鳥籠の王女とネズミの太陽
14.後日談 ―太陽と女王―

「え、何だって……?!」
 夫は、今初めて聞いたとばかりに目を見開き、手に持っていた読みかけの本を取り落した。落ちた本は見事にその足に落ち、今度は痛みを逃がすために片足で跳ねはじめた。
「前にもお話したでしょう? あの子が生まれた時に。女の子だったから、あの人のお嫁さんにって」
「いやいや、聞いてないよ。しかも、それ、一体何歳年が離れていると思っているの。母親より年上の婿なんて冗談じゃないね」
「年の差なら私と貴方だって結構あるじゃない」
「それはだって貴女が……」
「あら、私だけのせいなのかしら? 年端もいかない小娘に蘭樹様〜って浮かれてたじゃない」
「浮かれてない! あれは演技。諸々あっての演技ですから!」
「ああ、玉座とか、王位とか、王冠とか、父との約束とか」
「そうそう」
 そこで適当に首肯するのがうちの夫の悪い癖だ。私をどれだけ怒らせているのか分かっていないのだから。
「でも、そのうち本気になった、と。九つも年下のこの私に」
 分の悪さを自覚したのか、夫は咳払いをひとつして本を拾い上げる。
「……で、何の話だったかな?」
「明星(ミィシン)の話よ」
「そう、明星。全く、何をどうすれば明星をあの男の嫁にやる話になるんだ」
「だから言ったじゃない。それが、私が貴方と結ばれるための条件だったって」
 正式に結婚して十四年も経つというのに、その時のことを思いだして未だに顔を赤くするこの人の妻になれたことは、本当、妻冥利に尽きるとでも言えばよいのだろうか。
「駄目だ。許さないぞ。誰が明星をネズミになんかやるものか。第一、私たちよりもさらに年が離れているじゃないか。二周り近くもなんて、あんまりだ。いくらネズミが若作りだからって、年齢的にはもうお兄さんのレベルじゃないぞ。おじさんだ、おーじーさーん!」
 夫が躍起になって否定しようとするほど、私は心の中でくすりと笑ってしまう。この人でも娘には子煩悩になるのだと思うと、尚更。
「そうね。でも、地上と地下の友好の証として、強力な象徴になるわ」
「君は、娘と政治とどっちが大事なんだい?」
「もちろん、両方よ」
「両方って、明星の気持ちは?」
「だから、言ってるのよ」
 三階の窓から見下ろす中庭には、寝ころびながら暖かな太陽の日差しを浴びて金色に輝く髪を風に揺らす男と、橄欖の木の下のテーブルに勉強道具を広げて気難しげに眉をしかめながら異世界の本と格闘する娘の姿があった。男は陽気に鼻唄を歌い、娘は勉強に集中させてくれと怒っている。
「あれのどこが仲睦まじいと? あの風来坊、この間一年ぶりにふらっと戻ってきたと思ったら、何食わぬ顔して明星の家庭教師になり替わりやがって。明星だって勉強に集中できなくて困ってるじゃないか」
「集中できないのは確かなようだけれどね」
 珍しく荒れている夫の口調と、娘の勉強の進捗状況を若干危ぶんで、私は苦笑する。
 明星が近頃勉強に集中できないのは、金髪の風来坊の鼻歌がうるさいだけじゃない。家庭教師になって一緒にいる時間が増えたからだ。
 世界中を旅して、見てきたいろんな場所のいろんな人々の土産話をしてくれる金髪の面白いお兄ちゃん。はじめはそう思って懐いていたのだと思う。帰ってくれば膝にのせて絵本を読み聞かせてくれるし、ギターを片手に歌も教えてくれる。さすがに一緒にお風呂に入ると言った時には、王女なのだからと諌めたけれど、それも大好きな面白いお兄ちゃんだと思っていればこそ、子供だったからこその発言だ。
 今年、明星は十三になる。
 体つきは丸みを帯びはじめ、確実に子供だった頃の体型とは変わってきている。
 一年ぶりに帰ってきた金髪の風来坊は、それを何の気なしに褒めた。
『お、明星、ちょっと見ない間にいい女になってきたじゃないか』
 もちろん私は、『ちょっと、その辺の居酒屋の女じゃないんだから、もう少しましな褒め方したらどうなの?』と小言を言ったのだけど、いつもなら彼の帰りにいの一番に駆けつけて飛びつく明星が、少し顔を赤くして顔を背けたのだ。
 照れるとすぐ顔が赤くなるのは、きっと夫譲りなのだろう。
 夫ほどあからさまではないにしても、後ろから見ていた母親の私が気づいたくらいだ。もっと間近で見ていたはずの金髪の風来坊が気づかないわけはない。はずなのだけれど、むしろ金髪の風来坊の方が、あの約束を忘れたかのように、今も自由気ままに明星の前で振舞っている。
