鳥籠の王女とネズミの太陽
2.木陰にて <休息>
荒廃した街を見下ろす丘の上を風が吹き渡る。丘の上にはまばらに木が生え、その木陰で二人は一呼吸ついていた。
「これからどうする気だ? 地下に戻るのでなければ、何かあてはあるのか?」
「あて? んなもんあるわけないだろ。おれははじめて地上に出てきたネズミなんだ。地上のことは昔の言い伝え以外何も残っちゃいないよ。あてもつてもあるもんか」
「行き当たりばったりな奴だな」
「十年かけて念入りに調べはしてたが、本当に地上に出られるなんて思ってなかったさ。それもこんな別嬪さんに会えるなんてな」
「お前はまず目から直した方がよさそうだな。……私につてはあるかとは訊かないのか?」
言葉に詰まった後、ぼそりと王女は詰まらせたものを口にした。ネズミは横で荒廃した街を見下ろす、かつてこの街の王の娘だった少女を横目に見る。
「肩書のある人物のつてなんてろくなもんじゃないだろ。窖に連れて行くどころか、あんたにいい顔するような奴は今度はあんたを王様に祭り上げて摂政でも始めるだろ。そうすりゃ幽閉生活に逆戻りだ。おれにしたって王女誘拐のかどでこうだ」
ネズミは自分の首元に水平に手のひらを当て、すぱんと掻き切る真似をして見せた。手を合わせ、天に召されたふりをするネズミに王女は軽く笑った。はじめて聞く小さな笑い声。屈託のない笑顔。ネズミは見惚れ、ふっと口元に上機嫌の笑みを浮かべる。
(可愛い娘さんだ)
「お前の言う通りだ。というか、すでにそのために私はあそこにいたのだ。摂政が王家を断絶させたと非難されないよう、政とは関係のない式典にだけ出席させるためにな」
ネズミは赤茶けた街を見下ろす。これは自然の成り行きでこうなったわけではない。明らかに戦があって建物が壊され、人が出ていき、短時間でここまで劣化したのだ。その街の中央の頂にある王城だけが白い壁と青い瓦屋根をきらきらと陽の光に反射させて煌めいているが、よく見れば白亜の壁にはあちこち火薬で焦げた跡が生々しく残っていた。
滑稽だ。
誰も幸せになっていない国。
窖とて似たようなものだが、ここまで国民を蔑ろにはしていない。
「聞いてもいいか?」
遠慮がちにネズミは切り出す。察した王女が頷き、問われる前に口を開く。
「父王なら死んだ。あそこに赤い砂漠が見えるだろう。そこで首を切られて処刑された。母は自害。おじもおばもいとこもはとこもみんな、この国にいる王族一同皆あの赤い砂漠で殺されて焼かれた。隣国に嫁いだ姉も、一人は病死と伝えられたが服毒でもさせられたのだろう。子がいたもう一人は王城ごと火に巻かれて死んだと聞いた。あいつはクーデターだと言っていた。不甲斐ない王のせいで国民が不満を募らせている。犯罪は増え、食べ物はなくなり、経済は疲弊している。だから上に立つ者から変えるのだ、と」
「あいつ?」
「私の婚約者だ」
さすがのネズミも軽く仰け反る。
「姉二人は生まれた時には両隣に嫁すことが決まっていた。三番目ともなればさすがに男子が生まれると思ったのだろうが、私も女だった。四人目が生まれる前にこれだ。あいつにはこれほどない好機だったろう。あいつは王に取り入って私の許嫁となり、上二人の姉が嫁いだところで、男子かもしれない四人目が生まれる前に私を除いて王の血筋を根絶やしにした。私一人いれば、あいつは大手を振って私の夫という肩書で政ができるからな」
顔色一つ変えず淡々と王女は自らの身に起こった悲劇を語る。声には憎しみも悲しみも怒りもなく、ただ昔起きた歴史の一端を説かれているかのようだった。ネズミはちらりと王女の足を見る。自力では歩けないほど小さな足。自分には異形に見えるが、女はこれが美しいとするこの国の文化は、自ら動けずとも傅く者たちが大勢いる主の財力をこそ褒め讃えたのではないか。それはもはや彼女たちには何の関係もないことだ。いや、そういう男に縁があるというだけでも名誉だと思う女もいるのだろうか。
「一応聞いとくが、あんた、戻って復讐する予定は?」
はっと王女は嗤った。
「この足で何ができる? 自分で動けもしないのに、あいつの首が切れるとでも?」
「おれはあんたの足になると言った」
