鳥籠の王女とネズミの太陽
5.目
見なければよかったと思うものがある。
窖で生活していたネズミにとって、見なければよかったと思うことに出くわすことは日常茶飯事であり、目を覆ったところで焼きついた光景はそう簡単に消えてはくれない。それでも、都合よく忘れたふりをしたり、忘れるように心がけることで、心の奥底に溜まりそうなものは極力捨てるように心がけてきたが、忘れられないことはいくつもあるし、ごくたまに、うなされる原因になったりもする。とはいえ、ネズミは自分でもそういったものとよく折り合いをつけて生きている方だと思っていた。
一方で、地上に出てからは見てよかったと思う物ばかりに出会っていた。
太陽然り。赤茶けた大地は少し残念だったが、緑の深い森は目に鮮やかで感動した。それから青い空、赤い夕焼け、鴇色の朝焼け。そして、美しい纏足の王女。
一目惚れとはよく言ったもので、一目見た瞬間から、あの王族特有の気高い雰囲気と自由を奪われた気だるげな漆黒の瞳にやられてしまった。一目ぼれの効果は、数日行動を共にしても衰えることを知らず、むしろますます心は捉えられていく。
そう、概ね心は虜にされていっているのだが、ごくたまに、あの美しい王女は常識では考えられないようなことに手を出そうとする。
「何してるんだ!」
森の中にネズミの怒声混じりの悲鳴が轟いた。その声に驚いた花琳が斧を放り出し、くるくると宙を回転しながら落ちてきた斧はネズミのすぐ近くに突き刺さる。一度は後ずさったものの、ネズミは無言で斧を引き抜き、遠くへと放り投げた。
「お前、今何しようとしていた?」
逃げられないように花琳の手を引き寄せ、できるだけ低くどすの利いた声で睨みつける。怒っているんだとアピールしなければ、鈍感な王女は分からない。
「おい、こらっ、無視すんなっ」
怒られていることすらなかったことにしようとでも言うように、花琳はぼんやりと、それも遠く森の入口辺りを彷徨う鹿の動きを目で追っている。
「花琳っ」
普段は名前など呼ぶこともないが、注意をひきつけたいときには名前を呼ぶに限る。
呼ばれた花琳ははたと振り向き、ネズミの髪に目を留め、手を伸ばす。
「何にやけてんだ」
「お前の髪は今日も綺麗だなぁと思って」
わしゃわしゃと両手で髪を撫でられて、一瞬ネズミは鼻白む。が、それくらいで怒りがなくなるわけはない。
「馬鹿か? 馬鹿なのか? おれは今あんたが何してたのかって聞いてたんだぞ? 足伸ばして座ったまま斧振り上げて、何しようとしてたの、ねぇ? お兄さん、理解に苦しむんだけど。それとも何? 王女様には特殊な思考回路か何かでも入ってるの?」
「回路? ああ、電気が通っていろいろと考えてくれるというあれか」
「そうじゃなくて!」
何で知ってるんだ、と尋ねる間もなく、花琳は淡々と衝撃の事実(?)を口にする。
「足を切ろうと思って」
「そう、それ。それを聞きたかったの。って、えええっ?!」
いや、流石にそれはない。それはさすがに、普通、何らかの理由で考えることはあるかもしれないが、自分で実行しようとなど思いもしない。
ネズミはまっすぐ伸ばされた花琳の白い足に目を落とし、はるか後方に放り投げたはずの斧を確認し、もう一度花琳の足を確認する。
大丈夫だ、血は出ていない。
未遂だ、未遂。
「って、未遂で済むか、この馬鹿たれがっ」
思わず近所の小さな子供達にやるように頭に軽く拳骨を振り下ろしてから、はたと目の前の少女が元王女様だったことを思いだす。
「痛った〜。貴様、手を挙げたな?」
「あ、いや、それは」
「それも元王女の頭に拳骨とは何事だ」
「いや、すみません。近所の悪ガキども叱るのと一緒になってました」
「ふんっ、私は近所の悪ガキと一緒か」
「ああん? あんた、いつの間に立場逆転させようとしてんだ。今はあんたが叱られる側。おれが叱る側。あんたは近所の悪ガキどもと一緒。やっていいことと悪いことの違いが分かってないんだから、同じだろ」
はぁっとネズミは深くため息を漏らす。
「足だけ切ろうとしたってことは、別に死のうとしたわけじゃないんだろ?」
「それはそうだ。死のうと思ったら足なんかじゃなく首とか胸とか手首とか……」
「いい、わかった。それくらいにして。ほんとにもう、この人は」
二度目のため息。
森の中の小さな樵小屋を見つけたのが数日前。どうやらもう使われていないらしいことを確認して、しばらくここで養生させてもらおうと腰を据えることにしたのがつい昨日のこと。樵小屋には斧だけじゃなく猟銃やら鎌鍋やら、危険なものから役に立つものまでが幅広く取り揃えられている。しばらくここで腰を据えられるなら、花琳に約束の松葉杖を作ってやろうと思い立ち、壁に掛けてあったはずの斧がなくなっていることに気付いたのがつい今し方。
