから無言の怒りが伝わってくる。
「そこで待ってなさい!」
 捨て台詞を残して通話が切れる。
「ネコのくせにカルシウム足りてないのかな。もっと小魚とか食べるように言ってやらないと。彼女もあの爪じゃあ魚なんて捌けなそうだけどさ」
 手にしたモバイルを持て余しながらぶつくさ言っていると、この早朝からばっちりスーツで決め込んだネコがビルの入口から滑り込んできた。
 ちっ、GPSめ。
「よう、ネコ。おはよう」
 ネコからのおはようの挨拶は、顔にグーで一発お見舞いだった。
「痛ってー。殴ることないじゃん。おれ、顔しか取り柄ないのに」
「だから殴ったんですよ!」
「わるかったよ。知らなかったんだ、あんな綺麗な彼女とお前が付き合ってるだなんて」
「何を聞きました?」
「は?」
「彼女から何を聞いたのか、と聞いてるんです」
 はて。彼女を寝取ったことを怒っているんじゃないのか?
「公安が付き合ってる彼女にぺらぺらと重要事項喋ってるとは思えないんだけど」
「喋ってはいません。ですが、どんなに鈍い女でも女の勘という奴は侮れませんからね」
「あー、一度それでピンチになったことあるんだー」
「先輩諸氏からそう聞いている、というだけの話です。どこで彼女を知りました? どうして彼女に近づいたんです? そもそも、貴方、どうやって第三層(ここ)に来たんですか?」
 第三層。窖より二つ上の下流から中流下の庶民階級が住む階層。歓楽街が発達しているのもこの階層で、上のお偉いさんたちもよく羽目を外しに来る場所だ。ちなみに、第一層が政治家や高級官僚、弁護士や医者、企業家なんかが住んでいる上流階層、第二層が公務員や銀行員、エンジニアなんかの中流階層、第四層が法の庇護は受けているけど必要最低限の暮らししか送らせてもらえない保護階層、でもって我らが通称窖は第五層。法の庇護を捨てる代わりに自由を選んだ者たちの住処。
 なんて言うとかっこいいように聞こえるけど、結局のところ統制を失ったスラムと何ら変わらない。自由というよりは、前向きに言うなら自堕落に暮らしたい奴らが好き勝手に生きることができる場所とでも言おうか。ごちゃごちゃした活気はこの第三層に近いが、ほぼほぼ掃き溜めのようなところばかりだ。
「さぁ、おれも実は今それを聞きたくてさー。おれが施設に拉致られた時のゲートパス、とっくに無効になってるだろう? なのに朝起きたら綺麗な女が横にいるしさー、ずいぶんのっぽなビルは建っているしさー」
「一夜限りで見捨てた女を綺麗なんて誉めそやせる貴方の感覚が羨ましいですね」
「おれ、後腐れないのが好きなの。どんなに酔ってても、お持ち帰りされるときは今夜だけだよって念を押してるし」
「貴方のそういう話など聞きたくありませんよ。おっしゃい。話しなさい。でないと――」
「おれ、早く窖帰りたーい。お腹もすいたし、お金も持ってないし、どうやって帰ったらいいか分かんないし」
 尻のポケットをまさぐると、薄い一枚のカードが出てきた。
「ゲートパスじゃないですか。誰のです?」
「え、やだ。逮捕する気? おれのこと、逮捕する気? 知らないよ、おれ。昨夜は窖で飲んでいたはずだもん」
「誰と呑んでいたんです?」
「酒屋の常連さん」
 と、なんかほかに誰か来た気がする、というのは付け加えないでおく。そもそもそれが昨日の記憶かどうかも怪しいから。
「貴方の通える居酒屋に彼女がいたって言うんですか?」
「その辺の記憶はどうも曖昧で……第三層からわざわざ五層に呑みに来る人なんていないよね?」
「いたら会ってみたいものですね」
「てことは、おれが自分でここに来たってことになるけど、このゲートパス、誰の?」
 ひらひらとネコの前で薄っぺらい透明の板を振ってみせる。透明の板には時折薄水色の光が折れ曲がったり戻ったりしながら持ち主のサインを描いている。
 誰のか存じませんが、未だ生きてることは確かだ。
 ふつう、階層を渡るために本人登録をされたゲートパスは、紛失に気づいたら速攻利用停止され、GPSで所在探しが始まる。なのに、おれにこれを貸してくれた本人は未だに紛失届を出していないらしい。
 出していないのか出せないのかは不明だけど。
「ネズミ、貴方、他人事のように言ってますけど、実は貴方が窖に来た三層の人間からくすねたんじゃありませんか?」
「なるほど、それなら気まぐれに五層に遊びに来たそいつは、未だ五層で途方に暮れてるってことになるな!」
「明るく言わないでください。思い当たる節でもあるんですか?」
「うーん……」
 昨日の晩のことはあまりよく覚えていない。
 思い出そうとしても、さっきの化粧が剥がれた女の疲れた顔がちらついては、がんがんと殴りつけるような頭痛に見舞われてそれどころじゃない。
「酒屋の常連さんと呑んでいて、部下の人のゲートパスを借りて、お偉いさんに連れられて三層に来てまた飲んで、朝起きたら彼女のベッドだった?」
 最後に付け足した一言が悪かったんだろう。問答無用で俺はもう一発殴られた。
「ネコ、お前こそ付き合う女は選んだ方がいいぞ。ああいう飲み屋の女の子は情報はたくさん持ってるだろうが、漏れる可能性だって大きいんだから」
「余計なお世話です」
「少なくともおれ、彼女からは大事な何かなんて聞いてないよ。地上に行きたいんだーって言ったら大笑いされたもん」
