春宵桜雨
糸のように白く細い雨が貴方に落ちかかる。
雨は蜘蛛の糸のように貴方を上から上から覆いこんで、しだれた枝をがんじがらめにしていく。
「冷たい雨ね……」
そぼ濡れた幹を抱きしめても、抱きしめ返す腕をこの方はもはや持たない。
しなだれたこの細く柔らかな枝は、風になすがままにそよがれるだけ。毎年、濃き紅に色づいた桜の花を私のために咲かせるだけ。
「貴方に逢いたい――そう言っても、貴方にはもう耳がない。 私を見て。私に微笑みかけて――目も、口も頬も、私を抱き寄せてくれた腕さえ貴方にはもう、ないのよね」
昔、貴方の頬に触れたようにできるだけ手を伸ばし、貴方の頬があったはずの樹皮を優しく撫でる。
こうやって見つめていれば、この樹皮に刻まれた溝は貴方の顔に見えてくると思ったのに……。
「やっぱり、そう都合のいいことなどないのね」
口元に浮かんだのは、落胆ではなくただの苦笑。
時は過ぎていくだけ。
貴方は変わらず、私が死んだ後も、約束どおりその身が朽ち果てるときまでこの花を咲かせ続けることでしょう。
けれど、私は変わってしまった。
貴方に逢いに来ても、貴方の姿がないと落胆することがなくなってしまった。
いつの間にか、それが当たり前になってしまった。
「でも、当たり前になってしまったことと、忘れてしまうこととは別だわ」
いくら貴方が毎年私のために花を咲かせ続けてくださっても、いくら私が毎年貴方の桜を愛でにここへ来ても、貴方にお逢いできなければこの狂おしい恋は私の中で燻りつづけるだけ。
幾重にも重ね着た桜の着物が濡れて黒く、雨を含んで重くなっていく。
もう弥生も終わりだというのに、京よりも遥か東北のこの地ではこれほど重ね着ても寒さは立ち去らない。
「他の桜はもう散ってしまったのよ。貴方はいつも咲くのが遅いの。それとも、もしかして私を試しているの? たくさんの桜を見飽いた後に咲いて、私の心変わりを――?」
濡れた幹に頬を寄せる。
試すなど、しなくても分かっているでしょうに。
「京に桜が咲くのはいつだったかしら。弥生……そう、弥生の初めだったかしら……」
思い馳せようとした幼い頃の記憶は、年を重ねるごとにこの春雨の向こうへと確実に追いやられていく。
そのかわり、こうしていれば貴方のことだけはちゃんと思い出せる。
『お化け桜』と京の女房達が眉をひそめていた時代から、ちゃんと、貴方のことを思い出せる。
裳着などまだ遠い先と思っていた十の歳に貴方とともに京を離れ、牛車に揺られてこの世の果てと思っていたこの地に着いたのも、やはりまだ芽吹き始めた樹木に春雨が冷たく糸をかける時期だった。
「何故、私がそのようなこの世とも思えぬ場所に住む豪族の元へ嫁がねばならないのです!」
数えで十といえど、家の窮状は分かっているつもりだった。
父は、決して位が低いわけではない。それどころか、二代ほど遡ればこの世でもっとも高貴な方の血を引いているはずだった。
それが、今や手入れすら行き届かぬ荒家の主となってしまったのは、三年前に政敵の右大臣に蹴落とされたゆえ。
もとより父に政治的な才があったわけではない。父は、政を取り仕切るよりも詩歌や書に才ある人だった。血筋とのせられやすいその性格さえなければ、今頃貴族達に傀儡として政の場に担ぎ出されることもなく、一生を雅事に費やして暮らせたかもしれない。
それが、右大臣にありもしない罪を着せられて、官位降格とはいえ事実上朝廷を追放され、以来、あれほど熱心に父の元に足繁く通ってきた貴族達はちらりとも顔を出さなくなってしまった。
流罪にならなかっただけましだ、と父はのんびり笑っていたが、冗談ではなく家が傾きはじめたのは思いのほか早かった。
父が謹慎を命じられた衝撃で北の方だった母が死んだのは、確か文月の初め。
通う場所も失い、後ろ盾だった母の実家からも縁を切られ、父は完全に路頭に迷っていたのだ。
その末に出した結論が、昔国司として赴き、懇意になったという蝦夷の入り口に住む豪族に、結納金と引き換えに私を嫁がせるということだったらしい。
「私はまだ十になったばかりですのに。相手の方にはちゃんと伝えましたの? 私の歳を」
「ああ。裳着ができるようになる歳まで婚礼は待ってくれるそうだ」
上にいた姉二人はとうに夫のある身となっている。