「長くいるなら、纏足の女がいると思われるよりも、足の不自由な女がいると思わせた方がいいと思って。靴を履いても脱げてしまうし、布を巻くだけだと形が分かってしまうだろう?」
なるほど、などと一瞬でも頷きそうになって、いやいやとネズミは首を振る。
「麻酔もなしでそんなことすれば絶叫して居場所がばれるぞ。そも、足の切断なんか、あんな消毒もしてないもんでやったら、ばい菌が入って、膿んで、足首より下だけじゃ済まなくなるぞ。下手すりゃ全身腐って死ぬぞ」
さすがの花琳もさっと顔から血の気が引く。
「あんた、頭いいくせにたまに馬鹿だよな」
「ちっ、馬鹿馬鹿言うな。阿呆が」
「あっ、阿呆って言われる方がむかつくわ。何それ、こっちの言葉? 小馬鹿にされてるみたいですごいむかつくんですけど」
「その通り、小馬鹿にしてるんだ。よかったな、お前の感性はまだ死んでないぞ。目はどうだか知らんがな」
「っあっ、かわいくなっ」
「ふんっ、お前などにかわいいなどと思われてたまるか」
「うわ〜、なんだよ、それ。歪みすぎ」
「ほっとけ」
「ほっとけないから一緒にいるんだろ」
三度目のため息。
(なんでおれ、こんな女、好きになったんだろ)
手早く花琳の着物の裾を軽くめくる。
「何をする!」
パシッと手をはたかれたが、悪意があってめくったわけじゃない。
「痛ってて。怪我してないか確かめてたんだよ」
「余計なお世話だ!」
もう一度、足のどこにも怪我がないことを確かめて、着物の裾をかぶせてやる。
この女は城から逃げるために着物を捨てた。髪を捨てた。今度は足を捨てようというのか。
「足は捨てなくていいよ。むしろ、どんなに小さくてもちゃんと爪先まで残っていた方が、義足誂えた後も歩きやすいと思う。ちゃんと自分で土踏んでる感触がするだろうから」
「土を、踏む?」
「そう、窖に戻れて義足を作れたらの話だけどね」
「自分の足で、歩けるようになる?」
「なるよ。ちょっと重い金属の足をつけることになるけど、歩く時にはエンジンとバネもついているから苦労しないと思うよ。カラスがそういうの作るの得意なんだ」
「カラス?」
「そう、カラス。おれがネズミであいつがカラス。暗闇でごそごそ実験やら研究ばっかやってるから、真っ黒カラスって呼ばれてんだ。からくりも工作も、手先使うことならなんでも得意な奴だよ」
「ほう」
花琳の目が輝く。
思わず出てきた名の持ち主は、窖時代の義兄弟のような親友のような、腐れ縁の幼馴染とでもいえばいいのだろうか。
「まあ、実験に失敗して爆発して死んでなきゃの話だけどね」
「……なんだ、それは。こわい奴なのか?」
「大丈夫。爆発しない義足造らせるから」
「えっ……」
絶句した花琳に構わず、ネズミは先に立ちあがる。
「立てる?」
「もちろんだ」
ネズミは花琳の手をとって引き立たせる。
小さな爪先は自力で立っているにもあまりにも不安定だったが、それでも花琳はネズミにしがみつきながら、一歩一歩自分の足を動かして歩く真似事ができるようになっていた。
「ったく、おれの目を盗んでどうやってこんなとこまで移動してきたんだよ」
「もちろん、お尻と足と手を使って尺取虫のように……」
「ああ、いい、わかった。とりあえず、もう足を切ろうとしないって約束しろ」
「うーん……、でも、やはりない方がいいのではないか? 遠い未来、義足を作ってもらえることになったとしても、まずは今を逃げ切らなければならないだろう? 北の国境を越えるまで油断はできないのだから、纏足とは分からないように事故で足を失ったようにそれぞれ長さを変えて……」
「ええい、やめろ。想像しただけで気持ちが悪くなる。おれに医療の心得は最低限しかないんだよ。手術とか血とかそういうの慣れてないの。むしろ嫌いなの、流血沙汰。喧嘩になればとりあえずお宝持って逃げるための足の速さなんだから」
「でも……」
「今から松葉杖作ってやるよ。そのために斧探してたんだから。木ならこの間ちょうどいい具合のやつ見つけてきたし」
そうして、ネズミは一日かけて花琳の背に合うように切った木で右側の松葉杖を作り、翌日には左側を作ってやった。目を輝かせてみていた花琳は、ついにやすりかけに自ら立候補し、楽しげに作業に没頭しはじめた。
「じゃあ、その間におれ、食糧と水探してくるわ」
行ってらっしゃいの言葉もそこそこに作業に集中している花琳を残して、ネズミは朝靄の晴れた森を一気に駆け抜けた。
今日明日くらいなら、まだ追手もここには来られないだろう。朝は霧が深くなる迷いの森だと、周辺に住む村人が言っていたくらい深い森の中心部だ。早々人も入ってこられまいし、入ってきたとしても、あの場所まで運よく辿りつけるかはわからない。むしろ、少しくらい時間を稼ぐためにわざわざ選んだ場所なのだから、それくらいの役目は果たしてもらわなければ意味がない。
