「三の姫ーっ」
高い少年の声が闇を退け、白糸の幕を切り裂いて本堂の方から近づいてきたのだ。
その手には赤々と松明の火がともされ、その後ろに数珠を持った僧達が続いて走ってくる。
「入間……」
「そこの化けものっ、三の姫を放せ!」
入間はものすごい剣幕でしめ縄の外から朔夜様に向けて松明を突き出した。
「入間! なんてことを言うの!? 朔夜様はっ……」
叫ぶ私の口を朔夜様はそっと手で押し包む。
「田村庄衛、どこまでも策 の早いことだ。私が今夜、無理にでも秋虫をさらってくると踏んで、ここにあなたを留まらせた。そうだね?」
入間を振り返った朔夜様の表情は分からない。
けれど、入間は額に冷や汗を浮かべて朔夜様と対峙していた。
「……お前、そのまま桜姫を木の中に引きずり込んでしまえば、桜姫の魂が未来永劫救われることなく現世を彷徨うと分かっていてやろうとしてるのか?」
震えを弾き飛ばすように入間は怒鳴った。
「叔父上に諭されなかったか? その姫を愛しいと思うならこっちの世界で天寿を全うさせてやれって」
「朔夜様、私は少しもかまいません。百年でも、千年でも、永劫というのなら、朔夜様、貴方と共に……」
「しかし、お前はそうもいくまい。人間に懸想した枝垂桜の化身よ」
私の声を掻き消したのは、息せき切って石段を上がってきた田村の大音声だった。
入間には強気だった朔夜様の気配も、田村の前には一瞬怯む。
「貴方には頭が上がらないな。なにせ、この木をここまで大きくできたのは貴方のおかげなのだから」
「それは言外に俺が間抜けだといってるのか?」
「違うよ。勘のいい貴方は、秋虫がこの枝垂桜を持って館に現れたときから私の存在に気がついていたのだろう? その場で奪わなかったのは、幼い姫に同情してのことだったのか、姫の機嫌取りのつもりだったのかは知らないけれど」
「……」
「いずれ、感謝しているよ。秋虫が耐えられたのは貴方のおかげだと、きっと私は秋虫以上によく分かっているだろうから。――でも、秋虫は渡さない」
振り返った朔夜様は優しく私の顔を両手で包み込み、再び口づける。
私は、田村と入間の視線を受けてとうにこの木に溶け込んだはずの身体が硬く強張ったのを感じた。
朔夜様は敏感にそれに気がつき唇をはなす。
「朔夜様、違うの。私は……」
この想いは確かなもので。
朔夜様以外、決して誰も入り込めないほど崇高なもので。
「桜姫、よく聞け。その枝垂桜はこれから先、確かに百年、二百年くらいの時は越えるだろう。もしかしたら姫さんの望みどおり千年もつかもしれない。だがな、その枝垂桜はいずれ朽ち果てる。都の桜が朽ち果てたように。今回は若木にそいつは乗り移って身を永らえたが、姫さんを愛してその木に取り込んじまったら、そいつはその枝垂桜から離れられなくなるだろう。その枝垂桜が朽ち果てたとき、そいつは木と共に永遠に存在は消滅する。だが、桜姫、あんたの魂は朽ちた木に縛られたまま、どこへ行くこともかなわなくなる」
「……朔夜様が、いなくなる……? 私を残して……? 嘘よ。もしそのときは私の魂もこの木と共に朽ち果てて消えてくれるわ。だって、私は朔夜様と、この木と一つになるんだもの。きっと……!」
「秋虫」
急上昇した私の熱を冷ますような、冷水の如き声だった。
我に返った私がその声を聞いてどきりとしたのは何故だったのだろう。
諦めを含んだその声に安堵してしまったから?
