春宵桜雨しゅんしょうさくらあめ(3)



 庭に植えた枝垂桜は、二年で私の背を追い抜き、三年目で田村の背をも越えるようになっていた。
「随分と気ぜわしく成長するやつだなぁ」
 と田村は暢気に言って見上げたものだが、私にとって、それは朔夜様の誠意の証に他ならなかった。
 けれど、花はまだ咲かない。
 梅も桃も、この国のほかの桜たちすらも咲き散った頃、時期をあわせるように細長い葉ばかりが芽吹きだす。
 おかしなことに、田村は私以上にこの木を心配しているようだった。
 来たばかりのときは農民まがいの無粋な男よと思ったものだが、年の功なのか、あるいは生まれついての気性だったのか、思いのほか装束の色の重ね合わせや詩歌に書道、琵琶や笛といった楽器の扱いにいたるまで、この男は私がぐうの音も出ないほど繊細な感覚を持ち合わせていた。
 さらに別館には父から送られたという書物の写しが大量に保管されていた。
 その書物を使って、入間に教えるついでといって女の私にまで四書五経を教授する始末。
 確かにこれほどの才があれば、文化人と誉れ高かった父の相手も務まろう。父とてこの鄙に絶望することなく、むしろ喜んで居ついていたのかもしれない。
 そして、やはり父が私を嫁がせようとしたのはこの田村庄衛の方だったのだろう。
 今年十六になる入間は、才がないわけではない。
 すぐ上の姉が遊びわたった都の貴族の男達よりはよほどよい感性をしている。
 会った当初の悪鬼ぶりも最近ではだいぶ影を潜め、一見すれば田村よりも細やかな気配りができるようになっていた。
 見た目とて悪くはない。むしろ田村よりもよほど貴公子然としていて、都でも通用するかのような容貌を持っている。
 だが、入間はできはよくとも余りに型どおりすぎて、農耕と笛を奏でるのとを同じ岩のような手でこなす庄衛と比べて私には多少物足りなく思えるのだった。
 田村の血族は、今は庄衛と入間しかいない。
 庄衛には北の方どころか側女一人居らず、入間の父母といえばとうに亡くなっている。
 叔父と甥の男二人で暮らす館には当然のように侍女は少なく、ここへ来た当初、乳母達は館のあちこちで目を覆いたくなるような惨状を見たのだという。
 そんな乳母達もこの三年でだいぶここの暮らしに慣れてしまったようだった。
 勿論、いつか都へ帰ろうと思っていることくらいはお見通しだけれど。
 私が女になったのは、その翌年。真冬のことだった。
 そのことは乳母を通して田村に伝えられ、田村は裳着には父も呼ぶと言ってくれた。
 すぐに使者が都へ出向いて父を連れて戻ってきたとしても、それは春の半ば過ぎということになる。
 同時に、田村は領主の座を入間に継がせるために下準備を始めたようだった。
 私はといえば、乳母達の目を盗んでは雪が深く降り積もる庭に降り、大きく育った枝垂桜の幹に寄りかかってしなやかな枝に指を絡め、花咲く望月の夜が来るのを待ち焦がれるばかり。
 けれど寒さは確実に私の体を蝕み始め、ついに私は自力で庭に下りることができなくなってしまった。
 そんな私を見て、田村は原因が自ら植えた花咲かぬこの枝垂桜にあると気づいたのだろう。
 ちらほらと桜が綻んだという報せが聞こえはじめたある朝、春の匂いが浮き立つ庭から騒がしい男達の声があがったのだった。
「比和、外では何をしているの?」
 看病のためか、私以上にめっきり痩せてしまった乳母は軽く首を振った。
「姫様のお気になされることではありません」
「じゃあ、あの戸を少しでいいから開けてちょうだい」
「冷たい風が入ってまいりますゆえ、できません」
 嫌な予感が悪寒となって体中を駆け巡っていった。
