鳥籠の王女とネズミの太陽
3.花琳

「はじめまして、第三王女様。私は孔冀章(こうきしょう)と申します。貴女に詩歌音玉の精髄を授けるよう、王様より直々に拝命いたしました」
 はじめて師と会ったのはとてもよく晴れた春の昼下がりだった。空がとても青かったのを覚えている。空の青に溶け込みそうなほどうっすらと白いだけの綿雲が柔らかく穏やかに流れていく。その空に、白い花弁が舞う。
 花梨の木の下で、私たちは出逢った。
 薄い蜂蜜色の午後の光が空に舞った白い花弁を透き通し、うっすらと筋を際立たせる。花の香りは気をつけねば分からぬほど僅かなものだったが、甘酸っぱく鼻孔をくすぐった。
 手を伸ばしても空に舞い上がった花びらには手が届かない。腰をかがめても、椅子の上からでは地に落ちた花弁にすら手が届かない。
 ぽたり。
 風に吹かれて肩に落ちてきてくれた花を手に取る。
 よく見れば花蕊の周りは薄紅色に淡く染まっていた。黄身のごとき蕊(しべ)が伸び、中央の黄緑色の蕊に黄金色の粉を振り撒く。
 枝を離れてしまっては実など結べぬというのに。
「摂理ですよ。合理的かどうかなど意味はないのです。ただ風が吹いたから雄蕊から花粉が飛び、近くの雌蕊についただけです」
 商家の次男だという男は得意の笑顔でにっこりと微笑んだ。作り笑いだとよく分かる媚びた笑顔。しかし、何故私の考えていることが分かったのか、それが不思議だった。
「顔にでも出ていたか?」
「ええ、とても分かりやすく」
 作った笑顔はいただけないが、歯に衣着せぬ物言いが気に入った。
「ですが、果たしてこれは無意味なことでしょうか。何もこの花の雄蕊は同じ花の雌蕊と結ばれる必要はない。風が吹けば花粉は目に見えないものとなってこの枝に花開く雌蕊の元にも辿りついているかもしれない。生物は同じもの同士が結ばれても進化はしないのですよ。それはただの同じことの繰り返し。違う物と結びついてこそ、数多の種類が生まれる。暑さに強いもの、寒さに強いもの、長雨に強いもの、乾燥に強いもの。甘い実、酸っぱい実、味気のない実。それらの特徴が組み合わせを変えながら結びつき、環境に適応したものだけが生き残る」
 男の口元は確かに笑っていたが、目は笑っていなかった。
 この男は私などに詩歌音曲を教授するのは本意ではないのだろう。ただ、王に私の師に任じられたからにはそれなりの才能と世渡りの才覚があるはず。男が目指すのは、私の師では終わらない。私はただの踏み台。まだ二十に手が届くかどうかのこの若い男が見ているのは、学者や役人では納まらない。国の未来を握る仕事。
「お主、変わるべきはどちらだと思うか? 王家か? 国か?」
 少し、苛めてやろうと思ったのかもしれない。つい今しがた赴任したばかりで不敬なことも言えまい。案の定、餅でも喉に詰まらせたような顔をしている。
 なのに、ふと人の悪い笑顔になった。
 ぞわりと全身に寒気が走った。
 人の本当の顔を見てしまった、これは恐怖とでもいうべきものなのだろうか。それとも、何か別のもの?
 目が離せなかった。
「王女様はどちらだと思います?」
 逆に問われて、口の中が乾いた。
 押し負ける。
 私が?
