無法地帯 VOL.1 LOST DESIRE

CHAPTER.2 グランド・スラム ―ケトリス―

 

 その晩、ミルチアが予言したとおり、コルシカは四十度を超す高熱にうなされてづけていた。しかし、バラックに住む一人がどこからか持ってきた解熱剤によって、真夜中を過ぎた頃、ようやく呼吸が穏やかになってきたところだった。
「これでしばらくは眠りつづけるだろうよ。さ、凌駕、斉、帰るよ」
 うつらうつらとしていた凌駕は、ミルチアの声にはっと顔を上げた。
 見ると、さっきまで小屋いっぱいに詰めた駆けていた人々の姿はすでになく、ヘレンとミルチア、そして斉だけが狭い小屋の地べたにじかに敷いた敷布の上に座っているばかりだ。
 凌駕は半ば眠りに落ちていたことを恥じながら、伏し目がちに斉を見やった。
「帰るって、どこへ? ローズさんは?」
「そう言えば先生も琮威もどこへ行ったんだろうね」
 斉までが首を傾げたが、それをミルチアは一笑に付す。
「ローズならあたしの家にいるよ。あんたたちも来な」
 招かれたミルチアの家は、集落の中では最大のものだった。
 カリュスと違って何もないここの家の中は、先も短くなった蝋燭の炎に黄色く薄ぼんやりと照らし出されていた。ヘレンたちのバラック同様、床などはなく、地べたに敷布を敷いただけだ。部屋の仕切りも立ち目のばらばらなこげ茶色の麻布だった。
 カリュスやソーカサイドでの自分たちの暮らしとはまるで比べられない。授業で見た石器時代のような生活風景だ。
「思った以上だな」
 斉は半ば茫然としながら家の内を見ている。
「斉さんは、僕にカリュスで会った時に言いましたよね。ケトリスで会ったって。僕はどうしてそこにいたのかはわからないけど、貴方はどうしてケトリスへ?」
「こういう生活風景を見てみたかったんだ。映像でも書籍でもなく、この目で。さっき説明した火星史、あれでどうやら火星人たちのそのほとんどはこういうところへ追い出されたとあった。当然彼らの中には自分たちのいた都を奪回しようと思う人々がいるはず。だから、彼らがどれくらいのレベルの生活をしていて、どれくらい余裕があるのかを知りたいと思ったんだ」
「何のために?」
 凌駕の問いに、斉は目を鋭く煌めかせた。
「革命が起こる余地があるのかどうかを知りたくて」
「革命」
 その言葉を凌駕は鸚鵡返しに呟いた。
 革命。それは世の中がひっくり返るようなことだ。そんなことが起ころうとしているのか? ここから?
「爛熟した世界は、次は刷新の時期を迎える。歴史を学んでいる君ならよく分かっているだろう?」
 斉の言葉に返す言葉を見つけられない凌駕の代わりに、ミルチアが割り込んできた。
「なんだい、あんたたち政府の回しもんかとあたしは思ったんだがね。まあいいさ。そら、あんたたちの寝る部屋だよ。まぁ、客室だ」
 ミルチアがしきりとなっているこげ茶色の布をめくりあげると、他の部屋と何ら変わりのない敷布一枚の真っ暗な空間が現れた。
「悪いが客といえどもここで出せる食い物は〈DIO〉くらいだ。勿論あれで腹の満ちる奴なんかいないがね。腹にたまるもんが喰いたきゃ自分で調達しな。それから、ローズならその幕の奥だ。サートリッジと呑んだくれてる頃だろうよ」
 奥からは何やら忍びやかな笑い声が漏れてくる。ミルチアは幕をめくり、さっさとその奥に入って行く。奥はここよりは幾分明るいようだった。眩しさに思わず凌駕は目を眇める。
「口の悪い人だ」
「でも、悪い人じゃないよね」
「そうだな。琮威がもう一人増えたような気がするよ」
 苦笑いしながら、斉は抱えていた鞄を端に置いた。それを見て、ようやく凌駕は自分が着替えすら持ってきていないことに気がついた。
「どうしたんだい?」