 衝動に突き動かされるままに私は乳母の手を振り切って床から這い出し、戸を力任せに引き開けた。
「あっ……!!」
 目に飛び込んできたのは、雪をのせた長い枝をたわませられ、或いは激しく揺さぶられながら根こそぎ引き倒されていく枝垂桜の姿だった。
「何をっ……何をするのっ!?」
 私が睨みすえたのは、私の姿を見て慄く領民達ではなく、平然と私を見下ろしていた田村だった。
 完全に根からひっくり返った枝垂桜を見届けた田村はやおら、私に歩み寄る。
「田村殿! その枝垂桜は田村殿も愛でていたではありませんか!」
「花咲かぬ枝垂桜に何の益がある? 桜ならば人の目を楽しませてこその存在だろう? それを三年というもの花も咲かせず、四年目となっても枝に花芽すら膨らまない。姫さんがそんなに枝垂桜が好きだというのなら、明日にでも新しくちゃんと花咲く枝垂桜を植えてさしあげよう」
「だめよ! その枝垂桜は私が都より持参した大切な木なのよ?! それをこのように断りもなく引き倒してしまうなんて……。私、田村殿は分かってくださっているとばかり思っていましたのに!」
 叫んだ瞬間、冷たい風が体内へと吸い込まれ、余りの痛さに私は咳き込んだ。
 その隙に、田村殿は枝垂桜に縄をかけ終えた領民たちに庭から運び出すように指示を出す。そして渡殿を飛び越え、遠慮なく私を抱えあげて床へとおろした。
「桜姫、今の自分の状態をよく考えろ。二年も冬を無事に越せたあんたが、どうして今年はこんなに弱っちまってるんだ? それもこれも真冬にあの木の下でぼんやりすることが多かったからだろう? 何を待っているかなんて俺は知らないが、俺は姫さんをそいつにあわせるわけにはいかない」
 大きな瞳はらんらんと私を刺し貫く。
「言ったはずだ。こいつらはしゃべりこそしないが、愛してくれる相手を見抜くし、愛する相手をちゃんと選ぶもんだって。時に、それは過剰になることだってある」
「過剰? 違うわ。過剰なんかじゃない。足りないくらいよ。もう一度あの方に会うためなら、あの方が約束を守ってくださるというのなら、私は何だって差し出すわ。この身も、命も」
「やはりか。姫さんが都で住んでいた屋敷の枝垂桜、今年の冬を越すことなく枯れたそうだ。年々弱ってはいたらしいがな。それに、この間正月に来た龍桂寺の和尚が教えてくれた。姫さんはあの木の精にとりつかれているようだってな」
 睨みあったのはほんの刹那に満たない間だった。
 均衡を崩すように溢れ出た咳は止まらなくなり、その間に田村は乳母達に何があってもこの部屋から私を出すなと命じて出て行ってしまった。
 出て行こうにも咳をするたびに体力は削り取られる。
 そうして私は否応なく眠りへと引きずり落とされていった。 

 
 さやさやと半蔀の隙間から月の光が漏れ入り、枕元へと零れ落ちてくる。
 目がさめた私の目にはいってきたのはやけに明るい光。
 少し首をひねると、拳一つほど開いた戸の隙間の向こうに白い満月が見えた。
 季節こそ違えど、朔夜様と見た月と同じ色。
 ああ、けれどあの枝垂桜は田村に引き倒され、どこかへと持っていかれてしまったのだ。
 昼間の光景がありありと目に浮かび上がり、胸につかえたものを吐き出すように私は身をよじって咳き込んだ。
 約束したのに。
 あの枝垂桜が大きくなって花が咲いたら、望月の晩に迎えに来ると。
 ここでの生活がつまらなかったわけではない。
 当初抱いていたこの地の人々への嫌悪感も今はない。
 けれど、この地に慣れ親しむことはあっても、受け入れることはあっても、都で十年かけて培われた誇りまでを引き渡してしまうことはできなかった。
 枝垂桜が、朔夜様との約束が私の心に子供のままの私を引き留める。
