空は君のために鐘を鳴らす

雲の階




 この階段を昇れば新世界がある。
 遥か過去に袂を分かった私たちの片割れがいる。
 過去、悪魔と呼んで追放した彼らを、私たちは今、天使として迎えようとしている。
 嗤うなら嗤ってくれ。
 私たちの希望は、彼らが犯し続けた罪の中にこそある。
 捨て去ったものを求めなければならないほど、僕らは追い詰められているんだ。
 分かってくれるだろうか、彼らは。
 今まで頭上にあって何もしてこなかった彼ら。
 積もる恨みもあっただろうに、なぜ静観を続けたのか。
 音信など一度もとられた形跡はない。
 ただ、私たちはもう伝説に縋るしかなかった。
 皆既日食の日、全て影になる一瞬、一筋遺された光が指し示す場所に、雲の階が現れると。
 扉は、開かれた。
 僕は、この階段を上るしかない。
 手土産など何もない。
 ただ、下げる頭だけがあればいい。





 母は第一皇妃だった。
 血筋は皇族。夫である先帝とは又従兄妹の関係に当たる。
 美しさも問題はない。宮中でも美人と評判の女官なんかより、若さこそ劣るがよほど気品があって、凛々しくて、教養も所作も申し分ない女性だった。
 ただ、運が悪かったのだ。
 結婚して三年、なかなか子が授からず、それを見た当時の左大臣が絶世の美女と名高い商家の娘を養女にして第二皇妃に嫁がせたところ、三ヶ月で懐妊して産んだのが今上帝。
 私の七つ上の腹違いの兄にあたる。
 先帝は、十年越しで生まれた第一皇妃の子である私など見向きもしなかった。血筋正しき私が生まれても、東宮は腹違いの兄が立てられたまま。その後、母は第一皇妃という立場にかけられた情けで双子の妹を産んだが、産後の肥立ちも悪く以来十年、床に臥せったままとなってしまった。
 殺しても死なないと思っていた先帝も、一月前あっけなく崩御し、第二皇妃の息子が玉座に座った。
 腹違いの兄の名は大和。幼名を羅睺らごうという。
 帝となるものは皆、幼名を捨て、この国の名前を己の名とする。
 そして、私の名は統星すばる
 第一皇妃の子でありながら、実父によって、生まれながらに地球に隷属し、その昔罪人が流されたという星の名を与えられた。
「面を上げろ、統星」
 薄い帳の向こうから聞こえた腹違いの兄の酒に嗄れた声に、私はいかにも恭順を装っておずおずと顔を上げてみせた。
 玉座の一段下に設えられた椅子には、先帝の死の直前に生まれた赤ん坊を抱えた義姉が座していた。私の左右と遥か後方には、広間の壁伝いに腹違いの兄の臣下たちが居並んでいる。
「統星、お前はまだ火心なかごに会っていなかったと思ってな」
 御簾越しに見える義姉の腕に抱かれた赤ん坊は赤くふっくらとした頬をしており、あやす細い義姉の指に絡みつく小さな手もまだ何の穢れもついてはいない。
 あの子供が東宮。
 商家の血を汲む帝と、皇族と縁戚をついぞ結ばなかった左大臣の娘から生まれた子供。限りなく皇族の血が薄い次期帝。
 思わず睨みつけそうになって瞼を伏せ、歯軋りしそうになってきつく奥歯を噛みあわせる。
 親らしいことなど何一つしてくれなかった人だったが、いるといないとでは大違いだった。腹違いの兄が帝位に就いた今、ちょっとした仕草、表情、言動が自分の命を危うくする。いや、自分だけでなく、床に臥せったままの母の命も、幼い双子の妹の命さえも脅かされてしまう。
 今、私が腹違いの兄への忠誠を欠くような態度を見せてはならない。
 今だけじゃない。これからもずっと、この重圧に耐えていかなければならない。
「統星、何とか申したらどうだ。未来の帝の尊顔を直に拝しているのであるぞ? 眩しすぎて寿ぐ言葉も出てこぬか?」
 先代帝の子供は合わせて五人。第一皇妃に娘が三人、第二皇妃に息子が二人。
 誰も知らない。
 その玉座に座るに相応しいのはあいつじゃない。
「帝に似て聡明なお顔立ちをなさっておられること、まこと、大和皇国の未来も末永く安泰でございましょう。この度の皇子様のご誕生、心よりお祝い申し上げます」
 蚊の鳴くような細く小さな声で答えた私に、帝は広間中に響く声で笑った。それはもう、満足そうに。視界の端では国母となった第二皇妃と、先の左大臣の後を継いで左大臣となったその弟がほくそ笑んでいる。
「お前がそう申すなら、この国も安らかに時を重ねることになるだろう」
 私が東宮を寿いだからこの国の安らぎが保たれる?
