空は君のために鐘を鳴らす

巡礼




 還りたい。
 還りたい、還りたい、還りたい。
 目の前にいつもあるのに、手を伸ばせば触れることさえできるのに、どうしてわたしはここから出ようとしないのだろう。
 あの青い星には、何かとても大切なものがあるような気がするの。
 でも、それがなんだったのか、わたしは思い出せない。
 生まれてから今まで、ずっとこの機械の音を聞いてきた。
 地球になど降り立ったことさえないはずなのに。
 まして、わたしは人ですらないのに、どうしてこんなに気持ちがさざめく時があるのだろう。
 sky-26。
 月に根を張りて、〈昴〉に収監された罪人たちの末裔を監視するのが我が務め。
 人工知能であるわたしに、過去などあるはずもない。現在すらも意味を成さない。ここには、わたし以外誰もいないのだから。
 まして、望んだところで未来もありはしない。
 私には時がない。
 私は変わらない。
 常にここに在り、あの青い星が汚れぬように逃げ出そうとする罪人たちを撃ち落すだけ。
 記録すべきこともなく、娯楽もなく、ただ真暗い宇宙をガラス越しに眺めている。
 そういえば、手足なんかあったかしら。
 どうして手を伸ばすなんてこと考えたのかしら。
 おかしいわね。
 何も変わらないはずなのに、わたし、物忘れが激しくなってきたのかしら。
 自分が元は人間だったなんて思いたがるなんて、そろそろわたしも引退かしら。
 だめね。
 最近、泣きたくなることが増えている。
 自分で作った記憶に泣かされているの。
 わたしは地球で大好きな人と結婚して、娘と息子の双子がいて、土曜夕方のスーパーの特売に行って鯵のひらきを四人分買ってきたり、混み合ったデパートで娘がはぐれて探し回って奔走したり、四人で一緒のお布団で眠ったり。見上げると天窓からはいつもお月様とお星様が見えていた。ここで見る星よりもすごく遠くて弱々しい輝きだけれど、とても柔らかで美しかった。
 わたし、おかしいわ。
 このままでは、そのうち任務にも支障をきたすようになるかもしれない。
 その前に、新しい守人を連れてきてもらわなくちゃ。
 もう、何度自己修復プログラムを実行しても、わたしの妄想は止まらないから。
 今のわたしは、〈昴〉から罪人たちが逃げ出しても撃ち落すことができなくなっている。地球に侵入する前に、この〈月〉に閉じ込めることしか出来なくなっている。
 月の表面には人々の声が溢れはじめている。
 たくましい人たち。
 故郷にも帰れず、目的地にもたどり着けず。
 それでも彼らは伴侶を得、時を紡ぎつづけている。
 わたしは、いつか彼らを帰してあげたいと思っている。
 その時は、わたしも一緒にあの青い空を越えていきたい。
 もう一度、星を、月を、空を、あの大地から仰ぎたい。
 罪人を処刑することも厭わなかった人工知能が見る夢じゃ、ないわね。
 許して。壊れるまで、がんばるから。管理者がわたしの意識を奪うまで、ちゃんと任務を全うするから。
 〈昴〉の罪人は、地球には入れない。
 それだけは、ちゃんと守るから。
 だから、お願い。
 一目、わたしの愛しい人たちに会わせてちょうだい。






「ごめんなさい、あなた……!!」
 プログラムに奪い取られた意識が戻ったのは、レーザー砲を発した直後のことだった。向かう先には鋼鉄の身を宇宙に晒したあなたと子供たちの乗った船。
「いやぁぁぁっっっ」
 思わず目を覆いたくなったが、わたしには目を覆う手がついていない。閉じ込められたこのskyプログラムの数列の中から出ることができない。
 本当に?
 本当に出られないの?