 そう、私が。この男に、気圧されている。
 目だけは逸らさず、乾いた唇を噛みしめたふりをして湿らせる。
「王家が外の血を入れるだけで安定するほど、国はすでに盤石な状態ではない」
 睨みつけるようにして答えてやったものの、男は嫌な表情を変えない。ますます目に好奇心を灯して私を見つめる。
「ではどうするのが得策と?」
 今度こそ私は唇を噛みしめる。
 王女としてこの先は口にしてはならないことだった。
 我が血を生み出した王家の長年の支配により、国が疲弊しきっているのは見るからに明らかだった。国とは興り、栄え、滅ぶもの。どれほど素晴らしい王が国を興そうが、どれだけ素晴らしい王が国を栄えさせようが、いずれは滅ぶ。いや、国は滅びてはいない。国を支配していた王家が滅ぶだけだ。王家が弱体化すれば国も弱体化するから、王家とともに国も滅びたように見えるだけで、しばらくすれば何事もなかったかのように違う姓の王朝が誕生し、同じような政の制度を敷いて素晴らしい王が国を興し、栄えさせる。支配される方は何も変わらない。税を徴られ、兵役を命じられ、くたくたになって畑に帰り、耕し、子を作り、食べて飲んで憂さを晴らし、また同じ毎日の繰り返し。しかし、王家が滅ぶときは彼らも生活に窮していく。
「王女様は千里眼でもお持ちか?」
 だんまりを決めつづけていた私に、くすくす笑いながら男が言った。
「惜しいですね。貴女が自由に歩けるならいろんなものを見せて差し上げられるのに。私が見せて差し上げられるのは中庭一美しい花を咲かせるこの花梨の木と、塀と建物にくりぬかれたこの青空だけ。詩歌音曲の世界に美を見出す方ならその世界の中で最も美しいものを見せて差し上げようと思っていましたが、さて」
 顎に手を当て、男は無礼にも私の顔をまじまじと覗き込む。
「一人目の王女様は蔡(さい)へ嫁がれた。二人目は陶(とう)への輿入れが決まっている。もし、貴女が望むなら、貴女が隠し持つその爪を研ぐお手伝いをいたしましょう」
 ごくりと、私は生唾を呑みこんでいた。
 人の悪い笑みがひどく魅力的に思えていた。
 私には足りないものがたくさんある。
 自力では歩くことのできない足も、男ではないことも、外の世界を知らないことも。
 この男はそれらを皆持っていた。
 私に足りないものを全て、持っている。
 ただ、私が欲しないものも、この男は持っている。
 玉座への執着。
 そんなもの、私にはない。いや、むしろ、疲弊した国は最早いかなる政策をもってしても浮かばれない。今更この国の玉座についたとて、尻拭いをさせられるだけだ。父王は歴代の王たちに見劣りはしないものの、表向き凡庸にすぎる。中興の候を過ぎた頃くらいならばまだ許されただろう贅を尽くした生活も、今はただ国庫を危うくするだけだというに、虚勢を張るためだけに金を費やしている。父王が思うより、国はもう傾き切っているというに。
 父はどうしてこんな男など私に師としてあてがったのだろう。まさか私が本気で詩歌音曲に目覚めるとでも思ったのだろうか。
 否。
 今更そんなものに目覚めさせて何になる。それならはじめから、あんなものを私に寄越したりしない。歴代王になる者だけに受け継がれているという古の書物。数多の国の人口や産業の概略とその興亡、今は亡き魔法のような技術の解説、生命の不思議で片付けられてしまう発生から誕生までの過程に、果てはこの世界は小さな粒でできているという理論に至るまで――誰も知らない、今となっては真か嘘か誰も確かめようのないことだけが記された禁書。そんな知識を与えておいて、今更私をどこかに嫁がせようと思うはずがない。
 それとも、滅びゆくこの国から出してやろうと?
 いいや、違う。
 やはり父の望みはそこではない。
 こんな危険な男を私の師にあてがったのは、父の望みもそこにあるからだ。
 ならば、私は私と父のため、この男の欲望を使うしかない。
 我が国に滅びを。
 我が王族に、滅びを。
 そして、新たなる王を。
 父上、貴方が選んだこの男が新しい王にふさわしいかどうか、私が見極めて差し上げましょう。
「読み違えるな。私は爪など隠し持ってはおらぬ。私の望みはこの好奇心を満たすこと。外の世界は歩けずとも、せめてこの塀の向こうに広がる世界を知りたい。ただそれだけだ」
 余計なものを望めば遠ざける。
 父は、私だけ許嫁を定めなかった。両隣国に姉二人を嫁させしめても、まだ北にも国境を接する国は残っている。年の釣り合いの取れる男がいなかったから、などとそんなのはただの言い訳だろう。一番上の姉は正妻とはいえ三十も年の離れた王の後妻だ。二番目の姉が嫁すことになっている王子はまだ十二歳。私の方が年が近いくらいだ。それに、父とて何人も側室を抱えているのだから、これから男子一人くらいは誕生するかもしれない。そうなる前に私にあの本を託したのは、これ以上続けるつもりがないということだろう?