「僕、何も荷物を持ってきていなかったんだ……着替えもお金も、父さんと母さんにも、兄にも何一つ告げずにこんなところに来ちゃったんだ……」
 忘れかけていた孤独感が再び凌駕の胸中に込み上げてくる。鞄一つどころか、何も持っていないということが、否応なく凌駕を不安の底に落し込んだ。
「斉さん、僕、カリュスへ戻れるでしょうか」
 逃亡一日目にして、早くも郷愁に駆られはじめている。
 斉は呆れ気味に凌駕を見やった。
「呼び出しをボイコットしてしまったからねぇ」
 無理だろう、と言外に漂わせる。
 もちろん、凌駕だって帰ったところですぐに捕まることは目に見えていた。が、凌駕としては、気休めでもいいから「いつかは」と言ってほしかったのだ。
 それを察してか、斉は軽く付け加えた。
「そのうち、時代が変われば安心して戻れることもあるかもしれないね」
「時代が、変われば……」
 それは、途方もなく遠いことのような気がした。それこそ、革命が起きて世界がひっくり返ってしまわない限り、自分はマザースからの呼び出しを拒んだ逃亡犯のままなのだ。
「さて、凌駕君。先生とサートリッジという人に挨拶してから寝ることにしようか。夜ももう遅いようだから」
 斉はちらりと自分の腕時計に目をやり、部屋の仕切り代わりのこげ茶色の幕を潜って隣の部屋へ行ってしまった。
 真っ暗な空間で一人は心細く、慌てて凌駕も斉に続いた。
 幕を開けた瞬間、予想以上の眩しさに、凌駕は手で目の前を覆った。ミルチアや斉が中に入って行ったときに漏れ出ていた光の量から察したよりも、よほど中は繁華街のように明るかった。
「おお、凌駕君も来たか。君もこっちに来て飲みたまえ。しばらくはこんなうまいものは口にできんぞ~」
 すでに酔いが回っているローズは、高そうなラベルが張られたワインの瓶を片手に、向かいに座る白髪の老人に酌をしていた。その白髪の老人の顔も、すでに赤く上気して目が座っている。
 挨拶をして寝ようと言っていたはずの斉は、観念したように苦笑を浮かべる唇に赤ワインを注がれたワイングラスをあてていた。
 図書館にばかり入り浸っていた凌駕にとっては、むせ返るような酒臭い空間だ。
「そうだ、斉。琮威はどこへ行ったんだい?」
「医者はやらないと言って一人でどこかへ行ってしまいましたね。襲われて野垂れ死んでないといいけど」
 思い出したように尋ねたローズに不穏なことを言って、斉は上気した顔で凌駕に空のワイングラスを差し出した。
「凌駕君も、ほら」
 逃げる術を知らない凌駕は、おずおずと斉の隣に腰を下ろし、ワイングラスを受け取る。
 〈DIO〉しかないという場所の割には、場違いなほど透明感の高い形の整ったグラスだった。しかも、ローズと白髪の老人の間にはチーズや干物のつまみが皿に並べられている。
 白髪の老人は、上機嫌でくいくいと指を動かして凌駕にワイングラスを差し出させると、なみなみと凌駕のグラスに赤ワインを注ぎだした。
「君が例の指名手配犯か。気が弱そうなのに、何をしでかしたのだか」
 凌駕のグラスに赤ワインを注ぐ好々爺の瞳が鋭く光る。
「僕は、何も……」
 おずおずと答えながらも、注がれた赤ワインを見て凌駕は心の奥がざわりと毛羽立つのを感じていた。
「ローズ、お前も物好きだな。何だって彼をこんなところに一緒に連れてきたんだ?」
 ローズはにやりと白髪の老人に意味ありげな笑みを送り、凌駕に向き直った。
「凌駕君、彼はサートリッジ。僕の旧友だ」
「あんたと友情を交わした覚えなんかないがな」
「今まさにこうやって友情を深めているところじゃないか」
「今日の友は明日の敵というだろう?」
 凌駕への紹介もそこそこに、ローズとサートリッジはまた二人だけのやり取りに戻っていく。
