鳥籠の王女とネズミの太陽
11.取引

 もし、私があの時楊輝に殺されていたら、世界は変わっていただろうか。王政は倒れ、師匠が民衆を率いる新たな統率者となり、傍らには楊輝がつき従い、人々は新たな希望を見ることができたかもしれない。
 あの時。
 師匠が私を庇いさえしなければ。
 楊輝を殺しさえしなければ。
 世界は、少なくとも安国は今頃激動の渦中にいたはずだ。己の蒔いた種による革命の嵐の中に放り込まれていたはずだ。
 私はそれを望み、師匠も、楊輝も、そうあれと各々行動するはずだった。
 本当なら、今頃私はいないはずだった。
 足など必要のないただの躯となって、赤い砂地に干からびて埋まっていたはずだった。
 己の足で歩きたいなどとこれ以上望むことなく、まして、己の足を残すか、機械仕掛けの義足にするか、選択肢があることなど、本当なら、知る由もなかったはずなのだ。
 私は、間違っていた。
 過ちを犯していた。
 馬鹿だったのだ。この上ない、愚か者だったのだ。
 私が死んだところで、世界が一つ変わるわけがない。生きていても安国一つ変えられなかったこの私が、死んで何かを為せたわけがないのだ。血の縁を馬鹿にしていても、結局安国の王女としての死が何かを変えるきっかけになるなどと思っていたこの私が、今まで為してきたのは、ただの自己満足と自画自賛。己の無力さを見ないふりしてきた欺瞞だらけの成功を夢見ただけだったのだ。
 子供だった、と一言で括りきれるなら、罪も何も有耶無耶にしてしまうだけだ。
 曖昧にしてはいけない。逃げてはいけない。なかったことにしてはいけない。
 安国は、地上の世界は、私たちが狭い図書館で議論したよりももっと大きな革命の渦中に呑みこまれようとしている。
 世界は安国だけじゃなかった。地上だけじゃなかった。
 この足が踏みしめることができない地下にも、人々の命はひしめいていた。私たち地上の者の足首を掴もうと、必死に蠢いていた。
 手術の間中、夢を見ていた。
 あれはきっと、カラスの記憶。
 想像を絶するようなゴミ溜めの中でゴミ同然に蹴飛ばされ、何もわからないうちに身体を開かれ、足元に落ちているゴミ屑を口に入れて空腹を凌ぐ。それが、ネズミ――ソルに出会ってから変わった。夜明けを意味する名を与えられ、人間らしい食べ物を与えられ、大人に庇護され、友人と妹もできて束の間の幸福を知った。けれど、それも長くは続かず、やがて孤児なのをいいことに、諜報機関の養成学校に強制的に連れ去られた。カラスは優秀だった。主に誉められたのは女を使う場面でのことだったけれど、本人にとっては不本意でしかなかったのだろう。彼女は爆薬の作製や人体の再生医療方面に傾倒していった。そのままいけば公安組織に入職が決まる。卒業間近のある夜、ソルさえ迎えに来なければ、流されるままに闇の中に染まっていったであろうその夜、カラスは自らソルの手をとった。窖に戻るために。
 ――足が、痛い。
 口中に錆びた苦さが広がっていく。
 少しでも足の痛みが散るように奥歯を噛みしめていたせいだろう。
 麻酔で痛みは感じないようにしてくれていたはずなのに、終始両足には触れることのできないぼんやりとした違和感が付きまとっていた。その痛みが、今は夢のうす膜を取り払われて現実を引き寄せている。
 太陽には夜の闇を振り払う力がある。
 私もカラスも、闇の中にいた。手を差し伸べてくれたソルは、まさに太陽だった。
 だけど、太陽は動きつづける。片時だってじっとしてはいない。ずっと側にいてほしくても、ネズミは好奇心の赴くままめまぐるしく動きつづけ、新たな興味の元へと行ってしまう。
 カラスは地上が実在することを知っていた。知っているどころか、ソルとの窖での生活を守るため、結局は公安組織に組み込まれて地上に出入りしていた。でも、ソルの前では知らぬふりをして、地上に行きたいと夢を描くソルのことを応援し続けた。古の地上へとつながる昇降機がある遺跡地帯に居を構え、昇降機の修理に明け暮れ、地上まで登らせるための動力を得るため、さらに研究に没頭していった。
 それでも、ソルはカラスに振り向かなかった。
 結局、どんなに身体を重ねあわせても、それはソルにとっては男同士の友人との戯れの延長に過ぎず、カラスが求めるような恋や愛は返ってこなかった。きっとソルも無自覚だったのだろう。だから余計に距離を置くこともできず、流されるままに中途半端な関係を続けてきた。
