鳥籠の王女とネズミの太陽
12.反逆の王
どうとでもなれと思ったのです。
貴女が手に入らないのなら、この国があっても仕方ない。それなら、この国を贄に貴女に足を返して差し上げようと思ったのです。地下の技術力なら、その纏足で変形させられた足でも歩けるようにしてくれるだろうと踏んで。
私は、父から地下のことを聞かされたわけではありません。
私は孔家が営む商家の跡取りではありませんでしたし、次男など、ただの穀潰しか、他家に婿入りして姻戚を結ぶだけの道具でしかありません。弟たちはそれを受け入れて婿入りしていますが、私はどうしてもそうは思えなかった。ひとえに、兄と一つしか違わなかったこと、ほぼ共に学び、遊び育ち、しかも私の方が出来は良かったはずなのに、私にだけ教えてもらえないことがあることが、どうしても許せなかったのです。
遥か昔、地下に生き別れた人々が暮らす世界があると、その世界との唯一のつながりを保つのが、孔家の本当の役目なのだと、書物にはどこにも書いてはおりません。書き残せば誰かが知るところになるからです。地下のことを知るのは、はるか昔、人々が地下に降りていった時、こちらの世界に残って失われた恵みを取り戻そうとした安家の長と、安家に仕える孔家の長だけでした。地下の世界は秘匿されなければならない。なぜなら、地上の過酷な環境に耐えかねた人々が、地下に快適な世界があると知ればこぞって地下に行きたがり、地下の人口が増えればすなわち、逃したはずの地下の世界が先に滅びてしまう。けして、口外してはならないことだったのです。
いかにして私が地下に世界があることを知りえたか。言うに及びません。父の後をつけたのです。まだ子供だった私は、自分の尾行が成功していると思っていましたが、父は気づいていました。気づいていながら、気づかないふりをし、改めて長兄を地下への入口の前に立たせ、地下の秘密を語った時も、私がいることに気づかないふりをしていました。
甘く見られているのかと、私は思いましたが、今にして思えば、父は私にも知らせたかったのでしょう。
地上の世界は倦んでいる。この怠慢な空気を変えるには、新しい風を呼び込むしかない。一方、地下の世界も構造上、崩壊の危機に瀕していました。
父は、私を第三王女の婿に据え、正式に安家の王となるように命じました。その上で、……地下の扉を開くよう、私に命じたのです。
『約束の時は満ちた』
今こそ地上と地下に分かたれた同志たちを呼び戻そう、と。
私は、悩みました。
花琳の言う通り、地下世界との融合を考えなければ、安家を一滴残らず滅ぼし、新しい市民政権に時代を委ねることに、私も一票を投じたでしょう。そこでの首領は楊輝が最も相応しかったように思います。あの子の器量、人を引き付ける魅力、話術、知力、智慧、どれをとっても次世代の首領に申し分なかった。
花琳を殺して、楊輝を世界の頂に掲げる。
それは、地上だけの歴史であれば最良の選択だと私も思いました。
しかし、世界は地上だけでは完結していなかった。今までは地上だけを考えていればよかったかもしれませんが、今般、地下とのやり取りも頻回となり、その存在を無視するわけにはいかなくなった。
私の意を決させたのは、私が殺した安王でした。
安王家への反乱を実行する日が近づいているというのに、未だ揺れ続けていた私は、安王に呼び出され、地下世界の話をされたのです。
『これは、誰も知らないことだが、孔家のお前なら何か気づいているかもしれない』
そう前置いて、私は今度は王から直接、地下世界との均衡が崩れてきていること、地下世界との約束を果たすべき時が来ていることを聞かされました。そして、安王は最後にこう付け足したのです。