 本来は、地上と地下の友好の証として、私がソルと婚姻を結ぶはずだった。
 何しろ、それが地下から地上に派遣される軍隊をソルが掌握する条件だったのだから。
 でも、友好条約の条項に入れられるべきその項目は、実際には少し違う形で載せられていた。
“地上と地下の友好の証として、然るべき者同士を添わせることとする。”
 然るべき者同士という何とも曖昧な規定に、私は思わずソルに聞いたのだ。いいのか、と。
『おれは、おれのことだけ見てくれる女が好きなの。だから、そうだなー、たとえば、王女が生まれたらその子と、次世代の地下の代表と、ってのでもいいし、ま、それくらい後になれば、こんな条約も有耶無耶にできるんじゃない?』
『……よくそれで地下の政府が納得したな?』
『えー、そりゃだって、地下のお偉方には、王女が生まれたらおれがもらいまーす! って宣言してあるから。なにせほら、地上というか安国はひとまず国としてもう一度形を整えてもらわないと、条約結ぶ意味なくなっちゃうし』
『……ロリコンか? ロリコンなのか?』
『花琳、だめだよ、そんな言葉からこっちの言葉覚えはじめちゃったら』
『言葉とは便利で使いやすいものから浸透するものだ』
『わぁ、いつになく論理的ぃ。ま、気にしなくていいよ。王女が生まれるかもわからないわけだし、王女が成長する頃には、おれが死んでるかもしれないし』
『滅多なことを言うな。まだまだお前に死なれたら困る』
『だよね。地下の窓口としては、これ以上ないよね。でも、おれ、地下の友好大使やめようと思って』
『なんだと!?』
『おれ、前々からこの地上に出てきたら、四季折々の色んな景色とか、海とか山とかジャングルとか、滝とか巨大岩とか、いろいろ見て歩きたかったんだよね。知ってるでしょ?』
『それは知っているが……』
『君と一緒に見て歩けるならそれがよかったんだけど、君は玉座を選んだ。おれは、この城の外には見たことのない沢山のものがあることを知ってしまった。地下とのやり取りが軌道に乗るまで手伝うことはできても、その後まで城にいることは、今のおれにはできない。どんなに、君よりほかにこの世界に美しいものはないと知っていても』
 頬に添えられた冷たく白い指先が、私の火照った顔を冷ましていく。
 結局、私もソルも、自分を変えられなかった。変えてまで相手に添う気にはなれなかった。それよりも、今の自分を大切にしながら、同志でいることを選んだ。
『だから女王様、安心して王女を生みなよ。その子がその気にならない限り、おれもその気になることはないから。な〜んてねっ』
『なっ、それは確率的にはあるということか?』
『この世に百パーセントというものはないでしょ。でも、ないない。一回り以上離れてたら、おれ、その子が大きくなる頃にはおじさん呼ばわりされて、加齢臭がっとか、オヤジギャグ寒っとか言われてるから』
『……大変なんだな、おじさんというのも……』
『そ。だから、大丈夫。――きっと、ね』
 含みを持たせた最後の台詞に、少しばかり私は胸騒ぎを覚えたものだが、あの時の予感は正しかったのだと、今となれば分かる。ソルは明星の気を自分に向けるような努力は一切してこなかったが、周りに年頃の男の子もおらず、同等に扱ってくれる他の男性が少なかったせいか、結果的に明星は今、ソルに恋をしている。
 その時の話は、条約の裏話でもあったから、勿論夫の耳にも入れてあるのだが。
「蘭樹様、中庭にでも散歩に行きましょうか」
 本に爪を立てながら拳を握り、中庭を見下ろしながら打ち震える夫の手を、私はそっと両手で挟み込む。
「嫌ですわ、貴方。そんな無粋なことするよりも、淘県の租税収入を上げるためにはどうしたらよいかを議論しましょうよ」
 そのために手に取った本であったろうに、あからさまに夫の笑顔が引き攣る。
「それとも」
 仕方なく、私はもう一つの選択肢を提示する。
「後者で」
 私がみなまで言う前に、夫は本を閉じて深く息を吐きだすと、両腕を広げ私の前に差し出した。
「おいで」
 私はその腕の中に、自らの足で飛び込んだ。

*********

 約束は、反故にするつもりだった。
