無法地帯 VOL.1 LOST DESIRE

CHAPTER.2 グランド・スラム ―ケトリス―

 

『続きまして、近頃増加傾向にあるホームマザーコンピューターの暴走プログラムの実態の特集です……』
 ぶつりという音がしてテレビが消された。室内には静寂と暗闇と、せわしなく明滅する色とりどりの光とが残される。その真ん中で皮張りの椅子にもたれた少年が一つ伸びをする。
「暴走プログラム、ね。俺としては単にハッキングに失敗した事例にすぎないってのに、世間じゃそんなに大事かねぇ」
 四方の壁にはずらりとコンピューターのハードがいくつも埋め込まれ、それらからはいくつものコードが伸び、少年の体に接続されている。透明なコードは今もちかちかと瞬きながら、少年に外から回収してきた情報を直接流し込んでいた。
「なんだ、明日のテストの問題はまだか」
 欠伸をした少年は、ふと天井を見上げた。一面を惜しげもなく使ったディスプレイには真っ黒い背景の中、白く文字のみが流れてくる。
「“形を留めない幻想に 夢をのせてた”? “もう逢えないことは分かっている それでも望んでしまうんだ”、“今度こそ君に伝えたいことがある 生きている君の唇に唇を重ね 囁きたい ――愛していると” ……何だ、振られ男の自作詩か。もっと面白いもん見つけて来いよな」
 溜息まじりに少年は首を振り、椅子に深くかけ直す。目ではまだ流れてくる文字を追っていたが、それはもう暇つぶしにただ景色として眺めていただけだった。
「あ、やっと終わった。未練たらしい奴だな。ん? まだ続くのか?」
 つづけて流れてきたのは詩ではない。
 “Project AYA”。
「プロジェクト、アヤ? なんだ、そりゃ」
 はじめてもたらされた情報に少年は首を傾げる。
「ええと、このコードはどこに繋いでたっけ」
 解析をはじめる前に、インターホンから柔らかい母親の声が聞こえた。
「磊さん、ご飯ができたわよ。夕飯にしましょう」
 母親の声に少年、磊の意識はすぐにさっきの詩のこともプロジェクトのことも忘れてしまった。
「今行くよ」
 全てのディスプレイを消し、子供のように浮き浮きとコードを収束させると、磊は椅子から飛び降りた。と、正面のディスプレイが情報を捨て切れずに自動点灯する。
「何だよ。……ローゼニアン・カンツォーネ・イル・ユックと冷泉琮威並びに美橋斉、依然覇王とともに逃走中。ケトリスに侵入した模様?」
 思わぬ報せに、磊は一つ口笛を吹いて口元に笑みを浮かべた。
「やるじゃないか、覇王。逃走経路にケトリスねぇ。そりゃ上手くやれば見つかりっこねぇわ」
 覇王。それは磊にとって退屈を忘れさせてくれる存在。実際にお目にかかったことはないが、何度となくハッキング先でコンタクトを求められてきた。表面上、優しい母親としっかり者の父親との平穏な生活を望む磊としては、覇王が次に何をやってくれるのか、それだけが唯一の楽しみだった。これからも会うつもりなどはないが、いよいよケトリスないだけじゃなく表舞台に出てきたらしい。
「あ、いっけね。これ政府用の極秘回線だわ。やっべ。おい、うまくやれよ」
 磊は褒めてほしそうに伸びてきたコードに優しく手を触れてハードに帰し、自らは颯爽と部屋を後にした。


 一方、政府の極秘回線にまで名を残してしまった四人組一行は、ケトリスの手前で車を地上の廃墟の中に隠し、斉の手引きでケトリスを囲む塀の隙間からスラム街に侵入することに成功していた。
「先生、ケトリスのあてにならないあてってどういう人なんですか?」
「そうだなぁ、何とも捉えどころのない奴というかなんというか」
 ローズはごにょごにょと語尾を濁しだす。こういうときは大した答えも返ってこないのが分かっているから、斉も琮威も聞き流している。