 そう、確か一度は豪快に笑い飛ばされた。
 それから、すごく魅力的な顔で誘惑された。気がする。
「当たり前です」
「あ、お前も馬鹿にしたな? 地上はここの朝よりももっと空気が澄んでいて、昼は眩しく、夕方は空の色が魔法のように変わっていくんだ! そうそう、写真で見た夕焼けの色はネコの髪によく似てたな。綺麗な茜色だ」
 束ねた長髪をさらっと手のひらにとって流す。
 一瞬毒気を抜かれたネコの顔がかわいらしい。
 実はこいつ、おれのこと好きなんじゃないかな、なんて、実はたまに思ったりする。ノーマルなのは知ってるけど、こっちがその気になって引っ張り込めば、意外にすんなり落ちるかもしれない。
 ま、やらないけど。
「ネズミ、貴方……!!!」
「あ、思い出した! そうだ、それこそおれ、地上に行きたーい! って叫んでたんだよね。そしたらスカウトされて、もっと話が聞きたいって言われて、ここに連れてこられた!  うん、それだ!」
「何が、うん、それだ! ですか。地上に行きたいなんてめったなこと言うもんじゃないでしょ」
「え、何? 心配してくれんの? ありがと。さすがマブダチ」
「誰がマブダチですか。貴方なんて、敵です、敵」
「心配して飛んできてくれたくせに」
「彼女をです!」
「もういいよ。わかったからさ、おれ、帰りたいんだ。帰って地上への入口探さなきゃ」
 ネコの眉間に呆れたような深い縦皺が刻まれる。
「まだ探してるんですか? 地上への入口」
「そうだよ。当たり前だろ? そのために危険冒して窖に戻ったのに、投げ出して何の意味がある」
 はぁ〜っと深いため息がネコの口から漏れる。
 意外に、呆れ果てた目でネコに見られるのは快感だったりする。
 まだ見捨てられてないんだな、なんて嬉しくなったりもしたりして。
「貴方なら、私よりよほど優れたエージェントになれたでしょうに」
「冗談でしょ? 人に敷かれたレールなんて歩きたくないんだよ、おれ。公僕なんて性に合わないっていうかさー」
「脱走する前もそんなこと言ってましたね。カラスは元気ですか?」
「ぐっ」
 そこでネコははじめてにやりといやらしい笑みを口元に浮かべる。
「元気そうですね」
「当たり前だ」
「まったく、馬鹿な二人です。こちらにいた方がよほど裕福な生活ができたのに」
「束縛された豊かさよりも自由な貧しさを選んだの、おれたちは」
「へぇ、まだ二人一緒にいるんですか」
「うっ……それは……」
「おや、別れたんですか? それはめでたい。では、満を持して私が迎えに行きましょうかね」
「さっきの彼女はいいのかよ? それにカラスだぞ、カラス」
「ええ、いいんです。一晩だけとはいえ、簡単に他の男を寝室に招き入れるような女性とはついさっき関係を清算してきました」
「……早っ」
「貴方のせいですからね。責任を持ってカラスのところに連れて行きなさい」
「お前、やっぱ趣味悪いよ。カラスはやめとけ、カラスは。あいつは女じゃないぞ」
「カラスのことは、私の方がよほどよく知っていますよ。どれほど貴方を好きだったかもね。そうでなければ二人、行かせるものですか」
 自信に満ちた顔で言われて、なんだかこっちが負けた気になるのはどうしてだろう。
「まぁ、遅かれ早かれダメになると思っていましたけどね」
「やかましい。いいから帰るためのゲートに連れてってくれよ。おれ、こっちで使える金、一銭もないんだ。それとも、公安に突き出す? ゲートキープ規則違反とかなんとかって言って」
 ネコは一瞬額に手を当てて考える素振りをして勿体付けた後、ため息混じりに言った。
「仕方ないですね。今回だけですよ」
 きっと、ここに来る前から用意していた答えだったんだろう。
 恩を着せたくてもったいぶって見せただけだ。
 そうは分かっていても、こっちとしては感謝しない理由はない。
「サンキュー、マブダチよ。愛してるよ、ネコ」
「貴方に愛されても何も嬉しくありませんよ」
「じゃ、これ彼女に返しといて。それから、このカードの持ち主のこともよろしく探してやって。生き延びてれば、だけど」
「物騒なことを」
「そう言う世界だって、分かってるくせに」
「そうですけどね」
 ネコは渋々、ビルの前に路駐していた自分の車におれを乗せてくれた。
 ナビによるとゲートまでは三十分。
 おれは後部座席に寝ころんで、睡眠不足を補う。
 それと分かっているくせに、ネコはちらちらバックミラーでおれを見ながら話しかけてくる。地上への道は見つかりそうか、だの、そもそも地上なんて本当にあるのか、だの、夕焼けの色は本当に自分の髪と同じ色なのか、だの。
 おれはそれに適当に応えながら、車の中に仕掛けられた数々の盗聴器やGPS機材、監視カメラなんかを握りつぶしていく。
 ネコの奴、抜けているにも程がある。
 さっきの彼女のモバイルだって、いろいろと情報を漏洩させられそうなアプリがこっそり忍ばされていた。
 これで分かってて泳がせてるっていうなら大したもんだけど、あいつの場合、そのつもりでも逆に自分が泳がされていたりするから危ないんだ。
『ネコ、お前も一緒に来い。ここはお前が一人で生きていけるような世界じゃない』