『地上に残った我らは、いつか地下世界の者たちを迎えに行く使者をたてると約束した。しかし、こう時代が過ぎ去ってしまっては、今や地下に住む者たちは我らの同志ではなく、新たな異国である。本来であれば、地上に残された他の王国と諍いをしている場合ではないのだ。地下の人間たちは、早急に地上に出たがり、地上の世界を好き勝手に蹂躙しようとしておる。いかに友好的に話をしてこようと、地下世界を支える構造物が限界にきている危機感から、一度許せば一気に攻め込むように我らから地上世界の主導権を奪い取り、せっかく均衡を取り戻した地上の恵みも、あっという間に食い荒らしてしまうだろう。何より、地下にいる人口は地上の比ではなくなっている。昔のままの科学力が維持され、寿命も長いと聞く。その地下の人々が一気に地上に上ってきたら、地上はどうなる? 突然人口が二倍に増えたら、食糧も、住む場所も、何もかもが足りなくなってしまう』
『では、先人たちの約束を反故にするおつもりですか?』
『いや、それは安家の主としてできない。約束は守らねばならない。しかし、少しずつだ。少しずつこちらに受け入れ、慣れてもらうしかない。唐突にこちらにあちらの文化を持ち込まれても、混乱するだけだ。しかし、地下の人々を丸ごと受け入れることができる土地が、我が国土に残されているわけでもない。少しずつ、融合していくしかないのだよ。だが、突然異国の者たち、異国の文化が流れ込んできたら、国の民たちはどう思うだろう。やはり混乱すると思わないか?』
『そうですね』
『混乱を来せば、異分子である彼らを排斥しようとする力が働く。そこでだ。今、我が国は、我が王政は、民たちに反乱を企てられるほど腐っている』
安王は、昏く見透かすような目で私を見た。
『反乱を起こさせよ。その混乱に乗じて、彼らをいくらか受け入れる』
『何を……!! 他に目を向けさせて、その合間に異分子たちの侵略を許そうというのですか?』
『侵略を許すのではない。居住を許すのだ。だが、民衆に王権はまだくれてやってはならぬ。理想だけに燃える若い民たちに、地下世界の老獪な政治家(化け物ども)の相手が務まるものか。――よいか、孔冀章。お前が最後の王となれ。最後の王となり、地下に侵略されぬよう舵を取りながら、古の約束を果たせ。我ら安家は、喜んでその礎になろう』
親子だと思った。
花琳と安王。見えていたものは違えど、考え方はすっかり同じだった。
『その代わり――』
『最後の王、ということは、そういうことでございましょう。地下世界の異分子たちを引き入れた者として、混乱が拡大した暁には、地上世界の者たちに処断されて溜飲を下げさせる役目を、私に果たせとおっしゃるのですね』
『いかにも』
『第三王女は?』
『好きにしろ。巻き込むもよし。手放すもよし。使い勝手のいい方に使ってやれ』
『第三王女だけは、生かすおつもりですか』
『呼び水は必要だ。地下から地上に人を引っ張り出すための、飛びきり目立つ象徴がな』
『地上と地下の融合の証にでも使え、と?』
安王は、未だ見たことのない光景を想像してにやりと口元を歪めた。
巻き込むとは、私と婚姻を結び、私が王に立つための理由とすること。手放すとは、地下と地上の融合の証として、地下の誰かと婚姻を結ばせること。結局、彼女は道具としての王女という立場から逃れられない。
しかし、甘い。
『王様は余程、蘭樹様が大事と見える』
『これだけのものを背負わせて、大事と思うか? 他国に嫁がせた姉たちのように、殺される方が楽なこともあるだろう?』
『生きていてほしいのでしょう、蘭樹様に。荒波の中を漕ぎ渡り、安寧の岸に辿りつくまで、私にその船頭をしろとおっしゃっているのですから』
