鳥籠の王女とネズミの太陽
1.ネズミと王女

 長く続いた地下水路の向こう、四角く切り取られた乳白色の光が見えた。
 あと少し。あと少しであの光の中に飛び出せる。
「追え、ネズミを追え!」
 うるさいあいつらさえ振り切れば、昔話に聞く眩しい世界が待っている。文字だけなら何度もこの目で追ってきた。弧を描いて頭上を塗り尽くす青い空。そこに浮かぶわたあめのような白い雲。空を渡る鳥は痩せぎすの蝙蝠を太らせて、黒く硬い翼を彩り豊かな柔らかな羽に置き換えたもの。花とて色の淡い小さなものなら窖にもいくつか咲いていたが、地上に咲くものとは色も形も驚くほど違うという。なにより地上には天を自動的に航行する白い光源、太陽があるらしい。窖の技術力をもってしても、それはまだ作られていない。
 窖に青い空を見たことがある者はいなかった。白い雲を見た者も緑の鳥を見た者も、赤い花を見た者もいない。全ては昔話として口伝えに語られてきただけ。本当にあるかどうかも分からない地上の世界。その世界からいつか本当の王様が降臨して窖に光がもたらされるのだという、そんなどこか使命を感じさせるありふれた昔話。
 誰も窖から出ようとしなかったのは、自分の生きる世界の外に別の世界があるなどと思わなかったからだろう。一度窖を出て戻ってきたという者もいなかったのだからなおさらだ。
 膝まである水嵩をかき分けて走れば走るほど、水音が甲高く石積みのトンネル内に反響する。疲労もすでに頂点に達していたが、運悪く水路はこの先もしばらくは直線が続く。その向こうに乳白色の光が待ち構えているが、このままではあそこにたどり着く前に小うるさい追っ手どもに捕まってしまう。
(どこか、脇に入れる場所は)
 窖で暮らし慣れたネズミの目には、灯りがなくとも積み重ねられた灰色い石の境目がはっきり見えた。右に左に視線を走らせながらその綻びを探す。
 何度も祖母から昔話を聞くうちに、地上の世界が実在するのではないかと思い至ったのは十歳の時。それから十年かけて朽ちた教会の書庫の奥深くで古文書を読み漁り、いくつかある川の源流をたどって見つけたのが他愛ない岩壁に穿たれた黒い穴だった。
 古文書で得た知識によると、この地下水路は地上の王族が窖へと逃げ込むための隠し通路であるらしい。ならば必ず王族が使うための入口がある。こちら側から開くかはわからないが、そこに一縷の望みを託すしかない。
 乳白色の光は腕を広げるように徐々に大きさを増していく。
 出口は近い。
 いっそこのまま飛び出してしまおうか。
「光などに憧れてはいけないよ。目が潰れちまうからね」
 昔祖母がよく言っていた。その意味が、今ならわかる。
 あの光は優しそうに見えて、地下暮らしを続けてきた自分が浴びたら容赦なく網膜を焼き焦がすことだろう。それでも一瞬でもいい。太陽の光を見ることができたなら。青い空が見られたなら。白い雲が見られたなら。緑の鳥が、赤い花が。
(やっぱりだめだ。一瞬じゃ全ては拝めない)
 肩を竦めて溝色の天を仰ぐ。と、敷き詰められた石の隙間にうっすらと淡い筋が見えた。
 左右の壁に目を走らせる。
(あった)
 風化してはいたが、人が手と足をかけられるくらいのくぼみが残されている。
 追っ手の灯りが自分に向けられた瞬間を狙って、ネズミは闇に埋もれたその壁に向かって跳ね飛んだ。身体を壁に添わせながらくぼみを頼りによじ登り、頭上から漏れ出る光に手を伸ばそうと次の一手を掴んだ瞬間、壁の一部が奥に倒れ、ネズミは中に吸い込まれるように転がり込んだ。その背後で石壁はまた元に戻っていく。