 そんなある日、任務で派遣された地上で、カラスは楊輝に出会う。
 カラスの知っている楊輝は、私の知っている天真爛漫な弟弟子の姿とは異なるものだった。
「花琳」
 優しい声で名を呼ばれた。
 泣き出しそうな、縋るような声だった。
 泣きたいのは私の方だった。
 私は、自分の浅はかな考えで誰かの恋人を殺した。
 私は、自分が助かるために、私に恋人を殺された女性を犠牲にした。
 私は、生きていてよいのか。この足から伝わる激痛だけでは、私を罰することはできないだろう。カラスが残した、せめてもの仕返し。そう思って甘受することは、私をいくらか救ってくれる。きっと彼女にそんな気はなかったとしても。
 カラスは私に記憶を託した。
 カラスはきっともう、この世にはいない。そのつもりで、カラスは私に全てを託したのだ。この後、どこに向かえばいいかさえも、答えは全て記憶の中に託されていた。
 自分の代わりにソルを導いてくれ、と。
 恋人でなくても、夫婦でなくても、カラスにとってソルは大切な存在だったことに変わりはない。この世で最も大事な人。だからこそ守ってほしいと。それこそが、私に歩くことのできる足を与える代価。
「私の足は……どっち……?」
 全身を麻痺させる薬は、まだ身体の随所随所に残っていた。唇は開こうとすれば震え、声は掠れる。
 午後の陽だまりのような金色の髪と、美しい湖沼の色をした瞳とが、乾いた砂漠のようだった世界に彩りを与えていく。水を与えられるように、私は息を吸い込む。太陽に愛でられ、花開いた向日葵の香りがするようだった。
 そんな向日葵が華咲いたような美しい顔がくしゃりと歪む。
「義足ではないよ。君のそのままの足だ。固まった骨を開いて接ぎなおしている。相当、痛むだろう?」
 ああ、そうだ。
 自分がいなくなったらメンテナンスができないから、と言っていた。
 選択権などなかった。私は、自分の足で歩くしかなかった。
 全ては、カラスの手のひらの上。
 上手く地上に出られるまでは、彼女に踊らされるしかない。
「地上に向かっているの?」
「そうだよ。あと第一層さえ抜けられれば、地上だ」
「安国の王宮の地下に出るの?」
「ああ」
 私は体を起こす。ソルの手がそっと背中に添えられる。
 大きな手のひら。日向のような乾いた温もり。
 罪に慄くように触れてくるあの人の手とは全く別の、裏表のない優しさ。
 私は身体に掛けられていたシーツを剥がす。
 白い包帯で固定された両足の先は、確かに義足を取り付けたような歪さはなく、足の爪先まですっきりと伸びていた。麻酔で遮断されていた感覚が少しずつ蘇ってくる。親指の先に力を込めると、指の腹が硬い固定材に触れる感触がした。
 全てが痛みと共に在るとしても、この上ない喜びがこみ上げる。
 そしてその足元には、黒く厳ついいくつかの銃器が添えられていた。ソルの目は私の足よりもさっきからその黒い銃器の方に向けられていた。
「カラスから、プレゼント、だって」
 口径の大きな手持ち用の大砲を手に取り、ソルはくしゃっと顔を歪めた。
「プレゼント? こんな物騒なプレゼントがあるかよ」
「貴方のことを守りたいから」
「いつまでも守られてばかりじゃないか」
「お礼なんだよ。日の光を見せてくれたお礼」
「日の光? 見せてくれたのはカラスだろう? カラスがこのエレベーターを直してくれたから、おれは地上に出ることができて太陽を拝むことができた」
「太陽は地上にだけあるものじゃないのよ」
 ソルは分からないというように少し首を傾けた。
 自ら輝ける人は、己の光の眩しさを知らないのかもしれない。だからこそ、まっすぐに目標だけを見据えて脇目も振らず駆け抜けることができる。
「……まだカラスのこと、伝えてないと思ったんだけど」
 私は苦く笑って見せた。それだけでソルは、あらかじめカラスが残りの全てを私に託したことを悟ったようだった。
「おれはカラスから花琳の足の薬を預かってた。痛み止めと化膿止め。目が覚めたら飲ませてやってくれって」
 手渡された小さな筒状のものを、私は疑いもなく飲みこむ。その間に、ソルはカラスが残していった銃器類を身に着けていく。大筒は背中に背負い、肩からは手榴弾と予備の銃弾を連ねた帯を掛け、更に機関銃を掛ける。腰には拳銃、足には小刀。
 そして、一つだけ、拳銃が私の足元に残った。
「ソル、私にも一つ、身を守るためにちょうだい」
 え、と驚いた顔でソルは私を見る。
