鳥籠の王女とネズミの太陽
13.地上にて

 爽やかな風が頬を撫でていった。
 視界に広がるのは、地下世界では予想もしなかったような鮮やかな緑と青。そして、ふわりと浮かぶ白い雲。手を伸ばせばわたあめのように引きちぎって口に入れることができそうだった。
 足元には名も知らぬ可憐な白い花。一輪摘んで彼女の耳元に挿してあげることができたら、どれだけ綺麗だったろう。
 想像して口元に浮かんだ微笑みを、少しばかりの力を込めて呑みこむ。
 顔はけして歪んではいないはずだ。
 むしろ、心は馬鹿みたいに穏やかだった。
「おれは、やっぱ一人の方が性に合ってるわ〜」
 誰もいないことを分かった上で、小さく口に出す。
 悔しくないかと言われれば、悔しい。
 好きじゃなかったのかと言われれば、きっと明らかに好きだった。あれほど心を持っていかれる女にはもう出会えないんじゃないかというほど、愛していた。
「君はおれの目。おれは君の足」
 だけど、今は双方がお互いを必要としなくなってしまった。
 自分は己の目で地上の彩りを愛でることができるようになった。地下の光に慣れた弱いネズミの目でも、これだけ長く地上に入れば極彩色を感じることができるようになっていた。
 彼女は自分で歩ける足を手に入れてしまった。
 せめて、彼女の足が義足だったら――それならメンテナンスを理由に側にいることもできたかもしれない。おれの方が必要なのだと言い聞かせることもできたかもしれない。
 しかし、彼女はあいつを選んだ。
 しかも、彼女に己の足で歩ける喜びをプレゼントしたのはカラスときたものだ。
「呪われてる」
「誰が呪われてるって?」
 街はずれの寺院の木立に囲まれた参道に、にやにやとした嫌な響きを帯びた男の声が飛び込んできた。
 声を聞いただけでネズミは軽く頭を抱える。
「今日に限ってお前は……今日ばかりはお前に会いたくなかったというのに」
「そう言ってもらえて嬉しいですよ。美味しい瞬間は逃さない主義なので」
「何が美味しい瞬間だ」
「今でしょ、今」
 夕焼け色の長い髪の先を指先で弄びながら、ネコが見つけた獲物をいたぶるような笑みを浮かべてネズミの肩にもたれかかる。
「で、どこ行く気ですか?」
「どこだっていいだろ。あちこちだよ、あちこち」
「地下の軍事力を統括する総帥様が、ふらふらっといなくなられちゃ困るんですよ」
「それならとっくにお前たちに返してやっただろうが。コウモリが総帥で、お前が副総帥。上手く収まったものだなぁ、え?」
「私たちが賜ったのは地上だけでの話ですよ。いまだ全権は貴方に委ねられたまま、返上の儀式が行われていませんからね。命令もありませんし」
「地下は地下でやりたい奴が好き勝手やってんだろ。おれの知ったことじゃないよ。大体、地下の軍事力が全権必要だったのはあの時だけだったんだから」
「お姫様を助けられれば、後はもういらない、と?」
「だってそうだろう? 地上は何とか女王の下治まりはじめ、地下からの移民の受け入れも開始されている。城外に広がる真っ赤な砂漠も地下の技術であっという間に緑化されてきている。世界は上手くまわりはじめている」
「そこに自分はいらない、と?」
「おれは歯車なんてまっぴらなんだよ」
「確かに貴方に玉座にふんぞり返っている王様は似合いませんが……本当に良いのですか?」
「何が?」
「彼女を彼に渡して」
「返したんだよ」
「おや、泥棒稼業は地上では封印ですか?」
「うるさいな。彼女があいつを選んだ。それだけだ」
「殊勝な」
 追い打ちをかけるネコに、ネズミは閉口する。
「黙りこまないで下さいよ。反撃がないと、こっちだってかける言葉がなくなってしまうじゃないですか」
「盛大に憐れんでくれてありがとよ」