 この地で私という存在がめまぐるしく変わっていくことを、私は心のどこかで恐れていたのかもしれない。
 たとえそれが周囲から見てよい方向であったとしても、私には捨てきれないものがある。
「秋虫殿」
 だから、その声を三年ぶりに聞けたときは幻かと思ったのだ。
 戸の隙間から月の光と共に届けられた声を確かめるため、私は床を這い出す。
「秋虫殿」
 間際から聞こえた声に導かれるように私は戸を引き開けた。
 見覚えのある縹の直衣が目に飛び込んでくる。
 ゆっくりと私は顔を上げた。
「……朔夜様」
 三年前、最後にお逢いしたときと変わらない朔夜様の姿がそこにはあった。
 しかし、あのときには穏やかで余裕に満ちていた表情が、今宵は隠しきれぬほど憔悴している。
「秋虫殿」
 それでも向けられた微笑は優しさと愛おしさに満ちている気がして、私はこの身のどこかから湧き上がる不安や恐怖を押し戻すように、ただしばらくは縹色の直衣に顔を埋めて泣き続けた。
 さっきまで私の胸を苛んでいた疼きも咳も、嘘のように止まっている。
「朔夜様」
 私だけが呼べる名を口にして、その音に私は酔いしれる。
 そして、背が伸びた私は、小さいときには届かなかった朔夜様の胸に顔を埋め、その鼓動に聞き入ることができた。
 腕を伸ばせば簡単に頬に触れることもできる。
 白磁のように滑らかだけれど、仄かな温かみが冷えた手に伝わってきた。
 この方の正体が何であれ、生きていることにかわりはない。
「私が寂しくないように花を咲かせてくださるとおっしゃっていたのに、三年間一度も咲かせては下さらなかったのですね」
「田村庄衛と余りに仲がよいものだから、つい面白くなくてね」
 棘の含まれた言葉すら、迎えに来てくださった朔夜様の口から紡がれるなら甘く私に染み渡る。
「なら、早く迎えに来てくださればよかったものを。大人になるまでと言わず」
 不意に朔夜様は苦渋に満ちた笑みを浮かべた。
「秋虫殿、貴女は三年たった今でも私と共に生きたいとおっしゃってくれるの?」
 まさか朔夜様は本当に私が田村に心変わりしたと思っていたのだろうか。
「貴方の約束がなければ、三年間もここで生きてなどいられなかったわ。ねぇ、朔夜様。私が長いこと待っていたのは桜姫ではなく秋虫と私を呼ぶ方なのよ?」
 三年は、決して短くはなかった。
 その時間を長く共にしてきた田村は、桜姫にとってはよき師であり、よき兄のようなものだった。
 入間などは兄というよりも弟と思うことの方が多かったように思う。
 でも、私のこの胸を締めつけるように焦がし続けたのはこの方しかいない。
 桜姫と呼ばれて過ごした三年よりも、秋虫と呼ばれた二度の逢瀬の方が私にとっては忘れることのできない時間だった。
「秋虫」
 背に添えられただけだった朔夜様の両腕に力がこもる。
「本当に、いいのかい? ここの生活を捨て去る覚悟は決まっているの?」
「ええ。私は朔夜様とずっと一緒にいられるなら、ここの生活なんていらない。この身すら、何にでも捧げられるわ」
 何故、朔夜様が泣きそうな表情になるのだろう。
 貴方がここで三年もの間、暮らしてきたわけではないというのに。
 それとも、言外に私が朔夜様の正体に予想をつけていることに気づいたのだろうか。
「こんな年経りた男のもとに嫁いで下さると?」
「年? 私はただ朔夜様と毎年あの枝垂桜の花を愛でたいだけよ」
「……それは、よい夢だね」
 ふわりと私の身体は朔夜様の腕に抱き上げられた。
 二人の重さなど関係なしに朔夜様は庭へ軽々飛びおりる。
 どこへ行くのかなど、訊ねるまでもない。
 あの枝垂桜のところへ連れて行ってくれるのね。
