空は君のために鐘を鳴らす

ひかりのゆめ




 殺しても殺しても、足りない。
 一体、どれほどの有機物が必要だというんだ。
 一体、これ以上、俺にどうしろというんだ。
「土が欲しい」
 何故?
 還りたいんだ。無性に地球に還りたいんだ。
 なら還ればいい?
 簡単に言わないでくれ。
 この人工の大気圏を出た瞬間、俺達は簡単に翼をもがれてきた。
 地球の奴らは俺達を監視している。
 罪人が逃げようとすれば、簡単に殺してしまうんだ。
 出られないなら、ここを地球にするしかない。
 そう決めて、どれだけの血を浴びてきただろう。
 増えていくのは緑生い茂る土の山ではなく、血みどろの腐った死体だけ。
 足りない。足りないんだ。
 有機物も、時間も。
 俺に、もっと時間をくれ。
 俺に、もっと土を作るための材料をくれ。
 こんなささやかな砂じゃなく、もっと指に張りつくほど湿って粘り気のある土を造りたいんだ。
 星を造るは神になるも同じ。
 なら、神になろう。
 俺はこの世界の神になる。
 すべての事象をこの手に掌握し、いつか〈昴〉を本物の地球にしよう。
 そして、この偽りない愛を君に捧げよう。
千空ちあき。いつか必ず、君を永遠の時の鎖から解き放ってやるよ」
 だから、自由を手に入れたら〈地球〉へ還ろう。
 俺の造った君のための故郷に。






 それぞれの星に二人が生まれた時、これは奇跡だと思った。その二人が俺たちの娘と息子と同じ遺伝子を持っていると知った時、やるしかないと思った。
 千空。君を奪われたのは、かれこれもう一千年ほど昔のことになる。覚えているかい? 君と初めて出会った沖縄の珊瑚礁の美しい碧い海のことを。覚えているかい? 君にプロポーズした東京スカイツリーのレストランから見た夜景のことを。覚えているかい? 二人が生まれた時の、一人ひとりの生命の喜びに満ち溢れたあのおぎゃあおぎゃあという泣き声を。覚えているかい? 四人、こたつで鍋を囲んですき焼きの肉の取り合いをしたことを。君は三人目の子供を見るかのように呆れた顔で俺を見ていた。
「覚えているかい?」
 sky‐26。
 何度、コンピューターのメインプログラムに組み込まれてしまった君にそう話しかけてきたことだろう。だけど、俺がここに導かれたのは偶然じゃない。
 君が呼んだんだろう?
 友人に環奈を預けて、君のいる月に来る算段をしていた俺を、君は空ヶ池を通して呼び寄せてくれた。ずぶ濡れのこの体が殺風景なコンピュータールームにあった時は目を疑ったよ。
 まさか君がまだ俺のことを覚えていてくれたなんて、と。
 同時に、感じたこともないほどの幸福感と希望に心は漲っていったんだ。
 なんとしてでも千空、君を取り戻したい、と。
 sky‐26。二十六代目の千空。
 もう千空だった時の心なんて置き忘れてきたんじゃないかと思っていたけど、君はそうじゃなかった。愛しい妻であり、優しい母だった千空の時のままだった。君の体がとうにないことも俺は知っていたけど、もう一度この腕に君を抱きしめられるんじゃないかって、期待に胸を膨らませ、還ってきた君の笑顔を想像してはこの腕に抱きしめていた。一千年も経って、俺はようやく君の心を取り戻す希望と使命感を得たんだ。
 そう、せめて千空の心だけでも取り戻させてやりたい。
 何故君が〈昴〉の監視者として月基地の頭脳に選ばれてしまったのか、今でも俺は理解に苦しむ。君は科学技術研究所で雑用を中心とした事務をするただのパート職員だったはずだ。君は研究者ではなかった。たまたまあの研究所で働いていただけだ。それなのに、〈昴〉計画のことなど何も知らない君が、何故、月の頭脳に選ばれなければならなかったのか。
 月基地の頭脳となるためには、プログラムとの相性が第一条件だ。君はきっとそれを誰よりも満たしてしまったのだろう。でも月基地に与えられた任務は、〈昴〉に流刑にされた科学者達が地球に帰ってこようとするのを防ぐこと。そのためには地球へと向かう船団に一斉放射を浴びせることも躊躇ってはならないはず。君にはない冷酷な判断力と任務への忠誠心が必要だったはずだ。君は豊かな感情という翼をもがれ、冷たいプログラムの中に閉じ込められてしまった。
 何故月のメインプログラムに人間の頭脳が必要だったというのだろう。ただばっさばっさと咎人たちを打ち落としたいのならば、数値化されたプログラムだけで充分だっただろうに。なぜ、人の感情という計画を揺らがしかねないものを組み込んだのだろう。俺には未だそこが理解できない。もしかして、この計画の首謀者は、俺と君のことを知っていて、いつか俺に〈昴〉と地球の調和を成させるために、俺から君を奪ったんじゃなかろうか。もしそうなのであれば、随分と舐めた真似をしてくれる。〈昴〉計画に携わった者のくせに、計画の終焉を計画に組み込んでおくだなんて。まるでいつかは終わらせてしまいたかったかのようじゃないか。