 窖から引き抜いてきた、もとい、誘拐してきた戸籍のない子供たちを、公安のエージェントとして養成する施設。そこにおれとカラスとネコは五年いた。多感な時期に五年もいたら馴染んでしまいそうなものだけど、残念ながら地上への夢を諦めきれなかったおれは何回も脱走を図っていたし、自由に自分の好きな機械を作っていたいカラスも何回も脱走に使うための機械を作ってくれた。ネコは早々に中の奴らに感化されて優等生を気取っていたけど、本当は残してきた妹が心配で帰りたがっていたのを知っている。
 だから、今度こそネコもカラスも一緒に逃げ切れる――そう確信して計画を実行に移した時、おれは先に飛び出した窓からネコに手を差し伸べた。
 でも、ネコはおれの手は取らなかった。
『妹のためにも、ちゃんと立派になって迎えに行きたいんだ』
 純真なあいつは、妹がまだ生きてると信じて疑っていなかった。
 おれだって、育ててくれたばあちゃんが生きててくれたらいいなとは思っていたけど、おれを守ろうとしてあっけなく撃たれて倒れたのをこの目で見ている。多分、窖に残された親類縁者はおれたちを連れてくる時にとっとと殺されてるに違いなかった。
 それなら、窖に帰って妹の死を知るよりも、生きていると信じて頑張れた方がよほどこいつも寿命が延びるんじゃないか、なんて思って、おれはそれ以上しつこくネコを誘わなかった。
 だから、カラスと二人、ゲートの磁場を狂わせて第五層へ潜り込むように逃げ帰ったんだ。
「ネコ、一緒に行かない?」
 ふと思い出が口を滑らせた。
「どこへですか?」
 知らぬふりをしてネコは聞いてくる。
「カラス迎えに行くんだろ? お前のそのバッジ、大分階級上がってるじゃん。もうただの見習いじゃないんだろ?」
「そうですね。部下も抱える身になりましたね」
「そうやって面倒見いいとこ見せてるから付け込まれるんだよ」
「部下の教育も仕事の内ですよ」
「今のお前ならカラスのこと匿ってやれるんじゃね? こっちで恵まれた設備に囲まれて自由に作りたいもん作らせてやれるんじゃね?」
「あの人の作りたいものは爆弾ですよ? どんなに設備を整えたって、速攻壊されたんじゃたまりません。それくらいなら、壊れてるんだか使えるんだかわかんないような窖の洞窟の方が、あの人の研究には向いているんです」
「ああ、あいつ、ついに砂漠に居を移してきたよ。せっかく雨風凌げる洞窟壊しすぎて、窖にはいられなくなったんだ」
「いいんじゃないですか。窖にいたんじゃ、あの人も作りたい威力の爆弾作れないでしょう」
「まあ、そうなんだけど」
 おれはちょっと言葉を濁す。
 微妙に匂わせてみたけど、気づかなかったのかもしれない。それならそれでいい。何もなかったことにして話を続けるだけだ。
 それなのに、ふと思い出したようにネコは口を開いた。
「ネズミ、カラスがどうして爆弾づくりにこだわっているか知っていますか? いや、分かっていますか? 爆薬の量を研究しているんですよ。貴方を地上に打ち上げるための」
 おれは一瞬口を噤んだ。そして初耳のように尋ね返す。
「おれを?」
 茶化すように。
『もういいんだ。もういいから、やめてくれよ。お前の力なんか借りなくたって、おれは地上に行ける。絶対に行ってやる。そのために、砂漠に埋もれたこの古くからの遺跡に閉じこもっていろいろ探してるんだから』
 一度だけ、言ったことがある。
 おれの後を追って砂漠に越してきたカラスに。
 ここなら思い切り多量の爆薬を仕掛けられると喜んでいたカラス。
 あいつが爆薬の量をミスしたり、爆発させる時を間違えたり、本来ならするはずなかったんだ。
 ただ、おれが、ここは下に遺跡が埋もれているかもしれないからやめてくれって、あいつの仕掛けた爆発の範囲内に飛び出していった結果、庇ってあいつが負傷した。
 手足が吹っ飛んで、腹のど真ん中に穴が開いていた。
 頭と心臓が繋がっているのが奇跡のようだった。
 おれの上に覆いかぶさったカラスは、おれの上にいろんなものをぶちまけて、それでもまだ生きていた。
 さすがのおれも茶化す余裕も助ける余裕もなくなって、一気に頭の中が真っ白になった。
 なのにあいつは笑うんだ。
『大丈夫。換えの身体なら作ってある。お前に怪我がなくてよかった。お前の身体の換えは、まだできていないから』
 おれは唾をのみこんで、血まみれで重くなったカラスの身体を抱き上げて、血を噴き出しつづけるカラスの身体を研究所まで運んだ。言われるがままに身体の切断面を綺麗にして、用意されていたパーツをカラスの欠けた部分に付けていく。それは人間の手術なんてものじゃなく、人造人間の創造でもなくて、冷たい金属のパーツを組み立てるロボット作りに似ていた。大概のパーツは見事なほどカラスの身体にピッタリ合うように作られていた。それなのに、一か所だけ、埋まらなかった場所がある。
『子宮がない』
 必要とされる全ての部品をつけ終えて、それでもまだぽっかりと空いている下腹部を見て、おれは呟いた。
『それは、いらない』
 麻酔を打ち、輸血をしながらとはいえ、到底起きていられるはずのない時間を、カラスはしっかり意識を保ちながら目を開き、おれに指示を出しつづけていた。なのに、最後に見せたその時の表情だけは、見たことのないほど弱々しいものになっていた。いっそ、これから本当に死んでしまうのではないかと思うほど。