 確かに、第一皇妃長子の私がこうして公衆の面前で跪いていれば安心できよう。だが、お前の抱えている国の問題はすでに私だけではないだろう? 先帝が崩御する前からこの国の民は渇水に喘いでいる。四方を海に囲まれていながらこの一年余り一滴の雨も降らず、北から南まで、あれほど豊かに野を潤していた川がすっかり干からびてしまった。湧き出る水を求めて人々はこの都に集まり、城門前には毎日骨と皮だけになった死体ばかりが積み重なっていく。乾いた山の斜面は根を張れなくなった樹齢数十年の針葉樹が森ごと滑り落ちて毎日幾つもの村を飲み込んでいる。それだけじゃない。もう百年も昔に終結したというのに、この国の大地には山野人里構わず数多の地雷が未だ息づいている。何も知らずに歩いた民の手足を無残に捥いでいる。
 この有様のどこが安泰だ?
 すでに民の心に安らぎなどないだろう?
 見えていないのか。それとも、先帝同様見ぬ振りを貫くつもりなのか。
 血は卑しくとも、あの腹違いの兄は愚鈍ではない。少なくとも、あの玉座に座るまではそうだった。でなければ、私がこうして大人しく跪いてなどいられただろうか。一挙手一投足まで気を引き締めて望まねばならないのは、あの酒精に濁っても底光りする目が怖いからだ。
「時に、統星」
 締りの悪い口が猫なで声で私の名を呼んだ。
「そなた、確か計都と同じ十六であったな」
 びくりと、思わずそびやかしてしまった肩に気づかれただろうか。
「思えば父は最期はそなたの行く末を案じておった」
 そんな話、誰が信じるか。朝、女官が着替えを手伝いに行ったら、布団の中で血を吐いて死んでたって言うじゃないか。遺品からも遺言は出てきていない。侍医は誰一人先帝の病を見抜けず、皆二度と人の身体など見られなくされてしまった。
 もし、それを聞けた奴がいたというのなら、それは先帝を殺した本人だけ。
「美しさも申し分なく、佇まいも淑やか。節度ある言葉選びと控えめな態度。大人しすぎる嫌いはあるが、そなたの母君がそうであったように、そなたは今や宮中一、いや、国一の美女と呼ぶに相応しい」
「お戯れを。この国で最も美しい方は今、私の目の前におられる方々。私など足元にも及びません」
 ふん、と帝は鼻で笑った。
「若さではそなたに負ける」
 俯いて言葉を謹んでいると、帝はあろうことか御簾を捲し上げ、豪快な足取りで私の前まで歩んでくると、強引に私の顎をつまみあげた。
「な、何を……」
「統星。そなたのことは昔から計都が欲しいと申しておったが、どうだ。同じ腹から生まれた男なら、玉座も何もついてこない放蕩者よりも、余の方が嫁ぎがいがあると思わぬか」
 私は、思わずまじまじと腹違いの兄を見つめてしまった。
 この国では同腹でなければたとえ父か母、どちらかが同じでも婚姻を結ぶことができる。先から名の出ている計都は第二皇妃の第二皇子。今目の前にいる男の父母共に同じ弟に当たる。
 確かに計都は幼い頃から、数えるほどしか遊んだことのない私を妻にするとあちこちで公言して歩いていた。だが、いかに気ままな性格をしている計都といえど、成長すれば私の立場の微妙さが知れてきたのだろう。最近はそんなことも公言しなくなり、宮中でも森に囲まれた邸宅を与えられてからは歌舞音曲に優れた者たちを集めては毎晩のように宴を催しているとか。そもそも、あいつには居を移してから久しく会っていない。幼い頃の話などとうに忘れ果てていることだろう。
 それはそうと、この男、本気で私を自分の妻に迎えようというつもりか?
 それも、こんな大勢の前、私を目の敵にしている先帝の第二皇妃・華嵐と、東宮を産んだばかりの正妃の前で?