私は溜息をついた。
娘を頼む、と安易に託されるよりも、娘を使って王になれと言われる方が、よほど骨の折れる仕事だ。
『船頭ではない。身代わりになれと言っているのだ。褒賞は第三王女だ。手放すまで、好きに使え』
手放すまで、か。
『王様、何故私をお選びに……?』
『決まっているだろう。孔家の男だからだ。お前たちは絶対に、安家には逆らわない。忠実な臣だ。いざとなれば、己を滅し、我らに仕える。そうであろう?』
我ら、とは、安家。ひいては安家が大切に守り続けてきた、この地上の世界。
私は跪き、頭を垂れた。
『王命、謹んでお受けいたします』
王は玉座の上から、口元を歪め、笑った。
『それでいい。孔冀章。お前は安家最後の王となる。だが、おそらくお前の名は歴史には残らない。――分かるな?』
第三王女とは、正式に婚姻を結ぶな、と。
孔冀章という名の反乱分子の長が、何日続くかもわからない過渡期を、王という偽りの冠を頭に載せてその玉座にふんぞり返っていたことがあったものだ。誠に愚かな王であった。あれでは安家最後の王とも言えまい。何せ、正式に第三王女を妻にもできなかったのだから。
ただの勘違いの阿呆な男。
のちの歴史書にそう書かれるように、上手くやれ、とな。
私は首を垂れる。
今はそれでいいと思った。
歴史はどう動くかわからない。
地下世界という不確定要素が関わってくるのならば、なおさら。
それでも、歴史は安王が書いた筋書き通りに進んでいく。
私は、地下世界の存在を受け入れるために楊輝を殺し、第三王女と中途半端な婚姻を結び、ひいては、地下からやってきた道化の存在を受け入れた。
地下からやってきた道化は、地下政府とは今は何の関わり合いもないただのネズミだった。そのネズミが、地下のためでもないのに第三王女を王宮から攫い出し、終いには地下へ連れ帰っていった。
そして今、王女と共に私の前にいる。
王女とともに、地上に戻ってきたのだ。
王女とネズミは、安王の書いた筋書き通り、地下世界の住人たちを地上に誘い出す呼び水となった。
大したものだ。
あとは、私は地上だけの世界だった時代の遺物を背負ってこの世を去るのを待つだけだ。
大地は、先ほどから三度目の大きな揺れに見舞われていた。
処刑を中断させるほどのその大きな揺れが収まっても、集まった民衆たちの動揺は続いたままだった。そんな中、混乱に乗じて彼女は真っ直ぐ私に向かって人々をかき分けてきた。
自分の足で。
「師、匠」
声ははっきり届かなくても、そう叫んでいるのが分かる。
阿呆な子だ。そんなに大きな口を開けて叫んでいたら、周りがいくら混乱しているとはいえ怪しむだろうに。
それでも、彼女は懸命に自分の足でよろよろとではあったが確実に私に向かって進んできていた。後ろから黒い布で頭を覆った金髪の小僧が花琳を守るようについてくる。
纏足を施されたため、松葉杖なくしては立っていることもままならなかったというのに、地下の技術とはたった数日でかくも歩けるようにできるものなのか。
送り出してよかった。
ほっと、気が抜けたようなため息が出た。
この子に何も与えてあげられなかった私でも、ようやく一つ、願いを叶えてあげることができたらしい。
歩くことにまだ多少慣れていないのか、その足元は若干覚束ないが、ネズミは手助けする様子もなく、ただひたと私に視線を据えて睨みつけてくる。
純粋で若い瞳だ。まっすぐ前だけを見ていれば、輝くような未来が約束されると信じている目だ。
気に入らない。
私には到底得ようがなかった光だ。
憧れ? 違う。あんなものになれるほど、私は強くなかっただけだ。
俯き、唇を噛みしめ、第三王女に向けるための仮面を心にかぶりなおす。