安堵――。
そんなはずは、ない。
こんなにも好きなのに。
嘘じゃない。この気持ちは、嘘なんかじゃない。
この身を賭してまで叶えたいと思ったこの恋が、嘘であってはいけない。
ならば、私は次の言葉、朔夜様に何を期待したのだろう。
「秋虫、後悔しないと言ってくれたね? 私と一緒にいられる場所へ行きたいと、そう言ってくれたね? 百年でも、千年でも、私とこの枝垂桜を愛でたいと、言ってくれたね? 秋虫」
どうして、確かめられてすぐに言葉が継げなかったのだろう。
いいえ。言葉など継がなくてもよかったはずだ。
ただ、頭を縦に振るだけで充分だったはずだ。
「秋虫」
朔夜様は茫然とする私を枝垂桜の幹ごと強く、強く抱きしめた。
その背後で四人の僧たちが低い声で経を唱えだす。
「嘘では、ございませぬ。朔夜様……」
噛みしめるように、自分に言い聞かせるように、私は言った。
「秋虫はいつまでも朔夜様とともにおります」
「秋虫一人をこの世に残し、いずれ私は消えてしまう。それを告げなかった私を恨んでいる?」
朔夜様の額にはうっすらと汗が浮かびはじめていた。
「恨むなどとんでもない。たとえ朔夜様がこの木とともに消え果て、この世に一人残されたとしても、私は決して朔夜様と生きると決めたことを後悔などいたしません。朔夜様を恨んだりなどいたしません」
「決して?」
「はい。決して」
今度こそ嘘偽りないように。
私はまっすぐ朔夜様の目を見つめて答えた。
朔夜様は花が綻ぶように微笑み、腕に力を込めて幹の中に自分ごと私を押し込んだ。
幹の中は再び静寂。
「秋虫」
私の身体は貴方のぬくもりだけを刻み込み、私の唇は貴方の口づけだけを受け入れる。
そして、私の声は貴方の名だけを呼ぶ。
「朔夜様」
「秋虫、千年――この身が朽ちるまで、秋虫のためだけにこの枝垂桜の花を咲かせると誓うよ」
「ええ、約束よ、朔夜様」
身体などとうに融け果てて所在無い。
それでも、魂をとろかすような朔夜様の言葉は私を酔わせて余りあるものだった。
「秋虫がこの世にいなくなってしまっても、それは変わらない……」
頷きかけて、しかし、私はその聞き捨てならない言葉に目を開けた。
「どういうこと?」
朔夜様は疲れたように笑い、私を抱きしめる。
「秋虫が後悔しなくても、きっと私が後悔する。この木が朽ちる時、秋虫を残していかなければならない選択をしてしまったこの身を、きっと恨むことになる」
「そんな……! 私が一瞬でも迷ったから? 貴方を失った後も一人取り残されると聞いて、一瞬でも将来 を恐れたから?」
全てを見通してしまったように朔夜様は首を振る。
「そうじゃない。秋虫、貴女は桜姫の名を大切になさい。秋虫はいつも泣いてばかりいたから、今度こそ桜姫として一生笑って生きなさい」
「……本気で、言っているの?」
「だから、せめて雪が融け、この木が花を咲かせたら見に来ておくれ。そのときばかりは私と秋虫と、二人でこの枝垂桜を愛でよう?」
「いやよ! 私は秋虫でいい! 貴方がくれたこの呼び名だけで……!!」
三度目の口づけは一番短かった。
掠めるように塞いだだけ。
「もう二度と会うことはできないけれど、朔夜の心だけはこの木が朽ち果てるまで秋虫とともに」
朔夜様の精一杯の微笑が目に映った。
けれど、刻み込む間もなく、私はふやけた地べたに座り込み、全身に優しくも冷たい雨を浴びていた。
目の前には、さっきまでその内に私を閉じ込めてくれていたはずの枝垂桜。
「朔夜様……?」
弱い風に吹かれて散らされた花びらが、水滴を伴って頬に張りつく。
それは、この上なく現実的な感触。
頭に響く低い読経はまだ続いていた。
「やめて……。もうやめて! これ以上朔夜様を苦しめないであげて!! 私が傷つけてしまっただけで、もう充分よ……」
恋だと思った。
でも、私は一人で自分に酔っていただけだったのかもしれない。