 火星の人口はおよそ五十億人と言われている。そのうち火星侵略後に地球から移住してきた数は十七億人。残る元から火星にいて侵略された人々十三億人はケトリスのような大小のスラムに追いやられ、外へ出ないことを条件にその中で独自の暮らしを営んでいる。昼間から薬に現を抜かす者もいるが、それだけで生きていけるはずがない。夜間は治安が悪いもいいところだが、昼は商人たちの露店が道端に溢れ、市場は人々が集まり活気に満ちていた。
「そういえば凌駕、お前カリュスの住民だろう?」
「そうだけど」
「なら生まれはここなんだろ?」
「……そうだね」
 残念ながら凌駕にはケトリスで暮らした記憶は一つも残っていない。物心つく前に選択されてカリュスの両親に引き取られたからだと思っているが、こうやってケトリスの中を歩いていても懐かしさのかけらも感じない。
 露天にもさまざまな種類がある。屋根と壁を持つ立派なものから、地べたに申し訳程度の布を引いてその上に商品を並べているものまで。大抵は後者で、並べているものも怪しげな色をしたカプセルや賞味期限の危うそうな固形食糧ばかりだ。そんな中にもたまに色彩溢れる野菜や果実を豊富に取り扱っている店もあって、凌駕は自然、そういう店に引きつけられた。
「この赤いのは?」
 凌駕が指さしたのは真っ赤に熟したジャガイモのような不格好な形のトマトだった。
「遺伝子交配で作ったジャガトマ」
 店番の女は見た目に似合わずしゃがれた声で答え、凌駕をじろじろと見回して眉をひそめる。
「あんた、そんなこぎれいな格好はここでは狙ってくれって言ってるようなもんだよ。それ以前に、ここは選ばれたあんた方が戻ってきて受け入れられるような場所じゃない」
 ケトリスの外から来たのだと見抜かれて、凌駕は慌てて自分の格好を見まわした。同時に琮威と斉も警戒して辺りを見回す。彼らの周りにはいつの間にか人垣ができ、殺気立った視線が方々から投げつけられていた。
「そういえば、さっき政府の機密回路にどこぞの馬鹿者どもの名前が流れていたねぇ」
「なっ、俺をこいつらと一緒にするな!」
「琮威」
 斉に制される琮威を、店の女はくっくっくっくっと笑いを噛み殺しながら見ている。
「連れが失礼しました」
「おい、斉!」
「いいから」
「物分かりのいい子は好きだよ」
「どうも」
 軽く頭を垂れた時の横では、周囲の殺気など気にもせずローズがしゃがみこんで地べたに並べられたガラクタにしか見えない商品を手にとっては検分していた。
「これはいい品だね。サファイアだ。細工も凝っていて美しい。琮威、青が好きだったね。買ってあげようか」
「……どうせ法外な値段なんだろ」
 緊張感のないローズの姿に呆れを隠さずに琮威はローズを見下ろす。
「ここに法なんかありゃしないよ。それぞれ一人ひとりがここでは自分の法を持って、それに従って生きている。それの価値だって同じさ。私の価値に従って付けられている」
「変わらないねぇ」
「変わったらここじゃ生きていけないさ」
 女とローズは視線を見交わし、斉と琮威は顔を見合わせた。
「このサファイアをもらおう。ついでに家に色々あるものも見せてほしいんだが。あんたの仕入れた情報も含めて」
「ったく、やな男が来たもんだ。さっさと店じまいしとくべきだったよ。しょうがない、来な。ただし、値引きもおまけも一切しないよ」
「わかっているよ」
 女は入れ替わりに来た男に店を託し、溜息まじりに首を振りながら雑踏の中をかき分けていく。
 凌駕たちを取り囲んでいた人垣もいつの間にか崩れていた。
 存在を認められたわけではないのだろうが、襲われなかっただけましというものだろう。凌駕たちは悠々と女のあとについていくローズを筆頭に小走りにその後をついていく。
「あの人が先生のあてにならないあて?」
「なのか、そのあてに辿りつくためのただの取次役か。とにかくついてってみるしかないだろ」
 人の波には規則がない。右に左に向かいから来る人をよけながら、ローズの頭だけは見失わないように目で追いかける。