 世界と世界同士の友好条約だけど、それぞれの世界の結びつきの象徴として地上の王女と、たとえばおれが地下の代表として婚姻を結ぶ、という考え方は、地下にしては古臭い考え方だと思った。地下世界に残すべき血統があるわけでなし、何もおれじゃなくてもいいだろうと思っていた。
 安国の女王となった花琳とその夫、孔冀章との間に娘が生まれてからは、尚更好きな男を選んでその子も幸せになってくれるといいなと思っていた。
 齢十三。
 一年ぶりに再会した彼女は、一年前に比べると一気に大人び、少女らしさは残しながらも大人の女性らしい艶のようなものを内包しはじめていた。
 そうと分かっていて、先日、城に戻ってきてから家庭教師になりかわったのは、他でもない。二周り近くも年の離れた王女と恋愛するためなどでは決してなく、次期女王として異世界である地下について、本腰を入れて教え込もうと思ったからだ。
 ところが、女の思春期は男よりも早く訪れ、精神年齢もただのガキじゃないというから、今、何となく困ったことになっている。
 目を離したのはほんの一年程度だ。
 南極大陸の氷を土産に持ち帰り、いつも通り弾き語りで土産話を披露したのだが、どうもその時には、彼女はただのお子様ではなくなってしまっていたらしい。頬を赤らめ、おれを見つめる視線は確実に恋する者のあの焦げるような熱さを持ってしまっていた。そのくせ態度は素直ではなく、おれが鼻歌を歌って彼女が問題を解き終わるのを待っていると、集中できないと苛立ちをぶつけてくる。
 女という生き物は、本当によく分からない。
「ソル、この問題、解けましたわよ」
 ようやく書き上げた回答にちらりと目を通して、「正解!」と言って頭を撫でてやれば、「んもうっ、わたくしももう子供ではありませんのよ。子供扱いしないでくださいませ」といっぱしの口を利いてくる。
 はぁあ、と溜息をついて上を見上げると、にやにやと見下ろしている花琳と、こいつ殺してやると言わんばかりの視線をぶち込んでくる孔冀章の姿とが見えて、やれやれとおれは肩を竦めた。
 どうしてこうなった。
 心の中で問いを投げかけたところで、回答を作成するまでもない。
 女の思春期とはこういうものだ、と思っておけばまず間違いない。
 で、少女の初恋は呆気なく散る運命にある。
 そうだ、散らしてくれる。初恋なんて叶うもんじゃないということを、王女だろうがなんだろうが身を以って知っておいてもらおうじゃないか。
 大体、冗談じゃない。未来の女王の夫だなんて。おれの自由はどこに行く? おれの矜持は? まだ見ぬ絶景がおれを待っているかもしれないのに?
 そうだな、まずは年頃の護衛でもつけてやればいいんだ。四六時中同じくらいの年頃の気立てのいい奴と一緒に入れば、おれなんてあっという間に霞むだろう。それから家庭教師もこの間までの大学の白髪のジジィだけじゃなく、顔の整った助手でも連れてきてもらおう。それから――
「ねぇ、ソル! 聞いていますの?」
「えっ……何を?」
「この問題が解けたら、ご褒美を下さる約束でしょう?」
「ご、ご褒美?」
 そんな約束していただろうか。いや、しかしこれはいいチャンスかもしれない。
「あ、ああ、そうだった。それじゃあ、おれからは――」
 美少年と美青年が傅くめくるめく後宮をプレゼントしてやろう、と口にしようとした瞬間、明星の顔が近づき、頬に柔らかな唇が触れて離れた。
 さしものおれも驚いてキスされた頬に手を当て、目だけで上からの監視が消えていることを確認し、明星に視線を据えた。
「明星」
「ご褒美は何でもいいとおっしゃいましたよね?」
「言ったけどさ……奪っていくのは、どうなの?」
「頂くところも含めてのご褒美ですわ。それとも、貴方から口づけてくださいますの? わたくしに」
「……」
 帰ってきてから今までで、一番の衝撃を何と表現したらよいものか。
 明星――こいつ、口まで達者になった揚句、多少傲慢になっている。
 花琳があいつに師事していた時もこんな感じだったんだろうか。いや、花琳の場合は色恋なんて二の次だっただろう。
 挑むように微笑む明星に、おれも挑み返すように微笑んで上から見下ろしてやった。
「明星、ご褒美だ。口づけの仕方を教えてやろう」
 どきりとしたのだろう。明星の白い頬が期待と恥じらいに薔薇色に染まっていく。
「敬愛の口づけの仕方だ」
 おれは明星の前に跪き、右手を取る。
 いつか、見たことのある女王の手と明星の手とが重なりあう。