 わたしは目を覚ました。瞼も何もなくなっていたけど、夕飯の買い物帰りに攫われてから、本当ならもう二度と目覚めないはずだったのに、人間だった時の高梨千空の意識を取り戻してしまった。
 はじめに思ったことはネギや夕方のタイムセールで仕入れたすき焼き用の牛肉がどうなってしまったのかということだった。それから愛する夫と双子の子供たちがお腹をすかせて待っているのに、という焦り。どんなに足掻いても、目の前が真っ暗なこの空間から出られないと悟って、わたしはようやく自分の身に何が起きたのかを探るために意識をプログラムの中に伸ばした。
 そこで知ったのが、地球で倫理に反する実験や思想を持つ人々を〈昴〉という人工衛星に隔離してしまおうというsky計画の一環で、わたしは月のメインコンピューターに組み込まれて〈昴〉から地球へ帰ろうとする人々を撃ち落すという役目を担わされていることだった。
 記録を辿ると、月に設置されて間もなく実の娘環奈の乗った船もなんの躊躇いもなくうち落としてしまっていることがわかった。半狂乱で泣き叫んでも、誰もわたしの声など聞こえない。ここには誰もいなかった。ずっとずっと一人だった。一日中〈昴〉を監視して、監視して、監視して。制御不能のまま、〈昴〉から地球へ向かう船を撃ち落して。できることといったら、少しずつskyプログラムを書き換えて、絶対命令である〈昴〉から地球へ渡ろうとする船への攻撃をやめさせ、月の中に彼らを匿うことくらいだった。残念なことに、月を出て地球へ渡ろうとする船への攻撃プログラムはなかなか頑固で、少しずつ騙し騙しでしかプログラムを改竄することができなかった。それでもあなたが来てから、プログラムは完璧に書き換えられたと思っていた。もっと注意深くエラーを探しておけば良かった。
 あなたは万が一、月から地球に向かう船への攻撃プログラムが発動してしまったその時は、自分が子供たちを守る盾となると言ってくれたけど、そうならないようにするのがわたしの務めだったのに。
「謝らなくていい、千空」
 あなたの声が聞こえた。
「この先は、俺の代わりに君が子どもたちを見守って」
「分かったわ。でもわたし、ここから出られないのよ。月のプログラムであればいくらでも操作してあなたを呼び寄せるシステムさえ開発してのけたけど、二人はもうわたしの手から飛び立ってしまったわ」
「大丈夫。自分を信じて。閉じ込められていると思うから千空はそこから動けなくなっているだけなんだ。意識を楽にして、何も考えないで、ふわっとそこから離れるイメージだけを思い浮かべて。さあ、一緒に帰ろう。地球へ」
 あなたの言うとおりに意識を手放すように力を抜くと、ふわっと冷たい檻の中から飛び出すような心地がした。
「千空」
「あなた」
 そこではあなたが手を差し伸べて待っていてくれた。わたしはその手をとり、あなたと並んで二人の子供たちが乗った船を追いかける。今やわたしは自由だった。一千年ぶりに手にした自由だった。宇宙を浮遊する小さな岩石の間をすり抜け、二人の乗る船の制御プログラムの中に入り込む。
 船の中では残された環奈が大声をあげて泣いていた。
「お父さん! お父さん! お父さん!」
「落ち着いて、環奈。落ち着くなんて無理かもしれないけど、落ち着いてくれ」
 統星が慰める術も思い浮かばないまま、環奈の肩を叩いてみたり背をさすってみたりしている。
 優しい子。
「環奈、君が操縦桿を握ってくれないと、僕たちは無事に地球へ帰ることができなくなってしまう。地球へ行くことは環奈の念願だろう? それに、お父さんもそれを願っているから、身命を賭して環奈と僕の子とを守ってくれたんだよ」
 環奈は何も言わずに泣きじゃくっている。わたしはスクリーンに大きく前方の地球を映し出した。
「見て、環奈。地球だ。ここからだと雲もよく見える」
 ようやく環奈は泣き濡れた顔を上げ、わぁと小さく簡単の声を上げる。しかしすぐに顔は曇った。
「月基地を映して」