その一方で、自分には迷いの森の霧など意味のないものだった。暗さには目が慣れているし、もやもやとした輪郭のものとて目印にしても迷うことはない。抜群の嗅覚とでも言えばいいのか、一度通った道は昼夜が変わろうが忘れない、それがネズミの特技でもあった。
途中、足元の泥土を髪と顔と手足に塗りたくり、こちらの世界では珍しい髪と肌の色を隠す。走って泥が渇いた頃、ある程度土をはたき落とし、できるだけ目立たない場所を選んで森を出て、目の色を隠すための帽子を目深にかぶりなおす。服はとうにこっちの世界の住人と同じものを手に入れていたから問題ない。あとは、食糧を買出しに来た村人よろしく背中を曲げてできるだけ俯きながら町へ行くだけだ。
まばらに人が行き交う街道を足早に駆け抜けて、太陽が頭上から傾きはじめる頃、砂埃と人の往来がひしめく市場の中にネズミはいた。
市場といっても、街中からだいぶ離れた場所にあるこの市場は、王国に認められているとは思えないような場所だ。一本奥の路地に入れば、生きて出られるかわからないような怪しい雰囲気が醸し出されている。それでも、食糧を求める人々で、表向きは活気あふれる食料品街だった。
ここに食糧を買い求めに来られる奴はまだましだ。
買えない奴は、どこにでもいる。
「待てや、こら。今すってったもん、返してもらおうか」
軽く体当たりをかまして走り抜けようとした五歳くらいの子供の細腕を握り、吊し上げる。
行き交う人々は、一瞬歩を止めて吊し上げられた黒い垢塗れの子供を見たが、次の瞬間には知らぬふりをして歩き去っていく。
「誰も助けてくれる奴はいないようだな」
「変な目の色」
間近で目を見合わせた子供は、真顔で不機嫌にそう言った。
ちっ、とネズミは小さく舌を打つ。
「財布、返してもらうぞ」
まだ子供の手に握られたままの黒い布袋を奪い取って、吊し上げていた子供を地に転がす。
「ふっ……わぁぁぁぁぁ、うわぁぁぁぁ……」
途端に子供はわざとらしく道のど真ん中で大の字になって手足をばたつかせながら泣き出した。
またしてもネズミは小さく舌打ちをしたが、「おい」と声をかける前に、別なところから声がかかった。
「その方ら、何をしておる」
雑踏と言ってもいいほどの混み具合を見せていた通りから、人々の波が消えていた。
代わりにネズミと泣きわめく子供の目の前にあったのは、紫色の傘がついた、いかにも高貴な人が乗っていそうな輿と、それにつき従う人の群れだった。
左右を振り返り、ネズミは周りがそうしているように慌てて道の端に行き、帽子を取って膝をつき、顔を地面に擦りつける。ついでに泣きわめいていた子供も回収して横に額づかせる。
「ほう、手早いな」
嘲笑が頭上に聞こえた。
若い男の声だ。
「その子供、そなたの財布に手を出したのではないのか?」
びくりと子供の背中が震える。
ネズミは心の中で盛大に舌打ちをして、溜息をついた。
「いいえ。ちょっと貸してやっただけでございます」
「貸した?」
「財布の布か形が珍しくでも見えたのでしょう。この通り、なんの面白みもない布袋でございますが」
取り返した財布を額づく向こうに差し出し、さらに低身低頭額をじゃりじゃりする大地に擦りつける。
「確かに、なんの面白みもない袋だな。そなた、顔を上げてみよ」
このまま過ぎ去ってくれるかと思いきや、何やら好奇心に満ち溢れた声で呼びかけられて、ネズミはおそるおそる上半身を持ち上げるが、目を合わせることがないように下を向きつづける。
「顔を上げよと申しておる」
命令しなれた声が傲岸に言い放つ。
仕方ない。
心を決めて、ネズミは顔を上げた。
見上げた先に、紫の輿に乗った若い男の姿が見えた。傘から垂れ流した薄布をわずかに持ち上げ、隙間からネズミを見下ろす。
目が合った瞬間、ネズミの全身に後悔が走った。
見なければよかった、と思った。
輿を覆う紗幕を持ち上げてちらりとこちらを見た男を、ネズミは一生忘れないだろうと思った。
これが、あいつだ。
教えられるまでもなく、直感していた。
花琳に懸想して、クーデターも結婚も中途半端にした男だ。
漆黒の目が、まっすぐにネズミを射抜く。
じり、と焼けるような想いが胸の中に焦げ目をつけた。
「捕えよ。子供もこの男もだ」
何の感情も含まれていない冷たい声に、思わずネズミはいきり立った。
「っ! なんでだよ!」
反論した時には、すでにネズミも隣の子供も武装した男たちに腕を掴まれ、引き立たせられていた。
「お前は私に嘘をついた。子供は掏摸の常習犯だ。捕まえぬ理由はない。戻ったら地下牢にでも入れておけ」
そこは、偉い人だったら見逃してやるところじゃないのか?