「蘭樹様」
貴女に恋焦がれて堪らなかった愚かな男として、近づくあの子にただ一言、その名を呼ぶだけでいい。
それだけで、この子は私に正しく絶望するはずだ。
そしてもうこれ以上、私に歩み寄ろうとは思わないはずだ。
それなのに、彼女は気難しい表情のまま私を睨み据え、また一歩私に近づく。
よろよろと、それでも、この手のひらに収まるほど小さかった足が今は指先まで開かれ、靴を履いてしっかりと大地を踏みしめている。
彼女の足元を見て、思わず口元が綻んだのがいけなかった。
「師匠!」
手を伸ばしても、決して届かない距離で立ち止まり、彼女は怒っているのに泣きそうな顔で叫んだ。
師匠――その声が聞こえて、私はどきりとする。
孔冀章の仮面が、剥がれ落ちる。
「ああ……」
一度だけ、許していただけるでしょうか、安王よ。
この子を、もう一度弟子として呼ぶことを。
「歩けるようになったんですね――花琳」
心から込み上げるものに逆らえず、私は目と口元と頬に入れていた力を緩めた。
彼女の怒っていた表情も崩れ落ちる。
わぁっと泣きながら、彼女はその足で赤子のようによたよたと歩き、彼女と私とを隔てる柵を為す太い杭にしがみついた。
「師匠! 師匠!」
後ろ手に縛られ、十字架に磔られた私には、彼女を抱きしめてあげることはできなかった。ただ、優しい風が彼女の首筋から花開いたばかりの橄欖の香りを運んできた。
裏庭に植えた橄欖の木を思い出す。
初めて彼女に出会った場所だ。
蘭樹様――花琳。
『こーろーせっ! こーろーせっ!』
揺れが収まって目の前の出来事に意識を引き戻した民衆の声が次第次第に大きくなり、再び、容赦なく石礫が投げつけられはじめる。いくつかが身体にあたり、骨に当たる鈍い音がした。頭に当たって嫌な音がし、目が回った。
私は彼女から目を逸らす。
きっと今、自分は目も当てられないほど酷い姿になっていることでしょう。
できることならもう、見ないでほしい。
恐ろしいものを見た時のように両手で目を覆い、顔を背けていてほしい。
ネズミよ、その子の目がこれ以上無様な私を映さないように、その手で目を塞いでおいてくれませんか。貴方に憐れみの心があるというのなら。
しかし、ネズミも花琳も、私から目を逸らそうとはしなかった。
それどころか、ネズミは目の前の太い杭を光の一閃で切り倒し、花琳と共に刑場の中に踏み込んできたのだ。
油断していた刑吏達が慌てて彼らを捕まえようと駆けていく。同時に、私の足元に積み上げられた杣に火を放つ準備が慌ただしく始められる。
いけません、花琳。貴女まで、捕まってしまう。
貴女は最後に残された希望。
貴女まで民衆に殺されてしまっては、本当にこの地上は地下に蹂躙され尽くしてしまう。
この地上には、まだ貴女が必要なのです。
「離れなさい!」
一心にこちらを目指して駆けてくる花琳は、私の一際大きな声に驚いたように一瞬足を止めた。しかし、きつくそう言ったところで、言うことを聞くような子ではない。しかも群衆の喚声が私の声など呆気なく掻き消していた。
仕方なく、花琳の後ろに佇むやたら肌の色の白い男に目をやる。
早く連れていけ。
懇願にしては、きっと睨むような目になっていただろう。いや、睨んでいたはずだ。私はお前が羨ましい。花琳とともにこの一秒先の未来も共に歩んでいけるお前が、私は羨ましい。
「諦めるのか?」
なのに、こともあろうにネズミは鋭く私を睨み返しながら怒ったようにそう言ったのだ。
そう、確かにその唇はそう動いていた。
「諦めるのか? あんた、それで本当にいいのか?」
睨んだかと思いきや、うっすらと蔑むような嘲笑を浮かべる。
何を――。