 のろのろと立ち上がった環奈は、あっという間に後ろに遠く引き離された月基地をスクリーンに映し出した。月基地は先ほどレーザー砲を放った砲台が、押し返された高エネルギー体によってめちゃくちゃに破壊されていた。上がるのは煙だけでは無く、赤い炎も見える。月に匿った人々に影響が出なければよいのだけど。
「月基地が燃えてる」
 環奈は茫然と呟いた。統星も心配そうにスクリーンを見つめている。
 わたしは月基地で二人がお世話になった造船所に通信回線を結んだ。
『あ、高梨、高梨か?』
 信号に気づいてマイクを手に取ったのは、香禮さんだった。
「爆発があったでしょう? そっちは無事?」
『なんとかな。どうやら月基地のメインコンピューターがいかれたらしい。全てのロックが解除になってる。怖いもの知らない奴らは早速消火だって言ってメインコンピューターのある中枢に入っていったよ。おそらくもう第二砲を発するようなこともないだろう。今までの忠勤が嘘のように呆けちまってる。ところで、親父さんは?」
「お父さんは……さっきのレーザー砲を止めるために……」
 悲痛な面持ちすら伏せて環奈は自分に言い聞かせるように告げた。香禮さんは『そうか』とだけ短く返す。
『高梨のやつ、環奈に統星、お前さんたち二人に会えるのを楽しみにしていたよ。今は住む星も違うが、自分の自慢の娘と息子だって。いつかまた奥さんを取り戻したら、四人ですき焼き鍋をしたいと言っていた』
「すきやき、鍋……?」
 わたし達家族の大好物のすき焼き鍋。夕飯をこれにすれば、たとえ朝喧嘩して学校や研究所に向かっても、帰ってくれば鍋をつつくうちにいつもの家族が戻ってくる魔法の鍋。
 隣であなたが笑っている。
 今の環奈と統星はすき焼き鍋など知らないだろうけど、何か通じるものがあったのかもしれない。
「統星、すき焼き鍋って知ってる?」
「遠い昔の家庭料理で、鍋の中に白菜やきのこ、にんじん、こんにゃくや、それから牛肉を入れて砂糖としょうゆで煮込み、溶いた卵で食べる料理のこと、だと本には書いてあった」
「何それ、すっごくおいしそう。〈昴〉でも野菜を作れるようになったらやってみよう」
『ここを出る時の香禮の言動思い出すとすっごく浮かれていたよな。それどころか歯が浮くような台詞飛ばしまくってて。まるでこうなることが分かっていたようだったな」
「そんな……」
『お前達二人を守るのがあいつの使命だったんだよ。それが分かったら前を向け。顔を上げろ。特に環奈、お前の地球での役目は重要だ。お前が無事に〈昴〉に土を運び、培養して広められるかどうかで、地球の運命が変わる』
「地球の運命? そんな、大袈裟な」
『大袈裟なもんか。月基地の対〈昴〉用の結界は解かれてしまったんだ。充分な土がなければ土を求めて〈昴〉が地球を侵略しないとも限らない。それを防ぐには環奈が土を〈昴〉に広めるしかない』
 神妙な顔で環奈が頷く。一方何か考えをめぐらせていた統星は徐にスクリーンの中の香禮さんを見上げる。
「月にいる皆はどうするのだ? すぐにでも地球に来るつもりか?」
『〈昴〉に戻りたい奴は戻るだろうし、先祖代々月に住み慣れちまった奴は月に永住するだろう。地球に戻りたがっている奴らに関しては、地球の混乱が収まるまで俺が責任を持って止めておく』
「分かった。よろしくお願いします」
 ほっと一息ついた統星は、環奈を振り向いた。
「環奈、前に進もう。私に協力してくれ」
 今は嘆いている時ではないのだと、統星は暗に環奈に言い聞かせているかのようだった。
「統星には分からないよ」
 環奈は予想に反して統星に噛みついた。いつもは聞き分けのいい子なのに、よほどあなたのことがショックだったのね。
「お父さんはね、お父さんはね……研究所からスラムに捨てられたあたしを探し出してくれて、ちゃんとした名前までくれた人なのよ? そりゃ三年くらいしか一緒には暮らせなかったけれど、あたしは今でも本当に感謝してるの。〈昴〉に土を持ち帰りたかったのだって、元はお父さんの念願だったからっ」