 閉じ込められた狭い空間はまさしく闇だった。その中でもがくようにして手を這わせ、抜け道を探る。どこを押してもへこむ場所はない。冷たい湿り気を帯びた石が甲斐なくネズミの手を押し戻す。棺のような圧迫感に耐えかねて思わず頭を上げた時だった。脳天を打つはずの石が持ち上がった。
 体勢を変え、仰向けになって天井を持ち上げる。差し込んできた光が容赦なく闇に慣れきったネズミの目を灼いた。
 あれほど警戒していたのに、呆気ないほどあっさりとネズミは視力を失った。
 まだ何も見ていないというのに。
「何者だ」
 そんなネズミの耳に、密やかに誰何の声が投げかけられた。
 それは少女の声だった。凛として気品のある、人に命令しなれた者だけが纏う否やを許さない声。
 ネズミは目を瞑ったまま左右に首を振り向け、ようやく声の主が正面の少し離れたところにいることを悟る。気配からして他に人はいない。声の持ち主からも訝しげではあるが殺気は感じない。
 意を決して床に這いだすと、白いばかりだった視界にぼやけた物の陰影が戻ってきた。
「しっかり閉めよ。ネズミが入ってきては事だ」
 少女の声は至って他人事だ。ネズミは首を傾げる。
「おれはネズミじゃないのか?」
「お前は人だろう。ネズミとは灰色で腹のあたりがたるんでいて、ミミズのような尻尾を持っているずんぐりとした奴のことを言うのだ」
「へぇ。確かにそりゃ、おれじゃないね。地上のネズミは変わってる」
 おどけた調子でネズミは一歩ずつ少女に近づいていく。椅子に深くもたれている少女は逃げる素振りすら匂わせない。
 罠か? それとも鈍いのか?
「お前の知っているネズミとはどんなものだ」
 用心しながら近づき、目の前で立ち止まったネズミに少女はつまらなそうに問いかけた。
「おれの知っているネズミはおれさ」
「お前自身がネズミなのか」
「そうさ。おれはネズミってんだ。すばしっこく窖を這いずり回って食べ物やお宝をかき集めてくるからな。ネズミってのは称号なんだぜ? 地下の世界じゃ食いもんを探して持ってこられる奴が一番優秀なんだ」
「それはさぞ足が速いのだろうな」
「窖を走らせればおれに敵うもんはいないよ。ん? なんだ、その足は」
 ぼやけていた視界の中で輪郭が形を取り戻し、淡く色づきはじめる。少女が纏う複雑な色模様の着物の裾からは、身長と体格の割には手のひらに収まりそうなほど小さな足がはみ出していた。
「見るんじゃない。これはこういうしきたりなんだ」
 少女ははみ出していた足の先を着物の裾で隠しなおす。
「足を切るのが?」
「違う。小さい頃から足が大きくならないように布を巻いて小さくしているんだ。切られたわけではない」
「変なしきたりだな」
「小さい足ほど美しいんだ」
「そうか? おれは自分で歩き回れるでかい足の方がかっこいいと思うぜ? それに、窖の若い女たちは新しい靴が出れば喜んで買いに行っている。お洒落な靴ほど人気があるんだ」
 驚いたように少女は目を見開き、寂しそうにぽつりと呟いた。
「そうだな。今はそういう時代になってしもうた」
「時代?」
「女性でも自分の足で歩き、自分で自分の運命を決められる時代」
 黒髪を豪奢に結い上げた少女は赤い唇を引き結び、長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳をまっすぐにネズミに向けた。
 しばし、ネズミは呆けたように息を止めて少女に見惚れた。
 少女が先に目を逸らし、ネズミは呼吸を取り戻す。
 淡く色がにじむだけだったネズミの視界に艶やかな彩りが満ち溢れていく。その目で部屋を見渡す。金箔を惜しげもなく使った豪奢な壁紙。煌びやかな吊照明。少女が纏う着物は光を浴びて絢爛と輝き、腰かける朱塗りの椅子もまた趣向を凝らした贅沢なものだった。