「もう身に着けるところなんてないでしょう? きっとこれは私の分」
 手に取ると、思った以上にそれは重かった。冷たくてごつごつしていて、人の身体とは決して相容れぬもの。これも義足の材料と同じものだったはずだ。
 義足にしていたら、私はこの冷たさと重さに慣れることができただろうか。
「使い方は分かる?」
 ソルの問いに首を振ると、ソルは慎重に使い方を説明してくれた。撃鉄を外してから引き金を引く。それだけで大きな衝撃が身体にかかるからよく踏ん張っていなければならないこと、人に当たれば殺傷能力がとても高いこと、暴発すると自分の身も危ないこと。
 基礎の基礎から教えてくれているのがとてもよく分かる。その表情はとても真剣で、認めたくはないが、これらを使うことが日常化していた者の顔をしていた。
 ソルはいったい、その明るい顔立ちのどこに闇を宿らせてこんな人を殺すための道具を使ってきたのだろう。
 一通り私が扱えるようになったところで、ソルは私を抱きしめた。
「そんなもの、使うなよ。何があっても使わなくてもいいようにおれが守ってやるから。だから、絶対引き金は引くな。一度引いたら戻れなくなる。傷つけるだけじゃ済まないんだ。その銃は身を守るものじゃない。人を殺す道具だ。当たればまず死ぬ。誰かのために、誰かを殺そうとした奴の命まで背負ってやる必要はない。分かったか?」
 ソルの悲しいまでに忙しない鼓動が聞こえてきて、私は目を逸らすようにして息を吐いた。
「私はとうにたくさんの人の想いを背負っている。この手が直接誰かを殺めていなくても、私という存在を守るためにたくさんの人が殺されていったことを知っている」
「知っているのと、実際に手をかけたことがあるのとは別物だよ。自分で作りだした罪悪感に酔うだけじゃ済まなくなる」
 ごくりと私は唾をのみこんだ。
 ソルにしては手厳しい言葉だった。
「ごめん、言いすぎた」
「ううん」
 その通りだった。私は目の前で師匠が楊輝を斬るのを見た。父母を始め王族に連なる親族たちが処刑されていくのを見た。
 見ただけだ。
 この手は、まだ一滴も血を搾り取ってはいない。
「恥じなくていい。命の重さなんてその手で量らなくていい。おれの側から離れないで。いいね?」
 こくりと私は頷いた。
 急速に上昇していく密室の中で、ソルはじっと私を見つめた。
 口づけをしたいのだろう。そう思い、瞼を閉じたその暗闇に、地下水路で見送る孔冀章のもの哀しげな笑顔が見えた。
 はっと目を開ける。
 ソルは苦笑した。
 彼は顔を近づけてさえいなかった。
「しないよ」
 途端に私の頬に血がのぼる。
「したいけど、しない」
 噛みしめるような言葉に、私は目を閉じ、顔を逸らした。
「ごめんなさい」
「いいよ。気にしないで。その代わり……少し抱きしめさせて」
 答える間もなく、ソルは私を抱きしめた。さっきよりも強く、肩に顔を埋めるようにしながら。私はその背に腕を伸ばし、頭を撫でた。孔冀章に背中から抱きしめられる時とは違う一体感。
 彼も、これを欲していたんだろうか。
 しかし、一つになれたような一瞬の幸福感を味わう間もなく、昇降機はガタンと音を立てて急停止した。天井から降り注ぐ光が明滅を始めた。
 一瞬にしてソルの身体が緊張に引き締まったのが分かった。
「カラスから言われたことがある」
「何?」
「君を抱えて逃げるな、と言われた。どんなに痛かろうが、歩くのが下手くそだろうが、自分の足で歩かせろ、と。リハビリに時間かけてる暇なんかないから、少しでも慣れてもらうしかない」
「分かった」
「でも、急を要する場合はおれが君の足になる。まだ、おれのこと必要としてくれる?」
「勿論」
 ソルは私のことを抱き上げ、壁際に身を寄せた。その瞬間、籠の扉が開き、殺気の塊が押し寄せてくる。ソルはさっきまで私が横たわっていた簡易な寝台を思い切り蹴り、加速度をつけられた寝台は雪崩れ込んできた黒い兵士たちの中に突っ込み薙ぎ倒していく。僅かにできた合間を縫ってソルは私を抱えて走り、薙ぎ倒した兵士たちの間で止まっていた簡易寝台に飛び乗る。寝台は速さを増しながら再び押し寄せる兵士たちの中に突っ込んでいき、兵士たちの構えた銃器が火を噴く前にソルは寝台を蹴って彼らの上を華麗に飛び越えた。
 まるで羽でも生えているかのように軽やかに、ソルは私を抱え兵士たちの肩や頭、果ては向けられた銃口の上を足掛かりに空中を舞うように越えていく。
「怖くない?」
「ううん」