「ならば念のため訊くが、お前は地下の世界でそういうことも生業としてきたのか?」
食べ物やお宝を調達してくるだけでなく、その手で人を殺したことがあるのか、と。
肝の据わり方が違うと思った。喋り方も堂に入っているが、感情的になって目先にとらわれない考え方もしっかりしている。自分が攫おうとしたときだって、素早く状況を理解し、逃げようと足掻くどころか協力を惜しまなかった。これが生まれながらの王女というものなのだろうか。
ネズミは溜息をつき、負けたとばかりに手をあげてみせた。
「人を殺すのはおれの生業には入っちゃいない。人を誘拐したのだって初めてだ」
「ほう、それはずいぶん大きくやらかしたものだな。人さらいの第一号が生き残りの王女とは」
「言うな、それを。おれが訊きたいのは……」
「私に復讐する気はない。今後もそういう気にはならんだろう。そこまで血縁に深い情もない」
王女はすっと視線を落として立てた膝がしらを見つめる。
「いや、少し違うな。全員に全く情がないわけじゃないんだ。ただ、好きも嫌いも思う前に私は王女として別宮で育てられ、母も姉たちも、とても遠くのもののようだった。……目の前で親族たちが首を切られるところも見せられたが……おかしなことだな、さっきはお前の言葉に笑うことさえできたんだ」
己に愕然とする王女の肩を、ネズミはそっと引き寄せた。
「私が男だったらよかったのだ。そうすれば大きな足で城を、街を歩き回り、書を読みふけっても怒られず、自ら王となって政堂で号令を発することもできただろう。私は男になりたかった。利用されるだけの女ではなく、自らの足で歩いていくことができる男に……!!」
はじめて聞く嗚咽が王女の悔しさを物語っていた。
彼女はこの時代、この国の王女にしては賢すぎ、また真っ直ぐすぎたのだろう。こういう世界では表の発言権はなくとも閨の次第で実権を握る女もたくさんいたはずだ。それを是としなかったのが彼女なのだ。
木漏れ日の中で改めて王女を見る。
知性に裏打ちされた凛とした強さと、ああそうだ、何かあれば折れてしまいそうな脆さが彼女の中には同居している。そこから匂いたつのは顔立ちの美しさだけでは賄いきれない魅力ともいうべきものであった。
元商人の息子だったという婚約者の男は、なぜ彼女だけ残したのだろう。王族を皆殺すことができたのなら、王の血筋に頼らずとも新しい政権を築けたのではないだろうか。血縁者の処刑に彼女を立ちあわせたのも、なぜだろう。立ち上がる気力も何もかも奪い去って、美しい人形として側においておきたかったのではないだろうか。
視力が回復して、日の元で見る彼女が三割増し美しく見えたのはお世辞でもなんでもない。彼女が玉座の横に侍っていれば、それはそれは絵になったことだろう。これほど美しい女を侍らせる力を持っているのだと、皆に誇示することもできただろう。
(惚れていたのかな、そいつも)
思うだけで、口にはしない。王女がそれに気づいているか否かも、確かめる気はない。ついさっきぽっと出会ったばかりの自分と、おそらく幼い頃から許嫁であっただろうそいつとは、残念ながら積み重ねた時の重みが全く違う。商人の息子ながら王女を許嫁にできる世渡り上手な才覚を持つ男なら、幼いうちはさぞ王女に甘い顔をしていたのではないだろうか。婚約者のことをあいつと呼ぶ王女も、なにかしら思うところはあったはずだ。それが恋情なのか知人に対するそれなのか、諦念なのかは分からないが。
「復讐する気がないのは分かった。じゃ、王権を奪還する気は?」
肩の震えがおさまってきたところで、ネズミは次の問いを発す。
王女は一つ間を空けて首を振った。
「ない。あいつが言うことは真実だ。国は王家のせいで疲弊していた。父は悪い人ではなかったのだろうが、どこまで行っても凡庸だった。国の財政が逼迫していても、王宮にかける予算を削ろうとはせず、昔ながらの伝統的な生活を送り続けた。王が力を無くしつつあることを見破られたくなかっただけかもしれないが、国民の反感を買ったであろうことは想像に難くない。王が舐められればその下の臣下たちは我こそはと好き放題にしはじめる。賄賂も汚職も縁故採用も、やりたい放題だ」