 この男が私に何か仕掛けてくるとしたら、暗殺のような命を脅かす類のことだけだろうと思っていた。まさか、生かす方向に話が進むとは考えていなかった。
 いや、まさかただ生かすつもりなわけがない。正当な皇族の血を継ぐ私を妻に娶ることで箔をつけることも出来る。妻にすれば一日中宮中の奥に閉じ込めて、これ以上母の血が未来に流れることを防ぐことも出来る。下の妹をも妻にしようとの腹積もりならば。
「畏れながら、それは……」
 声が震えたのは演技ではない。
 今さっき考えたことは、全て私が女性ならば、という前提が崩れなければの話だ。
「計都との約束か?」
 揺れる乙女心とやらを踏みにじることに快感でも覚えているのだろうか。耳元で吐き出される息は酒焼けしていて、思わず私は顔をそらす。
「それとも、未だその名の通りの人生を所望するか?」
 囁かれた声は低く、嘲笑に満ちていた。
 きっと、私以外の誰にも聞こえてはいるまい。
「父は案じておったぞ。この国のこと。第一皇妃のこと。双子の娘のこと。だが、やはり最期まで案じていたのは統星、お前のことだった」
 何を言っているのだ、この男は。
 先帝がそんなことを言うわけがないだろう。私たち親子のことなどこれっぽっちも構いはしなかったのだ。案じるどころか忘れていたに違いない。
「女ながらに星を統べるとは面白い。統星、今宵、そなたの部屋の窓を開けておけ。そなたがまこと女性であるか、確かめてやる」
「それは……そのようなことは……」
 すばるは昔、倫理観を失った神に背きし者たちが流された場所。牢獄の星の名。
 誰も名の意味など教えてくれなかった。だから、埃を被った本をめくって、ようやく見つけた言葉の意味に愕然とした。
 一生、私はこの男の存在に脅かされて生きるのだと絶望した。
「それとも、今ここで確かめてやろうか。夜まで待てぬというのなら」
 にやりと笑った帝は、片手で顎をつまんだまま、もう片方の手で抜き放った小刀を私の喉元に突きつけた。
 鋭い殺気が首元を覆い隠す襟を切り裂く。
 慌てて私は飛びすさり、切り裂かれた襟を引き掴んで首元を隠した。
 くつくつと帝は笑い出す。
 そして、僅かに血に濡れた小刀で宙を切り、楽しげに壁際の近衛たちに命じた。
「捕らえろ」
 小脇に立てていた長槍を構えて二十名の近衛兵たちが私めがけて殺到する。
 私は帝に一瞥をくれてやることも出来ず、ただ後ろの出口めがけて駆け出した。左右から取り囲むように追いかけてくる近衛兵たち、そして前に立ちはだかる二人の門番。
 こういうとき、女物の着物のなんと走りにくいことだろう。
 結い上げて簪まで挿した長髪のなんと重いことだろう。
 懐から出した小刀を握りしめ、前へ前へと突き出されてくる槍の長柄を飛び越え飛び越え、重く閉ざされた扉の門番二人を突き飛ばしてそのまま閂のかかった扉に体当たりする。
 ぐらりと傾いだ身体は勢い余って回廊を飛び越え、階段を転がり落ちて撫でつけられた白州の上に転がりでた。
「あれぇ、統星ちゃんじゃん。久しぶりぃ。うっわぁ、綺麗になったねぇ。やっぱ、そろそろ結婚しようか」
 夕暮れはまだ先のはずなのに、見上げた薄暗い茜色の空、僅かな日の光を遮って覗きこんだ少年が手を差しのべた。
「計都」
 揃いも揃って、どうしてこの兄弟は同じ日に同じことを言うのか。
 というか、何でこんな時にこんな場所に居合わせているのか、むしろどうして中にいなかったのか、聞きたいことは山ほどあったが呆れてそれどころではなかった。
 私は跳ね起きざま、掴まれた手を振り払う。
「つれないなぁ、統星ちゃんは。僕は本気だよ」
 へらへらと笑う顔を見るに、計都は今私が置かれている状態を何一つ理解していないらしい。こいつは昔からそうだ。自分の立場も私の立場も、何も気にせず自分の望みだけを自信たっぷりに公言する。
 叶える力などありもしないくせに。
「おお、計都、よいところに来た。その者を捕まえよ」
 階段を駆け下りる近衛と合流した衛兵達の足音よりも大きな声で、赤い階の上から帝は朗々と実弟に命を下した。
 足を止めている暇などなかった。
 しかし、騒ぎを聞きつけて他の建物からも衛兵達が駆け寄ってきている。どこへ逃げても隠れられる場所がない。
 次の瞬間、迷った私の腕を、計都はしっかりと掴んでいた。
「離せ、計都!」
「兄上ー、捕まえたよー!」
 半狂乱の私になど構いもせず、天真爛漫に計都は階上の帝に手を振って見せていた。
「よし。そのまま離すなよ」