 早く。早く私をここから連れ出して貴方の元へ連れて行って。
 渡殿には不自然に眠る乳母と侍女達。
 彼女達がまたあの金切り声を上げる前に、早く。
 その声で田村が来てしまう前に、早く私を――。
「桜姫!!」
 怒号が穏やかな春宵の大気を激しく揺さぶった。
「ああ……」
 漏れてしまったため息は私のもの。
 一番、聞きたくなかった声。見たくなかった顔。
 憤怒の鬼と化した顔が赤々と松明の火に照らし出される。
 私は思わず袖で自分の顔を隠した。
「このような時間にどこへ行く気だ?」
 やや怒気を抑えた声で田村は私に尋ねた。
 そんな田村を朔夜様は気遣わしげに眺めている。
「桜姫、どこへ行く気かと聞いている。その弱った身体で、どこまで行けると思っているんだ?」
 私は田村の顔を見ないようにして朔夜様に囁く。
「朔夜様、行きましょう?」
 朔夜様の視線は、私と田村との間で彷徨う。
 その目が、暗く澱んだのは次の瞬間だった。
「枝垂桜の精よ、迷うくらいならば姫さんを置いていけ。姫さんを愛おしいと思うなら、こっちの世界で天寿を全うさせてやれ。所詮、お前の世界に姫さんは生きて入れやしないんだろう? お前は姫さんの亡骸を後生大事に抱きながら、その血を吸って赤い花でも咲かせるつもりか?」
 朔夜様の目から最後の光が失われたのは、田村の言葉のせいだったのか、それとも、反射的に私の肩が脅えるように震えてしまったからだったのか。
 ことさら朔夜様は私を抱く腕に力を込め、一飛びで田村の館の塀を越えてのけた。
 それから先は、周りの家々や田畑の判別がつかないほど景色は後ろへ後ろへ飛び去っていった。
 私が息苦しさに咳き込みはじめても朔夜様はかまわず走り続ける。
 龍桂寺と札のたった寺の境内にはいると、鬱蒼とした森の中、灯一つない石段を一気に上っていく。
 その先に見えたのは、望月の光に皓々と照らし出された満開の枝垂桜だった。
「きれい……」
 情熱的なまでに紅い花をつけ、芳しい匂いが枝と共に滑らかに流れ落ちる木の下に私は下ろされた。
 呼吸を整えながら、私は桜の花びらに手を伸ばす。
 夜の闇に飲まれることなく、月の灯一つで紅に美しく花開かせる枝垂桜。
 これほど気高く美しく立つものを、私は見たことがない。
 桜の花に見惚れる私を、けれど朔夜様は満足と不安が入り混じった表情で見つめていた。
「秋虫、私が怖い?」
 頬におずおずと伸ばされてきた手を、私はわびる気持ちを込めて引き寄せる。
 ぬくもりこそあれ、その手は冷たく、火照った頬の熱を冷ましていく。
「貴方の桜、もう見られなくなってしまったとばかり思ってた」
「まだ早かったけれど秋虫のために咲かせたんだよ。約束だったからね」
 私の髪を撫で、朔夜様は狂い咲く枝垂桜の木を見上げる。
「嬉しいわ、朔夜様」
 私は腕を背に回し、奥ゆかしい桜の香りを間近に吸い込む。
「でも、何故あの桜がここに植えられているの?」
 植え替えられたばかりだと分かるほど、根元の土は掘り起こされたあとが真新しく残っている。
 そのさらに外側には、枝垂桜を囲い込むように数箇所に立てられた棒にしめ縄が結びつけられていたが、その一箇所、朔夜様の後ろ側の縄だけが断ち切れ、土の上に垂れていた。
「田村庄衛がそうしたからだよ。ひとまず貴女の体調がよくなるまで、元凶と思われた私を貴女から引き離そうとしたのだろう。その間に寺の住職達に私を祓わせるつもりでね」
 忌々しげに朔夜様は枝垂桜を取り囲むしめ縄を見やったが、直後に吐き出されたため息と共にその厳しい表情も薄らいだ。
「さっきといい……驚かないんだね」