 と、凌駕のすぐ横を歩いていたはずの琮威の姿が見えなくなっていた。続いて大げさにも思える子供の泣き声が天まで響き渡る。
 凌駕が振り返ると、立ち止った琮威の前に八、九歳くらいの子供が尻もちをついて泣きわめいていた。
「何だよ、ちょっとぶつかっただけのくせに大げさに泣きやがって」
 苛立ちを隠しもせずに琮威は言い捨てると、子供の横を通り過ぎようとした。その琮威の足に、さっきまで泣くだけだった子供が両腕でしがみつき、その拍子に琮威は上半身のバランスを崩して地面へと顔を打ち付けた。
「なにするんだよっ。こら、離せっ」
 琮威はもがくが、子供は琮威の足を離そうとはしない。それどころか、頬まで押しつけて琮威を睨み上げていた。
 見る間に琮威の表情は怒りに強張り、凍りついていく。
「離せ」
 子供がしがみついた足を振り上げようとした時、斉がその腿を抑えて止めた。
「大人げない」
 斉は冷たく琮威に言い捨てると、子供の目の前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫? 怪我はなかったかい? ああ、顔をちょっと擦りむいてしまったんだね。女の子なのにかわいそうに」
 そう言って子供の頬についた土埃を払うと、そっと子供の手の中に何かを握らせた。
「女の子……?」
 凌駕は思わず呟いてしまう。
 確かに黒目の大きな瞳は男の子というよりも女の子の哀愁を感じさせる。
 子供は凌駕には見向きもせず、無表情で斉を見、琮威を睨み上げると、何も言わずに走り去っていった。そして、また人ごみをかき分けきれずに人にぶつかって転んでいる。
「あいつ、またぶつかってやがる」
 苛立たしく呟く琮威に、斉は涼しい顔して尋ねた。
「そういえば、ポケットの財布は無事?」
 はっと琮威は財布を入れていたと思しきポケットに両手を当てて感触を確かめる。
「無事だ」
「よかったじゃないか。あのまましがみつかれていたら、どこかのタイミングで抜かれていたよ」
 すべてお見通しと言った斉の言葉に、琮威はげんなりと溜息をつく。
「だから金を握らせたのか」
「目的のものを穏便に与えただけだよ」
「ったく。なのに礼の一つもねぇのかよ」
「しょうがないよ。ここはそういうところだ」
「ローズを見失っちまったじゃねぇか」
 琮威は再び舌打ちをすると、今度は前方から来る人々の動きを呼んで綺麗にすり抜けながら、ローズたちが消えたと思しき方向へ進んでいく。
「どうするの? 琮威についていく?」
「先生たちが消えたのもあっちの方向だったからね。とりあえず、琮威の後を追えば、先生たちと合流できるかもしれない。なにより、琮威とまではぐれるのは得策じゃない」
 そう言って、斉もスマートに人波の間を縫いながら琮威の後を追いかけ、追いついている。
 凌駕もドンくさく足元の小石につまずきかけたり、向かいから来る承認をよけきれずに肘鉄を喰らったりしながらも、何とか琮威と斉に追いつく。
「ローズさん、どこかで待っていてくれないかな」
「あいつがそんな親切な奴かよ。とうにおれたちのことを置いてっておきながら、どこで待っててくれるっていうんだ」
「おれには結構親切にしてくれてたよ」
「凌駕、お前がローズの気まぐれな恩寵を受けたおかげで、このおれはとっても迷惑してるんだよ。どうしておれがこんなところ歩かなきゃならないんだ」
「そんなこと言ったって、僕たちと一緒に来ることを選んでいるのは琮威じゃないか」
「ちょっとちょっと、こんなところで騒ぎなんか起こさないでくれたまえよ? 分かるだろ、凌駕君」
 斉に諭されて、思わず凌駕は辺りを見回す。
「怪しいよ、凌駕君」
「うっ、だって……」
 斉に笑われて凌駕は肩を竦めながらも、横目で怪しい監視員が近づいていないか、どこかでカメラは光っていないか五感を研ぎ澄ませて探ってみる。