「じゃあ、耳を塞いで」
 言われたとおり両手で耳を抑えると、背後から爆発音が轟いてきた。
 ソルの腕の隙間から振り返ると、簡易寝台を取り残してきた辺りで黒い煙と炎が湧き上がっていた。更に逃げ損ねた兵士たちの悲鳴と恐慌が追い打ちをかけるように膨れ上がっていく。
 見上げると、ソルは前だけを見据えていた。
 私は振り返るのをやめた。
 十分に距離がとれたところであの寝台を爆発させたのはソルだ。たくさんの兵士たちがまだ引きつけられているところを狙って、起爆させたのだろう。
 これは戦いだ。私達はその渦中にいる。生き残るために、誰かを殺すこともある。そうしなければ生き延びることができないから。
 私はそれ以上、ソルの感情を推し量ることをやめた。私たちに必要なのは同情じゃない。先に進むために必要な冷静な判断力と、惑わされない揺れない心。
 帯に挟んだ手のひらに収まるほどの銃に手を伸ばし、存在を確かめる。
 使うなとは言われたけれど、必要なら私も引き金を引かなければならない。そのつもりで預かったのだ。恐れてはいけない。手元が狂えば余計な被害が増えるだけだ。
 銀色の金属の壁に覆われた狭い廊下を抜けると、見上げた天井の果ても分からないような空間に架けられた橋の上に飛び出した。下を見下ろすと、これもまた深い闇の淵と化していて、底が見えない。
 思わず私はソルの服の端を握った。それでも指は震え続ける。
「目、瞑って」
 前を見据えたまま、ソルは綱渡りのように橋を渡ってくる人々の頭上を飛び越えていく。
 見なくていいのだろうか。私はただ、守られているだけでいいのだろうか。
 私は全てをこの目に焼きつけておかなくてはならないのではないだろうか。
「余計なこと考えないで」
 鋭く言われて、私は言われたとおり目を閉じた時だった。
 ソルの足元が大きく揺れるのが分かった。
 私は閉じた目を開き、今私たちが渡っている橋が大きく揺れているのを見た。
 私たちの進行を阻もうと押し寄せてきた兵士たちも、ブランコのように横に大きくうねりはじめた橋の欄干に慌ててしがみつきはじめる。
「地震だ」
 緊迫した声でソルは呟き、更に逃げる足を速める。着地する時には次の着地点を見定めて爪先で飛んでいく。しかし、あと少しで橋を渡りきれるというところで、橋を吊るしていた縄が目の前で切れた。
 ソルは片手で私を抱いたまま、ちぎれて頭上から垂れ下がった縄めがけて飛びあがり、先を掴んだ。
 吊り上げていた縄が切れた橋は、端から波打ちながら落ちていき、対岸の壁に打ち付けられる。ばらばらと人が落ちていくのが見えたが、今は自分たちの行く先を見る方が先だった。
「花琳、しっかり掴まってろよ」
 ちっとも絶望していないソルに言われたとおり、私はソルの胴に腕を回し、きつく抱きしめる。
 ソルは足で振り子のように勢いをつけ、ぱっと縄から手を離し、対岸へと飛び移る。
 さすがに綺麗に着地とはいかず、私を抱えたまま一回転すると、飛びかかろうとした兵士たちを機関銃で一掃した。
 怯む間もなくソルは駆けだす。
「地上に出るためのエレベーターがもう一つあるはずなんだ。あいつらがここに押し寄せてきたってことは、ここが最上層に繋がっている可能性は高い。それなら、絶対にこの先に地上への出口がもう一つある」
 息も乱さず、ソルは冷静だ。頭の中で必死に状況を分析して正しい逃げ道を模索している。地上で王宮の追っ手から逃げている時もそうだった。だけど、ここは地上よりもより苛酷だ。飛び道具の威力もさることながら、限られた屋内を逃げ回らなければならない。
 夢の中で刻み込まれた無機質な銀色の廊下と目の前の廊下が二重に重なる。
 そう特徴があるような景色ではないのに、私はここを知っている。いや、カラスがここをよく通っていたのだ。第一層を介して地上と窖とを行き来するために。
「ソル、この先に議場がある。地上へのもう一つの出口もそこにある」
 ソルは走りながらも、驚いたように私を覗き込んだ。
 地上で、私の血はどれくらいの価値を持っているだろう。
 もし、孔冀章が殺されていたら――あの人が触れた背中がぞっと粟立った――、そう、もし仮にもうこの世にはいなくなっていたら、私の価値など置き人形ほどの価値もないだろう。私には何の力もない。この身体も何の意味もない。
 ただ戻っただけでは、私は何もできない。
 じゃあ、私は何をしたいの? 地上に戻って何をしたい? 何ができる?