そもそも、こんな場末の市場に「王様」が来ること自体、おかしいだろうが。
反論する間もなくネズミは捕えられ、ここに来るまでに何をしたんだかよく分からないが捕えられた老若男女が入れられた檻のついた馬車に放り込まれた。
(ちっ、なんでだよ)
この際、この国の王女を盗んだことは棚に上げている。
あの王女さんが惚れるくらいだから、もっと寛大で面白い奴だと思ったのに、生真面目で偉くつまらない奴じゃないか。それも、こんな何の罪犯したかもよく分かんないようなおばあちゃんやじい様や、果ては妊婦まで乗せられて。妊婦の姉ちゃんなんかさっきからぐすぐす泣いてるじゃないか。
「そこの妊婦さんね、お腹が大きくて額づけなかったのよ」
ぼそりと隣の善良そうなおばあちゃんが耳打ちしてくれる。
「はぁあ?」
思わず反抗的な声が漏れてしまって、ネズミは慌てて口を押える。ぎろりと横を並走する男に睨まれたが、愛想笑い一つで速攻目を逸らす。
「ばあちゃんは何したの?」
こそっとおばあちゃんの耳垢の詰まった耳に囁く。
どうも、こちらの「下々の者たち」の衛生状態は全体的にあまり良いとは言えないようだ。それはネズミが生まれた場所も同じようなものだったが、生気のなさはこちらの方が上に感じる。あっちの世界では、最底辺でも生きていくガッツがまだ漲っていた。それくらいの心意気がなければ生きていけないから、というのもあるが、まだ全体的に「層」としては活気が残っていたように思う。こっちの世界は、こんな闇市のようなところだって、後ろ暗い活気すら消えかけている。
「あたしはね、別になぁんもしてないのさ。それがよくなかったんだろうねぇ。腰と膝が痛くてね、跪くのが遅れて目立っちまったんだよ」
はっはっはっ、とおばあちゃんは控えめながらも笑い飛ばす。
「おれだってそうさ。骨折した足が痛くてちゃんと正座できなかったんだから」
「おれも」
「わたしも」
あちこちから、身体に痛みがあって額づくのが遅れたせいで連れてこられた者たちの不満の声が上がる。
「そんなことでひっとらえてたら、あっという間に牢屋が足りなくなるだろうに。ご飯だってどうするのかね」
「ご飯なんて出るわけないだろ。あたしらはこのまま窮屈なところに詰め込まれて飢え死にさせられるのさ」
小ざっぱりと言い切ったおばあちゃんの声に、女たちはすすり泣き、男たちは憤懣の声をあげはじめる。
「おい、うるさいぞ!」
見かねた兵士が剣の鞘で牢の鉄棒を一叩きし、一同は我先ににと口を噤んだ。
ネズミはおばあちゃんと顔を見合わせ、肩をひょいっと持ち上げる。そして、さっきから人々の話に加わらずじっと大人しくしている隣の子供を見やった。
ごとごとと馬車で運ばれる間、掏摸の子供はずっとネズミの隣で膝を抱えて大人しく自分の爪先を見つめていた。泥と土が爪の中にまで浸透して、よほど年月をかけないと綺麗にはならないような色をしている。裸足で走り回っているからか、生々しい傷もたくさんついている。肌だって、栄養が足りていない土気色で、子供のくせにばさばさにひび割れして毛羽立っている。
ネズミも自分の爪先を見つめた。
今はちゃんと靴に覆われている自分の足。脱いでも、もう足の爪先に泥が詰まっているなどということはない。色も健康的なピンク色になっている。しかし、小さい頃のものとはいえ、無数の傷がきれいに消えることはない。木の枝やいばらの棘ならまだいい。ガラスの欠片や電熱線をうっかり踏んでできた火傷まで、ネズミの両足にはいくつもの傷が重なりながら刻まれている。
どんなに痛くても、走らなければ逃げられなかった。走らなければ食べ物は得られないし、収穫がなければひもじい思いを抱えて蹲っているしかなかった。
それが誰のものかなど、構っている暇はなかった。
食べられるものなら何でもいい。
今晩のご飯。明日の昼飯。明後日の晩飯。
食べ物を得られたら、食べるべきその時まで待っていることはない。人目につかない場所に飛び込んで、他の奴らにとられる前に貪るように口に詰め込む。次はいつ食べられるかわからないのだから、今、食べておくしかないのだ。
ネズミにとって、通貨など食べることのできない役に立たないものでしかなかった。
今食べられるもの。それが一番大切だ。
通貨など持っていても、交換できる食べ物が買えるとは限らないのだ。
ごとごとと収監車に運ばれながら、ネズミは再び隣の子供を盗み見る。枯れ枝のような節くれだった足首の細さ、手首の細さ、ぽこんと不自然に出張ったお腹。来年の今頃、この子供は生きていられるかと考える。
(無理かもしれない)
そんな思いが浮かび上がって、思わずネズミは懐の小銭袋に手を伸ばしたが、周囲から視線が集まっているのを見てやめた。
今小銭袋を子供に持たせても、後で周りの大人たちが取り上げるかもしれない。解放されてこの小銭を使えるようになるかどうかさえ怪しい。
たとえ外に出られたとしても、小銭袋を持っているのがばれた時点で、この子は殴る蹴るの暴行を受け、きっと今よりも酷い目を見るだろう。
胸元に伸ばした手は、痒いところを掻くふりをしてさっさとおろす。
鷹の目のような周りの視線は霧散する。
ついさっきまでの和気あいあいとした感じも、夢のように霧散している。
「余計なことはするもんじゃないよ」
それこそお節介だと自分でもわかっているのだろうが、さっきのおばあちゃんがネズミに囁く。
「わかってるよ」