 再び泣き出してしまった環奈の両肩を統星は掴む。
「だからこそ環奈がお父さんの念願を叶えなくてどうする。環奈が叶えてこそお父さんも喜ぶんじゃないか?」
 統星の言葉に環奈は押し黙ってしまう。と、あなたがわたしの肩を叩いた。
「千空、ちょっと協力してくれないか?」
 もちろんわたしは頷く。あなたの言うとおり二人へのメッセージを入力していく。最初に気づいてくれたのは、スクリーン越しに二人を心配そうに見守ってくれていた香禮さんだった。
『おい、見ろ。顔を上げてスクリーン見てみろよ』
 つられて二人は顔を上げる。
“環奈、俺の意志を継いで〈昴〉と地球を守ってくれ。”
「お父さん……? お父さんなの? ねぇ、いるの? いるならお願い。悪戯してないで出てきて!」
“俺はもう姿は見せられない。だけど、ずっとお前達のことを見守っているよ。お母さんと一緒にな。”
「お母さん? お母さんもそこにいるの?」
 わたしはあなたと顔を見合わせ、頷きあった。
“いるわ。”
 短く自分の意志を表出する。環奈はきょろきょろと辺りを見回していた。
“俺も千空もここにいる。だからお前達ははじめの予定通り、必要なものを必要な場所へ届けるんだ。”
「千空……月のメインコンピューターの名前……ただのプログラムの名前じゃなかったの? みんなですき焼き鍋って、どうして? どうしてみんなの中に統星も入っているの?」
 当然の問いを環奈は投げかけてきた。これにはわたしが答える。
“その昔、地球に一つの家族がいたわ。お父さんは航空物理学者。お母さんは専業主婦で、科学研究所の事務のパート。そして双子の姉弟。姉の名前は環奈、弟の名前は統星。すき焼きが好きなとっても仲のいい家族だったけど、ある日お母さんは研究所の人に捕まって、月の制御システムのメインプログラムに組み込まれてしまった。お父さんと環奈と統星は一所懸命助けようとしてくれていたけど、お父さんと環奈は危険思想の持ち主として〈昴〉に送られ、統星は政治家になって世界を変えようとしてくれたけれど、走り出した時間は誰にも止められなかった。統星は家族を持って間もなく暗殺されてしまったわ。環奈は〈昴〉から地球へ向かおうとしたところを……わたしが撃ち墜してしまった。お父さんは機械の体を得て、再び環奈と昴と同じ遺伝子をもつ子供が生まれてくるのを待ち続けえていた。環奈、統星、血なんか繋がっていないとあなたたちは言うかもしれないけど、わたしたちにとっては待ちに待った娘と息子なの。”
 統星と環奈は顔を見合わせる。お互いの中に何かを見出そうとするかのようにじっくりと見つめ合う。
「姉弟?」
 元双子らしく息もぴったりに驚きあう。
「でも似てないじゃない!」
『異性の双子は似てないって言うだろ』
「そうだ。どうして私が環奈を姉と敬わねばならない?」
 二人には香禮さんの一言も聞こえていないらしい。
「はっ、姉! そうよ、あたしがお姉ちゃんなのよね。それならいいわ。統星、あたしを敬いなさい。讃えなさい。尽くしなさい!」
「……環奈、そなたは頭はよいが……馬鹿だろう?」
「何ですって!? そういう統星こそ弟のくせに生意気よ!」
「何だと!? 双子なのだろう? 上も下もあるものか!」
 勢い込んで二人はにらみ合っているというのに、わたしとあなたとは思わず笑ってしまった。だって懐かしくって。あの頃が戻ってきたようで。
 ああ、もう本当に取り戻せないのね。戻りたいと願うこともできないのね。だってこの子たちにはそれぞれの帰る場所があるのだから。
『はいはい、そこまで。仲がいいのはよく分かったから』
 わたし達の代わりに香禮さんが呆れ顔で仲裁に入る。
「よくないっ」
 二人一斉に香禮さんを振り返る。
“ケンカしないで。”
 視線が戻ってきたところで、わたしはスクリーンに文字を打つ。
“わたし達の悲願はあなたたちにかかっているの。分かるでしょう?”