 師匠を助けたい? それだけではだめだ。それは個人的な花琳の感情。安国にとってそこに何の意味が見出せる? 安国を治めるための優秀な人材の確保? 私を斬れなかった時点で優秀でもなんでもなくなってしまったけれど、でもあの人は玉座を一度は手にした人なのだから、未だ担ぎ上げる価値はある。
 何のためにあの人を王位に残しておかなければならない? 安国の平安のため? 嘘だ。それは嘘。安国の平安を乱し、人々の覚醒を促そうとしたのは私。逼塞した時代を打破しようとけしかけてきたのは私。あの時の私を私は愚かだったと思えるけれど、今は間違ってもいなかったと思える。安国は今、市民革命に瓦解している場合ではない。足元から忍び寄る危険に結束力を持って対峙しなければならない。地上に出てこようとする地下の人々がいるということ、今はそれを知らせなければならない。そして、彼らを受け入れるのか、追い返すのか――追い返すことができる? 地下に生きる人々も私たちと同じ人間だ。その人たちが土の中に埋もれていくのを見て見ぬふりをしていられる?
 私はソルの腕を掴んだ。
 否。
 それは、だめ。
 それはもう、私にはできない。
 それなら、受け入れるために私は尽力するしかない。
 ただ受け入れるだけじゃだめだ。地上の、安国の権益を守りつつ、緩やかに地下の人々を受け入れる。文化の違いも考え方の違いも性格の違いも、少しずつ融和させていくしかない。技術力の劣る安国が圧倒的に不利なのは分かっている。だからこそ、一方的に制圧されないように、何か交渉材料を掴んでおかなければならない。
「ソル。カラスはこの建物の内部をよく知っている。私の目を信じて」
 ソルは何度か瞬きすると、くしゃりと笑った。
「分かった」
 右、左、右、右……カラスのくれた記憶をなぞりながら私はソルに指示を出す。ソルは障害など何一つなかったように軽やかに進んでいく。
 しかし、目の前に議場の扉が見えてきたところで、ソルの足が止まった。更にじり、と半歩後ずさる。
 議場の扉の前に立ち、私たちを威圧していたのは、大きな戦車でもたくさんの兵でもなかった。
「こんにちは、ネズミ。御無沙汰ね」
 目に突き刺さるような鮮烈な赤い服を着た女性と、見覚えのあるいかにも軟派そうな男とが目の前に立っていた。軟派そうな男は、地上で一度出会ったネコだ。もう一人の女性は……
「コウモリ……」
 カラスの記憶のせいか、名を呼んだ瞬間に顔が嫌悪に歪むのが分かった。ソルに至っては、呼びかけるのすら嫌そうに顔を歪めている。
「ずいぶんと嫌われたものね。私、そんなに何か悪いことしたかしら」
 たっぷりと赤い紅を載せた唇がいやらしく笑みを浮かべる。
「王女様におかれましては、はじめましてよね? ずいぶん昔から知ってるかのように嫌そうな顔をしてくれてるけど」
 それはカラスの記憶のせいだ、とはわざわざ教えてあげる義理もない。
 彼女はカラスの上司だった。ソルに危害を加えない代わりに、地上で楊輝を育てるよう命じた人だ。
「王女様、ごきげんよう。おや、その足を見ると無事にカラスに治してもらえたようですね。何よりです」
 ネコはしたり顔で微笑む。
「ネズミ、ここまで王女様を運んでくれてご苦労様。あとは私たちが連れて行くから大人しくしててくれてよくってよ?」
「よくってよ? 冗談じゃない。誰が花琳を渡すか。そこを通してもらうぞ!」
 勢いよく啖呵を切ると、ソルは二人に拳銃の銃口を向けた。だけど、引き金を引く前に、コウモリが素早く拳銃の引き金を引いていた。
 銃声が轟き、私を抱きかかえていたソルの腕を掠める。思わずソルの腕が緩み、私は前方に転がり落ちた。身を起こす間もなく、ネコが私の身体を確保する。
「離して!」
 背後から肩を羽交い絞めにされて引き立たせられる。肩を揺らし、足をばたつかせても、ネコの腕が緩む気配はない。肝心の足の感覚は、麻酔と痛み止めのお蔭で自分のものではないように少し遠くに感じていたが、ここで使わない手、もとい足はない。
「えいっ」