地下も地上も人の素性など変わらないものだ。
半ばがっかりしながら、ネズミは大人しく膝を抱えて囚人たちの小声の会話に耳を澄ます。
「前の王族を皆殺しにしておきながら、何も変わらないじゃないか」
「いや、前よりもひどくなった。前はちょっと道を空けるのが遅くなったくらいで捕えるなんて馬鹿なことはしていなかった」
「あんたは一行の兵士からも財布掏ろうとしたからだろ?」
「そういうお前は水を飲んでる馬を一頭かっさらおうとして失敗してるじゃないか」
「腹が減ったら金になりそうなもんなら何でもよく思えてくるんだよ。馬なら乗ればそのまま逃げられるかと思ったんだけどな」
「振り落とされて腰を痛めてれば世話はない」
「まぁ、なんにせよ、こんな庶民の台所まで雲の上の人が覗きに来るもんじゃないってことだ。ろくなことになりやしない。こっちはこっちのルールでやってるってのに」
「このあたりの地区も取締りを強化して、綺麗な街にするのが狙いなんだろう? 余計なことしなくていいのにな。どうせ金持ちの奴らしか住めない街になるんだ。俺らは端っこに追いやられて、そこでまた汚ぇ街作って暮らすだけなのによ」
「ああ、全くだ」
「お前たち、いい加減にしろ!」
上から抑え込むような兵士の声に、二人の小者は肩を竦め息をつく。
「結局、自分のいいようにしたいだけだったんだ」
ぽそりと誰かが呟いたが、それに答える者はいなかった。
やがていくつかの視察先を連れまわされ、同じように何の罪で捕えられたのか分からないような者たちが増えて居場所が狭くなってきた頃、ネズミたちは王城の地下牢に男女別々にぶち込まれた。
湿った石造りの壁は地下水道と変わりなく、ひんやりと肌にしみ込む涼しさが黴臭さとともに鼻孔に忍び入ってくる。それだけならまだよかったが、ネズミたちよりも先に投獄された男たちがいるところにさらに詰め込まれたものだから、次第に一室は蒸しながら気温が上がり、えづくような独特の臭いが立ち込めはじめた。
雑魚寝する人々の合間に胡坐をかいて、しばらくは様子を見ていたものの、逃げられそうな壁の隙間や鍵の甘さは見つからない。たまに静かになった瞬間に、どこか遠くの方から水の流れる音が聞こえてくる気もするが、方向を確かめる間もなくまた男たちの無駄な怒鳴り合いが始まる。それどころか、夕食の配給すら始まらない。
(てっとり早く、本当に餓死させる気か)
ぐぅ、と鳴ったお腹をさすってネズミは首を振った。
他にも方々から腹の鳴る音が石牢の中に響き渡っている。
「おい、ぐーぐー、ぐーぐー、うるさいぞ!」
ガラの悪い男の声がしたが、別なところからさらにはしたない音が漏れ出る。
「うるせなぁ。腹が減ってんだからしょうがないだろ」
「っんだとっ!?」
あわやこの狭い場所で殴り合いが始まろうとした時、地下への階段を下りてくる足音と、揺らめく松明の灯りが遠くに見えた。喧嘩を始めようとした男たちは、俄かに期待を込めて灯りを見つめ、その到着を待つ。
しかし、灯りは先に手前の女性ばかりを入れた牢の前で止まり、何人かを先に連れ出すと、また上へと上がっていってしまった。
「さっきの妊婦の姉ちゃん、出られたんだな」
ネズミの横に縮こまるようにして座っていた子供がぽつりと言った。
「腰痛めてたばあちゃんもな」
妊婦はお腹を抑え、息むような呻き声を上げながら、女性何人かに支えられて階段を上っていく。
「っなんだよ、飯の時間じゃねぇのかよ!」
荒い声を上げて、「うるさい」と先に入った男が腹を鳴らした男に殴りかかった。
わぁっと、悲鳴と歓声とが湧き上がる。
血に逸った男たちは、殴りあう二人の男を取り囲み、勢いよく野次を飛ばしはじめる。その脇ではわれ関せずの何人かが壁に寄り集まって身を固める。
「こらぁ、お前たち、何をやってる!」
予想通りというかなんというか、騒ぎを聞きつけた兵士たちが駆け戻ってきて、制止に入るが、男たちの矛先は今度はその兵士たちに向けられる。
「何もしてなくても捕まえられるんだって」
騒ぎの最中、ネズミの隣の掏摸の子供は小さな声で誰にともなく呟く。
「は? なんだって?」
「どこか悪かったりするひととか、妊婦さんとか。今までも王様のお通りの時に何人も捕えられて、後で何もなかったように戻ってきてた。俺の仲間も」
「無罪放免って奴か」
子供はちょっと考えてからまた口を開く。
「ひどいことされなかったかって聞いても、ただ首を振るだけなんだ。でも顔はにやけてて……問い詰めたら、秘密だって言われて美味しいもん食わされて帰されたんだって」
「ほう、そりゃまた……」
偽善もいいところだな。
とは、思いはしても口にしなかった。
王様のお通りの際に額づけないような怪我や痛みを抱えている者にはよく効く薬を、妊婦には安心して子供を産める場所を? 腹を鳴らした者には食べ物を。
そんな僅かばかりのおこぼれを恵んだところで、国が富むわけがない。密かに王の人気向上でも掲げていたとして、口止めしてれば上がるわけもない。むしろ、口を滑らせて秘密を知った者が、そう、たとえばこの子供のように、わざと捕まろうと悪事を働く動機にされることすらありえるのだ。大局を見られない者が王になったところで、この国の未来は知れている。
「でも、食い物もらう前に、一つ聞かれたんだって。髪と目の色が違う男を見なかったか、って」
ぎらり、と子供の目が荒んだ光を放った。