 もしその終わりの時が来るというのなら、それはもう間もなく。これから始まるごくごく短時間の再会がそれをもたらすだろう。もっとも、娘と息子彼ら二人に再会などという意識はないだろうが。それでもここに見守る二人がいれば充分だろう。
「和成様、間もなく二人が到着します」
 あくまで俺のことを覚えていないふりをするんだね。それももうあと少しだ。
「分かった。準備をしよう」
 この日のために、俺は準備をしてきた。二人を千空に会わせるためにひどいこともしてきた。
「なぁ、千空」
「わたくしは千空ではございません。sky‐26です」
「環奈とは十年ぶり。統星とは一千年ぶりの再会になるんだな。君は何年ぶりになる? 二人とも一千年ぶりか。会いたかっただろう?」
「わたくしにはそのような気持ちはございません」
「嘘を言うな。君が千空の記憶を見て彼女に自分を重ねていたことくらい、とっくの昔に気がついている」
「そのようなことは……それにお二人とも、もう全く違う人格を持っているのです。わたくし達の家族ごっこに付き合わせるのは酷というもの」
「家族ごっこか。わたくし達のということは、君は俺のことを夫と思ってくれているわけだ。嬉しいよ」
 地球に唯一残された島国の風景を映す画面は皆既日食で真っ暗になっていた。〈昴〉の風景を映す画面には皆既月食によってもたらされた青白い神秘的な光景が広がっていた。地球と月と〈昴〉と太陽が一直線に並ぶこの日を選んだのは他でもない。四つの星の引き合う力と斥け合う力、これらを利用して空間を捻じ曲げ、環奈と統星を呼び寄せるため。更に二人が双方を―ー地球が〈昴〉を、〈昴〉が地球を求めたくなるように、〈昴〉では食糧危機を、地球には渇水をもたらした。〈昴〉の食糧カプセルにアレルゲンを混入することも、月から地球の天候をコントロールすることも、俺には難しくなかった。人は行き来することはできなくても、物質であればいくらでも送り届け、干渉することができた。それもこれも月にいるからであり、月のメインコンピューターの側にいるからできることだった。
 月のメインコンピューターsky‐26に架された使命は、〈昴〉から地球へと渡ろうとする人々を撃ち落し、宇宙の藻屑と為すこと。でも、彼女はもう三百年も前から使命を果たしていない。いや、〈昴〉人を地球に入れないという点では使命を果たしてはいた。ただ、〈昴〉人を月基地に収容し、軟禁していたというだけだが。
 月基地に閉じ込められた人々は、この三百年の間に持ち前の技術力を駆使して一大都市を作り上げた。都市ができれば人の心は落ち着く。勿論、再び地球を目指そうとする者がいなかったわけではないが、sky‐26は月に閉じ込めた人々を宇宙に出すことはなかった。
「千空、環奈と統星が来たら、一番になんて声をかければいいかな?」
「いらっしゃいませ?」
「お店じゃないんだから」
「こんにちは?」
「他人行儀だなぁ」
「では、久しぶり、と」
 俺は冷たい金属の彼女に触れた。
「いいね。ではそれでいこうか」
 囁いた時だった。床に描いた二つの円それぞれに二人の少女――おっと、一人は少年か――が現れた。
 途中、眩しい光の渦に巻き込まれたのであろう二人は、目を袖で覆い隠したり、何度か瞬きを繰り返したりしている。
 俺たちは期待をこめて二人が俺に気づく瞬間を待った。
「ここは……?」
 最初に口を開いたのは、女物の着物を着た統星だった。その声に反応して環奈が統星を見る。
「あんた、誰?」
 娘の方はいたって現代的な動きやすい格好をしている。
 これが地球と〈昴〉の差といったところか。地球の方は科学技術が制限されてきたために、衣食住まで昔に戻ってしまったようだ。勿論その間に絶滅しかねないような地球の変動に何度となく呑み込まれ、さまざまなものを失ってきた結果だろうが。
「あんたとはひどい呼び方だな。私は地球は大和皇国から来た統星。衛星〈昴〉に水を求めてきた」
 環奈は統星の堂々たる名乗りを怪訝なものでも見るかのように眺めた後、弾けるように笑い出した。
「何がおかしい」
 心外とばかりに柳眉を吊り上げて統星が問う。
「だって、あんたそんな綺麗な格好してるのに、声野太っ」
「っこれは、色々と理由があってだな。その、お前には関係ないだろう。それよりお前は何者だ?」
「あたし? あたしは環奈。〈昴〉から地球に土を求めてきたの」
 そこで二人の娘と息子の二人はようやく顔を見合わせて見つめあった。
「ここ、どこっ!?」
 さすが元双子らしいハーモニーだ。息もぴったりなら表情もぴったり。育った環境は全く違うというのに、本当に再会できたみたいで嬉しくなるじゃないか。
 二人は再び互いに顔を見合わせ、それぞれ珍妙に見えたであろう格好の異性を見つめた。
