空は君のために鐘を鳴らす

空ヶ池




 この水溜りみたいな池が地球こきょうに繋がっているって?
 嘘だろ、そんなん。あるわけないって。
 地球を追い出されて幾星霜。ご先祖さんたちは別に恨み言も言わなければ、故郷が恋しいと泣くこともなかった。
 それもこれも、マッドサイエンティストな集団が自由を与えられちまったんだから仕方ない。
 倫理的法規制なんかクソ食らえ。好奇心を満たして何が悪い? この謎が解かれるまでは、死んでも死にきれるものか。
 そんな少数の奴らでも、月日が経てば増殖する。
 気がつけば食糧不足。実験用の植物の種はあれど、困ったことに種蒔く大地がないときた。ないならそこら辺の鉄板引っぺがせばいいものを、なんと、引っぺがしたところでこれまた金属だと言うんだから、よくもまぁあたしたちのご先祖さんたちときたら、そんなところで何世紀も生きてきたもんだ。
 あたしなんか土を知らなくても土を恋しいと思うけれどね。
 それにしても、あたしらを追い出したあとの奴らの消息をだぁれも知らないってのはどうなんだろうね。当たり前か。文系の科学者は別に追い出されるような研究なんてしないもの。
 ここに来た奴らは、みんな自分の世界だけ。友達はミジンコ。暗いしやっぱ狂ってる。
 追い出されて当然だよね。
 でも、それでも生きていて欲しいと思う人ってのは連鎖的に生まれるものなんだ。
「土を下さい」
 地上に降りたいとは言いません。ただ、種蒔く土が、あたしたちは欲しいんです。





 今日もひどい有様だった。
 通気性抜群、防犯対策ばっちりのハウスだったってのに、中の水畑に植えられていた大根は、一つ残らず掘り起こされ、食い散らかされていた。いくら鼠でもここまでひどくはやるまいに、と歯軋りしたところで、ハウスの奥にたどり着いたあたしの足元には、両手に大根を握った干からびかけた大人の死体が一体転がっていた。
 ぼろを纏ったどこの誰とも知らない遺体をようやく警察に運び出してもらって、盗難の届を出したりなんだりしているうちに、もう夕方。それも、製作中の土の素まで持ち出されていることに気がついたのは、警察から帰ったばかりのついさっき。今日は最悪な中でも群を抜いて最悪な日なのかもしれない。
「環奈、どうだった?」
 そもそも室内栽培で自分の食い扶持しか作る気のない養父は、人の災厄をそれ見たことかと言わんばかりに笑ってる。
「笑いごとじゃないわよ、全く。わたしが誰のために大根たくさん造ろうとしてると思う? にんじん育てようとしてると思う?」
「金も土も水もない奴らに食わせるためだろう? いい加減、諦めて自分の分だけコンスタントに生産しなよ。俺のばかり当てにしないでさ」
「悪かったわね。あたしが未成年のうちは、貴方はあたしを扶養する義務があるのよ。怠らないでよね」
「権利ってのは、義務を果たしてから口にするものだ」
 外のハウスをめちゃくちゃにされて苛立つ気持ちが分からないはずもないのに、養父はここぞとばかりにあたしの気持ちを逆撫でしてくれた。
 養父の指し示す台所の流しには、朝からためられっぱなしの汚れた食器たち。
「わかってるわよ。あれくらい、たまる前に洗えばちゃちゃっと済むものじゃない。たまには自分で洗ってくれたっていいのにさ」
 一応、言っておく。
 あたしと養父は仲が悪いわけじゃない。これは仲が良いがために、ずけずけとした物言いに歯止めがかからなくなっているだけだ。あまり言いすぎればやはり遺恨も残るんじゃないか、なんて心配はご無用。
 あたしたちの世界は、水はあってもとうに人と人との間は干からびてしまってる。
 あたし達のご先祖さんは、およそ七百年ほど前、己の欲望のままに科学実験をしたいがために地球を追い出されて、〈昴〉と呼ばれる人工衛星に閉じ込められた。ここはその〈昴〉なわけだけど、エゴがたたって惑星を追い出されたほどの人々だ。彼らは喜び勇んで独自の実験や研究に没頭したそうな。次世代を担ったのは、狂気に満ちた実験途中で生まれた試験管ベイビーたち。その試験管ベイビーも、世代を重ねるごとに成功者と落伍者の格差が広がり、貧しい者は貧困区に落とされ、植物栽培キットも買えずに他人の畑を荒らして糊口を凌ぐしかなくなってしまった。
 この人工衛星には土がない。