「ふふふ、私が貴方より優位に立てることなんてそうありませんからね」
「コウモリと復縁できたのがそんなに嬉しいのかよ」
「彼女は公私に渡ってとても良きパートナーですよ」
「その良きパートナーはどうした?」
「女王の護衛として朝からお出かけですよ」
「朝から? 正午から婚礼の儀だってのに、あいつふらふらとどこ出掛けて……」
 安国に暮らす多くの民がいずれ眠る地には、漆黒や灰色の数多の墓碑が立ち並ぶ。その中でも新たに作られた一角で、白い着物を着た少女が一人と護衛とみられる制服の女が一人、建てられたばかりの墓の前に立っていた。
 思わずネズミは息を呑む。
「ここに来ていたみたいですね。考えることは貴方と同じだったのかもしれません」
 うっすらにやつくネコの声には答えず、ネズミは踵を返す。
「よろしいのですか、ここで逃げても。これが最後のチャンスかもしれませんよ」
 ネコの声にネズミは一瞬立ち止まる。
「チャンス? 何の?」
 嘲りの混じった声を気にすることなく、ネコは告げる。
「お姫様を攫い出すための」
「地上最強の護衛がついてるのに?」
「そこは私が何とでも協力いたしましょう」
「はっ、お前が協力? そんなもの願い下げだ。おれは、欲しいものは自力で奪い取る」
「なら、奪い取りに行けばよろしいでしょう。自力で、欲しいものを」
 くるりとネズミは振り向く。
「欲しいものなんか……ない」
「嘘おっしゃい。それならどうして逃げようとしているんですか、彼女から」
「逃げようとなんてしていない。先客がいるなら、後で来ようと思っただけだ。考えることは同じだとお前はさっき言ったが、あの墓の前に立つあいつとおれの気持ちはきっと全く違う。あいつにとっては信頼できる弟弟子だ。おれにとっては……」
「間男?」
「……下品な言い方するんじゃないよ」
「だってそうでしょう? どんなに弄んでも一生自分のものだと思っていた女性の心を奪っていったんですから。しかも……」
 愉快そうに口元に笑みを浮かべていたネコは、そこで笑みを引っ込める。
 ネズミは一瞬発した殺気を引っ込める。
「お前もあいつのことが好きなんだと思っていたよ」
「ええ、好きでしたよ。貴方にぞっこんな彼女を見ているのが、ね」
「嘘を吐け」
「嘘ではありません。私が知っている彼女は、いつでも貴女のことばかり考えている彼女でしたから。地上での彼女は知りません」
「同時期に共に地上に来ていたのに?」
「……任務が違えば会うことなどありませんよ。不用意な接触は禁じられています」
「お前たちは嗤ってたんだろうな。おれが絶対地上に行って見せるって息巻いてあちこち冒険してるのも、簡単に出入りできる扉があると知っていて黙っていたんだものな」
「珍しいですね、貴方が拗ねるなんて。嗤ってなどいませんよ。私もカラスも、貴方のその熱意が、地下から地上への新しい扉を開いたと思っているのですから」
「はんっ、好きに言え。おれはもうどっちでも構わない。おれがソルと名付けられ、地上の太陽に焦がれた理由が、ばあさんが用意周到に敷いた地上へのレールだったとしても、今更おれは文句を言う気もないね」
「へぇ、それはまたなぜ」
「ソルと名付けられなくても、地上という別の世界があると知った時点で、おれはきっと地上に出たくて仕方がなくなっただろうからさ。窖を駆けまわるネズミが光さす方へと出たがるように」
 ネズミは眩しげに墓の前で跪拝する白い着物の少女を眺めた。
 自分にとっての太陽は彼女なのだと、今でも胸を張って言うことができる。
 ただ、彼女にとっての太陽が自分ではなかっただけで――
「攫ってしまいなさい」
 耳元でネコが煽った。
「光のない世界なんて、生きてる意味がないって顔していますよ」