「ねぇ! 兵隊さんたち! 探してるネズミならここにいるよ! 泥はついてるけどこいつの髪は黒くない! 目の色だって、日の元で見た時には青かった!」
子供の口を塞ぐ間もなかった。
兵士たちの目は一斉にネズミに向けられる。
子供の甲高い声に、大人たちのしゃがれた声も掻き消され、血気溢れる男たちの目も一斉にネズミを見る。
「やっべ」
小さく舌打ちして逃げる場所を探すが、そんな暇はない。
「捕まえろ!」
牢の中にいるのにこれ以上どうしようというんだ。
そんなネズミの思いをよそに、体格のいい男たちがネズミめがけて突進し、羽交い絞めにかかる。
「ギブギブギブ!」
ふざけてる余裕もないほど締め上げられたころ、何やら相談していた兵士たちのうち一人が、黒鉄の丸輪に連なる鍵の一つを選び出して、男たちに潰されたネズミを見た。
「出ろ。そこの潰されてる男だけだ。ああ、それからそっちの掏摸の子供もな」
開けられた小さな扉から、意気揚々と子供が跳ね出る。続いて、締め上げられて痛む体を整えながら、背中を丸めてネズミが転がり出る。さらに後に続こうとした荒くれ男たちの鼻先で、再び扉が閉じられる。
「なんだよ、協力してやったじゃねぇかよぉ!」
ガラの悪い文句には頓着せず、五人いた兵士のうち、一番背の低い男が吟味するように灯りを掲げてネズミを見上げた。
今更目の色を隠そうと視線を上向けたところで、遅かったらしい。
兵士はにやりと口元を緩める。
「ちっ」
今度こそ大きく舌打ちをして、ネズミは兵士の掲げる松明を払い落とした。隙をついて鳩尾に拳を入れ、さらに他に灯りを持つ二人の兵士たちの手から松明を払い落とし、鍵を持つ男の手を打って落ちた鍵束を牢の方に蹴り込む。
「祝儀だ! 出ろ!」
外に出られると思って大人しく手に縄をかけられていた子供を一瞥し、子どもを繋いだ縄の端を持ったまま慌てている兵士を手刀で気絶させる。ただし、子供の縄をほどいてやるほど、お人よしでもなければ暇でもなかった。
「生きたきゃ逃げろ」
そう言い捨てて、ネズミは兵士たちが降りてきた階段のある方向とは逆の、より奥の方へと駆けだした。
何のヒントもなければ、衛兵の制服を剥ぎ取って成りすまし、階段を上って地上に出るのが正解だろう。しかし、日の元では、いくら泥を塗っていてもこの髪は透けるかもしれず、怪しまれる可能性の方が高い。それくらいなら、さっきちらちらと聞こえた水音の聞こえる方に賭けてみようと思ったのだ。
男たちはまだ牢から出られないでいるらしい。子供が追いかけてくる気配もない。遠ざかる怒号に、騒ぎを聞きつけた新しい兵士たちの声が混ざりはじめるのも、そう遅くはないはずだ。
焦りの中で、暗闇は逆に聴覚を研ぎ澄ませてくれる。
廊下の突き当たり、さらに地下への階段が伸び、下っていくと鉄格子の嵌められた扉の向こうに、黒い流れが見えた。
鍵束はさっき牢の中に放り込んで来てしまったが、これくらいの錠なら朝飯前で開錠できる。
髪を止めていたピンを抜き取り、慣れた手つきで錠を開ける。その間、二秒にも満たない。
ついている、と自分に言い聞かせ、さび付いた扉を開けて地下水路の側道に踊りだす。勿論、通り抜けた後鍵をかけて閉めておくことを忘れない。
逃げるなら下流へ。もしか、地下世界へ王女を連れていくための探索をしていくなら上流へ。
一瞬考えて、ネズミは上流へと向かった。
情報は多い方がいい。それも、身動きの取れる一人の内に集めておくに限る。
「それにしても」
たった半月かそこら前に駆け回った場所だというのに、ずいぶん別な場所のように感じる。暗闇も、溝の臭さも、肌に吸いついてくる冷たい湿り気も、ここの環境は何一つ変わっていないというのに、この水路の行く果てが王女の部屋に繋がっていたこと、地下世界への入口へ繋がっていたことを知ってしまったあとでは、あの時とは別の好奇心がくすぐられだしている。
あの時は、一心に太陽を見たいだけだった。
願いどおり、太陽は一度はこの目を灼き、そして手元に小さな太陽をもたらしてくれた。
今度は、あの小さな太陽に夢を見せてやる番だ。自分の足で、何の苦労もなく立って歩けるように、そして新たな希望を抱けるように。
あの子をもっと輝かせてやりたい。
自分にはできる。
いや、彼女に足を与えてやれるのは、この世界では自分しかいない。
そのためには、なんだってしてやる。
彼女は、この世界で得た唯一無二の宝物なのだから。
想いは力になる。空腹すらもねじ伏せて、ネズミは覚えるために地下水路を縦横無尽に走り回った。中には王女の部屋へ出られたポイントも見つけることができた。そしてもう一か所、うっすらと積み重ねた石の隙間から光が滲む場所を見つけて、注意深くネズミはその「扉」を開き、外に出た。
そこは、御多分に漏れず暖炉の下だった。火が灯されていなかったのを幸いに、灰をかぶりながら暖炉の外に這い出すと、そこは王女の部屋よりも一段と広く、天井の高い、暗闇の中でも見事としか言いようのないほど絢爛豪華に室内装飾の施された部屋だった。
(王様の部屋かな)
だとすれば、下手すればまたあいつに会うことになる。
やだやだと首を振り、足跡を残さないように気をつけながら部屋の外へ出られそうな扉の脇に身を添わせたときだった。
扉の反対側が押し開けられ、手燭の火を持った男が一人、中に入ってきた。
男は気配を殺すネズミに気づくことなく、室内の中心へ移動し、灯火台に手燭をさしかける。