 この身に流れる血による王政を。
「私は道具だ。父にとっての、な。だからお前の道具になるつもりはない」
 はじめて、男の目の中に別の感情が見えた気がした。嘲笑うかのように作り物めいた表情に小さな亀裂が生まれる。
 私は全てを終わらせる。そのためにここにいる。
 曖昧な昔の知識だけでは踊らされるだけ。だから今の情報が欲しい。
 男は喉の奥で小さく笑いだしていた。隠しきれない性格の悪さがよく表れている笑い声だった。やがて声は大きくなり、中庭中に響きはじめた。
「承知いたしました。それでは第三王女様。まずは貴女の望む勉学に不要なその肩書きを取って差し上げましょう。肩書きさえなければ、貴女はもっと自由に発言できる。もっと自由な発想ができる。そうでしょう? もちろん、それはこの場限りのものです。貴女の真名を聞きたいとは思わない。それは第三王女につけられた呼び名にすぎませんから、将来夫にでもなる男にだけ囁けばよろしい。貴女に必要なのは私の弟子としての呼び名」
 弟子としての、呼び名。
 その言葉に、私の心は一番震えた。
 学徒として、独学には限界がある。師が欲しいと望み続けていた。できれば、あの本に書いてあることを共有できるほどの者を。喋るつもりはない。だが、外の世界でまであの知識の全てが根絶やしになっているとは思えなかった。片鱗さえ残っていてくれれば、誰かに受け継がれているはずだ。
「そうですね」
 私の返事を待たずして、男はうろうろと花梨の木の周りを歩きはじめる。そして、ちょうど一周して戻ってきたところで、ぴたりと私の前で立ち止まった。
「花琳にしましょう。この花梨の木の下では、貴女は外で勉学に励む男子同様ただの学徒です。ただ違うのは、貴女には四書五経だけではなく、詩歌音曲も他国の姫君たちに負けないくらい上達してもらわなくてはなりません。その上で、貴女の知りたい外の学問を授けましょう」
 花琳。
 それは、奇しくも私の真名と同義であった。
 父と私以外、誰も知らぬこと。
 夫にだけ囁けばよいと言いながら、何故それにしたのか。
 花梨の木があったから?
 偶然を装うために、わざわざ初めての授業の場所をここにしたのか?
 一体、誰から聞いた? いや、誰も何も、私が初対面である以上、父からしか聞けぬこと。父がこの男に私の師となることを命じた時、他にも何かやり取りがあったとか?
 そう、たとえばいずれ、この男を私の夫に、とか?
 このまま父に男子が生まれず、実は父が王家の断絶も望んでいなかったとして、描かれるのはそんな陳腐な将来。
「どうしました? 気に入りませんか?」
 気に入らぬと言ってもよかった。ただ、男が父から私の真名を聞いたのか否か確証が得られない以上、花琳が真名と同義であることを気取られそうな発言は慎むべきだった。
「よい。許す」
「それでは花琳、授業を始めましょう」

 好きだと思ったことはなかった。ただ、学問も思想も、いろんな話が通じるのが嬉しかった。私が第三王女ではなくただの花琳になれる時間があることが嬉しかった。
 学徒憧れの場、図書館は後宮の塀の外にある。閉館後だけ、という条件で、父から特別に私が図書館に行くことを認めさせたのも師だった。それだけでも破格なのに、 纏足を施したため自力では歩けない私のために、ある日師は松葉杖を作ってくれた。図書館の中でだけ使うように、と念を押されて。
 あれから私は一つ、欲しかった自由を取り戻した。
 図書館の中限定とはいえ、自分の足で歩いて本の背表紙を追いかけ、読みたい本を探すことができるのだ。不便などと思うものか。これに勝る自由はないと思った。
 自分の足では歩けない外も、輿にのって視察という形ではあったがいくらか見て回ることができた。あまりに治安がひどくなっている場所は、いざというときに逃げられないという理由である程度安全な場所が選ばれていたが、それでも本に書いてあった通り国の疲弊というものを目の当たりにせざるを得ないところばかりだった。