 凌駕としては、琮威との諍いでちょっとした騒ぎが起これば、喧騒に気づいてローズたちが戻ってくるかもしれないと思ったのだが、そんなことよりも、確かに中央の監視の目の方が恐ろしかった。
「スラムは無秩序な場所だと聞いていたけれど、とてもただの無秩序な街だとは思えない。ここには中央とは違ったルールが敷かれているだけだ。であれば、そのルールにのっとった中央の監視の目が光らせられているかもしれない」
「ご名答」とだけ言って、斉はにっこりと笑った。
 琮威は「けっ」といじけてまた一人でさっさと先頭に立って歩き出す。
 あてがあるのかはもう聞かなかった。斉と並んで歩きながら、琮威の後を追いかけるだけだ。
「俺はね、ソーカサイドで政治について学んでいてね、今お世話になっている先生があのローズ先生なんだ」
「ローズさんて、政治学の先生だったんですか?」
 とてもそんな堅そうな学問をやっているようには見えなかったが。
「そう。民主主義、社会主義、一党独裁、帝政、王政、共和制――古来から人間は、その高度に発達した知能によって、同種族を一つの共同体にしようと努力してきた。特にも堂か意識の強い人間というのは、富・財産を一代で築き上げた金持ち、あるいはその逆に貧民出身で下剋上の末にのし上がってきた人たちもいる」
「そういう人たちの話は偉人伝に余るほどたくさん載っていますよね」
 歴史好きな凌駕は、ついこの間図書館で熱読した地球の、今は亡き島国の歴史を頭の中で反芻しはじめる。
「しかし、中世の頃、いや、古代国家が出来上がった時には、すでに王というものたちが血縁という繋がりだけで、能力の如何に関わらず玉座を温めてきた。なぜか、そんな独裁は近代文明が夜明けを迎えてもまだ続いている。人々はいつもそれを甘受せざるを得ない」
「ええ、まったく」
「前置きが長くなってしまったけれど、依然、偶然にとある場所で火星の歴史という本を発見してね」
「火星の歴史、ですか?」
「そう。歴史上、火星史に関する本は中央が全て燃やしてしまったと聞いていたんだが」
「それって、隠蔽目的か何かですか?」
「そうだね。凌駕君はこの世界の歴史をどこまで習った?」
「それはまあ、つい最近のことまで」
「じゃあ、この惑星の歴史は?」
 凌駕は斉の言わんとすることをうすうす察して首を振った。
 今まで気づかなかったのがとても不思議なことだ。自分の生まれ育った惑星について、今に至るまでの経緯すら知りたいという欲望を、歴史かを目指しているにも拘らず抱いたことがなかった。
「この惑星の歴史に関する書物があるのなら、僕もぜひ読んでみたいです」
 思わず勢い込んで言った凌駕の口元を、慌てて斉が塞ぐ。
「しっ。そんな大声で言うもんじゃないよ。合法か否かと言われたら、もうどうしようもないからね。ただ、残念ながら書斎に置いてきてしまったんだ。俺もまだ全部読み切れていたわけではなかったんだけど」
 心残りと言った表情で斉は続ける。
「また君に合うことが分かっていれば持ってきたのにな。おれはね、あの本を読んでケトリスへ来てみたくなったんだ。ソーカサイドにもガランというスラムはある。俺と琮威の生まれ故郷らしいが、ガランはここケトリスとは違って中央の監視と統制がの体勢が整っていて、こんなに人々が生き生きと暮らしている場所じゃないらしい」
 中央では見られないような雑然とした、しかし人がまだ生きていることをアピールするような雰囲気がケトリスにはある。並ぶ露店にはまだ土のついた生野菜もさることながら、敷布の上にばらばらとカプセルだけを散らしているような店まである。
 凌駕は小さなカプセルを散らした露店の前にしゃがみ込んだ。
「こんな小さなものでお腹が満たせるなんて」
「あんた、どっから来たんだ? こんな小さなカプセルで空腹が満たされるわきゃねぇだろ。これはただ腹が満たされたように思わせる薬だ。そら、そこの真っ赤な奴が一番長く効果が持続する。ただし、値段も高いがな」