(王様のくせに真っ暗な部屋に帰ってくるなんて、どうかしてる)
逃げるタイミングを見計らいながらも、ネズミはその男の背中から目が離せなくなっている。
ふと、男は灯火台に火が灯る前に傾けていた手燭を手近な台に置きなおした。
そして、くるりと振り向く。
思わずネズミは生唾を呑みこんだ。
暗闇の中、確かに視線が絡み合っているのが分かる。
猛獣に睨まれたかのように身動きが取れなくなったネズミに向かって、男は静かに歩を進めはじめた。
(こいつが先生か)
室内の闇の中に浮かび上がる白皙の顔。歪みを知らない黒髪は高く結い上げられ、ネズミの前で立ち止まってなお、静かに重々しく揺れている。
(こりゃ、大概の女は見た目だけでもころっといくな)
地下世界では女に事欠かないと自称するネズミでも、はぁあと溜息をついて首を振る。
女ってのは、こういう正統派美男子に弱いものだ。特に真面目な女ほど深みにはまると恐ろしい。決して安易に近づけない雰囲気が、また、女の攻略欲を刺激するのだ。
だが、王女さんがこいつを好きになったのは、おそらく見た目なんかじゃないだろう。あの子はそういう人の好きになり方はしなさそうだ。どちらかと言えば、女であることを武器にするよりも、男と同じ土俵で勝負したがるタイプだ。そういう女は、自分が同等と認められることに弱い。
そんな王女の気性を分かっていて恋に落としたのか、それとも、知らずにそうなってしまったのか。
いずれ、自分に気づいて歩を進めてきたのだから、何か用があってのことに違いない。自らひっ捕らえるつもりなのか、はたまた何か告げたいことでもあるのか。
覚悟を決めて、ネズミは目の前で立ち止まった孔冀章の次の動きを待つ。正確には、次の言葉を。
人を呼ぶのか、それとも何か、おれに言いたいことがあるのか。
「蘭樹様は……息災にしているか?」
俯いた男の横顔が、闇の中、手燭の灯りにゆらゆらと映し出されて白壁に黒く影を落とした。
途端にネズミは落胆した。
(そりゃないだろう)
ネズミは歯噛みした。
そりゃないだろう。
息災なわけ、ないだろう。
それも、蘭樹様、だなんて。
握った拳に力が籠る。灯りが灯っていれば、その手が白くなり震えていたのが、背後の男からも見えただろう。
あんたは、どんな思いで手放したっていうんだ。あんな綺麗でかわいいお王女様を。
そりゃ、ちょっと変わったところはあるけどさ、でも、あの人は熱心にあんたを愛してる。愛してた。自分で気づかないような想いの懸け方をして、不器用だったかもしれないけれど、大好きだったんだ、あんたが。
でも、教えてやらない。
もう、教えてやらない。
『花琳様をどこにやった』
そう言われたら、返してやってもよかった。
お互い凝り固まった想いをぶつけ合って、傷つけあうなり愛し合うなりすればいいと思ってた。
それが、なんだ。
息災にしているかって、なんだ。
返せって言わないのかよ。
おれのものだと、言わないのかよ。
かわいそうな花琳様。
この男にとって、あんたはただの象徴でしかなかったんだ。無事を祈るふりして、あんたが無事ならどこの男に連れ去られようがそれでいいと思う程度の男だったんだ。何がなんででも取り返してやろう、自分の者にしてやろうなんて気概すらない男だったんだ。
あんたの愛した男はその程度の男だったんだ!!!
(なんで、おれがこんなに悔しいんだよ)
拳を握りしめて、これ以上顔を上げないように耐える。
一言も声を漏らさないように、唇を引き結ぶ。
ああ、それでも。
殴ってもいいだろうか、この馬鹿男を。
皇帝だか王様だか何だか知らないが、こいつもただの男なんだろう? ただの男に成り下がって手に入れたはずの女盗られて、何が息災にしているか、だ。
ぎり、と奥歯を噛みしめて拳を握りなおす。掌に立てた爪痕から、知らず、血液が流れ落ちる。
返事がないと悟った孔冀章は、おもむろに先へ向けて一歩踏み出そうとする。
その横っ面に向けて、ネズミは拳を打ちつけた。
頬骨と拳がぶつかる嫌な音がして、孔冀章が吹っ飛ばされ、壁に全身を打ちつけられてずるずるとくずれ落ちた。
頬を抑えたままぴくりとも動かない孔冀章の胸倉を掴みあげ、ネズミは自分に引き寄せる。
「なぁ、あんた。王女様、いらないの? もう用済み? どこへなりとも行っちまえ?」
「……」
「答えろよ、なぁっ!」
「……声を抑えろ、人が来る」
孔冀章の整った薄い唇から、いつかどこかで聞いたことがあるようなセリフが呻くように漏らされた。
「ああ? あんたら揃いも揃って馬鹿なのか?」
「馬鹿とはなんだ。阿呆のことか?」
「そのやり取りもさっき王女さんとしたよ。建前ばっかり大事にしやがって。ああ、馬鹿くさ。なんなんだよ、あんたら。好きあってるなら好きあってるって言やぁいいじゃないか。それを何を形式にとらわれてせせこましいことしやがって。形式ぶっ壊すのが革命だろ? クーデターだろ? 何やってんだよ。あんたらが革命して国の名前を変えようが、そのままの国の名前で体制変えていこうが、こっちはどうだっていいんだよ。だけどな、王女さんが幸せじゃないのは納得がいかない。あんたもそうじゃないの? ねぇ、あんた、王女さんのために親兄弟親族郎党殺しといて、なんで王女さんに手ぇ出してないんだよ。存分に憎しみ合うなり愛し合うなりすればいいだろうが。国の名前そのままでも、体制変更中でも、これがおれの好きな女ですって連れて歩けばいいじゃないか。負ぶって歩くのがかっこ悪いって言うなら、あんたが車いす押して一緒に歩けばいいじゃないか。一度は松葉杖まで与えたんだろう? 王女さんが自分の足で立って歩いていけるように、お膳立てしてやってたんだろう? そのあんたが王女さんから足を奪ってどうする?!」