 足音高く、長槍を構えた近衛たちが駆けてくる。
 私は唇をかんで小刀を掴みなおし、計都の腕をひねりあげて背後に回り、その華奢な首に小刀を突きつけた。
「来るな!」
 本来の声で一喝すると辺りが静まり返った。
 近衛たちも壁に当たったかのように足を止めた。
 逃亡は、人質をとった時点で失敗する。
 そんなことは昔から言われていることだが、他に私にはどうしようもなかった。
 逃げきれたなら、母と妹二人に急を告げて逃がすことも出来たろうに。いや、結局寝ついている母を動かすことなど出来ようか。幼い二人の妹を遠くまで走らせることなど出来ようか。だからといって自分ひとり生き延びたとして、母と妹達の死を知らされる日はそう遠くないに違いない。
 どうしろと。
 天は私にどうしろと。
 死ねと言うのか? この公衆の只中で。
 例えこの小刀で首を掻き切ったとて、私はこの女の着物を身につけたまま亡骸を晒すことになる。そうなれば、東宮の地位を守り通した義兄の目を欺いて私を守ろうとした母が、国中を謀った罪で裁かれるは必然。
「焦るなよ、統星。お前はこんな些細なことに巻き込まれてる場合じゃない」
 首筋に小刀を当てられたまま、震えもせずに計都は静寂の中囁いた。
「お前はこの国の帝に相応しい者として、相応の役目を果たす義務がある」
 それは聞いたことのないほど真剣な計都の声だった。
「統星の目から見て、この国に今一番必要なものは?」
「――水」
 思わず計都の真剣さに飲まれた私は、一瞬ためらった後、投げかけられた問いに答えていた。
「知ってる? 今日は日食だよ。それも太陽が全部隠れる皆既日食だ。君がまさに天に選ばれし者だというのなら、天から雲の階が降りてくる。昔一緒に読んだ本にあったよね。この世界にはもう一つ人が住んでいる星があって、その星には優れた技術が今でも継承されているはずだって。その力さえあれば、きっと雨を降らせることが出来る。いや、もしかしたら水を生み出すことさえ出来るかもしれない。田畑に潜む地雷だって、誰も傷つかずに取り除けるかもしれない」
「計都、そんなのはただの物語だ。伝説だ。彼らが流された時、この国にだってそれなりの科学力はあったという。なのに、見てみろ、今のこの有様を。百年前の戦争で、この国の文明は自分達で地雷も除去できないくらいあっという間に退化してしまった! 彼らだって、土のない人工衛星でいつまでも生きていられるはずがない。第一、科学倫理を平気で無視する奴らがこの星に攻めてこないのは何故だ? 協定をはいそうですかと守るような奴らなら、そもそもこの星を追い出されるわけがない。彼らはとうに滅びているんだよ。でなきゃこの星に降りられないくらい、こっちと同じく退化してるかどっちかだ!」
「口調がらしくなくなってるよ、統星ちゃん」
 たしなめられて、私はようやく口を噤んだ。
 計都も知らないはずだ。私を妻にしたいと公言するくらいの奴だ。さっきだって結婚しようと言ってくるような奴だ。
「統星、本来ならば第二皇子を名乗るべきところを、十六年も我々を謀った上に、余の弟までその手にかける気か?」
 私たちの話は赤い階の上までは届いていなかったらしい。
 帝は余裕気に私を睨みおろした。
「ところで兄上ー! お伝えしなきゃならないことがあるんですー」
 さっきまでとは打って変わって、計都が緊張感のない声で上に呼びかけた。
「実はぁ、さっきぃ……」
 計都のその言葉を待っていたかのように宮廷の門から俄かに怒号とも鬨の声ともつかないどよめきが押し寄せてきた。
「都中の人々が水を求めてこの宮中に押し入ってきましたぁ! 衛兵達はそれ食い止めるので忙しいからぁ、僕が直接それ伝えに来ただけなんですけどぉ……なんか遅かったみたーい」
 拳を振り上げた人々が白い砂を鳴らして雪崩のように狭い門から押し入って来る。
『水はどこだぁ』
『水をよこせぇ』
『どうして、地下の水まで堰き止めたぁ!!』
 私と計都を取り囲んでいた衛兵達は、動くに動けず赤い階の上の帝を仰ぐ。
「何をしている! 先に奴らを止めろ! ここまで入れるな!」
 歯軋りしたかに見えた帝の一喝に、衛兵達は門前へと走り去り、近衛兵たちは帝を守るために階を駆け上がる。
「どうしよう、もしかして母上や百合、蘿蔔すずしろのところにも……」
「彼女達なら君が呼び出された後、都の外に逃がしておいたよ。信頼できる者をつけてあるから心配しなくていい」
「計都……」
 信じていいのか? こいつの言葉を。だって、こいつはあの帝の弟だぞ?