私は、すでに自由を失っている。この足元に積まれた杣に火が放たれる前に、私は左右に二人並んだあの兵士たちの長槍に左右から貫かれ串刺しにされるだろう。私から止めようもなく吹きだす血は、その子の肌を穢すかもしれない。
だから、早く連れて行ってほしいというのに。
「綺麗でかっこいい自分だけ覚えていてほしいって? そんなの、虫がよすぎんだろ。夫婦なら、かっこ悪いところも見せてなんぼだ!」
向かい来る刑吏達を驚くほどの速さで拳ひとつで地に転がし、長槍を持った二人からはあっさり槍を取り上げ一本を膝で真っ二つにしてのけたネズミは、私の足元で勝者のように胸を張った。
その傍らには花琳が泣きそうな顔で立っている。
石礫の雨は止んでいた。
刑場を取り囲む民衆たちは、刑吏達があっさりと大地に伏された様を見て明らかに弱腰になっていた。何が起きているのかよく分からない、といった表情だった。
そんな彼らの方を向いて、ネズミは高々と片手を上げた。
その瞬間、形状を取り囲むように耳を劈くような爆音とともに赤い砂煙が立ち上がった。
一瞬の静寂の後、刑場に集った民衆たちは口々に悲鳴を上げ、聞いたこともない恐ろしい音から逃れようと逃げ惑いはじめた。すでに彼らの目に私の姿は映っていなかった。
その機を待っていたのだろう。
「師匠!」
逃げ惑う人々が巻き上げる砂埃を突き抜けて、瑞々しい少女の声が耳朶を潤した。
その傍らでは、ネズミが折らないで残しておいたもう一本の槍の穂先を私に向けていた。
「オラ、ぼんやりしていると怪我するぞ!」
ネズミは長槍の穂先で器用に私の足元の縄を切り、右手は軽く薄皮を掠め、左手は傷つけることなく、それぞれの縄を断ち切った。支えを失った私の身体は当然、前のめりに架刑台から落ちていったが、槍を放り投げたネズミは顔をしかめながらも私の身体を受け止めた。
「このおれが野郎を抱きとめる日がこようとは」
ため息をつきながらネズミが私の身体を地に横たえると、飛びつくように花琳が私の肩を抱きしめた。
「師匠!!」
正直なところあまりに強い力で、先ほど石に打たれた場所が鈍く痛んだが、私は呻き声を噛みしめて堪え、抱きしめ返そうとする腕を必死に下ろそうと堪えた。ぼろぼろの人形のように、私は体から力を抜いているしかない。
それなのに、ネズミは、さっきまで私を取り囲んでいた民衆や処刑人たちよりも、よほど殺意のこもった目で私を見下ろしていた。
「ふん、残念だったな、王様。王女さんはまだまだあんたに生きててほしいんだと。あんたが彼女にそう願ったように、な」
その一言で、私は己にかけた呪縛を解いてしまった。
「花琳」
石をぶら下げているように重かった両腕がすっと上に上がり、思わず彼女を抱きしめ返そうとする。
しかし、そこでまた逡巡する。
赤錆た匂いばかり嗅ぎ慣れた鼻に、橄欖の香りが漂ってくる。甘く爽やかな初夏の香り。
私は拳を握り、両腕を押しとどめるように下ろした。
私は、この子の夫ではない。さりとて、この橄欖の香りを纏った少女を弟子として抱きしめてあげられるほど、男としてできてもいない。
花琳は、私を師匠と呼んでいるのだから。
「花琳、何をしに来たのですか」
努めて厳しく、冷たく聞こえるように、低く声音を抑えて私は尋ねる。
「迎えに来たんだ。貴方一人に、この国の終わりを背負わせるわけにはいかない」
夢見る少女のような熱に浮かされた目で、花琳は私を見ていた。
「つまらないことを言わないでください。もし、それが孔冀章の弟子としての発言なら……」
「妻ならいいのか?」
すかさず返された花琳の言葉に、頭上で「あーあ」と落胆した声が聞こえた。その声は、違う意味で私の心の中の声と重なっていた。