 この枝垂桜の精だと告白したというのに、表情一つ変えなかった私を見て朔夜様は苦笑した。
「今更驚くくらいなら、貴方に抱かれるままにここまで素直に来はしなかったわ」
「秋虫なら、そうだろうね。貴女は昔から可哀想なくらい聡かったから。ねぇ、秋虫あの男は何故私をあの庭で切ってしまわなかったんだと思う? わざわざ寺の境内に植え替えてしめ縄で結界を結ぶなんて面倒なこと、どうしてしたんだろうね」
「……どうしてそんなこと私に聞くの?」
「それは、秋虫の答えが知りたかったから」
 馬鹿な方。
 私があれほど心を込めて貴方を待っていたと言ったのに。
 貴方が人間ではないと知っていて尚、秋虫と呼ぶ方を待っていたと言ったのに。
 田村に心変わりするのではないかと心配するのね。
「朔夜様。秋虫は来年も、再来年も、その先もずっと、百年でも千年でも、朔夜様とともにこの枝垂桜の花を愛でとうございます」
 冷たい頬をなぞる。
 朔夜様の表情が嬉しさばかりでなく暗い情念にでもつかれたように翳ったのは、満月の白い光が俄かに湧き立った黒雲に遮られはじめたせいだけではなかったように思う。
 発作が起きたわけでもないというのに、私の胸は冷たく凍りゆき、締め上げられていった。
 心とは裏腹な体。
「お連れくださいませ」
 後ずさろうとする足を押しとどめ、背伸びして私は囁く。
「言ったではありませんか。貴方とこの先ずっと一緒に過ごせるのなら、この身など惜しくはない、と」
 心は、願いは確か。
 私にとって、たとえこの先この世に生きながらえたとして、朔夜様以上の方がいるものか。
 これほど目に見えぬ縁に結ばれていると思う方など、現れるものか。
 心はそう言うのに、手も、足も、肩も、歯止めが利かないほどに震え続ける。
 生きたいと、身体は訴える。
 だから、早く切り離してしまって。
 貴方を裏切るこの身など、私はいらない。
 やがて月の光は失われ、一粒、二粒、と静寂の中に小さな雨音が響きはじめた。
「ありがとう、秋虫」
 哀切に満ちた声が低くそう告げた刹那だった。
 ざわりと大気を揺るがして、背後と頭上で枝垂桜の枝が一斉にうごめきだしたのだ。
「えっ」
 背後から羽交い絞めにするように絡みついてきた枝に、私は思わず小さな悲鳴を上げた。
 枝は、腕を捕らえ、肩を掬い上げ、胴を抱き、足首に絡みつき、ゆっくり後ろへと、枝垂桜のまだ人一人分ほどの太さしかない細い幹へと引きずりはじめる。
「朔夜様?!」
 朔夜様は無言のまま私を抱きしめていた腕を緩め、枝たちに私の身を委ねてしまった。
「あ……っ」
 どんっ、と幹に背が打ちつけられたのは一瞬。すぐに柔らかな水の中に吸い込まれていく。
「私はなんと愚かな男だろうね。秋虫のそんな顔を見ても、貴女がくれた私にとって都合のいい言葉ばかり信じたくなってしまう」
 朔夜様はかろうじて幹の外側に残されている私の頭を鬢沿いに撫ぜ、頬を指でなぞって口づけた。
 桜の香りと冷たい雨の混じった甘い味。
 頭の髄まで痺れるような幸せの感触。
 幹に飲み込まれた身体に、すでに感覚はない。
 頭すら長く思考できないほどぼんやりとしてきて、これまでの記憶すらかすみはじめる。
「大丈夫、怖くなんかないわ……。私は貴方さえ覚えていられれば幸せよ」
 田村の言ったとおり、この身を流れる血が貴方の中にも流れ込み、毎年花開く桜はより一層紅く咲きにおうことでしょう。
 うっとりと私はこの身を朔夜様に任せる。
 羽糸のような雨が幹を濡らし、私の顔を濡らしていく。
 けれど、静寂は長くは続いてくれなかった。
 

 


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