 右足を指先まで思う存分伸ばし、膝から下に勢いよく全体重をかけて、私はネコの足を踏みつけた。
 ネコは痛がるでもなく、不思議そうな顔で私を覗き込んだ。その間、不意を突かれたのは確からしく、少しだけ腕が緩む。
 私は身を捩らせてネコの腕から転がり出た。また前につんのめるようにして、踏みしめ方を知らない足はたたらを踏んだが、ふわりとソルが私の身体を抱きとめた。でも、今度は抱き上げたりはしなかった。あくまで私自身で立てるように引き上げてくれる。
 足の下に硬い床を感じる。その床を足の指先で掴むように踏みしめる。ぐらつく肩をソルが支える。
「ソル、腕は?」
「掠っただけ。これくらい大したことないって」
 とはいえ、黒い服の袖が濡れはじめている。私は着物の裾を引きちぎり、手早く腕の付け根をきつく縛る。
「ありがと。――さて」
 ソルはいつでも私を抱いて逃げられるように私の腰を抱き寄せる。
「そこ、通してもらおうか」
「通したらどうするつもり? 中に侵入して、それから?」
「地上に帰る!」
 ソルは議場の扉の電子錠を何発かの銃弾で破壊し、コウモリの横を私を抱えてすり抜けた。背後で鋼鉄の床に威嚇の銃弾が跳ね返る。
「地上に帰る? 面白いことを言うわね。帰りたいのは、私たち地下に暮らす人々の総意よ」
 嘲笑うコウモリに構わず、ソルは扉に手をかけ無理矢理こじ開けた。
 壊された扉が抗議の声を上げながらその先の光景を現していく。
 私達は思わず息を呑む。
 幾百の目が扉の向こうに現れた私たちを見ていた。その多くは好奇心と、諦めと、無関心――擂鉢状に段を為す議場の席に着いた人々だった。
 彼らの正面には演台があり、その上には、大きな画面が掲げられており、呆気にとられるわたしたちの顔を映し出していた。
「さぁ、中に入りなさいよ」
 背後からコウモリがけしかける。
「その向こうに地上への出口があるんでしょう?」
 ソルが背中にかけた機関銃に手を伸ばす。
 その手を、ネコが素早く抑えた。
「いくらバリアが張ってあるからといって、それはだめだ。それの音は美しくない」
「ネコ。花琳をどうするつもりだ?」
「自分の心配はしないのか?」
「ネコ」
 ソルの硬い声。
 冷や汗が背中を伝い落ちていくのが分かる。
 幾百の兵を蹴散らして来たのに、ここの武装していない人々の方が恐ろしく感じるのはなぜだろう。
 目裏にカラスの顔を思い浮かべる。
 まさか、私は最後の最後でカラスの記憶に踊らされたんだろうか。議場に入り込めれば地上に行けるという一点だけでここまでに来て、ソルまで巻き込んでしまった。
 突き刺さる視線に、ごくりと唾をのみこんで後退る。
 そう、ついさっきまで自分の足だけでは立って歩くことのできなかった私の足が、ひとりでに後退ったのだ。
 腰を抱くソルは驚いたように私を見下ろす。
 私は、ちょっと笑っていた。
 私の身体は、自分の思いのまま。思いのまま、行きたいところに行ける。怖いと思えば、「下がって」と言わなくても、自ら逃げることができる。
 それなら、進むこともできるはずだ。
 目を閉じ、意を決して、私は一歩踏み出す。
 ソルの手が私の腰から離れていく。
 よろよろと、危ういながらも私は歩く。足の痛みは、何ほどのものでもない。
 静まり返った議場、私の歩みを遮るものはない。ネコとコウモリさえも追いかけては来なかった。
 遅れてソルが私を支えようと手を差し伸べてくれたが、私はその手を断った。
 遠大のある中央までの階段を息を切らしながら上がり、私はこの地下を統べる人々のさらに頂点に立つ男の前に立つ。
 それは、王でも皇帝でもない。大統領という名の、民主主義に基づき選出された、人々の未来の舵取りをする人。
 私が地上に建てようとしたもの。
 白髪交じりの髪の短い男だった。顔の彫は深く、目元に深い皺がいくつも刻まれている。その目元は、安家最後の興隆を為した祖父の目元によく似ていた。数多の人々と離しをし、腹の中のものとは別の笑みを振りまいてきた男の顔。