 塵と埃で汚れた布を頭に巻いた店主の、死んだようだった目が鋭く危うく輝く。
「ま、赤い奴よりもこっちの青い方が人生丸ごと楽しくしてくれるけどな。〈CARO〉っていうんだ、その青い方は」
 ぞわり、と凌駕の背筋に寒気が走る。
 絶対に手を出してはいけないものだ、と凌駕の本能が警鐘を鳴らす。
 それなのに、たかが青いカプセルに目が釘付けになって離れない。
「凌駕、琮威が見えなくなってしまうよ」
 斉に促されても、凌駕はじっとカプセルを見つめている。
「こっちの赤い方にも名前、あるんでしょう?」
「ああ、そっちの赤いのは〈DIO〉っつーんだよ。大昔、地球って惑星にあったギリシアって国の酒と享楽の神様の名前からとったんだと」
 顎から伸びた髭を撫でつけながら思いの外若い男は答える。
「へぇ。それは洒落てるね。それで、このカプセルってどこで造ってるの?」
 何気ない凌駕の質問に、店主の男の顔は強張る。
「聞いてどうする? お前、まさか政府の犬か?」
「まさか。ちょっと大量に購入したいなって思っただけだよ」
「大量に?」
「この先いつご飯が食べられるかわからないからね」
「ふん、そりゃあ大変だな。ま、俺も仲介人から買っているからよくは知らないが、火星には二か所、トリニュッソッスとメズフィラにこういうカプセルを作ってる工場があるって聞くぜ? たかがカプセル作るだけのくせに、労働力として連れて行かれるのは若い男たちばかりだって言うな」
「ふぅん。トリニュッソスとメズフィラね。ありがとう」
 ついでにカプセルを青赤一ダースずつ購入する。
「あんた、自分じゃ絶対に使う気なんかないだろう?」
 にやりと店主の男は笑う。と、そこに小さな女の子が駆けてきて、勢いよく店主の腕に抱きついた。
「ねぇ、ピアリス、ミルチアを知らない? 今、店まで行ってみたのに、もう閉店しちゃっててどこにもいないのよ」
 凌駕はその女の子の後ろ姿に見覚えがあった。ついさっき、琮威にぶつかって泣いていた女の子だ。女の子もちらりと凌駕と斉の顔を見、知らぬ存ぜぬで通そうと決め込んだらしい。存在ごと抹消して、薬屋の店主の男に向き直る。
「店にいねぇなら家にでも帰ったんだろう?」
 めんどくさそうに店主の男は言う。
「コルシカが連れて行かれる様子をさっき水晶で見てしまったのよ。早くコルシカに教えて逃がしてあげないと、あの子本当に死んでしまうわ」
「馬鹿なこと言うなよ。占いなんか信じるのか?」
「あたしの占いは当たるって有名なのよ」
「でも、コルシカが〈選別〉でカリュスに行くっていうのは外したじゃないか」
「それは、体調が思ったよりも芳しくなかったからよ」
 歯噛みするように少女は言った。
 一般に、〈選別〉は頭脳はもちろん、心身ともに健康であることが大前提だ。持病があれば医療費がかさむ上に大人になるまでに死ぬ可能性も高いからだ。せっかく高等教育を授けて早死にされてしまっては税金の無駄遣いになってしまう。しかも、ケトリスのようなスラム街は中央政府が置かれているカリュスなどと違って、空にフィルターはなく、二百年前に放射能がまだゆるゆると空中に漂っているような状態だ。そんな中だからこそ、スラムから中央政府のある都市部に迎え入れられる〈選別〉対象者は希少中の希少だった。
「店仕舞いって、さっきジャガトマ売ってた人のことかな」
「あのサファイア、本当に買いたかったんだけどな……」
 凌駕と斉、めいめいに呟いていると、少女は今度は潤んだ目を二人に向けた。
「ねぇ、あんたたち、ミルチアにあったの? ねぇ、どこに行ったか知らない?」
 凌駕と斉は顔を見合わせる。
「ジャガトマやサファイアを打っていた人なら、さっきローズさんと一緒にどこかに行ってしまいましたよ?」
「げっ、ローズ? それって、あのローズ?」
 俄かに色めきたった店主の男は、露店に広げた布の端を持って一気に散らばっていたカプセルを回収する。その様子を見て、斉はおもむろに頷く。