「嫌。嫌よ。貴方からそんなキス、欲しくない」
 見上げると、手を引っ込めようと震わせながら怯える明星がいた。
 ああ、母娘してそっくりだ。
「女王となる者は、忠義は受け取るものだよ」
「貴方から忠義なんて欲しくない。わたくしは、わたくしは――女王になんてなりたくない。血縁で決められたレールを進まなければならないなんて、わたくしはまっぴら。わたくしは、ソル、貴方と一緒に絶景を見に外に出たい」
 これは、驚いた。
 花琳はあの時の話を明星にしたことがあるのだろうか。
 それとも、娘が今になって彼女の本心を代弁しているとでも言うのだろうか。
 おれの手は緩み、明星の手をとり落としかけていたが、逆に明星が両膝をついておれの手を握り返してきていた。
「ソル、わたくしを連れて、ここから逃げて」
 希望に燃える目と陶酔した甘い声。
 おれは心の中で苦笑した。
 もし、彼女が今鳥籠の中に一人捕えられ、出ることも叶わず泣いていたのなら、迷わずその身をこの腕に抱えていたかもしれない。けれど――。
「明星。君にはものを考える頭があるね? 言いたいことを言える口もある。人の意見を聞く耳もある。己で生きたい場所に行くことができる足もある。外に出たいのなら、この王宮の外の景色を見たいのなら、自力で出てごらん」
 明星、今の君におれの腕も足も必要はない。
「リーシャ砂漠を渡った西方には学都として有名なエクンバトルという国がある。君ほどの学力があるのなら、そこの大学に留学するのもよいかもしれない」
「大学に、留学?」
 思わぬ提案に、明星は首を傾げる。
「エクンバトルの大学は、地下から移住してきた学生たちも多く通っているから、学ぶべきことはまだたくさんあることを知ることができるはずだ」
 ぐっと息を呑んだ明星は、ついで勢い込んで飛びついてきた。
「ソルも一緒に来てくれます?」
 丸みを帯びてきた明星の身体を押しやりながら、おれはちょっと考え込んで答える。
「リーシャ砂漠を越えるのはそれなりに素人だけだと危険だろうし、大学に紹介するにしても知ってる人が仲介する必要はあるからな……」
「やった! 嬉しい! 大好きよ、ソル!」
 喜色を閃かせて、明星は遠慮なくおれの首に抱きついた。
 おれは再び頭上から二人がおれたちを見ていないことを確認し、軽く頭を一撫でする。
 異国の大学への留学話などを一人娘の女王候補に出して、後であの二人からはこっぴどく叱られるだろうが、それで明星の気が少しでも外に向くならその方がいい。なんだかんだで好奇心旺盛で勉強好きな彼女は、花琳似であり、孔冀章の血も色濃く継いでいる。そんな彼女が後宮に閉じ込められ鬱々と女王の御成りを待つだけの男たちに靡くわけがない。
 それに、それほどまでに女王制を疎んでいるのなら、地下との政治均衡もとれ、周辺国とも対等に渡り合えるようになった今が、彼女の手から市民の手へと執政のバトンが手渡される時なのかもしれない。
 そうだ、おれが一対一で明星に教えるよりも、留学した方がよほどいい。
 地上にとっても、地下から移住してきた人々にとっても。
 明星の結婚相手は、地下の象徴じゃない。民主主義の象徴、あるいは自由の象徴となる相手だ。
「明星」
「なぁに、ソル」
 甘ったるい声はすっかり恋人気取りだ。
 これだから思春期の女という奴は。
 おれは明星を自分から引き剥がすと、真面目な顔を作って、さっき出来上がったばかりの明星の回答をおれたちの間に広げた。
 途端に明星は嫌そうな顔をする。
「大筋で論考については合っていると認めよう。しかし、細かく見ていくと、ここの綴りがeとrが逆だ。それから――」
 おれはねちねちと細かく回答を突きだす。はじめは嫌そうな顔をしていた明星も、次第に熱心に朱書きで修正を入れていく。
 そう、元は勤勉で勉強が好きな真面目な子なのだ。
 一度外国に出すなら、早い方がいい。子供の頃の方がその国の文化や言語に慣れるのは早いだろうから。
 今夜、さっそくあの二人に相談してみよう。
 そして、おれはまた旅に出よう。
 リーシャ砂漠を越えてエクンバトルの大学に彼女を紹介したら、その足で――
「ソル、」
「ん?」
「お母様がね、ソルならいいってお許しくださったのよ?」
「何が?」
「私の……その、婚約者として……」
 真面目に回答を修正していたかと思えば、またその話か!