三年も朔夜様を待ち続けてきたけれど、ただ現実を受け入れられないばかりに朔夜様に縋っていただけだったのかもしれない。
そんなみっともない自分を隠すために、恋焦がれているのだと無意識に自分自身を欺いていたのかもしれない。
確かに、私は子供だった。
せっかく朔夜様は待っていてくださったのに、私はやっぱり子供のまま。
その意味すら分からずに、もしかしたら朔夜様自身をちゃんと正面から見ることすらなく、独りよがりを押しつけていただけだったのかもしれない。
「朔夜様……」
私はぬかるみの上を膝で枝垂桜の元まで這いよった。
「秋虫はお約束いたします。必ずや毎年、この命が尽きるまでこの枝垂桜を愛でに参ります。だから……許して……。浅はかな私を、許してください……」
読経は止んでいた。
絹糸のような雨だけが降り続ける。
「桜姫」
低く静かな声がもう一人の私を呼び、肩に衣を着せ掛けた。
「あんまり泣きなさるな。姫さんが泣くと雨が降る。あんまり雨が降ったら、せっかくあいつが咲かせた花も急いで散らされちまうだろう?」
だからといって私はすぐに泣き止むことなどできなくて。
僧達が篝火を残して寺へ戻り、入間が館の様子を見に戻った後、空が白み、私が泣き疲れて眠るまで田村はずっと黙って側にいてくれたのだった。
その半年後。
なかなか都を離れられずにいた父の到着を待って、私の裳着は執り行われた。
姉二人と同じほど盛大というわけにはいかなかったけれど、田村の心づくしには父も私も感謝している。
そして、その三日後だったか、まだ形ばかりではあったが私は田村庄衛の妻となった。
以来、庄衛は毎年この枝垂桜が咲くと、私を一人でこの龍桂寺に送り出してくれる。
上から降る絹糸に絡まれて咲く枝垂桜は、今年も紅い。
「本当に、幼い初恋だったこと。朔夜様を傷つけ、庄衛殿と入間殿の手を煩わせ、館に帰れば乳母たちに泣いて怒られ……。でもね、今年も言わせてちょうだい。今でも狂おしいほど恋焦がれるのは貴方だけ。いろんな気持ちが一緒になってしまってはいたけれど、秋虫の恋した人は朔夜様、貴方だけです」
湿った幹に頬を寄せる。
返事は一度もあったためしがない。
けれど、どの桜にもまして赤々と咲くこの花が貴方の答え。
そうでしょう?
「桜ーっ! 雨の日は風邪を引くから外に出るなとあれほど言っただろう?」
と、遠くから響いてくる無粋な濁声が私の追憶を妨げた。
石壇を宵闇を照らす小さな松明の灯が揺れながら上ってくる。
「桜! お腹の子に障ってはお前の身体だって危ないんだと、何度言ったら分かるんだ! このお転婆姫がっ」
「……本当に無粋な方。まだ私の口から朔夜様にお話していないというのに」
その人は右手に松明、左手に私の雨避けの笠と蓑を持って石段を登りきってきたが、満開に咲き誇る枝垂桜の巨木を前にして、きまりが悪そうに慌てて後ろを向いた。
あまつさえ今上ったばかりの階段を下りようとしたその背中に、私はため息をついて呼びかける。
「お待ちください、庄衛殿」
大男の背は反射的にまっすぐに伸び、おそるおそる私を振り返る。
「せっかくここまでいらしたのですから、私に笠くらい残していってくださいな」
思いもよらぬ招きに驚いたのだろう。
そろりそろりと慎重に庄衛はこちらに歩いてくる。
「すまない。邪魔をしてしまって」
「ええ、本当に。子供を授かったことは私の口から朔夜様にお知らせしたかったのに」
庄衛はできるだけ肩を狭めて頭をかいた。
「普段は父すら手玉にとってのける貴方ですのに、こういうときは間の悪い方なのね」
「いや、本当にすまない」
頭を下げて庄衛は私に笠を手渡し、蓑を着せ掛けて素早く枝垂桜の枝の下から遠のいた。
そして、またおそるおそる後ろを振り仰ぐ。
「今年も見事な花を咲かしたなぁ」
こぼれ出た感嘆はいつものように大きな声ではなかったが、霧雨の中でも私の耳にはしっかり聞こえていた。
「庄衛殿も、毎年見にいらしていたの?」