『なんで……!』
 思わずむきになっておれは叫ぶ。
『機械から人は生み出せない』
『! 何言ってんだよ! お前なら作れたはずだろう?』
『私はお前の側にいたいんだよ。だから、女であることをやめたいとつくづく思っていたんだ』
 意味が分からなかった。
 カラスは友達だ。兄弟のように育った幼馴染であり、切っても切れない腐れ縁であり、友人であると同時に、何度かは、その身を貪りあったことだってあった。
 第三層にネコを置いて第五層に戻ってきたとき、おれたちは泣きながら抱き合った。その時ばかりはお互いが男女の身体であることに感謝した。それから何度か、友情を交わすようにお互いの身体を交わし合った。
 ――分かってたんだ。カラスがおれと同じ気持ちじゃないことくらいは。見た目からして女には見えないカラスだったけど、必死に女に見えないように言葉遣いから男のように粗雑にふるまって、おれとネコのような男同士の友情を築こうとしていた。おれは見て見ぬふりをした。むしろ、見たくなかった。分かりたくなかった。カラスが女だってことは知ってたけど、兄のような弟のような、長年の友人のような、そんな関係をおれだって壊したくなかった。抱き合ったのだって、その延長のつもりだった。
 ……嘘だ。
 カラスが女だってことを意識してたのはおれもネコと同じだった。でもネコが好きな女だから、おれは極力女扱いしないようにして、悪ふざけする時も野郎とつるむノリでカラスとつるんで……いくら何でも自分がカラスと寝ることになるとは思わなかったんだ。
 ネコがいなくなってバランスが崩れた?
 申し訳なさが無くなった?
 ってことは、おれははじめからカラスを女として好きだったってことか?
『だめだ! だめだ、だめだ、だめだ!』
『私はつくづくネコになりたいと思っていたよ。ネコなら何の気兼ねもなくお前と肩を組んだり一緒に風呂に入ったりできるだろう? いつでもお前と対等な関係でいられるだろう? 友人のままなら、お前が私から離れる理由もなくなるだろう?』
 愕然として言葉も出なかった。
 カラスは澄まして目を閉じる。
『さあ、腹を閉じてくれ。これ以上開けておくわけにはいかない。私もそろそろ限界だ』
 おれは、自分の意志ではなく、カラスに言われるがままに手を動かし続けた。
 下腹部に何もない空洞を残したまま、腹を閉じる。
 金属の骨格で。
 本来、骨組みのない場所に組まれた金属の扉を閉じる。
『ありがとう。おやすみ、ネズミ。慣れてないのに酷いことをさせてしまった。お前ももうおやすみ。私はもう大丈夫だから』
 半ば微睡みながら諭すカラスの声に首肯し、おれはしばし、カラスの元を離れた。
 生身のカラスから垂れ流された血の跡を拭き取り、カラスだった生身の部品の欠片を回収する。どうしようか迷った末に、おれはそれを自分の家に持ち帰り、培養液の中に保存することにした。すでに熱にやられて腐りかけていたのだから、砂漠で燃やしてしまうのが一番だったろうに、おれにはそれができなかった。その中に、彼女の欠けた部分が含まれているんじゃないかと期待していたけれど、培養液の中できれいになった後も、それはどこにも見当たらなかった。
 数日休んだ後、カラスは無事に目を覚ました。
 それどころか今まで以上に精力的に爆弾作りに没頭しはじめた。
 一体彼女が何を爆発させたいのか、次第次第に分からなくなってくる。
 おれを地上まで押し上げるためのロケットを作るつもりなんだと思っていた。
 でも、あの事件を機に、カラスは何か、本当は別に壊したいものがあるんじゃないかと思えてならなくなった。
 例えば、それは自分の身体だったのかもしれないし、女の部分だったのかもしれない。
 あるいは、この地下世界にかかる五層の灰色の空だったのかもしれない。
「ネコ、カラスを連れ出してくれないか?」
 もうあんな無意味な研究など続けさせたくなかった。
「用が済んだ女は目の前にいてほしくない、と?」
「そんなわけ……!」
 ない、と言おうとして、喉が詰まった。
 おれは、彼女を見ているのが辛かったんだ。
 おれのために身体も、女であることも、夢も希望も、未来も、全てを捨ててしまった彼女が……重くて仕方なかった。
 女だと思ったことはない。なのに、女を意識させられる。女を捨てたことによって、より強烈に、おれはカラスが女だということを知ることになってしまった。
「都合のいい女にはできない。したくない。これ以上、しちゃいけない」
「それは大事って意味ですか?」
「……わからない。大事なんだろうけど、おれは大事にできない。女のカラスは、苦手だ」
 ため息が漏れ出た。
 カラスから全てを奪ったのはおれなのに、責任を取る気持ちにならない。
 自分はこんなにも薄情だったかと思うこともあるが、おれはカラスに全部捨ててほしいと頼んだつもりもない。
 彼女が女を捨てたのは彼女の意志だった。
 何度も頭の中でそう言い訳する。
 それで、今更おれがカラスを女扱いして大事にしても、カラスはそれが罪悪感から出た嘘だと分かるだろう。そんな愛され方をしても嬉しくないんじゃないだろうか、なんて。
 いや、嬉しいのかな。
 もしかしたら、頭のいいカラスのことだ、そこまで考えておれを縛りつけたのか?