 さすがにここで一千年も昔の知りようもない暮らしを思い出せば、それこそ俺たちが想像もつかないほどの奇跡となったことだろう。しかし、さすがにそこまでは都合よくできてはいない。
「地球から?」
「〈昴〉から?」
「それならここは」
「どこだ?」
 そこまで問いを口にしたところで、二人はやっと身じろいだ俺に気がついた。
「あ……」
「そなたは何者だ?」
「や、やぁ」
 さっきにも似た雰囲気を醸し出されて、俺は準備していた挨拶をしそこなった。だが、ことを厄介にするくらいならそれでよかったのかもしれない。
 環奈が先に立ち上がってじろじろと俺を観察しながら俺の周りを歩き回る。さすがは好奇心から先に生まれた娘だ。
「お、おい」
 それに比べて統星の方は慎重さから先に生まれたとあって、描かれた円の中から動くことなく俺と環奈の動きを見守っている。
「お父……さん?」
 観察を終えた環奈は俺の前に立ち、十年ぶりにその言葉を聞かせてくれた。
「久しぶり、環奈」
 俺はようやく相好を崩して、十年ぶりに娘をこの腕に抱いた。
「ちょっ、苦しい、離してっ」
「ああ、ごめん、ごめん。嬉しくてつい」
 腕を緩めてやると、環奈は深呼吸して確認するように俺を見つめた。
「本当に、お父さん?」
「そうだよ、環奈。〈昴〉の空ヶ池に飛び込んで帰っていなかったお前の父さんだ」
 今の環奈が六歳の時、俺は月に来る方法を空ヶ池に見出し、ここへ来た。環奈と暮らしたのは、環奈が三歳の時にスラムで彼女を拾ってからだから、たったの三年。それにしてはよく覚えていてくれたものだ。
「どうしてここにいるの? ここはどこ? 地球なの?」
「地球?! それは困る! 私は〈昴〉を求めて雲の階を昇ってきたのに」
 ようやく円から抜け出てきた統星は環奈を押しのけ、俺の胸倉を引き掴む。
 統星とは本当に久しぶりだ。俺と土の培養の共同研究をしていた環奈が先に〈昴〉に送られ、環奈を取り戻そうと船を出した俺が今度は〈昴〉に送られて以来だから、実に一千年。その後、統星が政治家となって、〈昴〉に送られた家族を取り戻そうとさまざまな運動を展開してくれたが、本懐を遂げることなく凶弾に倒れたというニュースを聞いた日のことは、今でも昨日のように思い出せる。
 俺は統星が先に逝った時、その情報を得ることしかできなかった。環奈もそうだ。違う空の下で二人で身を寄せ合い、泣いて弔うことしかできなかった。その環奈も、程なく地球へ帰ろうとして船を出し、一人宇宙の闇に消えてしまった。あれだけ月のプログラムを解くことの方が先だと話し合ってきたのに。
 遠き日、失った二人が今、この手の届くところにいる。できることならこのまま二人を抱きしめてすき焼き鍋でもはじめたいところだが、千空がまだ揃っていない。
「ここは地球じゃない」
 まずはじめに俺はそう言った。それでも統星の手からは力が抜けない。本人は怒るかもしれないが、少女と見紛うたおやかな見かけに反してこれは思った以上の剛力だ。
「それならここはどこだ?」
 抑えた凄みのある声が、コンピュータのかすかな唸り声しか聞こえない空間に静かに響き渡る。
「月だよ。お前も見たことがあるだろう、統星?」
「月?」
「地球からなら月と太陽はよく見えるだろう? 今日の皆既日食だって太陽が月の陰に隠される現象だ。見ていたはずだよ、今日も月を」
「何故そんなことまで知っている?」
 大和皇国の皇子らしく、統星は威厳を持って俺に問いただしてくる。この辺は昔の統星とはちょっと違うところだ。違うといっても方向性は同じか。固いところがあるには変わりない。
 さて、なんと答えたものか。まさかお前の父さんだからだよと言ったところでこの頑固な子が信じるわけもない。遺伝子の話をしたところで、地球生まれの統星にはさっぱり分からないだろう。仕方がない。ここは普通に答えるしかあるまい。
「月から大和皇国をずっと見守ってきたからだよ。統星、君が父帝に疎まれ女性の格好をして命を永らえていたことも知っている」
「えっ、その格好って趣味でやってたんじゃないの!?」
「誰が趣味でこんなひらひらした格好をするかっ」
 さすが自由を愛する国で育った環奈。生命が政治に脅かされる恐怖も、そういう歴史があることも知らないのだろう。
「えー、だって似合いすぎるんだもん」
「私は女ではない!」
「その顔と格好で言われてもねぇ。確かに声は野太いから男なんだろうけど」
「こらこら、姉弟喧嘩はやめなさい」
「姉弟!?」
 いがみ合っていた二人を引き離すと、二人はまた声を合わせて俺を振り返った。
 しまった、喋り過ぎた。
「いや、出会ったばかりなのに姉弟のように仲がよいから」
「冗っ談! こんな女装男と誰がっ」
「冗談だろう? こんな凶暴な女と誰が」
 二人はいがみ合って、声も高らかにふんっとそっぽを向き合う。
「ああ、やっぱり仲がいいなぁ」
 思わず頬が緩んでしまう。本当に手放すのが惜しくなってしまうよ。
 そうだろう、千空?