 しかも、花琳が許したって?
 冗談じゃない。
 何が悲しくて、花琳を義母と呼ばなければならないんだ!
「地下と地上の友好の懸け橋として――十四年前、そういうことで友好条約を締結したのでしょう?」
 そんな裏約束は有耶無耶にするのを前提で書き換えたんだ! とは、まだ真っ直ぐに学を修める途中の明星には言えず、やっとの思いでおれは言葉を呑みこむ。
「悪魔の火の取り扱いについても、廃炉の研究が進んでいるし、汚染物質の浄化方法についてもだいぶ効率が上がってきている。地上は地下からの移住者をたくさん受け入れているし、象徴などに頼らなくてももう十分に地下と地上の信頼関係は構築されているんじゃないかな」
「でも――」
「それに、地下と地上の懸け橋の象徴なんて、もう古いんじゃない? 明星にはもっと新しいものを目指していってほしいな」
「そう、かしら」
 迷ったように考え込む明星を横目に、おれは夜までと言わず、今すぐに彼らに留学の話を相談しようと立ち上がった。
「あら、どこへ行くの?」
「明星、次の課題だよ。今までの歴史と近隣諸国の情勢を鑑みて、これから三十年の間に起こりうる安国の主権について作文してごらん」
「三十年!? わたくし、四十三になってしまうわ!」
「その時、安国はどんな国になっているだろうね。いや、明星、君はどんな国にしたい?」
「わたくし、女王になる気はなくってよ」
「国は女王だけが築くものじゃない。国民がみんなで築くものだ」
 明星はぐっと言葉を呑みこむ。
「じゃあ、おれはちょっと三時のおやつを取りに行ってくるよ」
 不満げながらもレポート用紙に向かいはじめる明星を片目に収めて、おれは橄欖樹の花咲く中庭を後にした。
 それからお取込み中の二人が出てくるのを待って明星の留学の話を通し、さしたる別れの言葉も告げずに、おれは三時のおやつを探しに場外へとつながる門へと歩き出した。
「ソル!」
 道中、呼び止めたのは相変わらず勘のいい明星、ではなく、花琳だった。
「なに? おれ、これから明星に約束した三時のおやつ取りに行ってくるんだけど」
「そのおやつはどこのジャングルから調達してくるつもりかしら?」
「そう遠くないお店から調達してくるつもりだよ」
「いつの三時になるかわからないわね」
「土産話ならまた持ってくるよ。ついでに、明星の留学の話も通してくる」
「ほら、やっぱり遠くに行く気じゃない」
「リーシャ砂漠越えるくらいで何を大袈裟な」
 歩けばたった二、三か月程度の行軍だ。明星王女の留学ともなれば砂漠越え用のバギーが出されるだろうから、一週間くらいで着いてしまうだろう。あるいは、地下から輸入した最新式のヘリコプターでも使えば、一日で着いてしまう。
「ソル」
 改まった調子で名前を呼ばれると、こちらまで茶化していた気が失せてしまう。
「女王稼業、嫌になった? 世界の絶景、見に行きたくなった?」
 手を、差し伸べてみる。
 花琳は苦笑して首を振った。
 所在が無くなった腕を、おれはしょうがなくひらひら振りながら引っ込める。
「まさか、その手はあの子に差し伸べてあげて、なんて言わないよな?」
「……言えないわよ、そんなこと」
「それなら……」
「ねぇ、ソル。貴方、今自由?」
「……は……?」
「私はあの時、いつでも帰ってきてほしいと言った。いろんな土産話をしてほしいと、望んでしまった。もしそのことで貴方が……」
 花琳は唇を噛みしめていた。
 あの時の約束を後悔しているのだと、分かった。
「後悔なんか、してほしくないね。おれはそれなりに代価はもらったつもりだ」
「代、価?」
「貴女の、独身最後の笑顔」
 頭を包み込むように抱き寄せて、囁く。
「おれだけに向けられた、花琳の笑顔。――無理矢理、作らせた」
「そんなこと、ない。無理矢理なんて……」
