春宵桜雨(2)
一週間後、父は正式に私の蝦夷行きを決めてきた。
裳着は、二年後にこの都ではなく遠く離れた蝦夷の地で夫となる方が段取りをつけてやってくれることになったそうだ。
「すまないね。二の姫の裳着では主上が姫の裳を結んでくれたというのに」
そんな情けなくなるようなことを言わなくてもいいのに。
父が私の部屋をあとにしたあと、私はまた夕暮れ時、一人になって泣いた。
人払いをして鳴き声をあげれば、またあの方が来てくれるのではないかと思って。
けれど、旅立つその日が来るまで一月というもの、朔夜様が着てくださることはなかった。
神無月の終わり、翌日には出発という夜、最後のつもりで私は女房達を部屋から下がらせていた。
もう泣き疲れて泣く気にもならない。ただ、御簾越しにさやさやと光を降り注ぐまん丸い月を見上げていた。
あの夕べと同じ純白の満月。
その光に現れたあの方は、月の精か何かだったのかもしれない。
「秋虫殿」
呼び声がしたのは月が高く天中に差し掛かった頃だった。
多少の寒さに眠りをいざなわれ、うとうととし始めたときだった。
「秋虫殿」
もう一度、ずっと聞きたかった声が私を呼ぶ。
そっと私は御簾を上げ、外に顔を出した。
月影が枝垂桜の影を長く庭いっぱいに引き伸ばしていた。
その影に重なるように、私の待ち人は静かに佇む。
「朔夜様――」
こんな幼い子供のことを忘れていなかったことが嬉しくて、私はつい、はしゃぎながら縁の向こうに裸足のまま飛び出していた。
直衣にとりつくように抱きついた私を、朔夜様はやはり幼いと笑って抱きしめてくださっていたのだろうか。
せっかく逢えたというのに、朔夜様の顔も見えないほど私の目には涙がわきあがり、朔夜様の蘇芳の袖にいくつもの染みをつくってしまっていた。
「またずっと泣いておられたのですか?」
朔夜様は親指で私の頬を濡らすものを拭うと、苦笑しながら軽々と私を抱き上げて濡れ縁におろす。そして、とりだした懐紙で私の足裏についた土を払ってくださった。
「秋虫殿はとんだお転婆さんですね」
「朔夜様があまりに長くいらっしゃらないから。もう、二度とお会いできないものと覚悟しようとしていたところでしたのよ?」
「それなら……その方がよかったのかもしれない……」
小さな呟きとともに朔夜様の顔に影がさした。満月の白々しいほどに清冽な光は、朔夜様の顔に不安だけを色濃く残して弾け去る。
「朔夜様……?」
「いいえ、なんでも。それより、今日は秋虫殿に持ってきたものがあるのです。気に入っていただければよいのだけれど」
重そうに垂れた袖から出てきたのは、朔夜様の片手に収まるほどの小さな一本の苗木だった。
すでに葉の落ちた幾本もの枝はしなやかに垂れ、さやさやと風に揺られている。
「柳?」
小首を傾げて問うた私に朔夜様は笑いながら首を振った。そして、つと、月の光を背に影ばかりとなっている枝垂桜に目を向ける。
「これは枝垂桜。きっと、遠い北の地でも春には花を咲かせ、貴女の目を楽しませてくれることでしょう」
私は揺れる細い枝に指を絡めた。
「あの大きな枝垂桜からとったの?」
小さいのに、流れ込む優しさはあの大きな枝垂桜と同じ。
けれど、私がほしいのはこの庭の思い出ではない。
貴方の形見ではない。
「喜んではいただけないのですか?」
「ええ。ちっとも嬉しくなんかないわ」
「それなら、仕方がないですね」
苗木を袖に戻そうとした朔夜様の腕に、私はしがみついた。
「私を喜ばせたいなら、今ここから連れ出して! 貴方のこの腕で私をこの屋敷から、都から、恐ろしい北の鬼達から、救い出して!!」
声を絞り出した体の芯はからからに乾いていた。
体中から血が抜き取られて干からびてしまったよう。
「来てくれなくてよかったのに。貴方の来ない庭に用はないわ。貴方の来ないこの屋敷に未練なんかないわ。貴方さえ来なければ、私はこの都ごと貴方を忘れ去ることができたのに……」
乾いた体からさらに流れ出るのは涙。
この身を潤ませることも知らずにただ蒸発してしまうだけの水滴。
あの時は拭ってくださったのに、今日は頬に触れてすらくださらないのね。