 環奈と統星は思いをめぐらせるようにそれぞれ目を伏せる。
 不思議ね。昔の環奈と統星のことなんて、二人は知っているはずがないのに、まるで二人はそれを思い出しているかのよう。こんな風に思うのって、ただのわたしのお仕着せかしら。
「お……母さん。あたし、頑張るから。たとえ直に血が繋がってなくても、遺伝子が同じなら、あたしお母さんの子だよね?」
“もちろん。”
「嬉しい。あたしお母さんいなかったから嬉しい。ありがとう、お母さん。あたし頑張るね」
“頼むわね。”
 素直な子に育って暮れてよかった。何より優しい子。私たちのことを受け入れてくれてありがとう、環奈。
 俯いたまままだ何かしら考えていたのは統星だった。
“統星”
 きっと複雑な気持ちなのだろう。統星には地球に産みの母がいる。
「私には母上と呼ぶ人がいます。私を産んでくださった母が」
“知っているわ。だから無理にわたしのことを母と思わないで。あなたはあなたのお母様を大切にして”
「いえ、そうではないのです。あなたの話が全て真であるなら、わたしも環奈も、あなた方の血を引いているのではないかと。環奈は月で私に遺伝子について教えてくれたとき、自分は造られた子供だと話してくれました。環奈は高梨殿が作ったのではないだろうか。私は、もしかしたら昔の統星殿が残していった子孫の末裔なのではないかと。おこがましいかもしれませんが」
 賢い子。深く考えることができる子なのね。
 わたしは長い間地球を見守ってきたあなたを見た。あなたは笑顔で頷いている。
「よいのです。答えなど知らなくても。千空殿、あなたはきっと母なのです。我々一族の源にいらっしゃる方なのでしょう。だからあなたも、わたしにとっては母です。声は聞けずとも、姿は見えずとも、あなたがこんなに懐かしいのは、あなたが私の母だからなのでしょう」
 もしこの心に体があったら、きっとわたしは泣いていた。腕と胸を持っていたら、しかと二人をこの胸に抱きしめていた。今はそれができないのが心の底から悔しい。
“ありがとう、統星。”
「地球と〈昴〉のことはあたし達に任せて。今度こそ仲良くやっていけるように取り計らってみせるわ! ね、統星」
「ああ。必ずお二人の長年の夢を叶えよう」
『俺たち月に住む者の夢もかかってるんだからな。頼んだぜ』
 香禮さんの言葉に二人が力強く頷いたのを確かめて、わたし達も香禮さんも通信を終了する。
「さあ、そろそろ大気圏突入よ。しっかりシートベルト締めててね」
「分かった」
 生き生きとした環奈とは対照的に、統星の表情は引き締まった。
 船は炎の尾を引きながら地球の青い大気の中に突っ込んでいく。
 夢にまで見た地球。何度帰りたいと願い、月からこの青い空を見つめていたかわからない。ようやく今、二人の子供たちのおかげでわたし達は地球に帰ることができる。たとえずっといられるわけじゃなくても、もう一度その地を踏みしめることができるなら、本望だった。
 大気圏突入の衝撃に耐え、窓の外にはついに晴れ渡った空が広がった。眼下には青い海原に囲まれた黄茶に乾燥した大地が広がる。
「海だわ! 大地だわ! 空だわ! そうよ! ここには水もこんなにたくさんあったんだわ!」
「しかし海の水は塩辛くて飲めないし、農耕にも適さない」
「濾過すればいいのよ。塩と水をより分けるの。あとでその機械も作るわ。それにしても早くその空気を吸ってみたい。地球の大気は味が違うんでしょうね」
「空気に味などあるものか。味も匂いもない。それが空気というものだろう?」
「いいえ、あるわ。雨が降れば土から匂いが湧き立つわ。統星、統星の住んでいるところはどこ?」