 そんなことは、ない。
 光はちゃんと自分のところにも降り注いでいる。
 見上げれば、木立にくりぬかれた青空から確かに白い光が流れ落ちてきている。
 太陽はちゃんと頭上にある。
「あ、ソル! そこにいるのはソルじゃないかー!」
 地上に視線を戻せば、いつの間にかこちらに気付いた花琳が元気に手を振っていた。
 逃げ腰のまま、ネズミは力なく手を振りかえす。
「これは、挨拶なしではお別れできませんねぇ」
 いとも面白げにネコは嗤い、ネズミに戻ってくるようせっつく。
 仕方なくネズミはそこに向かって歩き出した。
 彼女の立つところ。彼女が手を合わせていた男の墓の前へと。
「こんなところで会えるとは思わなかったぞ。それもよりによって今日とは」
 ネズミは明るく笑う花琳に眩しげに眼を細める。
「正午から婚礼を控えている方が、朝からなんて恰好をしているんですか」
「墓に参るなら正装を、と思ってな。せっかく地上に戻ってきて墓を建てられたのに、忙しくてまともに手を合わせに来ることもできなかったから」
 花琳が見下ろす墓碑には、生前の名「楊輝」と、何やら難しい文字が連ねられた戒名とが刻まれている。そして、その隣にはアルファベットでアルバの名が刻まれる。彼女の方には戒名はない。その代わり、「黎」という文字がさらに加えられていた。
 地上に帰ってきてから、花琳は改めて楊輝の墓所を作り、遺骨はないもののその名の隣にカラスの本名を刻ませた。
『会いたがっていたから』
 カラスの記憶を受け継いだという花琳は、明確にそう答えた。
 ならば、とネズミは一つの小瓶をその墓に納めた。
 その昔、爆発したカラスの肉体の破片をかき集めていた時に見つけた、小指の爪ほどもない小さな小さな骨片。誰のものかはわからない。ただ、DNAがカラスとは幾分異なるという理由で、カラスの肉片とは一緒には保管していなかっただけで。
 父親のDNAが自分でなかったというだけで。
 ちくりと胸が痛んだのだ。
 知らない男の子供をカラスが孕んでいたということを、当時のネズミは受け入れることができなかった。だから、そ知らぬふりをして違う場所に隠した。カラスには、何も知らないふりをした。カラスも何も尋ねないまま、ずっと地上への扉を開くための研究に没頭していたから、それでいいのだと忘れようとしていた。
 カラスの記憶を継いでいるはずの花琳は、何も言わずネズミの差し出した骨片の入った小瓶を共に納めることを許した。
『私は確かにカラスの記憶を受け継いだけれど、カラスになったわけじゃない。私は私のまま、何も変わらない』
 罪悪感から咎める視線を期待したネズミに、花琳ははっきりとそう言ったのだった。
 その瞬間から、ネズミにとってもカラスは完全に故人となった。
 同時に、早く離れなければという思いが生まれたのだ。
 彼女はカラスであり、花琳――というわけではない。愛した女の全てを持っていながら、全てを与えてくれる者ではなく、期待することは彼女を傷つけることになる。それだけではない。彼女の失望は、自分すらも傷つけることだろう。
 それならば、早く、と思ったのだ。
 自分が期待を捨てきれないうちは、彼女の側にいることはできない、と。
 ネズミは、大人しく会ったこともない恋敵と愛した女と生まれることのなかったその二人の子が祀られた墓の前で手を合わせた。
 ネズミが祈りとしばしのお別れを告げて立ち上がった時、ネコと花琳についていた護衛のコウモリはどこかへと姿を消していた。
 花琳と二人になれるように気を使ったつもりだろうが、生憎、自分にはこれ以上彼女と話すことはない。
 それなのに、花琳は何かを望むような熱のこもった目で彼を見つめ、彼の名を呼んだ。
「ソル」