困惑した表情をこれ以上見たくなくて、私は顔を伏せた。
「子供なのか、大人なのか……。子供の貴女を、私は連れてなどいけません」
苦笑含みの声とともに、袖が私を包み込む。
「子供だから、言えたのよ? 父の対面も妹達の将来も鑑みずに、ただ、連れて行って、と……」
「やはり、この苗木をお持ちなさい。この桜が北の冷たい地に根を張り、花を咲かせることがあれば、私はまた貴女と逢えましょう」
「本当?」
「約束しましょう。このか弱い枝が力を得て薄紅色の花を咲かせる望月の夜に、私はまた貴女に逢いに行きましょう。それまでは蝦夷の地で忍んでください」
蝦夷の地で、貴女に逢えることを頼みにこの小さな桜が成長するのを待て、と。
気が遠くなりそうだった。
十年間、といっても実際に覚えているのは六年程度だけれど、それでも小さい私にとってこの苗木が根を張り、花を咲かせるまでの時の長さは想像するに余りある。
「長すぎるわ。そんなの、いつになるか分からないじゃない! そんな悠長なことを言っていたら、私は本当に蝦夷の鬼と結婚させられてしまうわ!」
「信じてみませんか? それまでにこの木が花を咲かせてくれると」
余りにも無邪気な笑みだった。
引きずられるように私は頷いていた。
たった二、三年で小さな苗木に花が咲くなんて信じられるわけがない。秋は霜に凍りつき、冬は雪深く積もるという地にこんな小さな木が根付くものだろうか。
けれど、無理とは知りつつ信じたくなったのは貴方がそうおっしゃったからなのよ?
朔夜様。
月影が群雲にのまれていく。
「秋虫殿、花が咲いたら必ず迎えに行きましょう。だから、それまでお元気で」
昨夜様は私の腕に苗木を抱かせ、月の光が途切れた瞬間に消えてしまわれた。
「朔夜様……!!」
不自然な消え方。
約束を託された枝垂桜は何食わぬ顔で晩秋の冷たい風に枝を揺らす。
そして、庭の一角に佇む大きな枝垂桜はざわざわと枝をうごめかす。
「幼い頃から見守っていてくださったものね。貴方は」
だから小さい私をあなたの世界に連れ込むのは忍びないと?
確信があるわけじゃないの。
貴方が人じゃないなんて、貴方は一言も言わなかったし、私は一言も尋ねなかった。
でも私がお逢いしたいと願ったのは、朔夜様自身。
貴方が何者でもかまわなかった。
蝦夷に住む人を鬼と呼んで毛嫌いしているというのに、貴方はおかしなことだと眉をひそめるかもしれない。
けれど私にとって大切なのは、未知の人ではなくて泣いている私を見かねて慰めに出てきてくれた貴方自身なの。
私は腕の中の苗木を胸におし抱く。
知らぬふりを通してほしいのなら通しましょう。
もし貴方が私にご自分の正体を告げずにいることが苦痛だというのなら、この次逢えた時、気づいていると告げましょう。
私にとって大切なのは、あの晩私を一人で泣かせたままにしなかった貴方の優しさなのだから。
なんて大人びた考えだろう。
そんな一時の夢の中につくりあげた自分に酔わなければ、とても一冬を越えて蝦夷の地に辿り着くことなどできなかったかもしれない。
都も山に囲まれてはいたけれど、この鄙はその比ではない。
都よりも高く険しい山脈が両側から押しつぶさんばかりに迫りよる。
山裾と山裾の間に挟まれたわずかな平地には、霜に荒らされてでこぼこになった黒い大地と、戸口にかけられた干し大根の連なりにかろうじて人が住んでいるとわかる小さな家々。そして、満開の桃と梅の花が桃源郷の如くこの村を匂いたたせ、山々を縁取る。
しかし、それらは全て、白く細い春雨に遮られて遠い蜃気楼のように儚いものに思われた。
この口から吐き出される白い息が吹き消してくれるのではないかと淡い期待をよせてしまうほど。
鬼に食われるなんて幻想は現実にはならず、私を乗せた牛車は一生を過ごすことになるだろう砦のような館の門扉をくぐりぬけていた。
「遠いところ、よくおいでくださりましたなぁ」
地形と気候の厳しさに似合わず、迎え出た声は語気に反してのんびりと聞こえた。
青の袍に萌黄の指貫という目に鮮やかな直衣も、その巨体と日に焼けた肌の前ではかすんでしまう。