「ええ、おそらくあなたの言うローズで間違いないでしょう。先生が貴方に昔何をしたかは存じませんが、恨みがあるなら先生に直接ぶつけてください」
 目の前に店主の男だけではなく、周囲の露店の店主たちもがらりと表情をこわばらせ、一斉に店を畳みに入った。
「お前ら、もしかしてあいつの知り合いか?」
「俺は弟子で」
「僕は最近ちょっと助けてもらったりしたもので」
 店主の男の垢に塗れた黒い肌でもわかるくらい、男の顔色は引いていた。あとはもう、一刻も早く凌駕達との関係を終わらせたいらしかった。
「先生はこんなところでも有名なのか」
 ぼそりと呟いて、斉は苦笑する。
 昔、といっても四年前、マーザスの〈家〉を出てローズと知り合ってからというもの、師弟関係という建前の下、ローズは庇護者として斉を守ってきた。こんなスラムの住民でさえ畏れるような一面など、勿論見せたことなどない。しかし、四年も一緒に暮らしていれば、斉とてローズがただの大学教授ではないことくらい分かっていた。まだローズに拾われて間もない頃、どうせ子供だから見学くらい構わないだろうと嘯いて、ソーカサイドの議場見学をしたことがある。その経験が元になって、斉は今法学を志しているのだが、一般の傍聴すら許可されない議案の審議の見学を取り付けるなど、一介の大学教授のできることではない。
「ローズが来てるの……そう。ならあんたたち、あたしと一緒に来なさい。ミルチアも一緒なら、もう家に帰っているに違いないわ」
 殺気は琮威にぶつかり、今度はミルチアを探していた少女は、親指の爪を噛みながらくるりと踵を返して、後ろも確かめずに歩き出した。
 凌駕と斉は顔を見合わせ、店主を見ると、店主はついていけと頷いている。
 騒ぎを聞きつけて戻ってきた琮威を回収して、少女の後を追う。
「なんでさっきぶつかってきた子供(ガキ)の後ついていかなきゃならねぇんだよ」
 琮威は不機嫌に少女の背中を睨みつける。
「彼女の探し人と僕らの探し人が一緒にいるらしいことが分かったからだよ」
「あいつの探し人って、誰だよ」
「さっきの露天商の女の人」
「げっ、あのババァかよ」
「ちょっと! さっきあたしにぶつかったあんた、ミルチアをババァ呼ばわりなんて許さないよ!」
 一心不乱に前だけを見て人々の間をすり抜けながら進んでいたと思われた少女が、急に後ろを振り返る。
「なんだ、ちゃんと口きけんじゃねぇか。それもチビのくせにずいぶんとでかい口叩くもんだ」
 長い足であっという間に立ち止まっていた少女に追いつくと、琮威は少女の頭を鷲掴みにするようにぐしゃっと髪を掻き撫でた。
「あ、なっ……こ、子供扱いすんな! あたしはあんたより年上だぞ、絶対!」
「はぁ? ガキが何言ってんの?」
 少女の顔が赤らんでいることに気づいた様子もなく、琮威はさらに少女の髪をぐしゃぐしゃに掻き回して、「早くあいついるとこ連れてけよ」とからかっている。少女はきっと琮威を睨みつけると、髪を撫でつけながら早足で歩いていく。
「珍しい……」
 斉はにやにやとしながら琮威と少女を見つめている。
「珍しいの?」
「珍しいだろ。あの琮威が子供なんて相手にすると思うか? さっきぶつかられた時だって不機嫌だっただろう?」
「琮威は子供嫌いなの?」
「嫌いだよ。理解できないものには近づきたくないって、いつも言ってる」
 理解できないもの、じゃなかったからコミュニケーションがとれている、ということだろうか。いずれにしろ、ほほえましいと思いながら凌駕達が少女の後を追っていくと、露天商の立ち並ぶ一角はいつの間にかなくなり、みすぼらしいバラックが増えていき、やがて一面の荒野に出た。実質、ケトリスの外縁部にあたるその荒野には、岩を積み重ねて造られたいくつかの掘立小屋が点在していた。
 その掘立小屋のひとつから、長身ながらもひょろりと手足が棒のように細く、顔も衣類から伸びる手足も蝋燭の蝋よりも青白い華奢な少年がひょいと出てきた。