「黙れ!」
それまで微動だにしなかった孔冀章が、爆発した怒気を滲ませて乱暴にネズミの胸倉を掴み寄せた。
鼻先数寸の間を残して、二人は睨みあう。
「私では、あの方を幸せにできない」
怒りと悲しみを噛みしめるように、孔冀章が声を搾り出す。
「泣き言聞きに来たんじゃないんだよ。幸せにできないならどうして殺してやらなかった。一生先生のふりもできない、恨まれても憎まれても愛していると抱くこともできない。あんた、何のために王女さん生かしたんだよ。自分のエゴのためだろ? 自分が生きていてほしいから命を断たなかったのに、好かれていないと思った途端、自分の想い、貫き通せなくなって持て余してたんだろ? 一回王女さんの願いも思いも全部踏みにじっておきながら、閉じ込めるなんて中途半端なことしやがって。本当は、誰か盗み出してほしいと思ってたんじゃないのか?」
だから、警備や追跡の手を緩めていたんじゃないのか? わざと。
言いたいことを呑みこんで、ネズミは恋敵を睨みつける。
「王女を盗み出してくれるなら誰でもよかったんだろう? 殺されたって、文句なかったはずだ。あんたの想いはその程度だったんだろう?」
「ふざけるな! 何も知らないくせに、ポッと出てきて分かったような口を利くな!」
「あんた、おれのこと知ってたんだよね? 金髪に碧眼の白肌の美青年。この辺じゃ珍しいもんね? そんな目立つ男が王女さん攫ってったって言われたら、嫌でも気が付くよね。王女さん連れてる男、一目見てみたくなるよね。だから、もしかして視察にかこつけてあんなところ歩いてた? 善人悪人関係なく捕まえて、欲しいものと引き換えにこっそり情報提供させたりなんかしてさ。今だって、地下牢の騒ぎの報告受けて、おれがいないって分かって、それなら地下水路から来るはずだって踏んで、わざと一人でこの部屋にやってきたんじゃないの!?」
「騒ぐな」
「おれはあんたの泣き言聞くためにここに来たんじゃないんだ。もう一つ付け加えるなら、できることならあんたの顔、一回も拝みたくなんかなかった。なのに、昼間っから街の視察だなんだと練り歩くあんたの一行に出くわすわ、難癖つけられて捕まえられて今度はここであんたに出くわすわ。もう最っ悪。ほんと、こんな目なんて、王女さん見た後太陽に灼かれて潰れちまえばよかったんだ」
「それは困る。目が見えなければ逃げられまい」
ネズミは無言でもう一発、孔冀章の顔を殴りつけた。
女みたいに綺麗な顔が、余計憎たらしくて仕方ない。
「本当は、あんたが連れて逃げたかったんだろう?」
「……」
「国から、制度から、地位から、名誉から、一番逃げ出したかったのは、あんたなんじゃないか!」
「騒ぐなと……ああ、そうだ。私こそがあの方を連れて逃げ出したかった。だが、それはあの方の私に対する望みではないと……私は、私は……私こそが、あの方を幸せにして差し上げたかった」
「ふんっ」
ネズミは勢いよく、掴んでいた胸倉を振り払った。
力なくよろけた孔冀章は、再び床に転がり尻餅をつく。
「無様だな。無様な男だ。恋に溺れ、あんな幼い少女に溺れ、夢を見失って権力に逃げるしかなくなったか。それほど自分に自信がないか。己より年若い少女の機嫌を取らねば自己を保てないほど、王女さんの愛した男は惰弱で愚かな人間か! いいさ、分かったよ。戻ったら王女さんに伝えてやる。あんな男の元からは逃げてきて正解だったって。おれが愛情も足も心も何もかも取り戻してやるってな! どうだ、悔しいか!」
「……」
孔冀章は呆けたようにしばしネズミを見上げる。
「花琳に、足を取り戻してあげられるのか?」
今度はネズミがぐっと息を呑みこむ。
「お前の世界では、それが可能なのか?」
やっぱり、こいつは地下世界のことを知っている。自分たちの世界といつからか分かれて別々の道を歩みだしたもう一つの世界のことを。そして、おれがそこから来たことを。
次の言葉を探すネズミの前で、孔冀章は立ち上がり、再びネズミと向かい合う。
「明日、夜中の十二時。地下水路の門を開けておこう。人が来ぬうちに、疾く、去ぬことだ」
負けたような気がした。
孔冀章の言葉を真に受けるならば、目指す地下世界への扉は開かれたようなものなのに、心の底から負けたような気がした。
敗北感に打ちひしがれながら、それでもネズミは、何事もなかったかのように先に部屋から出ようとする背中に問いかける。
「いいのかよ、あんたそれで」
背中は次への歩みを止め、振り返ることなく軽く、斜め上を見上げる。
「あの子は、花琳です。花琳として生きることが幸せなのです。私がお慕いしているのは蘭樹様。美しい、陶器の人形のようなお方です。――花琳に足を、返してあげてください」
一瞬、振り向いた横顔には、切なそうな微笑が張りついていた。
そして孔冀章は音も立てず、部屋から出ていった。
パタン、という扉の閉まる微かな音が、残された手燭に照らし出された空間に呑みこまれていく。
「ちっきしょっ……」
見なければよかったと思うものが、また一つ増えた。
(201605020055)