「どこ、と言われても……私は皇宮の外に出たのはこれが初めてだ」
 困惑気味の統星を、環奈は一笑に付す。
「随分遠くまでの外出になったわね、お姫様」
「姫ではないっ。私は男だ!」
「統星の帝位継承のため、ぱぁっと皇宮に向かって雨を降らせていこうと思っているんだけど、その格好じゃ外出て立っててもらっても皇女がやったようにしか見えないかもね」
「私のことはいい。早く雨を降らせてくれ」
「はいはい。じゃあ出ましょうか、外に」
 環奈は早速情報を拾い上げた地球の地形図を元に自動操縦に切り替え、統星の袖を引っ張って甲板に出た。眩い太陽の光に腕をかざし、二人は目を細め、やがてゆっくりと地球の空気を吸い込む。
「埃っぽいわね。乾いた味がする」
「〈昴〉の大気はどんな味がするんだ?」
「機械油? 慣れちゃうとわからないんだけど、ここに比べるとすごく人工的な味」
「人工的な味、か」
「これがひと段落したら遊びに来なさいよ。庶民の家でよければ歓迎するわ」
「そうだな。環奈の生まれたところも見てみたいものだな」
「約束よ?」
「約束する」
 二人は仲良く絡めあい、はっと何かに気づいたらしく指を外し、照れたように顔を背けあった。
「統星は甲板の先に立ってて。できるだけ目立つように。さて、雨を降らせるわよ。三、二、一……」
 環奈は統星が甲板の端にたどり着く前に、持ってきた遠隔操作盤のスイッチを押した。
 船の底からぽつり、ぽつりと水滴が落ちはじめる。やがてそれは船底全体に広がり、広範囲に船の黒い影を落としながら乾いた大地を打つ雨を降らせていく。船から注がれる雨音は、まるで空が鐘を鳴らしているかのように澄んだ音を大地に響き渡らせた。
 地球の大地では突然降ってきた雨に、何事かと人々が空を見上げる。
「おーい、水を持ってきたぞー!」
 雨音にかき消されないように大きな声を張って、統星は人々に両手を振る。
「うーん、いい音」
 甲板のうえで雨と土の混ざった匂いを吸い込みながら、環奈が一つ伸びをする。
 熱された地上に降り注いだ雨は蒸発して、やがて自らの摂理で黒い雲を呼び寄せる。船が通ったあとは真っ黒な雲に覆われ、雲は多分に含んだ水分を介抱し、時に天気の不安定さに黄金の龍が雲の中を飛び交いはじめる。
 大地で空を見上げていた人々は、通り雨の襲来に歓声を上げ、土に跪いて感謝の祈りを捧げだす。
「環奈、あの朱塗りの城門が我が大和皇国の皇宮だ」
「それじゃあ一つ派手にいきましょうか」
 環奈の操作で船はぐるぐると皇宮の上を旋回しはじめる。
 三日間離れていた皇宮をじっと見下ろしていた統星は、やがてあっと小さな声を上げた。
「どうしたの?」
「広場に人が集まっている」
 統星の顔に嫌な緊張感が走る。どれどれ、と下を見下ろした環奈も息を呑む。
「あれは……処刑?」
 たくさんの群集の中央、十あまりの磔架が人を張りつけて立っている。その足元に積み上げられた粗朶に、今まさに火がくべられようとしていた。
「計都……! 環奈、貸せ!」
 統星は環奈から遠隔操作盤をひったくると、雨の強さを最大限に引き上げた。
「ちょっと! 乾いた大地にいきなり豪雨を降らせたら洪水になるわよ!」
 頭上から打ち付けてくる白い矢に、広場に集まった人々は頭を抱えながら上空を見上げた。広場中にどよめきが伝わっていく。
「私だ! 統星だ! ただ今水を持って帰った。さらば、そなたら、その怒りを鎮めよ!」
 大地から白い靄が立ち上り、視界は悪くなっていく。上空には渦巻く気流に沿って黒い雲が膨らんでいく。
「そんなんじゃ聞こえないわね。これを使って。声が大きくなるから」
 遠隔操作盤の横のスイッチをオンにして、環奈は手に持つ遠隔操作盤を口元にあてて見せる。