「あ、姉さん。どこ行ってたの? 探してたんだよ」
 少年の年恰好は、凌駕たちと同じ十七歳前後といったところだったが、少年は凌駕達を連れてきた少女を見下ろして「姉さん」と言ったのだった。
「コルシカ!」
 少女はぱっと顔を輝かせ、華奢な少年に飛びつくように抱きついた。
「……どうなってるの?」
「あのガキが姉で、あのコルシカってのが弟なんだろ」
 茫然としている凌駕に、こともなげに琮威が答える。その手の平では、さっき凌駕が一ダース買い込んだカプセルのうち、ワインレッドの〈DIO〉一錠が弄ばれている。
「腹を満たすためのこの〈DIO〉の副作用かもしれねぇな。あの低身長は。ただの栄養不足もあるだろうが、そもそも過去の戦争で放射能ぶちまけられたこの地上に、バリアなしで住んでるんだ。遺伝子的に異常が現れたって何もおかしくはない」
「放射能……」
 そう言えば、と凌駕は自分の両腕を抱きかかえる。身を小さくしたからといって、浴びる量にそう大差はないと分かっていても、できるだけ浴びたくはない。
「こんなところで長々命繋げて生きてきているんだ、それくらいの異常、当たり前に出るだろう。あんな年齢逆転姉弟なんてきっとざらにいるぜ? 若いふりしてても、中身は相当なババァとかも、な」
 琮威は振り返りもせずに、手で弄んでいた〈DIO〉を背後に現れた人物に投げつけた。
 〈DIO〉を投げつけられた人物は容易くそれを握り取って、礼を言う。
「手土産か。悪いね。ちょうど腹が減ってたんだ」
 ハスキーな声の持ち主は、ためらうことなく琮威が投げた〈DIO〉を口に放り込む。
「ふんっ」
 琮威は興味が失せたように、現れた女――ミルチアの横をすり抜けて、その辺をぶらぶらと歩き回りはじめた。
「あまり遠くに行かないでくださいね」
 斉の注意も聞こえているのかいないのか、琮威の返事はないが、斉に気にした様子はない。
「ミルチア! 探したのよ。さっき占いをしていたらコルシカが……」
 口を開いた少女は、すぐ近くにコルシカ本人がいたことを思いだしてはっと口を噤む。
 だが、ミルチアは意に介した風もなく頷く。
「ああ、さっきコルシカから聞いたよ。中央から手紙が届いたって」
 少女は見る間に顔色が白くなっていったかと思うと、愕然と肩を落とした。
「駄目よ。絶対に駄目! 行っては駄目! 二度と戻れなくなるわ。殺されてしまう。逃げましょう、コルシカ! 今すぐここから出て、逃げましょう!」
 コルシカの細い両手首を握って、少女は激しく揺さぶる。
「姉さ……うっ、ぐっ、げほっ、げほげほげほっ、うっ、あっ」
 少女に揺さぶられた背の高い少年は、急に自分の胸を抑えて地に膝をついて体を折り曲げながら、ヒューヒューと荒い呼吸を始めた。
「やだ、発作?! どうしよう、もう薬ないのに!」
 少女はコルシカの背を懸命にさすりはじめる。
 斉はちらりと後ろで岩に座ってぼんやりとしていた琮威を呼んだ。
「琮威、診てやれよ」
「なんで俺が。生憎、俺は治る見込みのない奴は診ないんだ。ここじゃ金にもならないし」
「うわ、最低」
 唖然とした凌駕が、うっかり思ったことをそのまま口走る。慌てて口を手で塞ぐが、そんなことにはもう何の意味もなかった。
「おい、今最低、とか言わなかったか?」
「い、言いました。最低だなって思ったから、言ったよ。だってそうでしょ? 琮威には医学の心得があるんでしょ? 生物の遺伝やらなんやらの心得があるんでしょ? あの発作が楽になる方法くらい、知ってるんじゃないの? それを患者を前にして出し惜しみするなんて、最低だよ!」
「楽にする方法? そうだな、なら、さっきお前が一ダース買ってた薬のうち、青い〈CARO〉を一錠飲ませてやれよ。苦痛を和らげる作用にちょうどいいだろ」
 言われて、凌駕はさっき露天商から買った青い〈CARO〉のケースを出すと、一錠手のひらに乗せた。
