無法地帯 VOL.1 LOST DESIRE
CHAPTER.1 LOST DESIRE

 

 凌駕の頭の中では、さっきカーステレオから流れていた『LOST DESIRE』が途切れることなく繰り返されていた。カーステレオからはすでに違う曲が流れている。運転手の男――ローズももう鼻歌を歌ってはいない。それにもかかわらず、脳内再生される曲はますます扇情的に切なく語りかけてくる。
「凌駕君はその曲が好きなの?」
 斉に含み笑いを漏らされて、ようやく凌駕の目には見事なほどの闇とポツリポツリと点在するオレンジ色の道路照明灯の明かりが映った。
「僕、口ずさんでましたか?」
「ハミングだったけどね」
 苦笑にもかかわらず、斉の笑顔は大輪の牡丹が咲いたかのように艶やかだった。凌駕はちょっと頬を赤らめ、顔を俯ける。
「この曲、ずっと前から流れていますよね。僕の心はLOST DESIREって」
「かれこれ二年くらい前になるのかな、この曲が発表されたのは。当時熱狂的なファンを持つツインボーカルバンドの最高傑作にして最後の曲」
「ツインボーカル?」
「男と女と二人ボーカルが立ってたんだよ。一般的には一人だからな、ボーカルってのは」
 斉に続いて琮威の話に、バンドのことはよくわからないながらも凌駕はふぅんと相槌を打つ。
「どうして最後の曲なんですか?」
「バンドが解散しちまったからな。仲間内の不和だったのか、何だったのか、原因はファンの間でも不明。ツインボーカルの女の方のチカゲが自殺したって噂もあったけどな。その後、メンバーの誰一人として音楽活動してる奴もいないし」
「詳しいんですね、冷泉さんは」
「あ? 冷泉さん? 琮威でいいよ。同い年なのにめんどくさい。あ、こいつのことも斉でいいぜ? 運転してる親ばかのことはローズとでも呼んでやれ」
 同い年だったのか、と凌駕は改めて琮威を観察する。確かに、年はそう違わない気がする。それなのになんだろう、この劣等感は。
「琮威はTreasoners好きだったよね。確か最初で最後のアルバムも先生から借金して買ってたくらい」
「ああ、そう言えばまだあの時借したお金、まだ返してもらってないな。利率はいくらだったかな、斉」
「月10パーセントです」
「ということは今は……」
「ええい、今さら蒸し返すな。誕生日だ何だといろいろプレゼントで割り増しして返してやっただろうが」
「それはそれ、これはこれ」
 ふふふふふ、とローズは不気味な笑い声を漏らしている。
「そのアルバムって、そんなに高かったんですか?」
「そんなことないよ。誰でも買える価格だったけど、ただ単にその時の琮威がライブにグッズに特典映像にプラチナファンクラブに、とまあ、湯水のようにお金を使いまくってね。自分でも稼いでいたくせにお財布の中身がすっからかんだったんだ。いやあ、小銭の一枚も入ってない財布って新品くらいだよね。ゴールドカードもゴミ同然の価値しかなくなってたし」
「言うな、斉!」
「へぇ、琮威も好きだったんだねぇ」
「過去形にするな。今だって好きだよ。いつか活動再開してくれんじゃないかって期待してるくらいにはな。少なくないはずだぜ、Treasonersの活動再開待ってるファンは。当時は火星中が熱狂したんだ。今だって毎日どこかで耳にするくらいに人気がある。って、凌駕、お前俺と同い年なのに何も知らないのか?」
 琮威に驚かれて、凌駕はそういえばと小首を傾げる。
 二年前の自分は、一体何をしていたんだろうか。――思い、出せない?