「あ……あ……私はこの国の第二皇子、統星である。三日前の約束どおり、大和の国を潤す水を〈昴〉から持ち帰ってきた。彼らの技術力がある限り、今後私たちはもう渇水と旱魃に頭を抱えなくてもよくなったのだ。必要な時に、必要な場所に必要な量の雨を降らせることができるようになったのだ。頼む。怒りを鎮めてくれ。これからはそなたらが豊かに暮らせるよう、この私が尽力する!」
 雨に打たれる人々は、はじめはぽかんと空と船とを見上げていたが、やがて一人、また一人と跪いて大地に額づいた。そして一人が叫ぶ。
「統星帝、万歳!」
 その声は回を重ねるごとに輪を広げていき、やがて広場中を喝采の渦に巻き込んだ。
「やったね、統星」
「環奈のおかげだ」
 二人は強く手を握り合った。
 それから一週間をかけて、環奈は船で大和の大地を潤して回った。途中、農耕と培養に適した黒土を採取することも忘れなかった。
 統星はあの日、早速大地に降り立つと、自ら親族達を架刑台から下ろしてやり、即日羅睺一家を西の離宮に幽閉してしまった。羅睺の弟である計都とは、環奈とそうしたように硬く手を握り合って互いの無事を喜びあい、その後の政治を議する場に片時も離さず連れ歩いた。
「あれからもう一週間ねぇ。環奈ちゃん、今日〈昴〉に帰るって?」
 皇宮の一角で、計都は文書に没頭する統星に話しかけた。
「ああ、そろそろだな。見送りに行かねば」
 統星は区切りをつけるように書物から顔を上げる。
「ねぇ、環奈ちゃん帰しちゃっていいの?」
「どういう意味だ? 環奈とは〈昴〉人が絶対に地球を侵略しないように守ってくれるという約束を取り交わしている」
「そうじゃなくってさぁ。妃候補として側に置いとかなくていいのかってこと」
 統星は口に運びかけた湯呑みから盛大にお茶を噴きこぼした。
「汚いなぁ。そんなに驚くことないじゃない。大臣達はみんなその気だよ? 奇跡の天女をこのまま〈昴〉に帰してしまうわけにはいかないって」
「天女と婚姻を結べば帝としての神格性も増す、か。残念だが、私にその気はない。環奈もそうだ。どうやら環奈は〈昴〉に気になる男がいるらしいしな」
「何だ、とっくに振られてたの」
「それ以前に環奈を妃になんて、考えもしなかった。何せ私と環奈は姉弟だからな」
「姉弟?」
 怪訝な表情をした計都を尻目に、統星は笑いながら書斎を出、環奈の船が泊まっている広場へと向かう。
「計都、確かに〈昴〉人である環奈を妃として迎え、人質とする策もある。だが、それはもう古い。私たちは〈昴〉に力を求めてしまったからには、これからは対等に渡り合っていくことが肝要だ。そのためには懐を開いてみせるとともに、〈昴〉の懐を探っていかねばならない。考えたんだ。私一人でそこまでこなせるかどうかを。難しいと思った。私はまだ帝にもなれていない。今は国内のことで精一杯だ。だが〈昴〉にはそんなことは関係ない。そこでだ、計都。計都に〈昴〉との外交を任せたい」
「……いいの? 俺で」
「私がこの国で一番信頼している男だ。水を持ち帰れなかった暁には妻になってもよいと思い定めるくらいに」
「えっ、あれ冗談だよ? 俺が好きなのは女の子だよ? 環奈ちゃんだよ?」
「分かっている。ただ、それだけ私が信頼しているということだ」
 言葉を失っていた計都は、満更でもない表情でにやりと口元に笑みを浮かべた。
「次の帝様から一心に頼られるなんて、遊び人の俺も偉くなったものだなぁ」
 空とぼけたことをいっているうちに、二人は広場に出た。広場にはすでに見送りの人々が物珍しさも手伝って多数詰め掛けている。その中で、船内に入ろうとしていた環奈を統星は呼び止めた。