一番上の姉は女御として帝のもとに入内し、一女をもうけるなどそれなりの寵愛をえている。この姉のおかげで父は流刑を免れたようなものだった。
二番目の姉は小さい頃から美貌を謳われ、通う男には事欠かなかったが、父が失脚した今となっては早くに見切りをつけて、物好きな貴族の用意した別宅に移り住んでいった。
この荒家に残されたのは、父と私とさらに幼い二人の妹ばかり。
何故、私が嫁がされるのか。
私しかいなかったからに他ならない。
しかし、十といえども、誇りだけは物心つく前から立派に育てられてきたのだ。
同時に、蝦夷に住む鬼達の恐ろしさも乳母からよく言い含められていた。
「父上は、お金と引き換えに私を鬼に売ったのですね?」
父の顔はひきつる。
だが、言い訳はしようとしなかった。ただ俯いて、私の暴言を受け入れる姿勢を示す。
これでは怒りをぶつけようがなかった。
このとき、すでに私が蝦夷へ嫁ぐことは父の中で決定済みだったのだ。
なにより、今はそれしか私たちが生き延びる方法がないということくらい、私が一番よく分かっていた。
どうあがいても覆せないのに、これ以上父を怒りにまかせて蔑んだところで何の益があろうか。
「それで、私はいつ蝦夷に旅立つことになっているのです?」
さすがに裳着を済ませるまではここにいられると思って聞いたのだが、父の答えは予想を大きく謀った。
「今月の終わりには」
私は目を見開いて訊ね返した。
「いつ、ですって?」
「使者が来ているのだ。彼が帰るといっているのは今月末。ゆっくりと東国へ下り、そこで正月と冬をやり過ごしてから北へむかうことになる」
「な……」
今月末?
お正月と冬を東国でやり過ごす?
それから北上?
父の話が終らぬうちに、私はふらふらと父の元を辞した。
そんな、馬鹿なことって、ない。
今すぐにでも食い扶持を一人でも減らしたいというの?
「姫様? いかがなされました、姫様……?」
父の失脚後もこの屋敷に残ってくれた乳母と数人の女房達が、わらわらと駆け寄ってくる。
「父上に聞いてちょうだい。私のことはしばらく一人にして」
私は半年足らずであっという間に殺風景になってしまった部屋から乳母と女房達を追い出し、御簾を下げてその奥に閉じこもった。
「人身御供にされるのだ……」
顔の赤い鬼や、熊のような顔をしたもの達が住む場所に嫁ぐなんて、想像したくてもできるものではない。
順当にいけば、私も上の姉二人のようにこの都で位の高い貴族と結ばれるはずだったのだ。
それなのに、この仕打ちは何?
私はまだ十で、裳着は早くても二年後で、この屋敷で、名のある方に裳の紐を結んでいただけるとばかり思っていたのに、裳着すらも向こうでやれと父上はおっしゃるの?
「……くっ……」
乳母も女房達も下げてしまったあとでは、零れ落ちる涙を拭う者も慰める者もいない。
人前で泣き顔など、たとえ乳母であっても晒したくはなかった。
気位の高さが私の寂しさを募らせているのだと分かっていても、これはどうしようもない。
薄紅の袖で目頭をそっと押さえる。
室内はすでに濡れた袖の色も分からぬほど暗くなっていた。
火を持ってきてもらわなければ。
そう思ったときだった。
御簾で隔てた向こう、外の庭で虫の鳴き声に混じってかすかに衣ずれの音が聞こえた。
「誰?」
私が人払いをしたときは、乳母と女房達はよいと言われるまで絶対に部屋には近づかない。近づく者があるとすれば、それは乳母や女房達以外の誰か。勿論、十歳の子供の部屋に通い来る男などいるわけがない。
しかし、今は警戒心よりもすすり泣く声まで聞かれたのではないかと恥じ入る気持ちの方が誰何する私の声を鋭くしていた。
御簾の向こうで、宵の空に出たばかりの月光に照らし出された影がかすかに揺らめく。
「名もない者でございます。姫君」
年若い男の方の声だった。
おっとりと優しい、それでいてまっすぐ芯の通った声。三十を過ぎた父の低く苦渋に満ちた声に比べて、何と軽やかで清々しいことか。
けれど、その明るさが一人泣くしかなかった私をより一層惨めにした。
「こんな早くに裳着もまだの私のところに何の御用?」
精一杯威厳をただし、訊ねる声にありったけの棘を含ませる。