「まあ、お前は真面目に学生やってそうだからな。どうせ図書館で勉強ばっかしてたんだろ」
 会って一日と経っていない同い年の少年に図星をさされて、凌駕は情けなくも納得して「多分」と頷く。
 それにしても、なんて仲のいい人たちだろうか。他人同士の集まりのはずなのに、悪口さえも遠慮がなくていっそ清々しい。信頼し合っているからこうまでずけずけ言いあえるのだろうか。自分という他人が同じ空間にいるというのに、ちっとも緊張もしていないらしい。凌駕自身はさっき会ったばかりの三人に囲まれてずっと後部座席の真ん中で膝をそろえ、その上に握った拳を置いて肩も強張ったまま下がらない状態だというのに。
 窓の外にはもう赤いレーザー光線は見えなかった。追いかけてくる車の気配もない。周りに並走する車も対抗してくる車もなく、完全にこの辺りを走っているのはこの車だけだった。
 真っ暗闇は図書館の閉架の薄暗さとは質が全く異なる。図書館の薄暗さは未知との遭遇を期待させる何かがあるが、今この車を取り囲んでいる闇は絶望の闇だった。
 にもかかわらず、自分が泣き出さないでいられるのは琮威たち三人のお陰としか言いようがなかった。
(父さんと母さんは無事だろうか……兄さんは……)
 中央政府からの呼び出しに従わなかったどころか逃亡などして、今頃ひどい目にあわされていやしないだろうか。
 琮威たちのように気心の知れた仲のいい家族ではなかったが、むしろいつまでもギスギスとした感じが抜けない家族だったが、それでも凌駕の心はじくじくと痛んだ。
「あの、聞かないんですか? 僕のせいで皆さんにご迷惑をおかけしているのに」
 謝りたかった。謝ってしまいたかった。家族に会って謝れないかわりに、ここで三人に「ごめんなさい」と言ってしまいたかった。
 俯く凌駕の頭のてっぺんに、ローズの不敵な笑いが降ってきた。
「ふっふっふっ。実は我々は君をカリュスに強制連行しろと……」
 顔を上げた凌駕は、ローズのしてやったりという人の悪い笑みに蒼白になる。
「先生、冗談にしてもやめてあげてください。凌駕君が気を失いかけてます」
 「大丈夫?」と斉に肩を揺すられても、凌駕は口を半開きにし、虚空を見つめている。膝の上で握られた拳は小刻みに震え、今にもこと切れてしまいそうだった。
「弱っちいなぁ。冗談だって言ってんだろ」
「冗談なものか。琮威と斉には話していなかったが私は……」
「先生!」
「ローズ!」
 やめようとしないローズに斉と琮威が一斉に咎めた。
「本当だったらぶっ殺すぞ」
 琮威がバックミラー越しに睨みつける。
「ほぉう、あの莫大な借金の利子を釣り上げてあげようか?」
「だから先生、精神的にショックを受けている人の前で、そういう脅迫めいたことはやめてください」
「別に凌駕君を脅迫しているんじゃない。私は琮威を脅迫しているんだ」
「だーかーらー、悪人ぶるのやめろって言ってんだよ。俺たちまで疑われるじゃないか。おい、凌駕、生きてるか? あいつの言うことなんか気にするな。こいつ、人のこといじめるのが趣味なんだよ」
 琮威の口調がはじめよりも幾分和らいでいた。
「わが子ながらひどい言いようだな」
「なら尊敬される親になってみろよ。おい、凌駕、聞こえてるか? おーい。……だめだ、こいつ。体の治りは尋常でなく早いのに、精神の方は紙縒り一本でできてんじゃないのか?」
「紙縒りなんて古臭いモノ、よく知ってるね。今じゃどこにも見ないと思っていたけど」
「あ? ティッシュをひねって作るだけだろ。縁日なんかでヨーヨーとか釣ったりするのに使う……」
「何言ってるの、琮威。縁日とかヨーヨーとか、なにそれ」
「ん? あ? あれ?」
 斉に突っ込まれて琮威は急に記憶があやふやになって落ち着きなく視線をさまよわせる。
「それ、知ってる。昔、地球の日本って国にあった風習だよ。神社っていうところに八百万(やおろず)の神様を祀っていて、縁起のある日に神様をお祝いするお祭りをするんだ。参道にはたくさんの屋台が出て、その中にヨーヨーの屋台がある」