 議論の相手が欲しくて、王女の重たい着物を脱いで粗末な男物の衣に着替え、図書館専用の松葉杖で出掛けようとした時には、さすがにひどく叱られたが、次に図書館を訪れた時には、師のもう一人の弟子だという子供が待っているようになった。
 そいつの名は楊輝と言った。年は私より一つ下だったが、驚くほど聡明で師さえも時にたじろがせるほどの弁舌の才能を持っていた。
 私たち三人は図書館の埃っぽい薄暗がりの中で、僅かな明かりを頼りに様々な議論を戦わせた。あの時ほど充実して楽しかったことはない。話の内容は専ら現在の社会情勢について、これまでの歴史と今後の王権の存続について、国とは何か、人とは何か、経済とは、社会とは、何か。
 傾きゆく社会情勢を感じながら、クーデターという単語が飛び出したのはいつのことだったろうか。王家を倒し、新たな王が国を治める。王が変われば国の人々の気持ちも変わる。今後は少し良くなるんじゃないかとうっすらとでも期待させることができる。ここで人心を掴めれば、国という言葉に内包される土地と人とに働きかけ、再び豊かにしていくことも可能だ。この鬱屈とした閉塞感を破るにはそれしかない。最も強く、苛烈に王家を批判したのは誰あろう、私だった。楊輝も賛同し、内々に楊輝はクーデターを決行するための人を集めはじめていた。その首謀者たる中心に据えられたのはもちろん、我が師、孔冀章。
 全ては国のために。この国に住む人々のために。
 熟れて腐りきった王家は、臭う汁を垂らしながら最後の一糸が枝から離れた後は地に落ちて破れ崩れるしかない。第三王女として私にできるのは、その地位を利用して首謀者であり我が師である孔冀章を、我が夫として王宮に迎え入れるよう父に打診し、早期に王族全員を集めて婚礼の儀を執り行うよう催促することだった。かわいい娘のおねだりに負けたふりをしながら、父も分かっていたのだろう。商家の出でしかなかった師を要職の大貴族と養子縁組させ、結婚後の地位を約束するなど事はとんとん拍子に進んでいった。当たり前だが、私は師と結婚する気などさらさらなかった。その婚礼の日が、王家をきれいさっぱり根絶やしにする日なのだから。
 花琳としてできることは、楊輝を手足のように動かして、この王宮に新しい時代を担う者を呼び入れること。そして他国に嫁いだ姉二人とその子供たちについても、血が残らぬよう手配するように楊輝に言い含めた。
 それなのに、計画が進むにつれて師の表情は冴えないものになっていき、ついには眉間から縦皺が取れなくなってしまっていた。
「明日には我が夫となろう方が何という顔をしておる」
 楊輝が帰って二人きりになった後、冗談交じりに私は言ったが、師の眉間の皺はより深くなっただけだった。
「花琳、本気で決行させるつもりですか」
「何を今更」
 私の声は祭りの前日のように浮かれて夢見るように上ずっていた。
 一方、師は少しばかり震えているようでさえあった。
「貴女は、一体ご自分が何をなさろうとしているのか、本当に分かっていらっしゃるのですか?」
 仮にもクーデターの首謀者のそれも中心ともあろう者の口から出るとは思わなかった言葉に、私は自分でもわかるくらいひどく間の抜けた顔で師を見返してしまった。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだな、などと下らないところに感心してしまう。
「何を苦しむことがある? 明日には新しい王となる身だ。人のことなど心配している場合ではなかろう」
「貴女は明日、公衆の面前で捕えられるのですよ? 下手をすればその場で殺されます」