顔はごつごつとした線が頬と顎とを結び、その中央を走る鼻筋はかろうじてすっきりとしたものではあったけれど、口も目も無造作に大きい。
牛車から降りようとした私に照れたように差し出された手は、道々で見てきた農民達の手よりも節くれだって黒ずんでいた。
私の涙を拭ってくださった朔夜様の白くて繊細な手とはなんと違うことだろう。
「叔父上! ただいま戻りました」
都に使者として赴き、今は私を蝦夷まで連れてきた十三になる入間は飛び跳ねるようにして馬から飛び降り、手を差し出している男の元に走りよった。
「入間! まだ姫さんへの挨拶が……」
飛びつく入間を困ったようにいなして、鬼のような大男は小さく肩をすくめて見せた。
「礼儀を知らぬ奴ですまんかったなぁ。旅の間もさぞ難儀したことだろう?」
苦笑した顔が、朔夜様のそれと重なった。
面立ちも背格好も、話す言葉すら都の言葉とはかけ離れたものだというのに、目尻の下がり方や口の端の上げ方が嫌になるほどよく似ている。
年はおそらく二十代前半。
朔夜様よりも年が上なことは確かなようだった。
この男が、私の夫となる人物……。
感慨といえる感慨はなかったように思える。
ただ、朔夜様の面影を重ねるどころか悉く打ち壊されそうな気がして、私は地に足をつけるとその手を解いてしまった。
入間に手を焼く大男はさほど気に留めた風もない。
「俺は田村庄衛。一応この辺の領主ってことになってる者だ。見ての通り山しかないところで不自由も多いだろうが、まぁ、気楽に過ごしてくだされ」
耳ぐさい訛りに俯けた顔をしかめる。
一生こんなところに?
一生この男と添い遂げなければならないの?
「姫さん、名前は? 三の姫ってしかあんたのことは聞いてないんだ」
「……名前?」
「この館にゃ姫はあんたしかいないんだ。年とっても姫って呼ばれ続けたければそれでもいいが……」
屈託のない笑顔に悪鬼めいたものが混ざる。
あの時、私が朔夜様に名を聞いたのはどうしてだったかしら。
名を呼ぶたびに、嘘ではない、幻ではないと信じるため?
名が、存在を引き寄せてくれるような気がしたから?
「入間、お前はずっと何て呼んでたんだ?」
けれど、この人はそんな悲壮感などかけらもない。
「え? 三の姫だよ」
「ったく。まぁいい。それより姫様、あんたさっきから大事そうに抱えているその苗木は何の木だい?」
だから、ほら、すぐに呼び名のことなど放り出す。
「……枝垂桜」
「ほう、枝垂桜か。じゃあ、桜姫と呼ばせてもらうとしようか」
私は無言のまま顔を上げ、初めてその男を笠から垂れて顔を覆う虫垂越しにではあったけれど、真正面から見据えた。
男は気に入らないかとばかりに自信に溢れた笑みを返す。
「叔父上、結局姫って呼んでんじゃん」
「いいんだよ。まだ姫様扱いで。だろう?」
裳着を済ませ、この男と婚礼を挙げてこの一族に入るまでは、私は父からの大切な預かりもの、というわけなのね。
田舎領主、蝦夷の鬼と散々蔑んだ想像をしてきたけれど、それでも国司だった父と懇意になるほどの男だったのだ。それくらいの分別は持っているのだろう。
「何故、私に呼び名を?」
だから、訊ねてみたいと思った。
この人が私に呼び名をつけようとした理由を。
「何故って、そりゃぁ……なんでだろうな」
田村はまじめに答えかけたが、すぐに言葉を濁してごまかすように頭をかいた。
きっと問い詰めても答えはここでは返ってこないだろう。
そう踏んで、私はもう一度田村をまっすぐ見上げる。
「父が無理強いをいたしました。情けのないことでございますが、この後もどうか……」
深く頭を下げると、後ろで乳母達が小さく悲鳴を上げた。
私は鬼に頭を下げているわけではないのに。
この地に来た理由を全うするために、父と妹達が路頭に迷わぬよう約束を確かなものとするために、精一杯頭を下げているのだ。
それが、父に売られるような形でこの地にやってきた私のせめてもの意地だった。
「あんたを迎え入れることで答えに代えられるだろうか?」
「よろしく、おねがいいたします」
再度頭を下げる。
朔夜様、貴方が迎えにいらっしゃるまで。
私が大人になるまで。
本意ではないこと、わかっていらっしゃるでしょう?