「和成様、そろそろ」
 落ち着いた千空の声が俺を促す。
 君はまだ何も思い出していないんだな。まだその千空の記憶を自分のものとして感じられていないんだな。君が記憶を取り戻すためには、堅牢なこの月の基地の封鎖を解くのが一番だ。そのためにはこの月の窒息しそうな空気を破ってくれるものが必要だった。ただ呼び出すだけじゃだめだったんだ。ちゃんと目的を持って、それぞれがあるべき場所に還るようにしておかなければ。たとえどんなに俺たちが引き止めたくなっても。
「今の声は?」
 統星が眉をひそめて呟く。
 お母さんだよ、と言うわけにもいかず、俺は頭を切り替える。
 千空を解放するために一番大切なこと。それは、この月基地にもう自分は必要ないんだと思わせることなんだ。そのためにも、今こそ地球と〈昴〉は手を取り合ってもらわなきゃならない。
「わたくしはsky‐26。月基地を制御するメインコンピューターです」
 俺が紹介する前に、千空は自分で答えた。千空の記憶を持っているのなら、二人のことは愛しく感じるだろうに、その声はあくまで機械になりきっている。
「メインコンピューター? コンピューターとは何だ?」
「統星、あんたコンピューターも知らないの? 電子知能のことよ。あたし達に匹敵する、ううん、それ以上の情報処理能力を持っているの」
「電子知能? 情報処理能力?」
 鸚鵡返しに呟いて、統星はしばし思案に暮れる。
「お父さん、どういうこと? 地球にはコンピューターもなくなってしまったの?」
「もう随分前に戦争が起こって、それで〈昴〉のような科学技術といえるものは全て潰しあいの末、なくなってしまったよ。重ねて異常気象で海面が上昇し、残っている陸地も統星のいる大和皇国という島一つになってしまった」
「そんな! あたしの大量の土を持ち帰るという夢がっ」
 環奈は頭を抱えて座り込んでしまう。
「本当に我が国のことに詳しいんだな。この際、この怪しげな雰囲気の室内はどうでもいい。それほど我が国のことに詳しいのなら、我が国が瀕している問題にも明るかろう」
 さすが百難をかいくぐってきた皇子は覚悟が違う。分からなかろうが、理解しがたかろうが、丸ごと全てを受け入れるつもりだ。
「渇水で飢饉が続いているな。つい先程は、ついに民衆達が蜂起して城に押しかけてきた」
「ならば話が早い。ここが〈昴〉出なくともよい。月だろうが火星だろうが、力があるのなら、私の国に雨を降らせてはもらえまいか? 私に差し出せるものがあれば何でも差し出そう。この命を所望するというのなら喜んで差し出そう。だからどうか、我が国大和に雨を降らせてほしい。〈昴〉にはすばらしい古の技術が残っていると聞く。ここにもそれがあるのならば、どうか」
 統星は膝をつき、足を組むと手を上げて俺と環奈の前にひれ伏した。
「や、やぁね。土下座なんて男が簡単にするもんじゃないわよ。顔を上げなさいよ。ねぇ、お父さん」
 俺はじっと統星を見下ろす。偉い覚悟でここまで来たものだ。我が息子ながらその心意気、見上げてしまう。
「お父さん!」
 環奈が腕を引く。俺はゆっくりと環奈に視線を向けた。
「どう思う?」
「どうって」
「統星。残念ながら俺のほしいものは統星だけからは得られないんだ」
「お父さん!」
 環奈が非難がましく俺の袖を引っ張る。なおも黙っていると正義感の強い環奈はむくれて俺の腕から自分の手を抜き取った。
「いいわ! 分かったわ! お父さんって案外薄情だったのね。ここに困ってる人がいるっていうのに、さすが〈昴〉人だわ。所詮他人は他人、自分は自分なのよね」
 正義感が強いのはいいことだが、短気なところが玉に瑕だ。
 だが、環奈は俺の思惑通り統星の前に膝をついて統星の顔を上げさせた。
「ちょっとあんた。こんな奴にいつまでも頭下げてることないわよ。統星、あんた水がほしいのよね? 国に雨を降らせたいのよね? それならあたしが雨を降らせてあげる。雨くらい酸素と水素を合成すればあっという間に出来上がるもの。後はそれを飛行機で上空から降らせればいいんでしょ?」
「本当か? 本当に雨を降らせられるのか?」
「それくらいこの環奈様にかかれば朝飯前よ。任せなさい。そのかわり――」
 環奈の目が輝いた。
「あたしに地球の土をちょうだい。全部寄越せとは言わないわ。〈昴〉に持ち帰って培養して、スラムに広めたいの。〈昴〉には土がないのよ。金属でできた人工衛星だから。今はその生で農業ができなくて食糧危機に陥っているの」
「そなたの国でも食糧が足りなくて困っているのか」
「そうよ。どんなに技術が発達しても、有機物を発酵させて土を作るには時間がかかるの。ね、お父さん」
 環奈は昔俺が〈昴〉で土を作る研究をしてみせていたことを覚えていてくれたのだ。俺に同意を求めて必死な顔を上げた。
「そうだな」
 俺は頷いてやる。俺が十年前まで三年間に渡ってやって見せたデモンストレーションは見事に花開いてくれたらしい。最も、あのころは月に来られるなんて思っていなかったから、食糧確保のためにこの手を赤く汚してまで本気で取り組んでいたのだが。
 思えば俺はとうに狂っていたのかもしれない。千年なんて、一人で生きるには長すぎたのだ。