 水は水素と酸素があれば作れるけど、土はたくさんの有機物と微生物がいなければつくれない。
 おかしな話だ。
 流されてきた当初、ご先祖さん達は一錠飲めば一日のエネルギーと必要な栄養素が摂取できる栄養剤を主食としてきた。例え後天的に生殖能力が著しく損なわれると分かっても、自分さえ長生きできればいいという人たちが多かったから、それは長いことこの世界の主食であり続けた。しかし、十年前、あたしたち〈昴〉に住む者たちはみな、その栄養剤を摂取したことによって程度の差こそあれ、一様にアレルギー症状を呈したのだ。栄養剤から検出されたのは、ヒトの塩基配列にだけ反応するアレルギー物質、p−gr1078。軽ければ花粉症のような症状で済むが、重ければ呼吸困難で強制的に人生を終了させられる。 己の命が脅かされては、いくらこの星の人でも食事に無頓着ではいられなかった。研究結果を見出す前に死ぬなんて、そんなの死んでも死にきれない。というわけで、人々は誰かの作ったものを口にしようとはしなくなった。栄養剤の生産も完全にストップされてしまった。
 幸いなことに植物実験のため、食べられる果実をつける種ならたくさんあった。少量の土もないことはなかったが、特権階級だけが独り占めし、一般人にまで配給されることはなかった。かわりに水だけで野菜や果物が作れる栽培キットが販売され、今ではそれが普及している。
 各家庭の食糧自給率は九十九パーセント。野菜だけじゃなく、実験動物を食用にして増やし、各家庭で家畜として飼っているため、肉や魚にも不自由はしてない。
 どんなにめんどくさくても、死にたくなければ自分の食べ物は自分でつくる。これが今のこの星の生活の基本。
 栄養剤一日一錠から究極的なスローフードに変化したせいか、まぁ、これでも家庭の親子の会話は増えたんだとか。その多くがおそらくさっきのあたしと養父の会話のように取るに足らないものなんだろうけど。
 それがいいことなのか、悪いことなのかは置いといて。
 基本的に自己中心的な人間しかいないところだ。落ちぶれた奴に手を差しのべてやろうなんて考える奴はまずいない。高額で売りさばくために土を作る研究をしはじめた人は知ってるけれど、あたしのように、いつかこの星を土で覆い、誰でも自由に植物を植えられるようにしてやろうと考える人間には、残念ながら今のところお目にかかったことはない。
「環奈はなんだってそんなにあいつらにこだわるんだ? 自分だけ食べられれば良くないかい? 彼らが生き残ったとしても、すでに一度淘汰された遺伝子だ。残したいと思う遺伝子が存在しているとも思えないけど?」
 皿のぶつかる音に水音が混ざる。
 水はこんなにあるのに、どうしてここには土がないんだろう。
 種はあるのに、どうしてみんな平等に、自由に種撒く場所が与えられていないんだろう。
『RGUA−136。激情型。不適格。廃棄』
 それは、あたしがまだ目を開けるより前の記憶で。
 試験管の中から出されていたかさえも怪しい時期の記憶で。
 だけど、感情のない機械の声だけは、十六年たった今でも耳元ではっきりと思い出すことが出来る。
 養父は知らないのだ。
 生まれた直後から父に拾われるまで、あたしが一体どこで育ってきたのか。
 だから、あんなに簡単に貧困民ジャミンを切り捨てることが出来るんだ。
 言えば、いくらなんでも追い出されるかもしれない。
 捨てられるのは二度も経験すればもう十分。
 捨てられてピーピー泣くような歳でもないけど、それでも、一人にされるのは嫌なものだ。
「貧困民を助けたいっていうよりは、彼らにも自給自足をしてもらうことで、こっちの研究の被害を食い止めるのが目的なの。そうすれば、あたしだけじゃなく貧困民に脅える人たちも安心して生活できるでしょ」
 いつのまにか、表情一つ変えずに心とは裏腹なことだって言えるようになっていた。
 一度淘汰された遺伝子。それを言うなら、あたしも一度淘汰されている。それも生まれたときに、すでに。
「それなら、環奈。なおさら外のハウスを撤去した方がよくはないかい? あんなでっかいものが家の前に建ってたら、こっちから野菜泥棒に入ってくれっていってるようなもんだろう? 今日みたいな事件がこれからも起こるだろうし、なにより、ご近所にもご迷惑をおかけすることになるじゃないか。大人には体面ってものがあるんだぞ」