 そんな思いすら過る。
「最低だな」
 呟きはうっすらと唇を乗り越えてネコの耳まで届いていたらしい。
「カラスは貴女の前では決して女性らしく振舞わない。貴方が望んだんです。最後まで付き合ってあげればいいでしょう、お友達ごっこに」
 思わずおれは起き上がる。
「おまっ、おれ何も言ってないよな? カラスと何があったとか、口から漏れ出ていなかったよな?」
「何かあったんですか? それはそれは。私が見てきたカラスはね、小さい頃から私たちと仲間でいるために、何より貴方の側にいたいがために、黒い濡れ羽をさらに黒く濡らして男らしく振舞おうとしていましたよ。鈍感なようでいて、鋭い女性です。貴方が自分に何を求めているのか、早くに察して、ずっとそれを自分に架してきたのです」
「重いこと言うなよ。小さい頃のおれがカラスに何を求められたっていうんだ」
「同じであることを、ですよ。光に輝く金髪の貴方と、カラスの濡れ羽のように黒く滑らかな髪のカラスと、まるで昼と夜を為す対のようでしたからね。対称でありながら、貴方はカラスに自分の鏡となることを求めた。ライバルであることを求めた。食糧の強奪もしかり、金銭の入手もしかり。施設に連れてこられる時だって、カラスが抵抗をやめたらあなたも大人しくなったでしょう」
「そうだっけ?」
「カラスはもともと孤児でしたからね。私のように妹や、貴方のようにおばあちゃんの愛情を生まれもって知っているわけではないのです。誰からも愛されない状態で生きてきて、たとえそれが男の子の友情の延長線上にあたるものだったとしても、彼女にとって貴方ははじめて自分を気にかけてくれた存在だったのです。誰からも顧みられない、道端の小石ほどの価値もなかった自分を見出してくれたのが、ネズミ、貴方だったのですよ。貴方にしても、カラスの存在が無ければそれほどまでに強く地上へ行くことを希求したでしょうか?」
『地上には太陽があってさ、遍く地上を照らしてるんだ。そいつはおれの髪と同じ金色をしているらしい。カラス、いつかお前にも見せてやるよ、金色の太陽。お前のその地味〜な黒い髪も黒い瞳も、輝いてさえいれば光を映すための鏡となる。それならお前だって自分を綺麗だと思えるだろう?』
 ふと、埃と垢だらけだったカラスに出会った時のことを思いだした。
 ばあちゃんが連れてきたんだ。今日からここの家の子になるからね、と。その頃、ネコとその妹はおれとばあちゃんの住む教会の隣に住んでいて、親もいなかったから、ばあちゃんが隣の家のことまで面倒見てた。おれたちはまとめて兄弟みたいなものだった。
 はじめてカラスに出会った時、おれは無邪気にそんなことを言って、カラスの黒い瞳が初めて生気に輝いたのを嬉しく思っていた。
 あれは生きる希望を見出した光、だけじゃなかったのかもしれない。
 カラスの年齢は不詳。おそらく、おれとネコより一歳かそこら、上な気がする。でもそれはカラスが女の子で、身体の成熟も心の大人への成長の仕方も早かったからかもしれなくて、結局のところ、どこかで無理をさせて歪ませてしまったのも、はじめから最後までおれのせいだったのかもしれない。
『お、おれの家が燃えてる!?』
 あれは、爆発事件があってカラスが身体を入れ換えてしばらくした頃。ちょっと食糧調達のために家を空けた隙だった。
 二、三日分の食料を抱えて帰ってくると、遺跡の近くに建てた家が爆発していた。
 その近くでは、カラスが立って憮然と燃える家を見ている。
『ま、まさか、お前がやったのか?』
『つまらないものが置いてあったから、処分していただけだ』
『つまらないものって、ここ、おれの家!』
 いきり立つおれの胸倉を、カラスは問答無用で掴み、引き寄せた。
 頬が怒りに赤く染まった分、筋の通った白い鼻梁が近くに眩しい。
『余計なことをするな! 私は今の身体で十分満足している! わかったな!?』
 おれは一瞬何のことだかわからなかったが、カラスがあれを見つけてしまったのだと気が付いた。
 カラスが失った生身の身体の欠片たち。
 一喝されて、思わずおれは顔を背ける。
 勝手に家に入ったのか、とかいうつもりはなかった。カラスは食糧のことなんて後回しで研究に没頭しているから、おれの家に食糧を取りに来ることなんて日常茶飯事だ。うっかりしていたのはおれ。あの部屋の鍵をちゃんと閉めて出なかったおれのせいだ。
 だけど、それとこれとは別の話だ。
 握った拳は、叩きつけるかわりにカラスの肩を掴むために開き、きつく爪を立てるように深く、人であることの証の温もりを求めて残った肌に潜り込ませるように沈めた。
『わかるかよ! んなもん、わかるかよ! 捨てられなかったんだ。焼いてしまえなかったんだ。だってあれはお前の体の一部だったんだぞ!?』