でも、私はまた貴方にお逢いできる日まで生き延びなければならない。
息の白いこの桃源郷のような世の果てで――。
胸に抱いた苗木の枝には小さな小さな萌黄のふくらみ。
早く大きくなってちょうだい。
私と朔夜様の逢瀬がその枝の陰となって誰にも見られぬように。
「じゃあ桜姫、さっそくその木を植えてやろう。都から持ってくるくらい大切な木なんだろう? その苗木も小さいくせによく一冬越えてここまで来たもんだ。彦六、姫さんの部屋の庭にはまだ桜一つくらいの余裕はあったよな?」
彦六と呼ばれた老翁は静かに頷くと、田村は大きな手で私の腕から苗木を取ろうとした。
私は奪われないように身をかがめて苗木を抱き込んだ。
「私が自分で植えます。触らないで!」
「自分で? その手でか? 土など触ったこともないその手で、枝垂桜が根づくくらい土が掘れるものか」
「いいえ。庭に土をいただけるだけでありがたいことです。それ以上お手を煩わせるわけには参りません」
断固とした物言いに田村は呆れたように首を振った。
「叔父上、姫は旅の間も誰にもその苗木を触らせなかったのですよ。無理に触ろうとすれば噛みつかれるかもしれません」
面白おかしく笑いながら入間は田村に囁く。
睨んでやると入間は肩をすくめて馬を引いて先に中へ入っていってしまった。
「なるほど。水遣りの世話くらいは自分でできるわけだ。それならいいだろう。土は掘ってさしあげるから自分の手で土をかけてやるといい。来なされ」
からからと笑いながら田村も館内へと入っていく。
「まさか領主自ら土を掘る気じゃないでしょうね」
屋内へと吸い込まれていく大男の背を気味悪いものでも見るように見送りながら、乳母は眉をひそめてそっと耳打ちをした。
「あの人は土くらい掘るでしょう」
「姫様のためとはいえ、領主が土いじりなどとんでもない。それに、姫様に勝手に呼び名をつけるなんて、無礼にもほどがありましょう」
「比和、私達の今宵からの生き死には全てあの方にかかっているのです。都の父上たちのもね。嫌ならお帰りなさい。館にまだ足を踏み入れていない今ならまだ間に合うでしょう」
「姫様、姫様一人残して私どもにどこへ行けと? そもそも、こんなところまで生きてこれたのが奇跡なんです。また生きて都に戻れるとはとてもとても」
「それならめったなことは口にしないことだわ」
朔夜様との約束がなければ、こんなことは口にできなかっただろう。
乳母と同じことを田村に面と向かって言っていたかもしれない。
言わずにすんだのは、私に呼び名をつけようとしたからだろうか。
一列に並んで頭を下げ続ける侍女たちの間を通って私は館へと入っていった。
与えられた部屋は東に面した一角だった。
すでに部屋の中に配置されていた調度品は多少物足りなくはあったが、都から運んできたものを加えれば充分に事足りる。
「桜姫、土が掘れましたぞ! 早く根づかせておあげなさい」
部屋に面した庭では乳母の予想通り、直衣を脱ぎ捨て、ぼろぼろの衣服を身に纏った田村が鋤を握り生き生きと声をかけてきた。
「田村殿は領主でありながら農民の真似事もなさるのですか?」
「真似事じゃなく、自分でも田畑を耕しているんだよ。本当は領主なんぞになる予定はなかったからな。日がな一日畑を耕し、雨が降れば田んぼが水につからないように見に行くのが俺の日課だった。親父さんか入間から聞いていないか? 俺は流行り病で早死にした兄の代わりにこの館を預かっているって」
岩のように硬い手に鋤の柄はここが居場所とばかりにすんなりと収まっている。
朔夜様の手と比べるほうがどうかしていたのだ。
ここは、何もかもが都とは違う。
「入間がもう少し大きくなったら、この館はあいつに譲ってやるつもりだ。そうしたら、俺はまた少しばかりの田畑をもらってもとの生活に戻る」
霧雨はやんでいた。
うっすらとまだ霞は漂っていたが、将来の夢を語る田村の顔はやけに晴れ晴れとしている。
「あ、その顔はもしかして何も聞かされていなかったのか?」
「ええ。私は田村殿に嫁ぐのではなかったのですか?」
「いや、それは……桜姫の父上はあるいはそのつもりだったのかもしれないが、姫さんの裳着ができる頃には入間が領主になっているだろうと踏んでだな……。ああ、心配はいらないぞ。姫さんの父上には散々世話になったからな。それは入間もよく分かっている。どう転がってもあんた達一家を放り投げるようなことにはならないから安心してくれ。それに、父上次第ではまた姫さんも都に帰れるかもしれないしな」
また都に帰ることができるかもしれない?