 後部座席のシートに埋まってしまうのではないかと危惧された凌駕が、ぐったりとしたまま口だけは饒舌に語った。
「へぇ、よく知ってんな。そうだよ、それだよ。で、ヨーヨーってのは中に水を入れたゴム風船を膨らましたやつでさ、ゴムの紐と輪っかがついてて、輪っかを指にはめるとゴム紐が伸び縮みしてゴム風船をこう、手のひらでばしばし叩けるんだよな」
 琮威はまるで手のひらにヨーヨーがあるかのようにばしばし上げに空中を叩いてみせる。その様子に凌駕はうんうんと頷き、斉はやっぱり首を傾げる。
「琮威、そんなのいつ行ったの?」
「さあ? 小さい頃じゃねぇの? な、ローズ」
 ローズは前を見たままうなずきもしなければ否定もしなかった。ただにやにやと口もとに笑みを浮かべている。
「おかしいだろう、琮威。凌駕君は今、大昔のそれも地球の日本って国の風習だって言ったんだぞ? 火星にはそんな風習はない」
「そんなの知るかよ。俺はヨーヨーを知っているんだ。それでいいだろう」
「よくない。もし琮威が正しいなら、凌駕君の話が間違えていることになるだろう?」
「斉、いいじゃないか。無理に白黒つけなくても。凌駕君は高等院で歴史、それも地球の歴史を専門とする研究者だよ」
「……はい、すみません」
 ローズに窘められた斉は軽く俯く。
「ローズさん、どうして僕のこと……」
「ああ、斉は君に会いに来たんだよ。君についていろいろと調べていたみたいで、それでね」
「僕に?」
 凌駕が斉を振り返ると、斉は曖昧に笑い返した。
「君があの『LOST DESIRE』という曲に心惹かれるのも分かるような気がするよ。あの曲はまさに地球への郷愁を歌った歌だ。私たち火星人も、元をたどれば地球人だ。この身体の中にあるDNAがあの青い惑星に懐かしさと憧憬を覚えたとしても不思議ではない」
 ローズの説に、凌駕は妙に納得していた。そうなのだ。あの歌を聴くと望遠鏡から見た青い惑星を思い出す。そして、あの少女の面影も。
「地球の歴史の研究をしているというなら尚更だ」
 バックミラー越しに凌駕を見つめるローズの目は好意的だ。さっきの凌駕をカリュスに強制連行するという話は本当に冗談だったのだろう。だとしたら本当に、自分は何の罪もない人たちを逃亡幇助という罪に巻き込んでしまっていることになる。
 凌駕はしばし考えた末、勇気を振り絞って口を開いた。
「ローズさん、あの、行き先は決まっていますか? もし決まっていないなら、僕をケトリスの入り口で下していただけませんか。これ以上長く一緒にいると、本当にローズさんたちまで捕まってしまいます。もし捕まったら、僕に脅されて逃げるのを手伝ったと言ってください。僕は、これ以上ご迷惑をかけるわけには……」
 凌駕はいたって真剣に言っていたつもりだったのだが、まずはじめに琮威がぷっと吹き出した。続いて斉が緊張を解くように笑い声を漏らす。
「凌駕、お前なぁ。こんな気の弱い奴に脅されて逃亡幇助って、俺たちどんだけ蚤の心臓だよ」
「凌駕君の場合は脅迫以前の問題だよね。丁寧にお願いされたら断れないって感じで」
 凌駕越しに琮威と斉が頷きあう。
「冗談で言ってるんじゃないんです! 皆さんいい人たちだから、迷惑をかけたくないっていうか……」
 声が大きくなってしまって尻すぼみになった凌駕の言葉を拾ったのはローズだった。
「優しい子だね、君は。でも心配しなくていい。私たちの行き先もケトリスだ」
「え?」
「実は先日、斉がへまをしてね。なんと中央政府から出頭命令が届いたんだ」
「え? え? え? 斉さんも?」
 うろたえる凌駕に対して、斉は落ち着いた調子で「そういうわけなんだ」と認めている。
「言っとくけど、俺は正真正銘カリュスに呼ばれたんだからな。お前を手術してやったのだって、ソーカサイドの天才の腕を見せてみろってけしかけられたから乗ってやったまで。そうじゃなきゃ、今頃お前は冥途の門でもくぐってたぞ。俺だってソーカサイドの天才より、カリュスの天才の方が聞こえがいいからな」
 冥途の、門?