意外な思いでネズミは王女を見つめる。王宮の奥深くに閉じ込められていた三番目の王女にしては敏いとは思っていたが、政治に関してもそこまで理解を示すとは思わなかった。いや、理解を示していると言っていいものだろうか。この口調はまるで。
「それは、〈あいつ〉の受け売りか?」
ぱっと王女は顔を上げる。愕然とした顔でネズミを見やり、眉根を寄せて睨みつけ、哀しげに顔を歪め、再び顔を伏せる。
ああ、とネズミは納得する。
彼女が婚約者に向けていたのは信頼だ。それも男女間のものではなく、仲間、同志に向けられる信頼。それを一人生かされ、幽閉され続けることで彼女は失っていたのだ。
(本当は自分も殺されてしまいたかったのかもしれないな。一族郎党皆滅ぼしてもらって、新しい時代の血の礎になれるなら本望とでも思っていたんだろう)
一筋縄ではいかない御嬢さんだとは思ってたが、これは思っていた以上だ。
「王女さん、あんたとそいつの元の関係って何だったの? もしかしてあんたもクーデター起こした側だった?」
悲劇の王女に仕立て上げられたものの、本当は彼女こそ王族支配を無くしたいと思っていたのかもしれない。だからこそ意識的にしろ無意識的にしろ加担した……。
王女の目は、少しばかり見開かれていた。そして、真実を隠すように伏せられる。
「あいつは……婚約者である前に私の勉学の師だった。商人の次男坊が勉強と世渡りだけはやたらとできたみたいでな、小さいうちからあっさりと科挙を通り、私くらいの年の頃には学館の老師たちと肩を並べるようになっていたそうだ。私は幼い頃からあいつに四書五経から外国事情まで幅広く教え込まれてな。本当は女らしく詩歌を覚える時間だったのに、変わり者だったんだ、あいつは。詩歌などよりこっちの方が面白いから、と何の役にも立たない三番目の王女に男の学問など教えだして。だけど私も、詩歌などよりもそっちの方がよほど面白かった」
遠い昔を懐かしむように王女は小さく笑った。
信頼と、初恋、だろうか。
ちょっとあいつと呼ばれるそいつの顔が見てみたい。
「だからいいのだ。あいつがいい世の中を作れるというなら、その方がいい。国民にとっても、あいつにとっても、私にとっても、その方がいいのだ。古い王家の血筋など残すものではない。私など生き残っていても仕方がなかったんだ。早晩、自害しなければならないと思っていたのだよ。それでもなかなか踏ん切りがつかなくてな。父も母もおじもおばも姉も、皆殺されたというのにな……正しかったと思っているのにな……どうして私だけ殺してくれなかったのだろう」
女としてなど見てほしくはなかったのに。
言外にそんな声が聞こえるようだった。
男になりたいと言っていたのも、師の隣で役立ちたいと思えばこそだったのだろう。師への信頼。同志への信頼。その底辺に淡い恋慕があったとしても、あくまでも男女ではなく同志としての対等な関係を望んだ彼女は自分の気持ちには気づかないふりをしている。弟子として接してほしかった。同志として扱ってほしかった。それなのに、おそらくそいつは最後の最後で年頃になった彼女の色香に迷った。
(妬けるじゃないか、ちくしょう)
王女から顔を背けると、乾いた草の匂いが鼻を掠めていった。
そろそろここからも離れた方がいい。
「時にお前、ネズミというのは本名ではなかろう?」
そよ風が丘の上の草原を薙いでいくのを見送って、からりとした声で王女は言った。
「ネズミはネズミだよ」
「お前をネズミと呼ぶたびに、私はあのドブネズミのずんぐりむっくりした図体を思い出して反吐が出るんだが」
(この性格悪い言い回しもあいつ譲りなんだろうか)
ますますこの国を乗っ取った男の顔が見たくなってきて、いやいやと首を振る。
彼女はもう二度とその男に会いたくなどないだろう。自分がこっそりとでも顔を見に行けば、彼女は自分の足を切り捨てていってしまうかもしれない。もしかしたら街に食糧を買いに行った時、盛大に従者を引き連れて輿に乗ったそいつの顔を拝むこともあるかもしれないが、その時自分は平静でいられるだろうか。
「そういう王女さんのお名前は? これから先もあんただけで通すのはきついだろ。間違っても王女さんなんて呼べないし」
「私は第三王女だ」