ぐらつく頭の中を必死に立て直しながら、私は師匠としての言葉を探す。
「今、この国は新しい時代を迎えようとしているのです。私は最後の王として、その礎となるべく……」
「それは、少し前まで私が周りに言っていた言葉だ。ひどく自分に酔ったはた迷惑な言葉だったと、今なら恥ずかしくなる。とんだ思い上がりのせいで、楊輝も殺してしまった」
「私は自分で何を言っているかもわからず自分に酔ったまま、こんなことを申し上げているのではありません。私は……」
「王は誰にも敬語など使わぬものだ。貴方は、王にはなれていない」
ぐっと私は言葉に詰まる。
「王様なら私がやる。最後の王になるのか、まだ続くのかはこれからの情勢次第だが、物語的には、ここで正当な血筋の者が出てきた方が格好がつくだろう?」
花琳は自信たっぷりににやりと笑う。
いつの間にこんな表情を覚えたのだか。やけに隣の小僧に似ていて、嫌になる。
「しかし……」
「父と何か約束していたのなら、一度忘れろ。未来は生者が作るものだ。死者の言葉に縛られて作られるものではない」
私は、そこでようやく彼女の目を正面から見つめた。
逸らすことなく、彼女は私の視線を受け止める。
彼女の目には一部の隙もなく、弱さも迷いもなく、ただ凛とした輝きだけがそこにはあった。
自然と、私は彼女に頭を垂れていた。
「顔を上げよ。貴方にはこれからも側にいてほしい。師匠として、それから――夫として」
「は?」と顔を上げると、頭上から「けっ」と拗ねる声がした。
「拗ねるな、ソル。とうに事は大詰めではないか」
女王となるつもりの少女は、鷹揚に小僧に笑いかける。
爆発音と舞い上がった砂煙が落ち着いた刑場の周りは、砲台を掲げた見たことのないほど巨大な戦車と、銃器を携えた迷彩色の軍服を纏った軍人たちに、いつの間にか取り囲まれていた。刑場から逃げ出そうとした群衆たちは、彼らに退路を阻まれ、今やじりじりと後退り、中央に寄せ集められている。
「あれは、まさか……」
「そう、そのまさか」
「地下の、軍隊……」
「そう、地下の軍隊。地下を全滅させる代わりに、花琳の計らいでおれが全軍の指揮権預かってきた。つまり、あれはおれの軍隊」
「なんて、ことを……」
がくりと私は肩を落とし、小僧は頭に被っていた布を取り去り、太陽の光が降り注ぐ中、金色の髪を風に靡かせた。
金髪碧眼の男。
この国にはいない血筋を持つ男。
地下のネズミ。
その名に相応しくないほど、太陽がよく似合う男。
「花琳が、いや、女王があんたを救うためにどうしても必要だって言うんで連れてきたんだよ」
「私の命と地上の命運、大事なのはどちらか分かっていたでしょう!?」
ネズミが彼女を「花琳」と呼んだことも引き金となり、思わず怒鳴ってしまったが、花琳はいたって冷静だった。
「ああ、わかっていたよ。勿論、どちらも大切だ」
毅然とそう言って、女王に名乗りを上げた少女は立ち上がり、見たことのない異形の戦車を前に震えあがる民衆に対し、声を張り上げた。
「安国の民たちよ、聞きなさい。私は安国第三王女、安蘭樹。これより、この国は私が王となって治めます」
よく通る声だと思った。
少女の透明感と正義感、そこに女性のしなやかな強さが備わっている。
人々のざわめきは、そう時をおかず静まり、再び、刑場の外側ではなく、私たちのいる中央に身体の向きが変わりはじめる。
「私たちは今、国内で争っている場合ではない。私たちを取り囲んでいるのは、この足元、地下の異国から来た軍隊だ。彼らが本気になれば、先ほどの威嚇攻撃だけでは済まない。確実に、私たち安国は、いえ、この地上の国々は、あっという間に滅ぼされてしまうことだろう」
民衆の硬くなった喉から笛のように悲鳴が上がる。