 琮威の語彙にはどうやら大昔の地球の日本の文化が反映されているらしい。こんな状況でなければゆっくりと語り合いたいところなのだが。
「ったく、これからカリュスで栄華を極めようとしてたってのに、どうして俺まで一緒に逃げなきゃならないんだよ」
「仕方ないじゃないか。私は琮威を手放したくはないし、斉だって大切だからね。それに琮威は一度自分が手を懸けた患者は全快まで面倒をみる主義だろう?」
「言っとくけどな、こいつは術後一時間で手術痕が消えてたぞ? そのうえ立つわ、走るわ、悪態つくわ……」
「え、僕が琮威に悪態を? ごめんなさい。たぶんまだ意識が朦朧としていたんだと思う。それにしたって命の恩人に悪態つくなんてひどい話だけど」
 素直に謝った凌駕を、琮威と斉は凝視し、互いに顔を見合わせる。
「別人だな」
「だね」
 密やかにかわされた二人の声が、真ん中の凌駕に聞こえないわけはない。
「別人……だったの?」
 おそるおそる凌駕が尋ねると、二人は揃って窓の外に視線を泳がせた。
「凌駕君、君は自分がなぜ中央政府に呼ばれたか、分かっているかね? 斉はね、ケトリスに侵入したのがばれてしまったんだよ。君は?」
「僕は……」
 抜け落ちた一晩の記憶。きっとそこで何かがあったのだ。だが、なにも確かなものはもっていない。呼び出し状のメールにも理由は何も書いていなかった。
「わかりません」
 小さな声で凌駕は呟いた。
「凌駕君、僕はあの晩、ケトリスで君と……」
「ところで凌駕君、君はさっきケトリスで自分一人おろしてほしいと言っていたが、何かあてはあるのかね?」
 斉の言葉にかぶせるようにローズが後ろを振り返った。斉は慌ててロースに前を向くように頭を押しやる。
「あて?」
「こいつにケトリスにあてなんかあるわけないだろ。どう見たってこいつ自身はカリュスから出たことのない優等生だぜ?」
「う……確かにあてはないけど……」
「それなら凌駕君、君も私たちと一緒に来るといい。逃亡者は仲間が増えるほど楽しい旅ができるからね」
「人数が増えるほど逃げにくくなるのも確かだけどな」
 ぼそっと呟いた琮威の言葉に凌駕の体には緊張が走る。
「ま、お前一人くらい何とかなるだろ。ケトリスは中央の捜査の手が伸びにくいところだ。都市にいるよりは生き延びる策を考える時間を取れるだろ」
 生き延びる策。
 逃げ伸びるのではなく、すでにもうこれは生死がかかっているのだ。
 昨日までの日常とは一変してしまった今日を思い出すと胸が潰れそうになる。だが、うずくまっていては命が危うい。進むしかないのだ。生き延びるために。
 この人たちなら、きっとついていっても大丈夫。裏切ったりはしない。きっと最後まで助けてくれる。
 凌駕は目を閉じて少し長く息を吐き出すと頷いた。
「よろしくお願いします」
 三人は当たり前に凌駕のことを受け入れてくれた。
 ほっとしてようやく上手く手足を伸ばすことができた。
 緊張が解けて、頭の中にはマンションで離れてしまった綰真のことが思い出された。
(先輩も僕を助けようとしてくれていた。先輩は、無事だろうか……)
 無事でいてほしい。
 今の凌駕には祈ることしかできなかった。


『僕の心は……失われた願望……The Lost Desire』











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