「気が早いもので、秋虫の奏でる音につられてつい、足を踏み入れてしまいました。よろしかったらともにいかがですか? ちょうど望月が暮れなずむ東の空に宵を引きながら顔を出したところですよ」
男は嫌味をやんわりと受け流し、それどころか逆手にとって私を誘ってのけた。
それは、松虫の鳴き声ばかりが虚ろにこだまする宵闇に突如、灯が投げこまれたような瞬間だった。
「秋虫とは、私のこと?」
私は躊躇いなく御簾を持ち上げて外に顔を出していた。
塀越しに顔を出したばかりのまあるい月の光が、私の顔を露わに照らし出す。
「ええ、そうですよ」
庭に植えられた枝垂桜の下、ゆっくりと振り返るその方の顔も白く月の光に洗われていく。
穏やかな瞳。優しくも儚げな笑顔。線の細い端正な顔立ち。その容貌を引き立たせるような縹と薄縹をあわせた月草の直衣も好ましい。
我を忘れて見惚れていると、その方は濡れ縁まで歩み寄り、何気ない仕草で私の頬に残る涙をそっと拭いとった。
思いのほか冷たい指に肩が震える。それに引き換え、触れられている頬は止めようもなく火照っていった。
笑顔が眩しいと目をつぶってしまったのは、月が明るすぎるせいだと思った。
触れられた頬が熱くなったのは、泣き顔を見られたせいだと思った。
けれど、そんな理由では説明のつかないものが私を俯かせる。
「失礼な方ね。私が子供でなかったら、そんな言葉では顔など見せなかったわ」
泣いていた私の声が松虫の心地よい鳴き音と同じわけがない。
この方は私を子供と侮り、からかいにこの庭に迷い込んできただけなのだ。
届かないものに、わたしは手を伸ばさない。
もう、嫁ぐ先を決められてしまったのだから。
まだ、裳着も済ませていない十の子供なのだから。
相反する二つの理由が私を戒める。
それなのに、この方は少し困ったように息をついた。
「随分と子供らしくない方だね。まるで妻問いをされて駆け引きを楽しんでいるみたいだ」
唖然と私はその方を見上げた。
口ではそういいながらも、その目は完全に子供を見る目をしていた。父が私を見る目となんらかわりない、慈しむような目。父の場合は生活をかけた機嫌取りに過ぎなかったわけだけれど。
ぎゅっと唇を噛みしめる。
「私は子供だわ。子供でいたいもの。……まだ、子供でいてもよかったはずなのよ」
漏れた呟きは初対面のこの方に向けられたものではなかった。自分自身の運命に対する呪詛に過ぎない。
「けれど、貴女は自分を子供だとは思っていらっしゃらない」
囁かれた言葉は揶揄に満ちていて、思わず胸に何かがつかえた。
「……そうね。子供なら、思う存分父の前で泣き喚けたもの」
「でも、事態はおそらく何もかわりはしない」
まるでこの先を知っているかのように、その方は遠く望月を振り仰いだ。
「何もかわらずとも私の気が済んだでしょう。泣き喚いても駄目と分かれば、後は連れて行かれる日を待つだけ。そして辿りつかずに鬼にでも食われてしまえばいい。そうすれば、父も少しは後悔してくれるかもしれないもの」
握った拳に再び涙がひた落ちる。
私はあの塀の向こうの世界を何も知らない。
乳母や女房、父の語りから想像するしか知る術はない。
東国のさらに向こうの世界は、数十年前に征夷大将軍によって大和支配下に置かれたあとも恐ろしい噂ばかりがこびりついた場所。都にも鬼は出るというが、ここ以上に平気な顔で鬼や妖が道を跋扈し、しかもそれを祓う陰陽師もいないらしい。
都から来た姫――。
そう聞けば、鬼も喜んで喰らいに来るだろう。
いっそ、食われてしまえばいい。
私は鄙人の許に嫁ぐために今まで生きてきたのではない。
私が今まで習い覚えた詩歌も書も、琴も、風流人として名高かった父の娘という名がほしかったから。いつか上の姉のように帝の側近くに侍る日を夢見ていたから。
冥府にも似た荒れた地のどこに風雅を解するものが住んでいよう。
向こうに行けばきっと、私は珍しい渡来品を見るような目で見られるのだ。
「三の姫、いや、秋虫殿。誇り高いことと大人ということとは、同義ではないみたいだね」
大きな手のひらが私の左頬を包み込む。私を現実に引き戻したその手は、実体を感じさせないほどおぼろで冷たかった。
思わず私はその手を両手で覆いこむ。
縋りつくように。助けを求めるように。
たとえこの方が今戯れに私の側にいるのだとしても、伝わりくる手の冷たさは誰のぬくもりよりも温かい。