「そなたの国であっても得られないものはあるのだな」
「でも安心して。雨を降らせることくらい朝飯前なんだから。問題は、ここからどうやって脱出するかってことね」
 統星を立たせた環奈は、静観していた俺の方を向いた。
「お父さん。あたしたちをここに呼んだのは……お父さんなんでしょう?」
 昔から鋭い子だとは思っていたが、眼光まで鋭くされてはかわいさが半減だ。
「環奈、少し落ち着きなさい。顔が恐くなっているよ」
「あたしは充分落ち着いているわ。だから分かるのよ。お父さん、あたし達をここに呼びつけて引き会わせて、何を企んでいるの?」
 俺は肩をそびやかして天を仰いでみせた。本当、この子には敵わない。
「俺の望みは唯一つ。地球と〈昴〉とが手を取り合って生きていくこと」
 そのために〈昴〉にアレルゲンをばら撒き、地球の気象を荒らした。この犠牲を希望に変えられるかどうかは、この子達にかかっている。
 環奈と統星はごくりと喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
「地球へ渡る船を作っている奴らがいるところを知っているから案内しよう。その前に環奈。人工降雨器をここで作っていくといい。必要なものはその辺から引き剥がして使って構わない」
 環奈はちょっと小首を傾げた。
「月にはお父さん以外にも人がいるの?」
「いるよ。〈昴〉から地球に渡ろうとして捕まった奴らがここに軟禁され、代を重ねて今や一つの都市を築いて生活している」
「なんと、月にも人が住んでいたのか! それはたくましい」
 統星は素直に感嘆の声を上げる。だが環奈は眉をしかめた。
「月はあたし達〈昴〉人が地球へ行こうとするのを撃墜して止めるのが役目ではなかったの?」
「もう三百年も前から彼女はそれができない」
「どうして?」
「ある女性の記憶を見てしまったから。今回二人を呼ぶにあたっても彼女の協力なしにはなしえなかった。しかし、彼女は苦しんでいるんだよ。使命と人の情との間で。二人に望むのは他でもない。〈昴〉と地球が友好関係を結ぶことで、この月基地がもう必要ないことを彼女にわからせてやってほしいんだ」
 環奈と統星は互いに顔を見合わせた。
「分かったわ。やってやろうじゃないの。ね、統星」
「同感だ。だがなれなれしく呼ぶな。私は……」
「大和皇国の皇子? それがどうしたの。同じ人間でしょ。あたしのことも環奈でいいわ」
 統星の白い頬に一瞬朱が上る。
「すまない、……環奈」
 環奈はふっと微笑むと恥ずかしさに面を伏せた統星に手を差し出した。
「あんたの国はあたしが責任を持って潤してあげる。だから」
「我が国の土でよければいくらでも持って帰ってくれ。地雷が混ざっていることもあるが」
「えっ。地雷が埋まってるの!? 危ないじゃない。それなら〈昴〉に自由に行き来ができるようになったら地雷発見器作って持って行くわ」
「それはありがたい。だが、一つだけ約束をしてくれないか。我が国大和を侵略しようなどとはゆめゆめ考えないでほしい。もし兆候が見受けられたら、その時は全力で排除するしかない」
 きりりと統星の目に未来の帝らしい光が宿る。
「分かった。もし〈昴〉の偉い人がそんなことしようとしたら、このあたしが鉄槌下してあげる。そのための機械も開発して、責任持って統星の国を守ってあげるわ」
「それは心強い」
 環奈の差し出した手を握り、ようやく統星の頬も緩む。環奈はやると言ったらやる子だから、環奈が生きているうちは地球も安全だろう。
「見ているかい、千空。遺伝子が同じだとやはり姉弟仲良しだよ!」
 思わず声に出して呼びかけてしまって、はっと口を押さえたときには、二人から冷たい視線を浴びていた。
「お父さん、千空って誰?」
「千空というのは……お母さんだよ」
 これくらい言っても差し支えないだろう。予想に違わず、環奈の表情が一段明るいものになる。
「あたしのお母さんの名前は千空っていうのね! 教えてくれてありがとう、お父さん!」
 娘から感謝の抱擁を受けた俺は、一瞬幸せで計画も何も忘れそうになる。
「ちなみに、お母さんはどこにいるの?」
「すぐ近くにいるよ」
「すぐ近くってどこ?」
 俺は環奈の腕をゆっくり解き、隣の備品庫へと歩き出す。
「お父さん!」
 じらされた環奈はすかさず非難の声を上げる。
「探してごらん。それが俺からの最後の宿題だ」
「宿題って」
「さ、それじゃあ環奈。早速降雨機を作ってくれ。道具ならこの備品庫にある。統星は環奈を手伝ってやってくれ」
「分かった」
 統星は大人しく頷き、環奈を備品庫へと導く。
「そうだ、統星。戻らなければいけない時間が決まっているんだろう?」
「三日後の昼までに。ところで、今はどれくらいの時間が過ぎてしまった?」
「まだ半日だよ。今頃地球は夜の七時頃だ」
「正味二日ってところね。それくらいあれば充分よ」
 そういって作業に取り掛かりだした環奈は、小さい頃から双だったように、持ち前の集中力を発揮して、図面も引かずに電子回路をはんだ鏝で組み立てていく。
「お父さん、ここでは回路を組み立てるまでね。一国を潤そうって言うなら、船一隻を降雨器にしちゃわないと」