 猜疑心が表情に表れていたのだろう。計都は少し、作り物のような笑顔を曇らせた。
「ほら、見なよ。太陽が月に隠される」
 人波に紛れてここから脱出できれば願ってもない。けれど、すでにここに立っている時点で、私たちも彼らの握る凶器の餌食にされるのは目に見えていた。
 民衆の怒号を痛いほど背後に感じているのは計都も同じはず。なのに、計都は落ち着き払って、南中した黒い太陽を指差した。
 太陽が月に呑み込まれていく。
 黒く丸い輪郭は白い光を瞬く間に端へと追いやり、しかし、凝った光は完全に呑み込まれかけた瞬間、黒い輪郭を白くなぞった。輝きは見る者の目を灼き潰し、飛び散ったかに見えた光は一筋に収束して手を差し伸べるように私の前に降りてくる。
 暗闇の中、燦然と天から大地へと伸べられた白い階が輝いた。
 その様に、怒り狂う民衆達も唖然として魅入っていた。
 私も、例外ではない。
 計都だけが冷静に、首元に突きつけられた小刀を私の手から抜き取って私の懐の鞘に戻し、ついでにそこに小さな竹筒を差し込んだ。
「宮中の井戸から汲み上げた最後の水だよ。ここももう水が出なくなった」
 茫然としている私を、計都は白い階の端へと押しやった。
「何度も読んだよね。この国の行く末を記した本。予言は本当だった。でも、分かっているのはここまでだ。この国に水がもたらされるかどうかはお前にかかっている。行って来い、統星。お前が真に帝に相応しいというのなら、天はお前を通して再びこの国を水で潤してくれるだろう。そして、お前は稲穂揺れる瑞穂の国を蘇らせる」
 力強く、期待に満ちた計都の瞳に、私は気圧されていた。
 首を、振っていた。
「私は……そのような器では……」
 これほど自分が卑小だとは、今の今まで思ったことはなかった。
 あれほどこの血に誇りを持っていたはずなのに、あれほど東宮になれなかったことで父を恨んだのに、女性としての人生を強いられるくらいなら潔く義兄と戦って玉座を奪い返してやりたいと思いつめたことさえあったのに、いざ国の命を託されて背中を押された途端、及び腰になっていた自分に愕然とした。むしろ、この同い年の異母弟こそこの重責を背負うに相応しい胆力を持っているのではないかと、運命さえもなすりつけようとした自分がいた。
 天へと導く階の向こう、雲上に待ち受けるものを極端に恐れる自分がいた。
「もし、何も持ち帰れなかったら、その時は約束どおり僕の妻にしてあげるよ」
「計都、私は……!」
「その時は、もう少し胸大きくしといてよね」
 失敗しても帰る場所はあるのだと、計都は暗に言っていた。その場合はもちろん、今までどおり私は永遠に世間に背を向けて生きなければならない。
 しかし、私が計都に告げたかったのはそんなことではなくて。
「計都、お前も一緒に来い! ここにいたらお前の命も危ない」
 足元がふわりと浮き上がった。
 差し伸べた手は、宙を掻いて計都から遠ざかる。
「統星、僕に君の血の意味を信じさせてくれ」
 あっという間に遠ざかっていく白い砂の海の中、計都は未来の妻ではなく、盟友を見る目で私を見つめていた。
「計都……」
 私は振り落とされないように白い欄干を掴む。
「大和に暮らす民達よ、聞け! 必ずや三日のうちにこの大地に雨を降らせる! 約束しよう。もし破った時は、その時はこの身に流れる血を啜って渇きを癒せ。だから今は一度武器を置き、あと三日、どうか堪えてくれ!!」
 だから、計都を殺さないでくれ。
 母の命も、妹達の命も。
 あの生まれて一月もしない赤子の命も、どうかとらないでいてくれ。
 どうか、どうか――。
 顔を上げた先、暗闇の中、白い雲の階だけが天上へと伸び続けていた。
 昇る以外、私に与えられた道はなかった。
 










 ←空ヶ池 管理人室 書斎 ひかりのゆめ→