「分かってる。口元は歪だったけど、目はあったかかった。大事だって思ってくれてるのが伝わって、嬉しかった。だから、あんたが負い目を抱えることなんて、これっぽっちもない。おれは好きに生きている。おれのやりたいことと、おれにできることを組み合わせながら、自由に生きている。たまたまそれのいくつかが、たまにここに帰ってくることだったり、明星と遊んだり勉強を教えてやることだったり、あんたの御機嫌を窺ったりすることだったりするだけだ。ま、いつかあんたが外に出たいって言いだすのを待ってるってのが一番だけど」
「ふふ、それは、ない」
「そうかな? たまにちょっと揺れるだろ?」
「ないわね。ないない」
「言い聞かせているだけじゃ?」
「二人目が、できたの」
「ほら、ね。だから言わんこっちゃ……えっ……ええぇっ?!」
 人の衝撃をよそに、花琳はくすくすと笑っている。
「多分、男の子だと思うのよね。これで、花琳も女王になりたくない病からちょっと解放されるんじゃないかしら? どうなるかなんてわからないけど」
「どうなるかって……」
「明星に問題を出していったでしょう? 三十年後の安国をどんな国にしたいかって」
「いつ聞いたんだよ」
 耳の早さに呆れながら、おれは頭の後ろを掻く。
「主権を国民に移しているかもしれない。女王国が存続しているかもしれない。思いがけず、クーデターで安国は打倒されているかもしれない」
「滅多なこと言うなよ」
「滅多なことではないわ。火種はまだ、あちこちに燻っている」
「その火種すらうまく使ってやろうって顔してるけどな」
「ええ、いずれは。だから、ソル。危なくなったら貴方だけでも……」
「危なくならないようにするために、おれがいるんだろ。今頃おれだけ逃げられるかよ。今はちょっと色惚けしちまってるけど、明星のことだって、おれだって可愛いと思ってるんだ。また、あんたみたいな目には遭わせたくない」
 花琳はじっとおれの目を見つめた。それは、女の目というよりかはすっかり母親の目をしていた。
「いざとなったら、明星はソルに託すわ」
「冗談だろ。あんな手のかかる色惚け娘」
「まあ、ひどい。うちの娘を骨抜きにしちゃってるくせに」
「わ、馬鹿、そんなわけないだろ。おれは何にもしてないぞ」
「頬にキスされたのに?」
 窓辺に姿は見えなかったくせに見てたのか、と歯ぎしりしたいのを必死に堪え、おれは無実を主張する。
「あれは明星から強引に隙をついてやられたのであって……」
「分かっているわよ。だからこその、大学留学、なのよね?」
「……そうだよ」
 ああだこうだ、理由を並べ立てなくても花琳ならわかっているだろう。それが最善の道であることも、分かっているだろう。
「それじゃあ、明星の留学はソルが話をつけて帰ってきてからになるわね。三か月後くらいからかしら。私も一緒にごあいさつに行っちゃおうかしら」
「おいおい、一国の女王様がずいぶんとフットワークの軽いことで」
「娘を託すんですもの。礼儀は尽くさないと」
 にっこりと彼女は笑う。
「って、いや、だめだろう。二人目妊娠してるなら、長旅もバギーの振動もヘリコプターも……」
「まぁ、そうね、空飛ぶ乗り物を使うという手があったわね。それで行きましょう!」
 ああ、下手な知恵をつけてしまった。
「だめだよ。とにかく今はあんたは大人しく養生しててくれ。明星のことはおれに任せて……」
 思わずおれの口から零れ出てしまった言葉に、にぃやりと花琳はして笑みを浮かべた。
「そう。なら、明星のこと、よろしく頼むわね」
 一方的に両手を握って数回親しげに上下に振ると、花琳は軽やかな足取りで城に戻っていってしまった。
「騙されてね? おれ……」
 不安と不満の一言がぽろりと口から零れ落ちる。
 回収するわけにもいかず、おれはその音を吐いた息で散らした。
 気を取り直して、おれは城外に一歩踏み出す。
 ひとまず、女王候補に相応しい三時のおやつを探し求めて。

〈了〉

(201708060106)