「好きなように組み立てるといい。話は俺がつける」
 ここであまり巨大なものを作っても運ぶのに難儀すると思ったのだろう。環奈は要となる必要な部分だけを数時間ほどで作り終えると、それを持って出口の前で待っていた俺の元にやってきた。
「残りの噴水器と貯水槽は行く途中で見繕うわ。お父さん、船のところまで案内してちょうだい」
 俺は一つ頷いて、最後にもう一度、月に来てから十年もの間最も長く過ごしたこの部屋を眺め渡した。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ」
 彼女も分かっているはずだ。俺がもうここ二は戻ってこないことを。でも子供達のことを案じて、あえて普通の調子で俺のことを送り出してくれた。
 廊下に出ると、等間隔に設けられた窓から宇宙の青い闇が見えた。いくつも煌く白い星々に、環奈と統星は使命も忘れて窓に張りつき、しばし外の景色を堪能する。
「あ、地球だ!」
「どこだ?」
「ほら、あれよ! あの目の前の大きくて青い星」
「え……あんなに地球とは大きかったのか」
「そりゃこの月と〈昴〉の主星だもの」
「〈昴〉はどれだ?」
「〈昴〉は……あ、こっちこっち。こっちから見える!」
 廊下を渡って反対側の窓辺から環奈が叫ぶと、統星も追いかけていってほっと溜息をつく。
「あれが〈昴〉」
 感慨を込めて統星は呟いた。彼らの視線の先には一塊の銀色の星が輝いていた。
「〈昴〉という星も、これくらい星がたくさん見えるのか?」
「こんなには見えないわ。あそこは夜でも明るいし、第一大気があるもの。統星の国の方がよっぽど綺麗に見えるかもしれない」
「そうか」
「あたしね、ずっと地球にいってみたかったんだ。物置にあった写真くらいでしか地球の大地の上見たことなかったから。きっと綺麗なんでしょうね。揺れる黄金の稲穂とか、風にたなびく草原とか憧れちゃう」
 窓ガラスに映った環奈の目は、青い地球を捉えてきらきらと輝いている。
 環奈、お前はずっと地球に帰りたがっていたものな。
「私は〈昴〉に憧れていた。本の中にしか出てこない古の国。あるかどうかさえ分からない国だが、その技術力があればなんだってできると書いてあった。それゆえに地球を追われたのだとも。だが私はその技術力があればもっと国を豊かにできるのにと考えていた。さっきの環奈を見て確信した。そなた達が我が国にくれば、我が国は目覚しく革新されるだろう。今まで国の内側しか見てこなかったが、外に目が向けられるだけだけでも国内の政治状況は変化する」
「それは統星にとっていい変化なの?」
「波を引き寄せられるかは、私が水を持って帰れるかにかかっている」
「あんたって偉いのねぇ」
 感心したように環奈は溜息をつく。
「環奈もそうだろう。土を持って帰って〈昴〉の食糧危機を救うんだろう?」
「あたしは帝でも首相でも大統領でもないもの。あたしは手が届く範囲の人に土を届けるだけで精一杯よ。下手に土を売ろうものなら、それこそ権力も手に入ってしまうかもしれないけど、あたしはそんなものいらない。星ひとつなんて、あたしの手には大きすぎるもの」
「謙虚なんだな」
「身の程を知ってるだけよ。あ、統星が身の程を知らないって言ってるわけじゃないからね。あたしは顔を見たことのない人の分まで土下座できるような広い心は持ち合わせていないってだけ」
「そうか」
「あんた、きっといい帝になるわ。そんな気がする」
「期待に沿えるよう努力する」
 環奈と統星は窓際を離れても、お互いの国のことを話し合ったりしていた。俺が現代に立っているとすれば、環奈は未来、統星は古代から来たようなものだったにもかかわらず、二人の会話は弾んでいく。果ては環奈が遺伝子やコンピューターや航空力学の分野に及ぶまで抗議をしはじめて、統星は少しでも未来の技術の情報を得ようと熱心に耳を傾け、時に質問を繰り出している。香と思えば統星が地球にいる動植物たちや、古典として残された書物について語り始め、〈昴〉人の知らない地球の歴史を紐解いてみせる。
「そういえば統星、ここに来た時からずっと胸元に入っているその筒、何?」
「ああ、これか。これは計都がくれた最後の水だ」
「水筒? 竹の筒でできているの?」
「そうだが」
「へぇ、簡素なのに水が漏らないのね。よくできているわ」
 統星から借りた竹筒の水筒を上から下から観察しながら、環奈はじっと飲み口に視線を注ぐ。
「地球の水はどんな味がするのかしら」
「一口でよければ飲んでもいいぞ」
「本当? じゃあ遠慮なく」
 水筒の開け方を教えてもらって環奈は一口水を口にする。
「これが地球の水の味。甘くて美味しいのね。柔らかくてまろやかで。あたしの作る水もこんな味の水になるかしら」
「水は大地に染み込んでろ過される。それは地球の味だ」
「なるほどね。これが地球の味かぁ」
 二人の会話は途切れることなく、造船所につくまで続けられた。