 その割に、少女の顔に幸はない。
「王女、そちらの部屋にネズミが逃げ込みませんでしたか?」
 近づいてくる喧騒とともに部屋の外から横柄に呼びかける衛兵の声がした。
 少女はちらりとネズミを見上げる。
 ネズミは今にも開けられそうな扉を振り返った。
「大事ない」
 凛とした声で少女は告げる。
「一度検めさせていただいてもよろしいか」
「大事ないと申しておる」
「何かあっても困りますので」
 衛兵が有無を言わさず言い返すと、扉の向こうで錠に鍵を挿す音がした。
「閉じ込められていたのか」
 驚くネズミの表情に、王女と呼ばれた少女は愧じるように顔を伏せた。
「行け。捕まるぞ」
 せめてネズミだけは逃がそうとする王女の声に押されて、ネズミは窓の向こうに青く切り取られた空を見た。窓に格子は嵌められていない。幽閉しているにもかかわらずそんな部屋に閉じ込めているということは、自力で歩けないと高をくくっているからなのか、窓から飛び降りれば命はないほど高いところにこの部屋があるからなのか。いや、それはない。自分は地下水路の壁をよじ登ってここに出たのだ。塔ほどの高さもあるまい。
 ネズミは無言で王女を椅子から抱きあげた。
「何をする」
 幾重にも重ねられた着物のせいでもっと重いものだと思っていたが、羽のような軽さで王女の身体はふわりとネズミの腕に納まった。
「こんな時のための地下水路だったはずなんだけど」
 ネズミは自分が出てきた穴のある辺りを見やって溜息をつき、王女を抱えて青い空が広がる窓へと歩きだす。
 時代も場所も、とんでもないところに出てしまったものだ。
「王女様、あんたたち王族には何かあった時、逃げ込める場所があるって聞いたことない? 多分、おれたちはずっと、あんたたちが来るのを待ってたんだ」
 本当は二度と窖に戻るつもりはなかった。地上を見たら、窖に戻ることなどできなくなるだろうと思っていた。予想通り、窓に近づくにつれて光が強さを増し、視界が白く侵されて色を失っていく。
「ネズミ、目を閉じろ。私がお前の目になってやる。お前が本当に地下の世界から来たというのなら、外など見たらあっという間に目が潰れてしまうぞ」
 ネズミが自分を置いていくつもりがないと悟った王女は気丈に囁く。
「いいや、おれは外の光を見に来たんだ。それでこの目が潰れても悔いはない」
 窓を蹴り開けると、今まで以上の光がネズミの目に飛び込んできた。
 青い空。赤茶けた大地。足元に緑の草むら。空を渡る白い鳥の群れ。
 白銀の太陽。
 想像と異なる景色が目の前に広がって、ネズミから視力を奪い去った。
 吹き上げてくる風がネズミの頬を撫でていく。
「言ったろうに」
 失望混じりに王女が呟く。
「あんたがおれの目になってくれると言った。だから、おれはあんたの足になろう」
 王女を抱きかかえたまま、ネズミは窓枠を乗り越えて真白い光の中に飛び降りた。
「王女!」
 部屋に飛び込んできた衛兵たちの声が遥か頭上にこだました。
 身を伏せた草むらの中で二人は互いにほくそ笑む。
「視力は戻りそうか?」
「ああ。あんたの顔がさっきより三割増し綺麗に見える」
「それは悪化しているな。もう戻らんかもしれんぞ」
「それは本望。おれは地上で一番美しい光を見ちまったからな」
 少しでも身軽になろうと重ねた着物の袖から腕を引き抜いていた王女が絶句する。
「阿呆が。早く連れて行け、窖とやらに。お前たちの昔話を終わらせてやる」
「ほとぼりが冷めたらな」
 草むらが揺れ、ネズミと王女は光の中から姿を消した。
 悪戯な風が、王女が脱ぎ捨てた着物を青空へと舞い上げる。
(201511302356)