 さらっと軽く別れの挨拶をして、それこそ、正午からの婚礼の列席者に名を連ねているネズミとしては、またあとでな、と手を振って、さっさとここから離れようと思っていたのに。
 軽く作ったネズミの作り笑いが凍りついていく。
「今度は、私のことは連れて行ってはくれぬのか?」
 両手を前に差し伸べられて、どきりと心の臓が跳ね上がる。
 おそるおそる、ネズミは花琳の両手を取る。
 握っただけで融けてしまいそうな、新雪でできているかのような白い手だった。
「花琳。あんたが今いるそこは、一人では逃げ出せないような場所か?」
「……」
「あんたは今、逃げ出したいと思っているか?」
「……」
「違うだろ。そこはあんたが選んだ場所だ。そこは、鍵のかけられた鳥籠のような部屋じゃない。あんたは自分の足で歩いて自由に出入りすることができる場所だ。あんたには、おれの足はもう必要ない。――そうだろう?」
 握った花琳の両手から力が抜けていくのをネズミは感じていた。
「お前には、もう私の目は必要ないか?」
「地上の地形図は頭に入っている。国勢も。この一年、嫌でも国境警備のために無い知恵絞り尽くしてきたんだ。あんたほど見えてはいないかもしれないが、盲目というわけじゃない」
「なら、お前も私の目はもう必要ないな」
 ネズミと女王は互いに見つめ合い、どちらからともなく互いの身体を抱きしめあった。
「その目で、好きなものを見てくるといい」
「その足で、好きなところに行けばいい」
 耳元で囁き合い、鼻を突き合わせ、笑いあう。
「疲れたら、いつでも帰ってこい」
「嫌になったら、いつでも呼んでくれ」
 額を寄せ合い、至近距離で見つめ合う。
「泣くな」
「お前だって」
「おれは泣いてなんかいない」
「私だって、泣くわけが無かろう」
 涙を払い落とすように、二人は互いに下を向き、強く目を閉じた。
 ぱたぱたと、小さな雫がそれぞれから零れ落ちていく。
 互いに涙を拭いあうことはもうできないと分かっていた。頬に触れることはもうないのだと、触れてはいけないのだと、言い聞かせていた。
「私は女王になる」
「もうなってるだろ」
「まだだ。今はまだ、冠を被っただけのただの子供だ」
「それでもご立派な働きぶりだったと思いますがね」
「私にはまだ、力が足りない」
「引きとめているように聞こえるんだけど、違うんだろ?」
 花琳は小さく頷く。
「必ず、また帰ってきてくれ。そして、いろんな話を聞かせてくれ。他国の話でもいい、他愛ない宿での会話でもいい」
「おれにこの国の目になれって?」
「そう聞こえるかもしれないが、そうじゃない。私は、おそらくもう簡単にはこの国から出ることは叶わないだろう。人々の小さな日々の幸せをこの目で見ることも、この大陸の果てにあるという海を見ることも、異国の人々と他愛ない会話をすることも、私にはもう叶わない。ソル、お前には綺麗な目と日に千里を駆けるような俊足がある。何より、お前は自由だ。だから、たまに帰って私に教えてくれ。私が為政者になろうとするあまり、人の心を忘れてしまわぬよう、たまに帰って諌めてほしい」
 この花琳の言葉を聞いて、ネズミはそっと溜息をついた。
 この人は、生まれながらの女王だったのだと、今更ながらに思い知る。
 長くは近くにいることのできない、確かに、彼女は自分にとっての太陽だったのだと。
「分かった。約束する。たまには帰ってくるよ。いつとは約束できないけどね」
「それでいい。お前は――お前は、何か私に望むことはないのか?」
「あんたに望むこと?」
 額を話し、腕を解き、相対して佇みながら、ネズミは空を仰ぎ見、彼女への望みごとはなかったかと思案を巡らせる。
「うーん、特にない、かな」
「なっ、それでは私だけが我が儘を言っているみたいじゃないか!」