「人目はばからず研究するために罪人となることも厭わなかった人たちの子孫が、ついに面子を気にするようになりましたよ、故郷のご先祖さん」
「体面は大切だろう。一軒だけおかしなことしてるわけにもいかないんだ。不特定多数のために何かをするなんて、お前、変人奇人もいいところだぞ」
「故郷のご先祖さん。面子を気にする心は取り戻したのに、助け合いの精神は未だマイノリティーなようです」
「環奈、おまえなぁ」
 もう一度言っておく。
 養父とわたしとは仲が悪いわけじゃない。
 言いたいことを言い合っているだけなのだ。
 いいたいことを我慢するなんて非常識。こうしたいと思えば思ったとおりにやるのが〈昴〉人の特性。
 あたしは、そこだけは気に入っている。
 例えマイノリティーな意見でも、芽は摘まない。新発見の種はどこに転がっているのか分からないのだ。
 だから、養父も近所の人も、なんだかんだ現代人らしく人間関係を気にしながらも古来の常識に従っている。
 研究は、自由なのだ。
「お養父さん、あたし、もう一度ハウスの様子見てくるわ」
「ハウスの様子って、あそこにはもう何もなくなったんだろう?」
「ふっ、ふっ、ふっ。まだね、芽が出てない稲があるのよ。そろそろ芽吹く頃だから、セキュリティーあげておかなくっちゃ」
「……稲、ねぇ」
 呆れたように養父が呟いた。
「いいでしょ。夢なのよ。青空の下で波打つ金色の穂波。あれならそもそもたっぷりの水を張って育てるから、土台しだいでいいところまで行くかもしれない。地球に行けないなら、せめてこの星に大地を広げるまでよ」
 青空の下、吹く風に穂を揺らされてたれた黄金の稲穂が揺れる。
 物置を片付けていて地球の風景を撮影した映像を発見したのは、一年ほど前のことだった。
 それ以来、あたしは地球の虜になっている。
 いつか、あの大地に降り立ちたいと願っている。
 〈昴〉は、倫理観を失った科学者達が流された星だ。
 彼らは自由に研究する代償として、子々孫々まで二度と地球に足を踏み入れないという約束を結んだ。当然、地球へ下りるための船を造ることも禁止されている。そんな条約を飲んだのは、言うまでもない。彼らが地球に対してもはや何の未練もなかったからだ。
 でも、ご先祖さんはきっぱりさっぱり思い出しもしないって誓ったんだろうけど、遺伝子の中にはその地球の記憶が刻まれていた。あたし達は地球という星から見た宇宙を知らない。青空を知らない。大空いっぱいに張り出された七色の光の橋も見たことがない。なのに、少なくともあたしは知っているのだ。それが胸の奥をじんわりとさせる光景であることを。物置で映像を見つける前から、あたしは地球という言葉を聞くと切なくなってた。同じ年くらいの子達もみんな言ってる。観光気分で行ってみたいっていうよりも、あれは帰りたいっていうのに近い感情だ、って。
 これまた物置から発掘されたチップに記録されてた空想科学小説。一千年も前に読み古されたその小説も、地球を離れた人類が地球に帰りたがる心を描いてた。
 結局、あたし達は土から離れては長く生きられないのかもしれない。
 拒絶の強い金属鉄板ではなく、柔軟に足の裏を押し返してくれるっていう大地ってもんが必要なのよ。
「やっぱりお前も土にこだわるのか」
 思案顔で本に目を落としたまま呟いた養父の独り言が妙に心に引っかかったけど、あたしは聞かなかったことにして外へ出た。
 ハウスまでの道のり、薄暗い中、道路は淡く発光して周囲をも照らし出している。見上げた空には無数の星と、地球からも見えるという月。皆既月食でも始まるのだろうか。いつもは白い月も、今は赤銅色に暗くなりはじめている。
「地球から見た月もこんな感じなのかな」
 少しの不気味さと、地球という言葉への根拠のない郷愁から、あたしはほうっと溜息を漏らした。
『環奈、よく覚えておきなさい。皆既月食の夜は空ヶ池に近づいてはいけないよ。落っこちたらここではない別の世界に連れて行かれてしまうからね』
 そういえば、ここに来たばかりの頃、養父から耳にたこができるほど聞かされたっけ。ハウスのすぐ横にある水瓶のような小さな池。それをこの辺の人たちは空ヶ池って呼んでいる。
 でも、ここではない別の世界ってどこだろう。
 あの世、とか?