 メインコンピューターsky‐26が閉じ込められた厳重警戒区域は、入るのは難しいが出るのは容易い。それは勿論、外からの侵入者に地球の防御プログラムを書き換えられることを懸念してのことだ。だが、千空の揺れる心は俺に区域の内外を自由に出入りさせてくれていた。そのおかげで俺は十年をかけて月の街をくまなく歩き、月に住み着いた人々が宇宙船を建造する造船所も見つけることができた。
「よぉ、高梨! 連れてきたか?」
 声をかけてきたのは、造船所全体の指揮を取る中年の香禮こうらいという名の男だった。
「こっちが〈昴〉から来た環奈。こっちが地球から来た統星だ」
「こんにちは」
「よろしく頼む」
 二人がそれぞれ挨拶をすると、香禮は持ち前の豪快な笑いを披露した。
「話は高梨から聞いている。それにしても、本当に〈昴〉と地球から人を呼びつけられるなんてなぁ。どんなマジックを使ったんだ?」
「マジックじゃない。ちょっと時空を切って繋げてやっただけさ」
「それが神の領域だっていうんだよ。〈昴〉で発表したら、さぞ投資家達が集まって、今頃お前はウハウハだったろうに」
「〈昴〉限定の現世利益になんて興味ないんだよ」
「はいはい、分かってらぁ。地球に帰りたいんだろう?」
 香禮の言葉に俺はちょっとだけ笑って見せ、造船所内の案内を促した。環奈は早速目に付いたものの中から噴水器になりえるものと貯水槽になりえるものとを選び出し、造船所の作業員に指示を出し始める。
「環奈はすごいな。〈昴〉の何よりの資源はあの人材が持つ頭脳だな」
 わずかばかりの悔しさを滲ませて、昴が呟く。
「大和にも財産はあるだろう」
「私たちは技術と知識では到底〈昴〉に及びもつかない。あるのは地球が持つ天然資源くらいのものだ。私たちが生み出したもので彼らに叶うものは何一つ見当たらない」
「そうかな。例えば環奈は地球に槌を求めて行くわけだけれど、〈昴〉では野菜といえば水栽培くらいしか行われていない。君達は大地を肥沃にするために焼畑を行うだろう? 環奈たちは焼畑が大地を豊かにする効果の仕組みは研究できても、台地を妬くという発想が出てくるまでにはいくばくかの時間がかかるだろう。地球人には代々引き継がれてきた伝統がある。それを教えてあげることは、〈昴〉にとって大きな意味を持つものだと、俺は思うよ」
 俺の話を聞きながら次第に目を見開いていった統星は、納得したように頷いた。
「我々にもできることがあるのだな」
「そうだ。負い目だけだと本当に地球を持っていかれるぞ」
「肝に銘じておく」
 素直な子だ。どこまでいっても真っ直ぐな子だ。若さゆえの正義感という面もあるのだろうが、統星なら一生それを大事に持っていてくれそうだ。
「統星」
「はい」
「よき帝になれ」
 息子だから賭けるんじゃない。この少年の未来に賭けたくなった。
「はい」
 まだなれるかどうかも分からないのに、とは統星は口にしなかった。こいつは帰ったら民衆を味方につけ、腹違いの兄から王位を譲り受けることになるだろう。
 でも俺は、おそらくそれを見届けられない。
 環奈が雨を降らせるための機械を船に取り付け終わるまで、それから二日あまり。二人が月に来てから三日目の朝を迎えようとしていた。この間、必要な食事と睡眠はしっかりとっていたから、降雨器は実質二日足らずで完成させたことになる。
「それじゃあな」
 完成した船への乗り込み口で、俺と環奈と統星は香禮と手伝ってくれた人々に挨拶をした。
「高梨、分かっているだろうな? 月の結界を解いて地球に行くことができたら、必ず俺たちのことも迎えに来いよ? 俺たちはそのために船を貸すんだからな?」
「分かってるって。環奈、いずれそのうちみんなに船を返しに来てやってくれ」
「はーい」
 足取りも軽く、環奈と統星は船の中へと入っていく。
「香禮、俺にもしものことがあったら、二人をよろしく頼む」
「もしもだなんて縁起でもないこと言うなよ」
「特に統星の方は――地球は月が役目を終えれば守りを失うようなものだ。〈昴〉人の欲がどこまでいくかは分からないが、何かあったときには月にいる香禮達が地球を守ってやってくれ」
 俺が香禮の前に手を差し出すと、香禮はごつごつとした黒い手で包み込むようにして強く俺の手を握りしめた。
「つくづく注文の多い奴だ。でも分かったよ。お前にもしものことがあったときは、お前の言葉を守ろう。高梨、お前はせいぜいこれが遺言にならないように頑張れよ?」
「ああ」
 俺は香禮と別れて船の中に乗り込んだ。操縦室は思ったよりも狭く、三人入ればもうぎゅうぎゅうだ。
「お父さんは副操縦士ね。あたしが舵を取るわ。一度これくらい大っきい船を動かしてみたかったのよね」
 自分なりのカスタマイズまで加えてしまったらしい操作盤を見れば、中央に座りたいとは思わなくなる。俺は苦笑して環奈の後ろの席に座った。
「私はどうしたらいい? 何かできることは?」
「昴はね、そこに座ってこの大きな画面を見てて。酔わないようにね」
 昴は環奈に指し示された俺の隣の席に大人しく座り、ベルトを締める。それを確認して環奈は船のエンジンをかけた。
「それじゃあいくわよ。全速前進。いざ地球へ」
 慣性の法則を感じたかと思った次の瞬間には船はふわりと浮き上がり、いくつかの灰銀の扉の間をかいくぐって宇宙へと飛び出した。