「実際そうなんだから、仕方ないでしょ」
「なんだと?!」
「しょうがないな。それなら、一つだけ」
 そう言って、ネズミは花琳の前に片足を立てて跪き、その右手を引き寄せた。
「地下から参りましたこのネズミに、一つだけ無礼をお許しください」
 口調も表情も生真面目に紳士を装ってはいるが、目には悪戯めいた閃きが宿る。
 苦笑しながら花琳もそれにこたえ、右手を預ける。
「女王の治世に、幸あらんことを」
 ネズミは目を閉じ、花琳の手の甲にそっと口づけた。
 花琳は寂しげに笑う。
「お前には跪いてほしくなかったよ」
「分かっている。だから、もう一つ……」
「一つじゃなかったのか?」
「女王がご不満だとおっしゃるので」
「仕方ない。聞いてやろう」
 腕を組んで仰け反った花琳に、立ち上がったソルは苦笑しながら胸の前で組まれたその両腕を解き、抱き寄せた。
「おれは冒険家になる。東西の青い海を見て、大陸の北の最果ての氷山を見て、南のサンゴ礁を見て、この世界を丸ごと堪能してくる。女王稼業が嫌になったら、いつでも呼んでくれ。一緒に絶景を見に行こう」
「ああ……それは、楽しそうだな……」
 ゆっくりと噛みしめるように花琳は呟いた。
「ありがとう、ソル」
 花琳の涙が着物越しに温かく滲んでくる。
「それじゃあ」
 これ以上抱きしめていてはこのまま連れ去ってしまいそうで、ソルは無理やり体を離した。押し戻された花琳も、一度は俯きながらも笑顔を作って顔を上げた。
「ああ、達者でな」
 花琳の両肩から手を離す。
「花琳も無理すんなよ。めんどくさいことは全部あいつに押しつけとけばいい。悪いことにゃ、ならないだろ」
 一歩、後ずさるようにして離れる。
「はは、違いない」
 苦笑した花琳に、ソルは少し不満げな顔をして見せた。
「花琳、三つ目の望みだ」
「え?」
「笑ってくれ。そのあんたの笑顔を、おれにくれ」
 一瞬虚を突かれた花琳は、しかしすぐに、極上の笑みを口元に刷いた。そして、大切なものを見つめるように目を細めた。
「これでいいか?」
「ああ、十分だ」
 花琳の笑顔を記憶するために、ソルは硬く瞼を閉じ、その目裏に彼女の笑顔を映しなおした。
 ――これでいい。
「またな」
「また――」
 ソルはくるりと花琳に背を向け、一息に走り出した。その姿はあっという間に木立に紛れ、花琳からは見えなくなった。
「また――再見、ソル」
 胸の前でぎゅっと拳を握った花琳は、ソルが走り去った方向に背を向けた。
 その花琳の前に、どこからか戻ってきたコウモリとネコの二人が跪く。
「戻るぞ」
『はっ』
「夫殿がきっと心配しているな」
 くすくすと笑った女王の顔は、不安とあどけなさに満ちた少女の殻を脱ぎ捨て、しなやかな大人の女性の顔へと変化していた。それは顔だけではない。凛とした佇まいそのものが、女王としての風格を備えたものになりつつあった。
「次に会った時には人妻かぁ」
 走り去ったと見せかけて、登った木の上から花琳とお付きの者二人の背中を見送っていたネズミは、そっと溜息をついた。
「ああ、もしかして子供もできてるかもしれないとか――?! えっ、で、もしその子が女の子だったら……? うっ、あああああっ」
 頭を抱え誰にも聞こえないようにあげたはずの悲鳴が、まさか数十メートル先にも聞こえたのだろうか。ネコが後ろも見ずに放ったクナイが、早く行けとばかりにネズミの頬を掠めてすぐ脇の木の幹に突き刺さった。
「うあっ、怖ぇ。あいつ、また腕上げたんじゃないの? くわばらくわばら」
 かすり傷を負った頬を手の甲で拭い、ネズミはもう一度女王の背中を見送る。
「再見、花琳」
 そしてネズミは、上った木から飛び降りた。

〈了〉

(201708052232)