 まさかね。あの世だの幽霊だのと馬鹿騒ぎする時代は終わっている。あの世も幽霊も、この世界には存在しない。あるのは、ただこの体だけ。地球が恋しいなぁとか、おいしいものが食べたいなぁとか考えるのは、頭につまってる脳みそが過去の記憶と反応して思い浮かべるだけ。それ以外に、ヒトは存在しえない。死んだら腐る前に焼かれて粉になるだけ。その粉は掌ほどの小さな小壜につめられて、この衛星の核近くの保存棚に並べられる。その小壜も、百年たって会いに来る人がいなくなった頃を見計らって、核の融合炉にくべられる。
 綺麗さっぱり、意識も記憶もこの世から焼却されるわけだ。
 この世にあの世なんて存在は、概念からして必要ない。
 あたし達は試験管から生まれて、この鉄板の下で灰になるだけ。
 DNAすら、よほど特殊な事情にないと残せない。
 よほど優秀で、たまたま次世代誕生プロジェクトみたいなものに関わっていれば、自分の遺伝子を残す機会もあるだろうけど、〈昴〉では、それ以外の方法ではヒトは誕生しないことになっている。若い男女が結婚して自然に子供が誕生なんてことはありえない。 さっきも言ったけど、今までご先祖さんたちが研究時間を捻出するために服用してきた栄養剤の副作用で、ほとんどの人間が自然に生殖する能力を失ってしまったから。 とはいえ、問題の栄養剤を買えなかった貧困民はそんな副作用に悩まされることなく、この百年ほどで爆発的に増殖し、親から子へとどんどん貧困の連鎖が起きていて、今ではあたしたち一般人の生活を脅かすような犯罪も犯すようになってきた。今は意図的に彼らに問題の栄養剤を配給して貧困民の人口の抑制を図ろうとしているけど、それと知って服用するのは、知的好奇心も何もない、彼らの中でもとりわけ飢餓に瀕した者たちだけだ。 そして、悲しいことに大人たちは、全く問題の栄養剤を服用せずに成長したあたしたちより年下の世代も、これから勝手に子孫を増やしてくんじゃないかって危惧してる。小さな星だから、人口の増加は食糧難とあいまって大きな問題なのだ。
 それにしても、空ヶ池から行ける異世界には土はあるんだろうか?