この男が言うと気休めだったとしても、まんざら嘘には聞こえない。
けれど、今度ばかりは姉の尽力も帝の情けも簡単には通用しまい。
そんなに簡単に帰れるのならば、私はこんな遠い都にとって鬼門と呼ばれる地まで来ることもなかったのだから。
田村はかがみこみ、私に苗を抱えさせたまま、根に土を固めていた縄を器用に解いていく。
「よし、と。それじゃ、姫さん、そいつを土に植えてやりな」
言われて私はしゃがみこもうとしたが、着物が厚くて土に膝をつかずにはこの枝垂桜の苗を植えられそうもない。
そんな私の姿を見て田村は声を押し殺して笑っている。
「桜姫、俺は植えた苗は枯らしたことがないんだが……?」
意地の悪い言い方で田村は私の前に手を差し出す。
よりによってこの男に頼まなければならないのか。
私はもう一度しゃがみこもうとしたが、今度は勢い余って後ろに倒れかけた。
「きゃぁっ」
不意をつかれて溢れ出た悲鳴に、部屋の整理をしていた乳母達が喚きながら駆け寄ってくる。
だが、私は田村の腕に寸でのところで支えられ、曇天を見上げていた。
「桜姫、お転婆姫と頑固姫、よろしければどちらかに呼び名を変えさせていただきたいのだが?」
「……どちらも遠慮いたします」
立たせてもらった私は、歯噛みする思いで田村の手に苗をのせた。
「それでは責任を持って植えさせてもらおうか。但し姫さん、こいつがちゃんと根づいて育つかは、あんたのめかけ次第だってことを覚えておくんだな。こいつらはしゃべりこそしないが、愛してくれる相手を見抜くし、愛する相手をちゃんと選ぶもんだ。姫さんは都から半年近くかけてここまで持ってきたんだ。こいつが見ているのは姫さんしかいないだろう?」
雨上がりの湿った土に掘った穴に根を埋め、手早く土をかけていく田村の手を私は食い入るように見つめていた。
「田村殿には分かるのですか?」
「なにがだ?」
「どの木が誰を愛しているのか」
まじめに問うと、土をかけ終わった田村は耐え切れずに吹き出した。
「そこらへんの森や林に生えてる木の気持ちまでは分からないけどな。ただ、こいつは別だ」
警戒したように険しい表情で庭に根を下ろした枝垂桜の苗を一瞥したのは一瞬。
まるでこの男には朔夜様の姿が透かし見えているかのようだった。
すでに知られているのではないかと、ありもしない不安がよぎる。
いいえ、たとえ知られたとしてもかまうものですか。
この木が望月の光を受けてここに影をつくり、大人になった私は朔夜様と再びその影の下で逢う。
そのときにはきっと、朔夜様がここから私を連れ出してくださる。
その約束を頼りに私は二年、三年をやり過ごす。
都の父のことも私のことも引き受けてくれたこの男には悪いけれど、私はこの国の領主の妻になる気は元からない。
まだ歳近い入間の妻であろうと、一回りも離れたこの男の妻であろうと。
だから、さっき田村がこのまま領主をやり続ける気はないといったとき、本当は内心で深く安堵していたのだ。
それが定められてはいない自分の将来に対してだったのか、あるいは田村に義理立てしなければならない孝心に囚われずにすむと思ったからだったのか。
このとき、幼い私にはまだ定かではなかった。
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