「やめな。あの子にそれを与えたら、即刻ショック死してしまう」
 飲ませようとしゃがみかけた凌駕の手を、ミルチアが抑えた。
「それより、ちょっと手伝ってくれるかい? コルシカを中に運んでやりたい」
 ミルチアに言われて、凌駕はこくりと頷いた。そして、ちらりと琮威を見上げる。
「なんだよ」
「僕のことは治してくれたのに」
「あ? そんなの、決まってるだろ。お前には中央が金を払うって言ったからさ。お前、一回心臓停まってたんだぞ?」
「え? 心臓? まさか。って、はぐらかさないでよ!」
「はぐらかしてなんかいるかよ。めんどくせぇ」
「ほんと、最ッ低」
 凌駕は言い捨てて、ミルチアと協力し合いながらコルシカを小屋の中へ運びはじめる。
「このところ小康状態が続いてたんだがね。さっき言ってた中央からの手紙がよほどショックだったんだろう。姉想いの子だから、心配かけると思ったんだろうね。案の定、ヘレンめ、騒ぎすぎだ」
 コルシカを運ぶミルチアに言われて、小さいながらもコルシカの姉であるヘレンと呼ばれた少女は涙を堪えながらコルシカの手を握っている。
「一度発作が起きると、コルシカの場合はしばらく高熱が引かなくなる。汗をびっしょり核から着替えが必要だ。ヘレン、準備を」
 促されて、ヘレンは先に小屋の奥へと入っていく。
 小屋の前に、斉と琮威は取り残される。
「〈CARO〉って覚醒作用の薬だよね? 痛みも忘れられると思ったんだろ?」
「成分まで詳しく知るかよ。まだ飲んでみてねぇってのに」
「飲むの? やめられなくなったらどうするの?」
「おれが依存症になるとでも?」
「……琮威の鋼の精神なら依存なんてあるわけない、か」
「状況が変わっていないのに、こっちの心の持ちよう一つで状況がハッピーに思えるっていうなら、使い方次第じゃ大して聞かないただのガラクタだ」
 ペッと吐き捨てて、琮威は小屋の前から去ろうとする。
「いいの?」
「何がだよ」
「凌駕に嫌われたよ、多分。挽回しなくていいの?」
「どうして俺があいつに好かれるように振舞わなきゃんらねぇんだよ」
「気にしてるくせに」
「気にしてなんかいるか!」
 素直じゃない琮威の反応に、斉はくすりと笑う。
「ねぇ、琮威。あの子と覇王、どっちが主人格だと思う?」
「知るかよ」
「俺はね、思うんだけど、あの二人、どっちも主人格なんじゃないかな」
「何言ってんの、お前。ただの二重人格だろ? お前とここで夜中に初めて会った時のことを、凌駕は全く覚えていないようだったじゃないか。凌駕はおそらく、自分が二重人格だってことも知らない。当然、覇王のことも知らない」
「覇王は凌駕のことを知ってると思うか?」
「大概何も知らないのは主人格だけだ。それ以外の奴らは中でこそこそひそひそやってるもんなんだよ」
「へぇ、それは知らなかった。まあ、いっか。俺は凌駕達を手伝ってくるよ。琮威、先生のこと、よろしく頼むよ」
「はっ? 何で俺が」
 抗議する琮威を置いて、斉も小屋の中へと入っていく。
「ちっ、なんだよ。どいつもこいつも」
 凌駕が現れてから、ローズも斉も「凌駕、凌駕」と面白くないことこの上ない。
「ふんっ、勝手にしろ」
 吐き捨てて、琮威は小屋の入口に背を向けた。
 凌駕が現れて以来、何故か面白くない。
 ローズの関心も、斉の関心も、自分か凌駕の方に向いているからだろうか。
(馬鹿馬鹿しい)
 内心、自分で否定しておいて、琮威は不安になった。
 否定すること自体が、自分の考えを肯定しかねないような気がしたのだ。
「ローズが見つかろうが何しようが、俺は帰るぞ。一人でも帰るんだからな!」
 聞いてほしい人もいないのに、琮威は一人ごちてみんなとは逆方向へずんずんと歩いていった。











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