『お前が抱いた女の身体に執心するとは思わなかったぞ。しかし、あれはもう私ではない。私だったものの一部があったところで、二度と一つには戻れない』
『そんなことない! そんなこと、おれが何とか……!』
 何とか、したかった。
 同時に、自分に何とかできるのかと、不安がよぎった。
 おれは医療に通じているわけじゃない。でも、いつか、地上への道だけじゃなく、カラスの身体もなんとかしてやれたら……。
『脳みその少ないネズミが余計なことを考えるものじゃない。お前は馬鹿一直線に地上だけを夢見てればいい』
 おれの手を振り払ったカラスは、ふと人の悪い笑みを口元に宿した。
『だが、喜べ、ネズミ。お前の家はなくなってしまったが、どうやら新たな遺跡の扉が開いたようだぞ』
 岩穴が崩れ、お気に入りだったテラスも燃え尽きて、ドカンと音がしたかと思った瞬間、積み重なっていた瓦礫の山はグランドライン下に落ち込んでいた。
『遺跡の入口?』
『探してたんだろう? 砂漠に埋もれた古代の遺跡』
 満足そうに笑って、カラスは新たにできた遺跡の入口へと歩きはじめた。
 おれは慌てて小走りに後を追う。
『おれの家の真下にあるなんて、おれ言ったっけ?』
『無駄な場所に無駄なものは造らない主義だろう、お前は』
『そりゃそうだけど……でもまさか、硬い岩盤が一気に……遺跡の入口まで埋もれてたりしないだろうな』
『そこらへんはちゃんと匙加減しておいたから安心しろ』
 思わずおれはカラスを凝視する。
『もしかして、ずっと前から機会狙ってた?』
『さあな』
 楽しげに笑って、カラスは瓦礫が落ち込んだ穴へと飛び降りた。
 確かに、おれが地上を目指すことをやめられなくなったのはカラスのせいかもしれない。カラスはおれの欲しいものをくれる。おれが口にする前に、先を読んでこれが欲しいと思った道具を作ってくれるし、ここを壊してほしいと思った場所を壊してくれる。そこには必ず、次への扉が現れる。
 事実、カラスが発破した場所の瓦礫を取り除くと、地続きの岩陰に隠れるようにして、一枚の錆びた扉が見つかった。そしてその扉を潜ると、中は広大な迷路になっていた。
 一本一本の道を辿りながら、何か月もかけて地下迷宮の地図を作り、ようやくたどり着いた秘密の小部屋。
 そこは、どの道を辿っても辿りつかない、四方を壁に囲まれたアンノウンな空間。まさに、ここに何かありますと言わんばかりの空間だった。
 嬉しくてつい、昨晩アルコールに絆されるがままに声が大きくなってしまったんだ、
『今度こそ見つけたんだ! 絶対あそこに何かある!』
 あとはカラスに頼んで、あそこの壁を壊してもらうための発破材を作ってもらうだけだった。
『そのお話、もう少し詳しく聞かせて下さらない?』
 酔っぱらった俺に声をかけてきたのは、冴えない若い男の部下を連れた美人なお姉さんだった。
 おれはつい嬉しくて、あることないことぺらぺらと喋っていたら、『もっと詳しく聞かせてほしいの』とそのお姉さんにお持ち帰りされた。
 うん、それだ。
 てことは、さっきのベッドの疲れたお姉さんはお店のお姉さんではなく、公安かどこか上層部の結構えらいお姉さんだったってことか?
 ちらりとネコを見る。
 ネコは呆れたようにバックミラー越しにおれを見ている。
「ネコ、お前が地上に行くこともあるのか?」
「何を急に言い出すかと思えば。私が地上に? 何を馬鹿な。私は地上になど興味はありませんよ」
「興味云々じゃなくて、お前の仕事で地上に行くことはあるのかって聞いてるんだよ」
「地上に逃亡した者を裁きに、ですか? あるいは戻ろうとする者を抹殺するために?」
 ネコは答えてはいない。だが、それは答えたも同然だった。
 地上という世界が、本当におれたちの頭上にあるのか。
 いくら見上げても、灰色の相が五層も重なっていれば透視ができる奴がいてもわかりゃしないことだろう。この頭上にさらにおれたちが知らないことになっている第ゼロの層があって、そこには金色の太陽が空を運航しているだなんて。
 どんなに探し求めても、存在しない場所には行けない。
 教会の地下にある古文書は、現実なのかファンタジーなのか教会が分からないものもある。というか、ほとんどが神話みたいなものだった。おれだって本当は雲をつかむような話だってことは分かってる。カラスなんて協力はしてくれるものの、常々、本当に灰色いこの空の向こうに別な世界なんてあるのか、と存在そのものに懐疑的ではあった。
 世界の隠された真実を知っているのは、世界の上層部を牛耳る奴らと問屋は決まっている。なんだ。ネコは、すでに真実の一端を掴んでいたのか。
「おれも残ればよかったかな。その方が早く地上に出られたかもしれないな」
 公安のエージェントの仕事として、地上に出た者の抹殺があるのなら、今までおとぎ話や神話にしか出てこなかった地上は、確実に現実に存在しているのだ。