 凌駕はじっと赤い液体がなみなみと注がれたグラスを見つめた。
「どうしたんだい? 飲めないのかい?」
 サートリッジの横に腰を下ろしたミルチアが、凌駕の顔を覗き込む。
「このワイン、どこから出てきたのかと思って」
 ミルチアは一瞬呆気にとられた後、あっはっはと笑いだした。
「そんなの、ローズがどっからか掠め取ってきたのさ。闇市からかっぱらってきたのか、手土産に持ってきたのかは知らないがね」
「人聞きの悪いこと言わないでくれたまえ。旧交を温めるために持ってきたに決まっているだろう」
「ほらな、大概こいつは信用ならない」
 酔っ払いの三人はずけずけと言いあいながら豪快に笑っている。
 赤ワインを見つめていた凌駕は、そんな笑い声が次第に遠ざかっていくのを感じていた。この赤い色を見ていると、どこか、何かを彷彿とさせられて、自分の意識がはじけ飛んでしまいそうになる。
「凌駕君、凌駕君!」
 斉に揺さぶられて、はっと凌駕は我に返る。
「凌駕、あんた飲めないならやめときな。あんたのような真面目そうなタイプに限って、酒癖が悪いんだよ。面倒事はごめんだよ」
「そんなこと……飲んでみないと分からないでしょ?」
 ミルチアの言葉に、凌駕はカッとしてワイングラスを傾けた。
 重い葡萄の風味に続いて渋みが舌に残り、灼けるような痛みが喉を駆け抜けていく。
「うっ、ぐっ……」
 思わず口元を抑えて逆流してきたものを飲み込む。
「ほら、言わんこっちゃない」
 酔っ払いどもは赤くなったり白くなったり青くなったりしはじめた凌駕の姿さえ、酒の肴にしてけたけたと笑いだす。
 強がってもう一杯飲んで見せるどころではなかった。むせながら凌駕は涙を拭い、数枚の仕切りの幕を跳ね上げて外へと飛び出す。
 口元を抑えていた手を外すと、堪えきれなくなっていたものが次から次へと吐き出されてきた。といっても、空きっ腹だったために、出てくるのはついさっき一気に呷いだ赤ワインばかりだ。しかも胃酸と混じって苦く酸っぱさが増している。
 ひとしきり吐き終えると、目の前にすっとミネラルウォーターのボトルが差し出された。
「濯ぎなよ。口の中、苦いだろ?」
 憐れみを浮かべた斉の目元に身を縮ませながらも、凌駕はありがたくミネラルウォーターのボトルを受け取る。
「ありがとう」
 吐いたばかりのせいか、水はまだ苦く感じたが、飲むと幾分すっきりとした。深く息を吐きだすと、ようやく外の寒さが肌を刺していることに気付いた。
「赤ワイン、初めてだった?」
 笑っている斉にミネラルウォーターのボトルを返す。
「年齢的にまだ早いって、いつも兄に取り上げられていました」
 悪戯心に手を出してみたくなったことは、凌駕にもある。でも、その度に琉乃に見つけられ、ワインボトルを取り上げられていた。今ならそんな琉乃に感謝してやったっていい。
「ミルチアに、上手く乗せられたね」
「乗せられた?」
「まんまと挑発に引っかかっていたじゃないか」
「挑発……あああ」
 思い出して凌駕は頭を抱える。
「まぁ、ミルチアとしては忠告だったんだろうけどね。それを挑発ととってまんまと引っかかるなんて、」
 斉は一度そこで言葉を切った。
 じっと凌駕を見つめる。
 大人しそうに見えて、意外と好戦的だ。そこは、覇王と本質的に同じなのかもしれない。
「君は……面白いね」
 ぽかんとして凌駕は首を傾げるが、斉は静かに笑い、自分もミネラルウォーターを一口飲んだ。
「さっきの白髪の老人、サートリッジ。彼、ミルチアの夫だそうだよ」
「え、夫?!」
 突然の斉の話に、凌駕の頭の中でクエスチョンマークが溢れかえっていく。