いけない。こんなあからさまなやり方は反感を招くだけだ。
「いけません。恐怖で人を支配するなど、愚の骨頂」
立ち上がり、花琳の肩に触れようとした私の足元に、一発の弾丸が撃ち込まれた。
「大人しくしててくれる? 前王様」
恐怖に萎縮し、どよめく民衆たちを前に、芝居がかった動きでネズミは拳銃の銃口から漂う煙をこれ見よがしに吹き消す。
「分かる? これ、小さいけどあの砲台と同じように、遠くから一瞬で人を殺せるくらいの威力があるの。怖いよね? この恐い拳銃持った奴が、今ここにいるあんたたち以上にこの足元にたくさんうようよしているの。――分かるでしょ? そんな奴らが大挙して地上に出てきたら、どうなるか。今、外に出てきているのがこれくらいで済んでるのは、今後、安全に地下の奴らが地上で暮らせるように交渉することと引き換えに、おれが地下から全軍の指揮権を預かってきているから」
ネズミもネズミだ。早々に手の内を明かしてどうする。
静かに恐慌に陥っていたらしい若者の一人が、喚き声を上げながら戦車に向かって石を投げた。つられて周りの人々も石を投げ出し、皆が皆、取り囲む戦車に対して石を投げはじめる。
しかし、戦車に傷つく様子はない。それどころか、じりと楕円形の車輪を動かして取り囲む輪を狭める。
戦車が傷つかないと分かると、群衆は今度はネズミに向かって石を投げだした。ネズミだけじゃない、女王に名乗りを上げた少女にも石は等しく降り注ぐ。
「出ていけ! 安家の王政などもういらない!」
「化け物を地下から呼んでくるとは! 死ね! 死んでしまえ!」
石は私の上にも降り注ぐ。
「役立たずの王。腑抜けの王。反逆の王にもなれなかったくせに!」
しかし、石が私たちの身体を打つことはなかった。
「カラスさん特製、臨時バリアー! なんつって、ね」
物悲しくおどけたネズミは、処刑台の四方に置かれた小さな小石ほどの箱を見回した。箱からは小さな雷のような瞬きが閃き上っているだけだが、頭上や目前に投げつけられた石は、僅かに背景を歪ませながら確実に跳ね返されていく。
あまりの手ごたえのなさに、民衆たちはざわつきながら石を投げる手を止めていく。
「楊輝がいたら、もっとうまく彼らを導いてやれたろうにな」
苦笑いしながらぽつりと花琳が漏らした。
私は、花琳に伸ばしかけた手を寸でで止めた。
「謝る気なら、聞かないぞ。楊輝を殺したのは、私でもある」
前を向いたまま、少なくなってきたとはいえ、投げつけられる石を目を閉じることなく真っ向から受けながら、花琳は言った。
私は一度手を己の額に当て、深く息を吐きだした。
「花琳、私にも共に背負わせてください」
「だから初めから言っている。側にいてほしい、と」
私はようやく、その細い肩に手を置き、彼女に触れることを己に許した。
私に触れられても肩すら震わせなかった彼女は、さすがと言うべきだろう。
ただの人形から、己の足で立つことのできる女性に。そこまで導いたのが、この金髪の小僧だということが面白くないわけではなかったが、託すことを決めたのは私だ。あわよくば、こんな修羅場になど戻ってこず、地上なり地下なりで、己の足を得て自由に走り回ってくれていればと願ったものだが、さて、自ら囚われに戻ってくるとは。
ここから、どうすれば彼女を幸せにしてやれるというのだろう。
彼女の傍らにいるのは、自分でなくてもよかったのだ。そこの金髪の小僧でもよかった。それで彼女が笑ってくれるのなら、安王との約束も果たせ、一石二鳥というものだった。
どうして、戻ってきた。
どうして、幸せになろうとしない。
せっかく足を手に入れたのに、どうして自ら自由を、幸せを手放すような真似をする?