はた、と庄衛は口を噤む。
あれ以来、庄衛は一度としてこの枝垂桜の話をすることはなかった。
私を一人で送り出してくれるといっても、出掛けに詮索せずにいてくれるというだけの話。
私だって、庄衛の前ではこの枝垂桜の話は口にしないようにしてきたのだ。
「えっと……それはだなぁ……、桜を預かるにあたって責任というものが報告の必要性を喚起して……」
「何わけのわからないことを言っているの。隠すようなことでもないでしょう。このお寺にお参りに来る人たちだって見ているんですもの。貴方一人が見てはいけないという理由もないでしょう?」
「そう……だとは思ったんだが、しかし桜、お前が……」
「私は朔夜様と二人でこの桜を愛でると約束しただけですもの。貴方が一人で朔夜様にお話しに来る分には、ちっともかまわないのよ?」
少しすねたような表情をしたけれど、一息ついて庄衛はいつもの豪快な男に戻る。
「そう、だな。だが、今はどう考えても邪魔をしてしまった。桜もお腹の子に障らない程度に切り上げて戻ってくるんだぞ」
今度こそ、と意を決して庄衛は踵を返す。
私はちらりと闇の中に紅く浮き立つ枝垂桜を眺め、それから数歩とはなれていない庄衛の腕を引いた。
「どうした?」
「庄衛殿、何故私に桜姫と呼び名をくれたの?」
「何を唐突に言うかと思えば……」
言葉を濁して帰ろうとする庄衛を私は桜の下に引き留める。
「ねぇ、どうして?」
「枝垂桜を大切そうに持ってきた姫だから桜姫。単純だろう?」
「そうじゃなくて。どうして呼び名にこだわったの? 三の姫でもよかったじゃない。入間のように」
入間はこの国の領主になるにはまだ早いと自分で言い、屋敷くらいしか都に残っていない父を頼って二年ほど前に遊学と称してここを出て行っしまった。
入間には都の空気が合うらしい。
なかなかこちらに帰ってこないものだから、跡目を譲れないと庄衛はいつもぼやいている。
とはいえ、庄衛がこだわるのは昔も今も庄衛自身が大切だと思ったことだけだった。
庄衛はしばらく考えを言葉にしあぐねていたようだったが、やがて徐に口を開いた。
「都からやってきた異邦人の姫さんに、早くここで居心地のいい場所を見つけてほしかったんだよ。そのためには姫さんのひととなりにあった名前があったほうが、周りだって認めやすいだろう? 何しろ名前は存在を確かにするものだからな」
黙りこんだ私を見て、庄衛はすぐに照れて私から顔を背けてしまった。
「今、らしくないとか思ったんだろう? まあ、いいさ。好きなように思ってくれて」
まじめに語った次には、この人はすぐに照れ隠しにその話題を放り投げる。
「ええ、好きなように思うことにするわ」
でも、真意は確かに私に伝わっているから。
私はこれからもこの人の側にいて、この人をよく見て、この人の心を受け止めて、そしてちゃんとお返しをしながら生きていく。
この気持ちが大地からはなれ、独りよがりに空中をさまよわないように気をつけながら。
その点、庄衛は私が浮き上がりそうになればしっかりと手を引いて引き戻すなり気づかせるなりしてくれるから、安心といえば安心なのだけれど。
私は庄衛の腕を引き、枝垂桜に背を向けて歩き出した。
「桜?」
「庄衛殿、今日は一緒に帰りましょう。貴方も私もとっくにずぶぬれですもの。早く乾いた衣に着替えなければならないでしょう?」
庄衛は再び穴が開きそうなほど私を見つめたが、やがて小さく笑って手を握り直し、先に立って石段をおりはじめた。
この枝垂桜は約束どおり、私が死んだ後も一千年というもの、花を咲かせ続けたのだという。
しかし、時とともに老いていった枝垂桜は千年を限りに完全に朽ち果ててしまった。
それでも、紅の滝を模したかのような枝垂桜の巨木に魅せられた人々はその枝垂桜の若芽から新たな苗木を育て、千年を超えても尚、成長した枝垂桜たちが国のあちらこちらで毎年見事な紅の桜を花開かせているのだそうだ――。
<了>