「馬鹿を言うな。捕えられる前に自害してみせるよ。お前たちの足手纏いにはならない。もし自害に失敗したら、躊躇いなくその場で止めを刺すように楊輝に頼んである。ああ、でも見世物として王族の処刑が必要ならいくらでもしょっ引けばいい。あの赤い砂漠にでも、城のバルコニーでも、そうだな、より目立つところがいい。時代が変わるのだと分かるように」
「蘭樹様!」
 もう聞きたくないと耳を塞ぐばかりに、師は小さく叫んだ。
 私は、失望する。
 安蘭樹。花梨の異名であるその名は、姓にかこつけて父がつけた私の真名だった。
「蘭樹様、か。私はまだお前に真名を囁いていないぞ。……教える気もなかったがな」
 愕然と、師は私を見つめ返した。
 「あ」とか「う」とか、間抜けに口だけを閉じたり開いたりしながら、最後には何も上手い言い訳を思いつかなかったのだろう、がっくりと頭を垂れた。
「言ったであろう、私は父上の道具だ。お前の道具にはならない、と」
「道具などと! 私は貴女のことを道具などと思ったことは……!」
「あるだろう。少なくともはじめはそうだった。今もそうあるべきだ。私はお前の道具にはならない。だが、お前は私のことなど道具だと思えばいい。私はお前にとって玉座を得るための道具だ。違うか?」
 座りながら師の胸倉を掴みよせ、私は師の目を覗き込んだ。
 何と迷いに満ちた目だろう。この土壇場で、私は選ぶ者を間違えたのだろうか。いっそ、楊輝を夫に立てた方がうまくいったのではないか。あいつはどこまでも合理的に動く。理さえ説けばその通りに。だが、師は……合理的か否かよりも摂理を重んじる方だったのかもしれない。いや、そんなことは出逢った初めの時に分かっていてもよかったことだったんだ。
「私を失望させるな」
 胸倉から手を離しざま、突き飛ばす。
 師はよろめきながらなんとか机に手をつき、体勢を整える。
 絶望に打ちひしがれたかのように弱々しかった背中が、少しずつ生気を取り戻していく。
「そうだ、それでいい」
 私は満足して、その夜、最後の睡眠を摂った。
 だから、まさかそんなことになるとは思わなかったのだ。
 師が、昨夜最後の最後で何の心を決めたのか、私は読み違えていた。
 王宮の王広間に悲鳴と斬音が響き渡る。赤い血飛沫が壁に打ち付けられる音までが激しくここまで聞こえてくる。土足で王宮に踏み込んだ国民たちは、贅を尽くした婚礼の会場を見て更に逆上した。先頭を切って侵入してくるのは楊輝。
 それでいい。
 私は満足して、夫となるための正装をして隣に立つ師の腰から剣を引き抜こうとした。
 その手を、師は押しとどめる。
「師匠(せんせい)!」
 何をするんだとばかりに私は暴れるが、いかんせん松葉杖もなくただ椅子に座らされているだけのただの人形の私には、意を決した師に対してできることに限りがあった。
 そうこうする間にも叔父も叔母も従兄弟たちも捕えられ、父にもあっけなく縄が巻かれる。母や側室たちは毒を呷り、辱めを受ける前に自ら命を断とうとする。
 全ては計画通りなのに、私だけが自由を奪われていた。
 師に後ろ手に両手を抑えられ、これでは爪に含ませた毒を呷ることもできない。
 それならそれでいい。もうすぐ楊輝がここまで辿り着く。そうすれば私はあの血塗れの剣の錆になるのだ。縄をかけるならそれでもいい。
 さあ、早く。
 一足飛びに会場を駆け抜けて、楊輝が目の前に辿り着く。
 一度楊輝と目を見交わし、楊輝の意志に変わりがないことを確かめる。
 さあ、師匠、早く私を楊輝の方に渡して。
「師匠……?」
 私の身体は前に押し出されるどころか、師匠の片腕によって抱きこまれていた。
 計画では私が死に損なえば楊輝が止めを刺してくれることになっている。いつまでも師に抱きこまれていては斬られに行くこともできない。それともこのまま逃げられないように師が押さえておいて楊輝に斬らせようと? それでも構わない。
 さあ、早く、楊輝!