「姫様ー」
不意に、いつも灯を持ちくる女房の声が松虫の鳴き音をかき消した。
「無粋なひと」
「責めるものではないよ」
宥めるように笑いかけると、その方はするりと私の手の間から手を抜き取り、濡れ縁から腰を上げた。
「行ってしまうの? 私が子供だから?」
何故だろう。
その時のその方の顔はよく覚えてはいない。
覚えているのは、その方の背後で柳にも似た枝を風にそよがせる庭の枝垂桜。
不気味な桜よ、と春遅くに花を咲かせるたびに女房達の眉をしかめさせる嫌われ者の桜。満開に花をつけたそのなよやかな枝は、風に揺られるたびに数多の人の魂を翻弄する紅の滝のように見えるのだ、と。
桜の花にかわりはないだろうに。
一抹の哀れみもあったが、私はその枝垂桜の濃き紅の花の色が小さい頃から好きだった。
もう、来春この庭でその花にめぐりあえることもない。
今年の花をもっと目に焼き付けておけばよかった。せめて一輪摘みとって、押し花に残しておけばよかった。
「秋虫殿、あの桜がお好きですか?」
去り際というのに、私が背後の今は寂しい色となった桜ばかりを凝視していたからだろう。
きっと呆れているだろうと視線を戻すと、その方は存外に嬉しげな顔をなさっていた。
「ええ、好きよ」
嬉しげな顔を曇らせる理由などなかった。喜ばせたい一心だったのか、と問われれば答えに詰まったかもしれないけれど。
「ありがとう」
頭を一撫でしてその方は私に背を向けた。
その背に、私は呼びかける。
「貴方は……」
誰、という語を察したのだろう。振り返った顔がとっさに曇ったのを見て、私はその言葉を飲み込んで別な語にすりかえる。
「名を。貴方を忘れぬよう、貴方の呼び名を私にお教えくださいませ」
子供と思われていてもよかった。本当の名でなくてよかった。
私だけが知っている貴方の呼び名。
使い捨ての名で、よかった。
必死に見えたのだろうか。その方は少し考えて呟くように囁いた。
「朔夜」
煌々と私達を照らし出す望月の光の中、その名は全くこの夜には似合っていなくて、私は本当に騙されたような気がした。嘘の名は嘘の名でも、季節や場くらい考慮してくださるものと思ったのに。
そんな私の気持ちを見抜いたように、その方は付け加えた。
「本当は私に名などないんだ。ただ、貴女が呼んでくれるというのならそう呼んでほしいと思って。望月など、あとは欠けゆくだけだから」
それは、この先の約束?
「いらっしゃられますか、姫様ー」
女房の衣ずれの音が私たちの時を削り取っていく。
「お元気で、秋虫殿」
月草の衣を翻して、その方は枝垂桜の枝に取りこまれるように消えてしまわれた。
「朔夜……様?」
私の呟きをかき消すように、灯を持って騒々しく様子を見にきた女房が、濡れ縁に座り込む私を見て目を見開いていた。
「姫様、御簾の外に出られるなんてなんとはしたない。誰か卑しいものにでも見られたらどうするのです!」
朔夜様のいなくなったばかりの静寂を惜しむ間もなく、年かさの女房の悲鳴が庭中に響き渡る。
「卑しい方なんかじゃなかったわ」
「は? まさか、誰かいらっしゃっていたんじゃ……」
言いつけられたとはいえ、私をこの夕刻、一人きりにした責任を感じたのか女房の顔が青ざめる。
からかい混じりの笑みを浮かべて私は女房を振り返った。
「子供だから、相手になんかしてもらえなかったわ」
お伽ばなしの姫君のように攫って、と頼めばよかったのだろうか。
けれど、わたしはすぐに首を振った。
十の子供の未来など、男一人が一生背負いたいなどと思うはずがない。よしんば願いをかなえてこの屋敷から連れ出してくれたとて、いつかどこかあばら家に置き去りにされる日が来るかもしれない。
所詮私一人では明日すら生き延びることは難しいのだ。十の子供ということを除いても。
灯をともした女房を中心に、悲鳴を聞きつけてきた女房や乳母が来訪者について口やかましく問いつめはじめる。
困った人たち。
自分達の仕える姫をどこの者とも知れぬ男の目に晒してしまったという責任も忘れて、幼い私に妻問うてきた殿方を好奇の的にしはじめているのだから。
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