 所詮、統率者とはそうなるものなのだろうか。王権主義も帝国主義も、民主主義も社会主義も、上に立つ者の顔は同じく食えないものになるのだろうか。
 私を見る男の目はそれなりに世相に汚され濁っていた。祖父と同じく老獪な光を宿した目だ。
 どちらが先に挨拶をするか。
 視線を交わし合いながら、私達は探り合う。
 そこで、先にふっと笑ったのは地下の大統領の方だった。
「ようこそ、地下(・・)へ」
 目の前に差し出された手に、私は少し戸惑う。
 おずおずと自分の右手を差し出すと、地下の大統領は引き寄せるようにさっと握った。
 手に力は籠められることはなく、軽く握られていることで挨拶なのだと分かる。
「これがこちら流の友好の挨拶でね」
 友好――ここまで来るまでの間の犠牲のことを思うと、とても友好的とは思えなかったのだけど。
 思わずソルを振り返りそうになって、私は毅然と顔を上げた。
「そうでしたか。教えていただき、ありがとうございます」
 私がにっこり笑うと、手はさらりと離された。
 地下の大統領は正面に向き直る。
「さあ、今までの映画のようなシーンをどう思う? 彼らは我が世界の精鋭たちの屍を越えてここにいる。英雄たるに十分な資質を備えているとは思わないか?」
 何を言い出すのかと思いきや、この大統領は少しいかれているのではないだろうか。あれだけの死者を出されておいて、まさか小手調べだったとでも言うつもりだろうか。
 しかしそれを嗜める野次はなく、場内からは拍手が沸き起こる。
 それを制して、地下の大統領は続ける。
「では、これから正式に地上の安国との友好条約を結ぼうと思うのだが、いかがかね?」
 これにもまた、大きな拍手が湧き上がる。
 友好条約?
 拍手の大音量に頭がどうにかなりそうになりながらも、私は必死に状況を把握しようと努めるが、全く意味が分からない。
「ここにいらっしゃるのは地上の安国女王、安蘭樹殿。我らは彼女にこちらの技術を用いて足をプレゼントした。さて女王、貴女からは何を私たちにもたらしてくれる?」
 安国の女王、ですって?
 足を、プレゼントした、ですって?
 一体、彼らは何を……
 思わず私はソルを見る。
 ソルは苦虫を噛み潰した顔をしながら顔を背けた。まんまと担がれた、そう言いたそうだった。
 ネコとコウモリはにやにやと顔を見合わせる。
 嵌められた?
 ソルも私も、嵌められたの?
 カラスは?
 カラスは知っていてわたしの足を?
 ――どんなにカラスの記憶を探っても、そんなやり取りの記録は出てこない。気がつけば、なぞりきれないぽっかりと穴の開いた領域が点在している。
「私は女王ではない、そんなことは言わないでくれたまえよ? 今、地上がどうなっているか知っているかね? 偽王・孔冀章は民衆どもに捕えられ、街の広場に作られた処刑場に吊し上げられているところだよ」
 何も言えないでいる私を横目に地下の大統領が手元の箱を軽く手に握ると、頭上と正面の大画面に赤い砂埃が舞い上がる景色が映し出された。そしてどこからか、暴動の時に人々が上げる荒々しい声が大音量で流れはじめた。人々は手に手に石を握り、画面の奥に掲げられた人物に投げつけているようだった。画面はその中央の人物を拡大していく。
「っ!」
 高く掲げられた十字架に架けられていたのは孔冀章だった。いくつか人々の投げた石が当たったのだろう。顔は赤く腫れあがり、目の際は切れて出血していた。
「分かっただろう? これで君は安家最後の女王となっていることを。彼はそもそも正式に即位すらしていなかったがね」
『ならば私が最後の暗君となりましょう。貴女を手に入れるために無駄に血を流した、安家最後の暗君に』
「……阿呆が」
 私は吐き捨てた。
 何が安家最後の暗君だ。
 石を投げつけられ、ぼろぼろの情けない顔を晒して、何が王だ。
 映し出された画像が偽物だとは思わなかった。とうの昔に孔冀章が死んでいるかもしれない、とも思わなかった。あれは、今現在地上で起きていることだ。直感がそう告げていた。
「友好条約の……」
 望みは?