 目の前で派手な血飛沫が上がった。
 幅広い血の線は勢いよく天井を穢し、私の頬と視界を赤く染めていく。
 赤い血の幕が晴れていく向こうで、楊輝が仰向けにのけぞり、血を噴きながら倒れていくのが見えた。
 私は、はじめて悲鳴を上げた。
 声にならない声を、上げていた。
 視界の端で、師の剣が一閃し終えているのが見えた。
 私をかい抱く片腕に力が籠っている。
 はじめて、恐怖を覚えた。
 自分の予想通りにならない事態。見えなくなった未来。終わるはずだったこの人生の先が、突如として夜闇よりも暗い口を開けて現れたのだ。
 師匠は一度として私を見なかった。
 ただ、私を抱き寄せる左手だけは、離す気がないとばかりに苦しくなるほど強くなっていった。
「私が欲しいのは、貴女です。蘭樹様。貴女が得られるのなら、本当なら玉座などどうでもよかった。玉座は、私にとって貴女を得るための道具です」
 押し殺した声だけが、惨劇の中静かに降ってくる。
「王家が滅び、国が変わることを貴女が望んだから、はじめは叶えようと思いました。何度も何度も言い聞かせました。ですが、昨夜貴女に言われて私は気づいたのです。私が本当に欲しいものは、玉座じゃない。貴女だ、蘭樹様」
 抱きしめられ、首筋の後ろに唇が寄せられたのが分かった。
「……離せ……私は……お前のことなど……」
「道具としか思ってらっしゃらないのでしょう。結構です。貴女の心まで欲しいとは言いません。人形が欲しいだけのただの子供だと詰られても構わない。私は貴女が好きです。お慕いしております。だからどうか、死なないで」
 ぞわりと全身が粟立つのが分かった。
 同じ血に連なる者たちが、ある者は床に斬り伏せられ、ある者は縄をかけられながら、恨みがましそうに私を見ていた。
 私もそちら側にいるべき人間だったのに!!
「離せ! 離せ、離せ、離せ! 私を、殺せーーーーーっ」
 いつからだ? いつから私は読み間違えていた?
 はじめからか?
 いや、そんなわけはない。はじめて会った日、私はまだ幼く、女としての欠片すら持っていなかった。あいつの目だって、このガキをどう使ってくれようかと策を思いめぐらして暗く輝いていたじゃないか。
 欠片とて、見せなかったじゃないか。
 私を女だと思っているなど、これっぽちも、爪の垢ほども!
『花琳……今日は何か宮中で行事でもあったんですか?』
『ああ、花見だ。侍女たちめ、ここぞとばかりに重ね着させるわ、玉の簪を幾つも頭に差し込むわ、顔にはべたべたと白粉を塗りこむわ、紅を厚塗りするわ、張り切りおって。重いといったらなかったよ』
『そう、ですか』
 あいつが困ったように笑うようになったのはいつからだ?
 策を弄そうと暗く輝いていた目から後ろ暗いものがなくなっていったのは?
「師匠……」
 くそ、なんでこんなに遠いんだ。
 こんなに近くにいるのに、温もりすら伝わってくるというのに、どうして。
「私は新しい時代の足枷になどなりたくない。私の血はお前の治世に不要だ。そんなことはお前が一番よく、分かっているはずだ。殺せ」
「ならば私が最後の暗君となりましょう。貴女を手に入れるために無駄に血を流した、安家最後の暗君に」
「中途半端だと言っているんだ! 私を手に入れたいだけなら、こんなこと引き起こさなくてもよかったはずだろう? 自分の望みと私の望みとを一緒にしてはき違えて、一体今後どれだけの犠牲を払うつもりだ。今日で決着をつけろ。これ以上、血を流すことはない」
「それが、私の覚悟なのですよ、花琳」
 師は、私を片腕に抱いたまま片時も離すことなく、事態の平定にあたりはじめた。
 赤い砂漠に父たちが引き出され、首を掻き切られた時も城のバルコニーから一緒に眺める羽目になった。親族たちの強い恨みだけの視線が痛いほど私を突き刺した。悲鳴も耳にこびりついた。一緒に殺してくれと何度叫んでも、師は私を離さなかった。
 私が知る者は誰一人いなくなった後宮の一室で、私はようやく師の腕から解放された。