「馬鹿なことを言わないでください。戻ってこられなくなりますよ」
「その時はお前が探しに来てくれる?」
「探しに行った側からミイラ取りがミイラになるって算段なんでしょう?」
「いいじゃん、みんなで一緒に暮らそうよ。……また、今度は地上でさ」
 うっかり、言ってはいけないことを口にしてしまったことに気づいて、続く言葉に勢いがなくなる。
「そうですね。また五人で暮らせたら、楽しそうですね」
 静かにネコが答える。
「聞かないの?」
「何をです?」
「五人って、言っただろ」
「言いましたね」
「いいの?」
「知ってますから」
 ネコは前を向いたまま取り澄ましていった。思わず、おれは後ろからネコの肩を掴む。
「ちょっと! 運転中ですよ!」
「自動運転だからいいだろう?!」
「そういう問題じゃありません」
「知ってるって、どういうことだよ!」
「言葉のとおりです。あなたの最愛のおばあ様はあの時殺された。私の最愛の妹は……」
「ウサギならいなかった! 地下に戻って探したけど、誰も行方を知らなかった!」
 ネコが傷つかないようにおれは声を張り上げる。なのに――
「ええ、そうでしょうとも。私が殺したんですから」
 全身から血の気の引いていく思いがした。
 ネコの肩を掴む手からも力が抜けて、後部座席に投げ出すように身体を埋める。
 バックミラー越しに、ネコの表情を窺う。
 表情に苦痛も苦悩も、何も浮かんではいない。いつも通り、飄々としている。むしろ、カラスがおれのことを好きだと告白していた時よりも楽そうな顔をしている。
「お前、なに言って」
「言葉のとおりです。ウサギは私が殺しました。私たちが施設に入れられた時、実はウサギも第三層に連れてこられていたんです。そこで人に非ざる扱いを受けて、それでもまだ、九つになるまで生きていました。卒業試験だったんです。施設の。私は真面目で従順に過ごしていましたから、エリートコースへのお誘いが来ていたんですよ。妹をその手で殺せたら、若くして出世できるエリートコースに推薦してあげよう、と」
「卒業試験? お前、なに言って……」
「ある意味、あなたとカラスの卒業試験はあそこから脱出することだったのかもしれませんね。それすらも仕組まれたことだったのかもしれない。そうでなければ、未だに窖でのうのうと生きていられるはずがない。窖とて、上層部の人間が全く立ち入れない場所ではないことくらい、昨日一緒にお酒を飲んだ貴方ならわかっているでしょう? 貴方たちに地上への道を探らせるために、わざと逃がしたのかもしれない」
「馬鹿なこと言うなよ。そんなこと……」
 あるわけない。
 それがあるのが、――この世界だ。
「ネコ、お前、立派になってウサギ迎えに行くんじゃなかったのか? おれが手を差し伸べた時……」
「あれは、ちょうどウサギを殺した直後でしたね。我ながらまだ幼くて、決意の笑顔もさぞ、醜く歪んでいたことでしょう」
「あれは、自分だけ残ることを選んだからじゃないのか?」
「私はあの夜、大切な人たちをいっぺんに三人、失ったんです。いいえ、手放したとでも言えばいいのでしょうか。その代わりに得られる代償の方を選んだのです。卒業とは、そういうものです。さ、つきましたよ。ゲートです」
 淡々とネコは停車した車から降り、後部座席の扉を開けた。
 向けられたのは、五本の黒い銃の筒。
「これはこれは……ずいぶんレトロなもんが出てきたね」
 身体は起こしたものの、これでは出るなと言われているも同じだ。
「ネズミ、私のモバイル、返してもらうわよ」
 両手に一本ずつ銃を持った二人のエージェントを左右に配置して、化粧の濃いお姉さんが今にも高笑いしはじめそうな勢いでもう一本の銃の筒をおれに向けていた。
「ネコ〜、この人、お前の彼女じゃなかったの? 別れたんじゃなかったの?」
「ええ、彼女でしたよ。確かに今朝、別れましたよ。でも、仕事の上司と部下という関係はまだ続いています」
 反対側の扉から銀色のレーザー銃の筒をおれに向けながら、ネコは悪びれずに笑った。
「お前の年上好みは昔からか」
 聞くまでもない。このお姉さんの方がネコの上司だ。発しているオーラがまるで違う。化粧もショッキングピンクのスーツを着こなす度胸も、自信ありげな赤い唇も、私仕事できます、とアピールして止まない。
 日の元で見れば見るほど、残念ながらおれの好みじゃない。
「貴方はロリコンでしたっけ。うちの妹を将来もらってくれる約束でしたからね。貴方にお兄さんと呼ばれる日をこれでも楽しみにしていたのですが、残念です」
 何年も昔に反故にされていたことをネコが言った直後、両の扉から差し向けられた銃口から火とレーザーが放たれた。
 おれがどうやって逃げ出したかって?