 そう聞きかけた時、議場に突如として叩き落されるかのような大きな揺れが襲い掛かった。その一撃で私は平衡感覚を失い倒れかけ、演台に掴まったが、次の横揺れに足はもう立っていることができず、演台から手が滑って崩れ落ちた。
 足元から全身に恐怖が冷たく打ち寄せてくる。
「大丈夫?」
 駆けつけたソルが私を助け起こす。
 隣では両手で頭を覆った大統領が「くそっ」と毒づいていた。
「ねぇ」
 私は演台の下にしゃがみ込みながら、隣で蹲る大統領に声をかけた。
「切羽詰まっているのは、そちらも同じでは?」
「そんなことはない。私達はいつでも地上を侵略することができる」
「じゃあすればよかったじゃない。その方が手っ取り早いし、無駄な損害を出さずに済んだ」
 大統領は沈黙する。
 長い揺れはまだ収まらない。強弱をつけながら横に揺れたり盾に揺れたりを繰り返している。足元のはるか下からは、ズズーンという何かが崩れる重々しい音が響いてきていた。
「我々が技術力を持って地上を侵略することはたやすい。一瞬にして地上の人々を根絶やしにすることもできる」
「でしょうね。カラスほどの爆薬の取り扱いに長けた人がいるのなら」
 ははっ、と大統領は嗤った。
「あれは子供だましだ。あんなものでは地上の人間は一掃できない」
「カラスの作る爆薬よりもすごいものがある?」
「それも彼女が作って管理していたものだがね。しかし、彼女はそれを廃炉していってしまった。ささやかな反抗というわけだ」
 黒い眼鏡越しに、薄暗い部屋で重なり合う青い光の輪を見つめる光景が甦る。
「蘇らせることはたやすい。しかし、管理することは難しい。使うとなれば尚更だ。今、あれを我々の一存で使えば、地上は再び我々が地下に逃げ込んだ時と同じ状態に戻ってしまう。せっかく我らの祖先の内心ある者たちが時間をかけて取り戻してきた世界を、われわれは一瞬で失うわけにはいかない」
「なぜカラスを守らなかったの?」
「……あれが守られる女だと思うか?」
 苦く、大統領は笑った。
「あいつはあいつなりに、地上を守ったんだよ。命を賭けて、ね」
 寂しそうな大統領の表情には、微かな愛情が見え隠れしていた。それが何に基づくものか、私はカラスの記憶を探らなかった。
「私はこう見えても穏健派でね。地上とは融和していきたいという派なんだよ。目の前のじいさんたちの中には、とっとと進軍して奪い取れという人たちも多いがね。私の言葉が信じられないか?」
「自分の言葉を信じろという人間は、得てして嘘をついている。祖父の言葉よ。貴方と同じ目をした、ね」
「それじゃあ、信じられないだろうな」
 ふと、大統領は懐かしむように目を眇めた。
「貴方は祖父と会ったことがあるの?」
「正確には、前王に君の父上と引き会わせられた、というところだがね。――嘘だと思うか?」
 私は大統領の濁った眼を見つめた。
 年を取った男の目は、どうしたって濁りが出てくる。老獪な光が宿るようになる。
「私には、足の外にもカラスからもらったものがある」
「へぇ、それは?」
「カラスの記憶」
 一瞬、大統領は驚いた顔をした。それからしばし沈黙した後、「あっはっは」と笑いだした。
「それが君の切り札か」
「そう。私は、貴方たちの世界すら滅ぼしかねない悪魔の炎の、管理方法も使い方も、知っている。もちろん、隠されている場所も」
 大統領は、じっと私の目を覗き込み、すっと笑みを引っ込めた。
 その頃には揺れもだいぶ収まってきていた。
「立てるかね?」
「ええ、ありがとう」
 私は大統領から差し出された手をとり、演台の前に立ち上がった。
 ソル、ごめんね。
 後ろに控えるように下がったソルを振り向くことはできない。
 私は、今自分の足で立っていなければいけない。
「友好条約の条件を言うわ。貴方たちの世界の軍隊の全権を、このソルに預けなさい」
 揺れが収まった議場にどよめきが響き渡る。
 大統領は横で苦笑しながら小さく両手を胸の前に挙げていた。
「貴方たちに地上で好き勝手はさせない。だけど、先祖たちが貴方たちを迎え入れる日を待ち望み、手入れしてきた世界なのだから、みすみすあなた達が地下に埋もれていくのを見ているわけにもいかない」
 私が演台の前で啖呵を切ると、ソルは慌てたように「ちょっと」と肩を掴んできた。その手を私は振りほどく。
「移住の詳細についてはまたあとで詰めましょう。さあ、あなた達が使っている地上への扉を開いてちょうだい」
 「なんだその言いぐさは!」やら、「そんな小娘に!」やら、言いたい放題の野次が飛んでくる。それはそうだろう、こっちだって言いたい放題に言ってやったのだから。
 その野次を制したのが、次の大統領の一言だった。
「我々の諸刃の切り札は、すでに彼女に握られていたよ」
 議場が静まり返り、しばし後、驚きの囁きが交わされはじめる。
「彼女を新しいあれの管理者にしようと思う。我らはそれでようやく、あれの暴発に怯えずに過ごすことができるのではないかな?」
 今度こそ議場は静まり返り、やがて、しぶしぶ誰かが手を叩きだし、その音が大きくなっていった。

(201706241903)