 もし土があるなら、持って帰って培養して、ゆくゆくはこの惑星を土で包んであげられるのに。土さえこの星に広げられれば、貧困民たちだって自分で自分の食糧をまかなえる。誰もお腹が空いたと喘がなくてもよくなる。
 ハウスの入り口で暗証番号を入力する。
 中の照明が点灯されて、音もなくハウスの扉が開く。
 その途端、あたしは誰かに何か重いもので頭を思い切り殴られていた。
 ハウス中に灯されたまばゆいばかりの白い照明が、それぞれ光の円を描いて交じり合う。ぐらりと倒れたあたしを支えたのは垢にまみれた真っ黒い枯れ枝のような腕。
 黒く汚れた肌の中、白い目だけがぎょろりとあたしを見つめていた。
 どこかで見たことのある面影が重なる。
「カンナ?」
 目鼻立ちにはまだ幼さのようなものが残っていた。
「アールレイ……?」
 あたし達はしばし沈黙したままお互いを見つめていた。
 あたしが父に拾われる六歳まで、貧困区で一緒に暮らした弟のような存在。彼もまた、二歳の時に孵育施設から貧困区に捨てられた過去をもつ。だから、名前もR−0。呼ばれなれているからと他の名前を拒み、孵育施設でつけられた記号をそのまま名前に使っている。
「ごめん、カンナ」
 アールレイはあたしから腕を離すと、すぐさま顔を背けてハウスの中に侵入していった。直後、アールレイの黒光りする背中に赤い光線が突き刺さった。
「環奈! 無事か、環奈!!」
 養父の声が遠くで聞こえる。
 息を呑んだあたしは、すでに侵入していた仲間の元へ行こうとしていたアールレイの背中が反って仰向けに倒れていくのを、為す術なく見つめていた。
「アールレイ!!」
 そんな……まさか、アールレイが死ぬなんて……。再会したばかりなのに、そんな……。
 駆け出そうとしたのに、さっき殴られたせいで視界がまだ定まらない。殴られた右側頭部ががんがん痛い。
「環奈! 大丈夫か? って、頭から血が出てるぞ。早く戻って消毒を……」
 養父があたしを抱きしめる。
 でも、倒れたアールレイに駆け寄る人は誰もいない。仲間と思しき三人は、アールレイが倒れているにもかかわらず、自らの食欲を満たすために芽吹きだしたまだ青い稲をむしっては口に入れていた。
 養父はそんな彼らにも銃口を向ける。
「ま、待って。撃たないで。食べさせてあげて」
「何を言ってるんだ、環奈。ここに食糧があると分かったまま帰せば、またあいつらはここにやってくるぞ。こんなひどい目にあったっていうのに、同情している場合か。あいつらは犯罪者なんだ。人の領域に入り込んできた立派な、な」
「ここ、もうやめるから! もうやめる。こんなハウス、意味がない!」
「環奈……ようやく分かってくれたんだね」
 あからさまにほっとした顔をした養父の腕から抜け出して、あたしはふらふらとアールレイの傍らに跪く。
「アールレイ! アールレイ!! 起きてよ、アールレイ!」
 揺すると、アールレイは痛そうに顔をしかめた。
 思わずあたしは確認するように養父を見る。
「俺だって人殺しはまっぴらだからね。麻痺する程度だ。だが、やっぱりこのまま帰すわけにはいかないよ」
 養父はそう言って、我を忘れて僅かな有機物にありついている残り三人に銃口を向け、順に引き金を引いていった。
「カン、ナ……」
 その音にびくりと身体を震わせ、アールレイが脅えるようにあたしを見上げる。あたしは大丈夫だよとも言えず、ぐらりと倒れていく三人の姿とアールレイとの間で視線を彷徨わせていた。
「環奈、警察に連絡してくれ」
 茫然と座り込んでいるあたしに、義父は自分の携帯電話を投げてよこした。
 あたしはそれを反射的に手の中に収めはしたものの、呻き苦しむアールレイを前に使えるわけがない。
「環奈、早く。麻痺が解けたらどうするんだ。今度は僕達が襲われてしまうよ」
 義父がまだどこかに余裕を残した態度で急かす。
 口ではああ言ってるけど、この人なら一人でいくらでもここを切り抜けられるに違いない。
「アールレイ。あたし達昔、よく話したわよね。この星のこと、水のこと、大地のこと、地球のこと」
 身体は小さくても、もしかしたら今よりもこの星のことがよく見えていたかもしれない。ごみためも同然の小屋で肩を寄せ合って、おじいから何度も何度もまだ見たことのない地球の話を聞いた。昴ではすでに人間として認められていないあたし達の悲願は、この星を出て地球に還ること。せめて死ぬ前に一度、大地を裸足の裏で感じること。
 月が、赤い。
「お腹が……空いた……」
 アールレイはあたしの腕の中、焦点の定まらない虚ろな目のまま呟いた。
「……間違ってる、よね。こんな世界、間違ってる……」
どうして同じ人間なのに、こんなに虐げられなきゃならないんだろう。あたしだって同じ暮らしをしていたのに、どうして今はこんなに恵まれているんだろう。お父さんがあたしを迎えに来てくれたから? 人生って、運がすべて? 能力がすべて? 貧困区で生まれた子ははじめからすべて奪われて生まれてくる。それさえも仕方のないこと?