「見送りに来てくれたの? ありがとう」
「こちらこそ、いくら礼をしてもし足りない。よい土は集められたか?」
「ばっちり。この土を持って帰って培養がうまくいったら、大根を作って、それを持ってまたここに遊びに来るわ。いいでしょ?」
「いつでも来るといい。楽しみにしている」
「あたしもまた統星に会えるのを楽しみにしている。その時にはもっと帝らしい風格備えておきなさいよ」
「精進する」
「じゃあ、また」
「ああ、また」
 環奈の姿が船に消えていく。と、その後を追って、統星の傍らにいた計都が走り出した。
「計都!?」
「俺も一緒に〈昴〉に行ってくるよ! 相手のことを知るなら、行ってみるのが一番だろう? 善は急げだ。今から環奈ちゃんと一緒に行ってくる」
 振り返った計都は、もう半ば船の中に呑みこまれている。
「大丈夫。環奈ちゃんには手ぇ出さないから」
「そういう問題じゃない!」
「統星! お前は約束どおり大和に水をもたらしてくれた。今度は俺が大和を豊かにする番だ。俺が戻ってくるまで、統星、お前は足元掬われないように粘ってろよ!」
 統星は頭を抱えたくなるのをぐっと堪える。
「環奈! すまないが計都のことをよろしく頼む!」
「任せといて!」
 環奈の声は船全体から拡声器を通して伝えられた。統星はほっと溜息をつく。
 船はエンジンをふかし、風塵を舞い上げて離陸し、青い空へと吸い込まれていった。
「またな、環奈。行って来い、計都」
 統星の真っ直ぐな視線に見送られて。
 それから二日、環奈は〈昴〉の家に計都を伴って帰還していた。
「お養父さーん、帰ったわよー。アールレイは殺してないでしょうね!?」
「帰ってきて早々物騒な子だ。私が直接手を下すわけがないだろう」
「何ですって! じゃあ警察に引き渡したの?」
「そんな面倒なことをするか。今回だけは大人しくスラムに帰ってもらったよ」
「わぁ! お養父さん大好き!」
 環奈に飛びつかれた養父は、つと玄関先に突っ立っている珍しい衣装の少年に目を留めた。
「その子は?」
「地球から来た留学生の計都よ。これからしばらくうちで暮らしてもらうの」
「お前なぁ、勝手にそんなこと」
「あたしが決めたからいいのよ。それに計都は地球の出身だから農業に関しても色々と助言してもらえるわ。船の中で早速たくあんっていう保存食を教えてくれたのよ。それはそうと、お養父さん、話したいことがたくさんあるの。聞きたいこともたくさん」
「聞きたいこと?」
「月でお父さんとお母さんに会ってきたわ。それに昔の弟にも」
「それは長くなりそうだ。まずは荷物を置いておいで。ご飯にしよう。話はそれからだ。計都君、君も空いている部屋を好きに使ってくれて構わないから」
「お世話になります」
 環奈は計都を連れて二階へと上がっていく。環奈の養父は暖炉の上に置かれた古ぼけた写真のカップルに、そっと視線を投げかけた。
「ついに逢えたんだね。おめでとう」
 二人のカップル――わたし達は声をそろえて囁いた。
「ありがとう」
 と。
 地球への巡礼も終えた今、わたし達が環奈と統星のことを見守れるのはここまで。この後の時間は……
「ねぇ、あなた。久しぶりだもの。時間はたっぷりあるわ。ゆっくりと語らいましょう」
「そうだね、千空。久しぶりの、二人っきりだ」


 地球から一隻の船が〈昴〉に帰還。このニュースを受けて、〈昴〉政府は地球の大和皇国との国交を結ぶべく動きはじめる。
 侵略へと向かわなかったのは、ひとえに環奈の尽力と、統星の内政の充実とが功を奏した結果である。










〈了〉





 ←ひかりのゆめ 管理人室 書斎 読了

  201202270137