自分の名をはぐらかそうとしたネズミに、王女はふんっとそっぽを向く。ネズミはおいとつっこみそうになったが、やがて王女は草むらの合間に小さく花開いた薄紅色の花を見て僅かに目を細めた。
「花琳、と」
微かに思慕が滲む声音で王女は小さく呟く。
ネズミは小さく眉根を寄せる。
「その名前、あいつは知っているのか?」
「知っている。だが、あいつにとっての花琳は父王ともども処刑され、あの部屋にいたのはただの血を繋ぐための第三王女だ」
「おい……そんな理由で安心なんかできるか」
「あいつは、第三王女の名では探すかもしれないが、花琳の名では探さないよ。忘れたと言っていたからな」
けっとネズミは舌打ちをした。
(できるだけ外では呼ばないようにしよう)
固く自分に言い聞かせて、目を閉じる。
逃げる途中、王宮の中庭に一本だけ生えていた満開のカリンの木の下を通った時、背中に負っていた王女がかすかに息を押し殺し顔を伏せていたのを思い出した。生来の名の由来なのかあいつとの思い出の場所なのかは知らないが、きっと所以のある場所なのだろう。
「ソル」
目を開けてネズミは太陽を見上げた。窖にはない地上を遍く照らし出す白い光源。照らすだけではなく、温もりさえも与えるものだとは木陰に入るまで気づかなかった。
「地上にしかない太陽っていう意味だってばあちゃんが言ってた」
ふふ、と王女が笑う。
「だからお前は自分に会いたくてここに来たんだな」
ネズミは目を瞠る。
そうか。あの狂おしいほどの地上への憧れは、自分探しと同じだったのか。
「ふっ、くっくっくっくっくっ」
「あっはっはっはっはっ」
笑いだしたネズミにつられて王女も笑いだす。やがてひとしきり笑い終わった後、きりりと引き締まった表情で王女はネズミに手を出した。
「では、ソル。何か切るものを持っていないか? 小刀とか鋏とか」
「小刀……ナイフならあるけど」
ネズミが差し出したナイフを受け取り、逆手に握ると王女は躊躇いなく結い上げられた自分の髪を根元からぶつりと切り落とした。
「ああ、すっきりした。髪とは重いものよのう」
ばっさりと草の上に落ちた黒髪は、はらりはらりと風に誘われて飛んでいくものもあるが、大部分は玉をふんだんに取りつけた簪や飾り布の重さに王女の背後に落ちたままだ。
目を丸くしたまま何も言えないでいるネズミの手にナイフを返して、王女は切り落とした自分の髪から簪や飾り布などを引き抜いていく。
「これくらいあれば当面の食糧には困るまい。どこで引き換えるか足がつかないようにしなければならないが、その辺は宝を運び慣れているお前なら心得くらいあるだろう?」
差し出されたいわゆる宝玉を前にして、ネズミは軽く頭を振った。
(この人には一生敵わないかもしれない)
髪が短くなって深窓の令嬢もとい淑やかな王女から目に好奇心の宿る闊達な少女へと変貌した花琳を見て、ネズミは心の中で溜息をつく。
(この人はおれがこのお宝を持って逃げるかもしれないなんて、塵ほども思ってないんだろうな)
窖にいた時のネズミなら、信頼にこたえようなどと殊勝なことは思わなかっただろう。今だってそうだ。ただ、今のネズミにとって最高のお宝は、目の前の少女だった。この少女の前では、人生遊んで暮らせそうな簪も飾り布も塵芥みたいなものだ。
「なんだ、足りぬか? さっき脱ぎ捨てた着物も持ってくればよかったか?」
「そういう意味じゃないさ。十分すぎるくらいだ。これだから世間知らずな御嬢さんは」
「ならば何が欲しい? 不満なのであろう? それとも私が邪魔になったか? それなら置いていくがいい。私は一時でもあそこから出られて清々している。思い残すことは何もない」
いっそ清々しいほどはっきりと別な道に待つ先のことを匂わせて、命乞いをするでなく花琳はネズミを見上げた。
逃れようもなくネズミはその目に囚われる。
(きっとこの人は、おれに置いていかれたら本当に自分で自分の始末をつけるんだろう)
身体が縛られたように硬くなり、胸の鼓動が耳の中で激しく鳴り響く。
「あんたがほしい」
気がつくと掠れた声が絞り出されていた。
二度繰り返すことはできないから一度ゆっくりと噛んで含めるように頭の中で反芻し、かっと頭に血がのぼる。これでは弱みを握らせたも同然だ。職業上、一番やってはいけないことだ。