「待ってて、アールレイ。あたしが土を持ってくる」
 あたしは立ち上がると、アールレイを冷たい鉄板の上に寝かせた。
「環奈?」
 訝しげに養父はあたしを見る。その手には引き金に指がかけられたままの麻酔銃。
 あたしは、ちらりと空ヶ池を見ると、正面から養父の視線を受け止めた。
「お義父さん、あたし、ちょっと行ってくる。だから、アールレイたちを助けてあげて!」
 多分、養父は助けないだろう。そんな情けが在るなら、はじめから引き金を引いたりはしない。でも、頼むしかなかった。何も言わないよりましだと思った。あたし一人の自己満足で終わるとしても、あたしがアールレイたちを放っておけないんだってわかって欲しい。
 あたしは顔をゆがめるアールレイの横顔を目に焼きつけて、空ヶ池の縁へと駆け出した。養父は慌ててあたしを追いかける。
「だめだ、環奈! そっちの世界に行っちゃいけない! 行ったら二度と戻ってこられないぞ。お前の父さんだって、土を取りに行ったまま戻ってこなかったんだ!」
 珍しく取り乱した養父の声に、あたしはくるりと振り返った。
「お父さん? も?」
 頭の中でぴしりと何かのピースがはまる音が響いた。
 六歳の時、あたしを貧困区から拾ってくれた父。でも、一緒にいたのはほんの一年足らずだった。それでも、あたしと血の繋がった本当の父親。本来なら、貧困区に捨てられた子どもをわざわざ探し出して拾うなんてこと、この国の大半の人が笑うだろう。孵育施設で生まれた子ども達は、実の親が誰かを知らない。遺伝子提供者も、いちいち成功事例を確かめることはない。でも、お父さんは違った。たった一人しかいない娘だからと、あたしを探し出してくれた。
 一年足らずしか一緒にいられなかったけれど。面影すら、本当はもう思い出せないけれど。
 それでもあたしは、お父さんにもう一度会いたい。
「なら、好都合よ。十年間もあたしを放置してくれた父親、ひっぱたいて大量の土と一緒に連れ帰ってくれるわ」
 義父があたしを引き取ったのは、お父さんの知り合いか何かだったんでしょう、といくら養父に尋ねても、義父はあたしの父のことなんか何も知らないと白を切りとおすばかりだった。でも、これでようやく手がかりが掴めた。
 聞いてやろうじゃないの。
 どうしてせっかく拾ったあたしを一年足らずで養父に預けて離れていってしまったのか。
 あたしは身を乗り出して池の縁を覗きこんだ。
 覗きこんだ池には、満天の星を湛えた藍色の天。対照的に不気味に輝く赤銅色の満月。
 風が悪戯程度に息を吐き出すたびに水面は揺れて、白い星と赤い月とが混ざり合う。
「人間は、やっぱり大地を離れては暮らしていけない」
 と、風に吹かれて揺らめく水面に映るあたしが、勝手に口を開いた。聞こえてきたのは、危機感どころか子をあやす母のように柔らかで落ち着き払った女性の声。
「環奈」
 声は若干違うような気もするけれど、自分の名前呼びかけるなんて、あたしも神経がどうかしてしまったのかもしれない。
「環奈、土がほしい?」
 池に映った自分は淡々と尋ねた。決意を確かめるように。
「そりゃほしいわよ。土さえあれば、もっと大々的に農業できるもの。この星中、食糧庫にしてやれるわ」
「なら、来なさい。うまくいけば、あなたは地球の土を手に入れられる」
 空ヶ池は人工的に作られた池。
 元は名もないただの水瓶代わり。
 底なしに深いわけでもなく、水深なんてちょっと深めのお風呂くらいなものだ。
 この水の底にあるのはただの鋼鉄の板だけ。
 覗きこんだあたしの頭と、赤銅色の月から降り注ぐ黒い光とが重なった。その影に、物置で見つけた上半分が欠けた青い地球の映像が重なる。
 あたしは、さざめくことをやめた水面に映った青い惑星に魅入られたまま、池の縁から身を乗り出していた。











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