 そりゃもちろん、逃げ道は上か下かしかない。あとは運転席かシート越しにトランク側に逃げ込むか。車なんて上も下も鋼鉄の箱だ。おれは前のシートの間に身を滑らせ、運転席に納まるなり自動運転を解除して思い切りアクセルを踏んだ。
 耳障りな音を立てて、車は脇の四人を振り払って前に発信する。
 車のハンドルを握るのは久しぶり――というか、免許すらとった覚えなどなかったけど――層間転送局の壁の手前でブレーキを踏んでハンドルを切る。ぐるりと車体を今来た方向に向け、銃弾やレーザーが威嚇する中、おれは車に乗ったまま転送局の自動ドアを突き破り、そのまま構内を駆け抜けて、今まさに第四層へと送転を開始しようと動きはじめた転送装置の磁場の中に突っ込んだ。
 カラスと逃げた時に比べるとかなり派手な立ち回りになってしまったが、仕方ない。
 第五層行き、なんて早々設定されるものじゃないから、第四層に着き次第、車を捨てて第五層のボタンを押す。第四層の管理官たちは、おれの登場に何が起きたかわからないらしかったから、動きが一瞬遅れていた。その隙におれは無事、第五層の転送装置の中に立っていた。
 まあ、そこからも多少の立ち回りなんてものはあるんだけれど、基本、第五層の奴らはやる気がない。ネコに返し忘れた誰かのゲートパスをわざと放り投げると、名前を抑えられればこっちのもんとばかりに、奴らはゲートパスを拾いに群がりはじめた。その隙におれはさっさと第五層の転送局を後にした。
 見計らったように転送局の近くにはカラスの車が迎えに来ていて、おれは今度こそ後部座席のシートで安眠を貪ろうと身体を横たえる。
「どこに行ってたかと思ったら」
「ネコに会ったよ」
 眠い目を擦りながら答える。
 カラスは一瞬息を呑みこんでいた。
「元気だったか?」
「立派になってたよ。騙されたし殺されかけた」
「笑ってるけどな」
「本当だよ。それから……」
 ウサギは死んでいたよ。
 そう言いかけて、やめた。
「なぁ、カラス、地上の夜明けって、どんなだろうな」
「どうした、いきなり」
「第三層の夜明けは相変わらず静かだったよ。コンクリートにすべての時が呑みこまれてて、嘘くさいのに少し、神聖な感じがした」
「そうか」
「アルバ」
「……」
「おれのルナはもういないってさ。ザカートが言ってた」
「……そうか」
 カラスがゆっくりと目を閉じるのが見えた。
「だが忘れるな。朝焼けも夕焼けも、太陽あってのものだということを。地上では、だがな」
 変な気を起こすなよ、と暗に言われたようだった。
 太陽と対になる月がいなくなったからといって、お前までいなくなるなよ、と。
 この世界に住んでいれば、明日生きているかどうかも分からないというのに、それでも生きていろと願われている。
 それは、きっととても幸せなことなんだ。
 生きていてほしいと願われて、生きていけることはとてもありがたいこと。
「泣くな、ソル」
 両腕を交差させて顔を覆い、歯を食いしばって声をかみ殺しているというのに、振り向きもせずにカラスは言った。
「ザカートが妹を救うにはそれしかなかったんだ」
 人に非ざる扱いを受けて。
「知ってたのか……知らないのはおれだけだったのか……どうして……」
「聞きたかったか? 私の口から」
 どんな扱いをされていたのかも、お前は知っていたというんだな。
 本当に、おれは何も知らない。
 三人の中で、おれだけがいつまでも子供のままだ。
「知ってたら、お前はあそこに残っただろう? 地上を目指すことも忘れて、復讐の為に生きただろう?」
「それも、おれの人生だった!」
「お前の地上に焦がれる夢物語を一番真面目に聞いていたのはルナだった。あの子はお前に復讐してもらうよりも、地上を目指すことを望んだろうよ」
 ああ、そうやってみんな、おれの夢をおれだけのものじゃなくしていくんだ。
 何が何でも地上に行かなきゃならないように仕向けていくんだ。
「嫌になったか? 地上を目指すのが」
 落ち着くために息を吸い込んだつもりが、洟をすする羽目になった。
「そんなことない。行ってやるよ、地上。拝んでやるよ、地上の太陽」
 おれの名の由来となった、この世界にはない幻の太陽。
 それが実在するのか確かめることが、おれの小さい頃からの夢だった。
 扉は開かれつつある。
 もうすぐ、おれは地上にひょっこりと顔を出すだろう。
 その時、この目は潰れてしまうかもしれない。
 あまりの眩しさに、おれは見えるものの全てを失うかもしれない。
 いっそ、すべて失ってしまいたかった。
 地上の太陽さえ拝めれば、もう何も見なくていい。美しいものだけこの目に焼きつけることができたなら、おれは全てを手放そう。追ってきたネコに殺されても本望だ。
『ソル。大きくなったら私のこと、ソルのお嫁さんにしてね。だってわたしは月だもの。あなたがいないと輝けないの』
 十にも満たない子供がませたことを言うと思った。でも、実は結構ぐらりと来てたんだ。
「ルナ――」
 車窓の外は朝なのに赤く錆びた闇に滲んでいる。ここが光が届かない最下層だということを思いだす。高層ビルの代わりに、蚕の寝床のように無数に扉がつけられた岩盤が並ぶ居住区を過ぎて、住処にしている赤茶けた砂漠に出ると、ぽっかりと鼠色の「月」が現れた。太陽に照らされて純白に光り輝く本物の月とは違う。薄汚いただの監視用のドローンだ。
 おれは座席に埋まるように身を隠す。
 ルナ。
 いつかお前の名の由来となった純白の月も見てやろう。
 そしてどれだけ美しかったか、教えてやろう。
 二度と手を伸ばすことのできないお前の代わりに。
(201605020055)