 体が地上に取り残されて引きずられるかのような感覚に、隣の統星は目を見開いたまま悲鳴すら出せないでいる。環奈に言われたとおり、大宇宙を映し出し、瞬く間に無数の光で一杯になっていく大画面を見続けるために、歯を食いしばり、充血した目を見開いている。
 月の引力圏を抜けたところで、ようやく体全体、特にも心臓を襲っていた焦燥感のようなものが解け去っていく。
「統星、もう大丈夫だよ」
「ほ、本当か?」
 尋ねた声は少女のようにか細く震えていて、俺と環奈は思わず声を立てて笑ってしまった。
「これほど怖ろしい体験をしたのは初めてだ」
 不満をしかめた顔の中に押し込めて、統星は未だ茫然とした声で呟いた。
 俺と環奈は声をたてて笑い合う。
 ここ二千空がいてくれたら。そう思った時だった。緊急事態を知らせる赤いランプが警報音とともに点滅を始めた。
「六時方向に高エネルギー体が集中しはじめています」
 この船の人工水先案内人が、望ましくないシナリオに突入したことを知らせた。
「六時方向というのは?」
「月基地の方からね」
 統星に答えて、環奈は大きなスクリーンに月の様子を映し出させた。
「千空……」
 いくら君がいてくれたら、と心の中で呼びかけたからって、こういう時ばかりskyプログラムを発動させて俺たちの船を駆逐しようとは、どういう了見だ。今までも〈昴〉から地球へ向かおうとした者に対しては月に幽閉する寛容さくらい見せていたじゃないか。月を出て地球へ向かおうとしても、君は月の引力圏内から出してはくれなかった。ようやくその関門を突破できたと思ったのに、どうしてskyプログラムを抑えることができなかった?
 予測してはいたことだ。この計画を練るにあたって千空が不安げにこぼしていた。skyプログラムの強制力は、月と地球の間を通る者に対して最も強く働く、と。その強烈な作用はいくら自分でも抑えようがないかもしれないと。それでも頼み込んで、千空は何とか自分がskyプログラムを制御してみようと言ってくれたのだ。
「統星、副操縦士交替だ」
 俺は揺れる船内で席から立ち上がった。
「どうするつもりだ?」
「統星、環奈のことをよろしく頼む」
 俺は立ち上がった統星の肩を叩いた。そして、必死に操作盤に指を舞わせている娘の背中に視線を送った。
「環奈、統星のことを頼むな」
「え?」
 環奈が振り返る。その驚いた顔を目に収めて、俺は二人に背を向ける。
「ちょっとお父さん、どこ行くの! 今動き回ったら危ないよ」
「環奈、何があっても引き返したりするなよ? 環奈は真っ直ぐに地球を目指せ。いいな?」
「分かんないよ! 何別れの言葉みたいなこと言い出してるの」
「お別れだ。環奈、統星。俺はまたお前達二人に会えてよかった。一千年待っていた甲斐があった。だから、今度は母さんのことを迎えに行ってくるな」
 俺の目の前で鈍色の扉が閉まった。
 誰もいない廊下は思った以上に静かだ。長くもないその廊下を歩き、外へ出るための内扉の前に立つ。備え付けられていた宇宙服の袖に腕は通さなかった。そのまま外へ出る気軽さで気圧を調節する小さな部屋へと進み、覚悟を決めて一息吐き出すと、宇宙への扉を開いた。
 一瞬にして水気を含んだ肌が蒸発して滓が骨にこびりつく。
 俺は宇宙船のタラップを蹴って宇宙へと飛び出した。後ろで自動的に船の扉が閉じる気配がする。
 何の音もしなかった。何の臭いもしなかった。ただ星だけが、船や月から見るときよりも一層なまめかしく、美しく見えた。
 見えない何かを掻き分けて、俺は船と月基地との間に割り込んだ。月基地の砲撃等には青白い高エネルギー体が小さく凝縮されて、人の魂のような不気味な、それでいて清らかな光を放っている。
 俺も腹の前で掌を向かい合わせ、全身を活性化させているエネルギーを両手の間に凝縮して溜め込んだ。
 今頃船の中では環奈が俺のことを見て目を疑っているはずだ。ただの干からびた肉をこびりつかせた人の形をした機械の塊が宙に浮いているように見えるだろうから。
 ごめんな。小さいお前をスラムから連れ出した時には、とっくに父さんはこの身体だったんだ。笑い、泣き、食べ、動き、跳ね、眠り――人間だった時と同じように生きてきたつもりだ。気づかなかっただろう? アンドロイドだなんて。ぬくもりもしっかり感じていただろう? 体温さえも人間を忠実に再現したんだから。
 統星、お前は理解できないものを見ているように思うかもしれないね。過ごした時間はたったの二日あまりだったが、それでもお前が次第に月の人々にも環奈にも心を開いていったのは嬉しいことだったよ。
 環奈、統星。二人とも新しい時代をこの宇宙に導いてくれ。
 お前達ならできるよ。二人とも、俺と千空の大事な大事な子供たちなのだから。
 たとえこの体はばらばらになっても、心は千空と環奈と統星とともに地球に帰るから。だから泣くな。俺の心を無事に地球に連れて行ってくれ。
 俺は、掌の中に凝縮されたエネルギー体を、月から発射されたレーザー砲に向けて思いっきりぶっ放してやった。











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