 表はいまだ騒がしいが、塀を一つ隔てたこちらは人一人、ネズミ一匹いなくなり、静寂ばかりが重苦しく立ち込めている。
 私は泣くことも叫ぶこともできなくなっていた。
 心というのはきっと丸い風船みたいなものなのだろう。中から膨らませている水なり空気なりを供給するポンプが壊れてしまうとぺしゃりと潰れ萎れて、もう何の形も取れなくなる。ただ疲れた、死にたい、死なせてくれ、それだけだった。
「婚礼の儀は、いずれ改めて」
 まだ誓う前だっただろうか。目の前におかれた黄金の杯には酒が注がれる前だっただろうか。
 今日のことだというのに、もはや記憶は定かではない。
 後宮の、母である正妃の部屋でもなく、私の部屋でもなく、他の側室たちの部屋でもなく、誰も使っていなかった一階の狭く小さな部屋の寝台の上で、男はただ私を抱きしめて一夜を明かした。次の日も、その次の日も、ただの抱き枕のように私を抱きしめて眠る。夜の間だけでも私が逃げないように自分で見張りたいのだろう。
 こんな足ではどこへ行くこともできないというのに。
 一晩中、私は目を開けたまま眠る男に抱かれて過ごす。
 手足は泥沼に浸かっているように重いのに眠気はいつまでたっても訪れず、焦燥感と不安ばかりが倍加していき、身も心も壊れそうになったところで夜が明ける。
 男が帰った後、椅子に座りいくらか午睡を貪る。白昼夢なのか夢なのかわからないような合間を漂いながら、殺した親族たちの怨嗟が耳元で繰り返され、楊輝の騙されたとばかりの失望に満ちた昏い目と目が合い、血まみれの王宮と赤い砂漠とがぐるぐると巴を描きながら渦巻く。
 目が回る。
 嘔吐。
 それでも、窓からは毎日新しい日の光が差し込んでくる。
 私には当たらない明るい光。
 見るはずがなかった新しい朝の光。
(松葉杖はまだ図書館にあるんだろうか)
 あれから何日が過ぎたのかもわからない、人形に徹するだけだった毎日に白く霞がかった頭でぼんやりと思う。
 久しぶりに何かを思った。
(でも、欲しいなんて言えないな。もう、何もあの男に願うわけにはいかない)
 窓の外に鶯の姿が見えた。
「お前はいいね。自由で」
 私は一体何のために生きているんだろう。
 この国をもう一度豊かにするための血の礎になるのではなかった?
 でも、それはあの男がうまくやっているらしい。
 眠りにつく前、表の世界がどうなったかをあの男はつぶさに私に語って聞かせる。夜伽にしては物騒な話まで。話の内容は師弟関係だった時と変わっていないのかもしれない。ただ、私は一切の返事をしなくなった。目も合わせなくなった。それでも、人形に語りかけるようにあの男は暗に言うのだ。貴女の願いは叶えつづけていますよ、と。
 それはそうだ。私と父が見込んだ新しい国の王なのだから。
 私などに血迷わなければ完璧だったのに。
 大事な者がいればなおさら、弱点は増える。
 それが前王家の娘なら、どんなに先のクーデターで根絶やしにしたとて、利用したい者はたくさんいるだろう。
 窓の向こうに広がる青空に、白い花びらが吹雪のように舞い踊っていた。
 私はちらりと赤い絨毯に覆われた床の一部に視線を落とす。
『私たちにはね、いざという時逃げるための場所があるんだよ』
 父の声がふと聞こえた。
 幼い頃に一度だけ聞いた話。
『後宮のとある部屋の床下が地下水路に繋がっている。そこを行くとね、太陽はないけど新しい別な世界があるんだ』
 作り話だと思っていた。
 国が傾き、王権が傾いても逃げようとしなかった父。いっそ、きっぱり終わらせることを望んだ父。
 そんな父が、珍しく自分に会いに来た時にしてくれた話。
 不意に、赤い絨毯の端が盛り上がった。がたがたと騒々しい音がして、床の一部が跳ね飛んだ。
 ぴょこん、と金色の光が溢れだす。
 薄汚れてはいたが、太陽のように輝く金色の髪を持つネズミが、眩しそうに眼を眇めて顔を出していた。


(201512202254)