――そんな彼女が、この状況下で私に側にいてほしいと望むのなら、私には諾と言うしかないではないか。夫に納まりたいとは言わない。師のままでいい。貴女の側にいられるのなら――失望とともに、灼き焦げるような想いが湧き上がってくる。これ以上舞い上がってしまわぬよう、きつく唇を噛みしめる。
最後の石が気の抜けたように飛んできて、呆気なく見えない壁に跳ね返されたのを見て、地上の人々は己らの無力さを知った。自分たちが、一体何と対峙しているのか、恐怖とともに肌で感じることになったのだろう。
大昔、似たような歴史を持つ国があったことを思いだす。
この大地とは海で隔てられた遥か東の島国で、四方を海に守られて外国の侵入を許さなかったが、文明の違いに押されてあえなく開国した、と。その時も確か、国内の情勢は不安定で、王を倒す思想と異国を排する思想がいつの間にか合わさって、一つの潮流となって国を大きく動かしていったという。
さて、今回は同じようにいくのだろうか。
望むものは国の安寧。民の平和。
それらは、数多の血と犠牲で贖わなければ得られないもの。
「私は安家の王として、ここに宣言する。地下の人々をこの地に受け入れる、と」
誰一人賛同者のいない女王の宣告が、虚しく民衆の頭上をすり抜けていく。
代わりに、見届けたとでも言うように戦車は退いていく。迷彩色の軍服を着た軍人たちは、隊列をなして民衆の間を割って入り、ネズミの小僧と女王のために王城までの道を開く。
その道を、彼らに続き私も歩く。己の足で。
もはや、誰も石を投げようとしなかった。
当たらないことを知ってしまったからだ。
逆らうことは己の身を危うくすると、肌で知ってしまったからだ。
本来、こんなやり方は望ましくない。
欺いてでも、民衆の感情を煽り立て優先しながら、彼らが地下の人々を受け入れたいと望むように仕向けなければならなかった。こんなやり方ではあまりにも性急すぎる。なにより、地下の恐さを肌で知っているのは、ここに集まっている人々だけだ。安国全ての人がここに集まっているわけではない。城下に住むごくごく限られた人々だけだ。石は、再び四方から投げつけられることだろう。
地下を受け入れるかどうかの議論を待たず、国内に味方もなく、彼女は命令だけを突きつけてしまった。ネズミの小僧に今は従わされている地下の小隊が、ネズミを裏切ろうものなら、私たちの命はおろか、地上の命運とて危うい。居住地欲しさに、彼らは地上を侵略するだろう。人々は奴隷とされるか、ただ殺されるか。あれほどまでに機械化が進んでいるのであれば、人力など必要ないと見做されるかもしれない。
しかし、地下にはすでに一刻の猶予もない。それは、最近頻発している地震と、中でも群を抜いて大きかった先ほどの大きな揺れが物語っている。
地下の強引な侵略から地上をいくらかでも守るためには、こうするしかなかった。
しかし、これがどれだけ危うい賭けか、分かっているのでしょうね?
この出来事は、芽生え始めた民衆の独立意識に、議論の種として植え付けられたという段階に過ぎないのですよ?
難民を受け入れながらの異国との融和策など、近隣国とですら実現していないというのに。
これは、地下との圧倒的な文明力との差に賭けているだけに過ぎないのですよ?
「地下の持つ技術の便利さを強調し、浸透させるには時間が足りなかった。人も文化も、少しずつ受け入れながら融和を図るしかない。だから、地下の人々が全員地上に出てこられるまで、私は殺されてやるわけにはいかない。彼らが安全に地上に出て暮らせるようにしてやることが、この国の人々、ひいてはこの地上の国々を守ることになるのだから」
誰一人出迎える者のいない王城に帰りつき、背後で扉が閉まった時、静かに女王は言った。
「死んだら何も守れない。そうだろう?」
振り向いた彼女は、泣いてはいなかった。毅然とした表情で私とネズミとを見比べていた。
「それに、私には地下に対する切り札がある。私はいつでも、地下を滅ぼすことができる」
強くも、哀しげに花琳は笑った。
「それは――」
「悪魔の火。私がこの足と共に受け継いだもの」
『ねぇ、師匠、知ってる? 悲しい時の涙はしょっぱいんだって。積もり積もった悲しみを体内から排出するために、体内を巡る塩がたくさん出てくるんだよ』
楊輝。
泣けない人は、一体どうやって悲しみを体外に払いだすのでしょう。
それとも――ああ、そうですね。彼女は今、泣いてなどいられないのですね。悲しみでも喜びでもなく、彼女の心を今支えているのは、決意、なのですね。
私は静かに、彼女の前に跪き頭を垂れた。
視界の端で、ネズミが去っていくのが見えた。
「孔冀章」
凛とした声が広間に響いた。
「はい」
「私を女王に、してくれるか?」
花琳を、女王に。
「――はい。仰せのままに」
翌朝から、女王の命令の下、城には今まで幽閉されていた知識人たちや、以前から安国に忠誠を誓う臣下たちが集められ、地下との友好条約締結の準備が本格的に開始されたのだった。
(201705070320-201706250149)