案の定、花琳は赤い唇に満面の笑みを浮かべている。
止まっていた息を一つ吸って唇を噛み、ネズミは強制的に花琳から視線を逸らす。そのネズミの両こめかみのあたりに両手を添えて、花琳はネズミを自分の方に向かせた。
「ありがとう」
赤い唇が額に寄せられる。
それはまるで女神が前途を祝福するような口づけだった。
思わず抱きしめたくなるのを堪えて、ネズミは花琳を軽く押しやる。
「なんだ、嫌だったか?」
嫌なわけじゃない。ただ、その口づけはまだ、自分の持て余すような情を含んだものに応えられる段階のものではなかったから、自分を抑えきれずに彼女を傷つけて嫌われたくはなかった。
出会ったばかりの自分のことをどう思っているのか、聞くまでもない。共犯の仲だからある程度信用もしているだろう。親しみも少しは出てきているかもしれない。でもおそらくきっと彼女が自分に抱く感情は、友情に手が届くかどうかといったところのものだ。礼を言い、額に口づけを返してくれたからと言って、即男女の一線を踏み越えられるものでもないし、そこまで自惚れも強くないつもりだ。
(昔の男の影も残っていることだし)
再び自分に言い聞かせて、ネズミは改めて花琳を真正面から見つめた。
「あんたのことは置いていかない。せっかく連れ出したんだ。行けるところまで連れて行ってやるよ。それでもしその気があったら、いつか一緒に窖へ行こう。昔話を終わらせるためじゃなくて、あんたにあの世界を見せたいんだ。それで――」
ネズミは花琳の足元に視線を移す。
「さしあたっては松葉杖くらいならおれにも作ってやれるだろうが、あそこに帰れば、あんたにもっと楽に自力で歩くための道具を誂えてやれるかもしれない」
ネズミの言葉に花琳はぱっと顔を明るく輝かせた。
「本当か? 窖という世界はずいぶんと進んでおるのだな」
「ああ、そうだな」
窖はかつて地上の人間が作った世界だ。窖の技術力こそかつてはこの地上に繁栄をもたらしていたものと同じものだったはずだが、どうやら行き過ぎて滅亡の方向に進ませてしまったらしい。そんなことは今、この時代の人間に言っても詮無いことだ。地上の世界は確実に盛時よりも科学技術力が退化しており、さもなければ今頃とっくの昔に窖は地上に発見され、属国とされているか滅ぼされていたことだろうが、おそらくそんな時代があったことさえこの時代の地上の人間たちは記憶していない。
それだけの月日が、地上と地下に分かたれてから流れている。
「よし、ではソル。さしあたっては今晩休めるところを探そうか」
「言っておくが、足がつくからしばらくは野宿だぞ。柔らかいお布団は夢の中で見るんだな」
「分かっておる。贅沢は言わぬ。私はお前とこの空の下を行けるだけで嬉しい」
ネズミの背に身を預け、肩に腕をのせた花琳は何の気なしに言ったのだろう。だが、ネズミは込み上げた感情を呑み下すのに苦労した。
抱きしめたい。
その衝動についに抗いきれなくなって、少女を背から降ろし、正面から向き合う。
「ソル?」
ささやかに腕を広げ、少女を胸に抱きこむ。
柔らかで華奢なその身体は、少しでも力を込めれば抱きつぶしてしまいそうだった。力加減に難儀しながらも、鼻先をくすぐる甘やかな香りはその先へ誘ってやまない。
「お前の髪はあの太陽みたいな色をしているな。目は青空のように澄んでいて、まこと、ソルという名にふさわしい」
耳元で囁かれた声にネズミは体が熱くなるのを感じた。褒められた金の髪に花琳の手が添えられる。
「夜は目立ちそうな色じゃの。早く逃げぬと追いつかれるぞ」
くすくすという笑い声とともに再び囁かれた言葉にネズミは飛び上がった。
そうだった。自分も彼女も追われる身だった。
この空の下、堂々と歩ける日は来るのか。この国では無理かもしれない。それなら国境を越えるまで。しかし、国境を越えて再び窖への道を見つけられるだろうか。窖への道は、あの王宮の地下水路を辿るしかないのではないか。
いつか戻ってこなくてはならないのかもしれないな。
そんな思いを胸にネズミは花琳を背に負い、王城と荒廃した街を眺めおろせる一つの木陰を後にした。
(201512061720)