 コルシカの看病の時、フードを取った彼女の容姿は、酒やけした声から想像する以上に若く、二十代後半くらいの美しい女性だった。そんな彼女の夫が、死相すら漂う白髪の老人の妻とは、どうにも釣り合いが取れない。
「ヘレンとコルシカ、あの二人も姉と弟なのに姉の方が幼かっただろう? あれは何代も前からの放射能の影響らしいが、サートリッジとミルチアの場合は、ミルチアが〈DIO〉の副作用でもう何年も昔に老化が止まってしまったらしい。逆にサートリッジの方は急激に老化が進んでしまった。本来であればまだ四十代前後といったところらしいよ」
 四十代前後というなら、凌駕の両親たちとそう変わらない年齢だ。
「琮威もそれが分かっていて、ババァなんて不遜な呼び方をしていたのかねぇ」
 斉は腕を組んで困ったように笑っていたが、凌駕は琮威の名を聞いてすっと酔いが醒める思いがした。
「琮威って、どんな人なんです? どうして目の前に患者がいるのに、彼には治せるだけの技術があるだろうに、どうして見捨てることができるんです?」
 斉は一つ首を傾げる。
「技術はあっても、設備がなければ何もできなかったんじゃないかい?」
「設備がなくても、医者なら……」
「残念ながら、今のところ琮威の価値基準は自分に利益があるかないか、だよ。しかもわかりやすくて、金銭的な利益が優先される。利益が見込めないなら、自分が火の粉をかぶる前にあっさりと切り捨てる。まあ、琮威だけじゃないよね。誰かのために自分が犠牲になるなんて人、大昔はいたみたいだけれど、最近じゃそんな感情さえも不要なものとされているよね。自分が生き抜くために必要最小限のことさえやっていればいい。ここは、そんな世界だ。凌駕君、君のような人の方がむしろ珍しいんだよ。君は、俺が出会った中で最も昔の人間らしさが残っている。優しさも怒りも不安も含めて、感情をちゃんと持っている。今の人々が感情なんか持ったら、モザイクのような有り合わせの集大成になっているだろうに、君はしっかりと統御されている。これは結構珍しいことなんだと思うよ」
 凌駕とは百八十度反対にいる琮威を、凌駕が理解しようとしても無理なのだ、と斉は暗にそう言ったのだが、それだけで納得できる凌駕ではなかった。
 医者という仕事は兄・琉乃も選んだ道だ。琉乃なら、この状況でコルシカを見捨てるだろうか。見捨ててほしくないという思いが湧き上がるのは、むしろ琉乃も琮威と同じくコルシカを見捨てるかもしれないと思ったからだろう。しかし、心のどこかで、凌駕は普段の琉乃が見せない綰真といる時のような優しさが、コルシカを救ってくれるかもしれないのに、と歯噛みするような思いをしていた。
 それが、理想化された兄の姿なのだと、十分に分かっているはずなのに。
 ふと、凌駕の視界上空にぼんやりと二つの光が入り込んだ。
「斉さん、何か、来る」
「え?」
 視界の中の二つの光はあっという間に光量を増し、こちらに向かってくる。
「カリュスの偵察機? いや、それにしては何か少し……」
 光の点は見る間に大きくなり、同時に大きな羽音が聞こえてきた。
「鳥?」
「中に入った方がいいかもしれない」
 二人は互いに頷き合い、バラックに入り込もうとしたが、中からは入れ違いにミルチアが出てきた。
「ミルチアさん、外にはいかない方がいいです。何か鳥のようなものが近づいてきています」
「そうかい。ようやく来たね。安心しな。あれはあたしに来たもんだ」
 ミルチアは挑むような笑みを浮かべ、向かい来る黒い巨鳥を見やった。
 黒い羽と金色の目を持つ巨鳥は、羽をたたむと大人しく差し出されたミルチアの腕にとまった。
「その鳥は?」
 ミルチアの手から肉のような塊を貪り食べる鳥に、凌駕はどこかおぞましさを感じて一歩退いた。
「ガルーダ……未だに健在だったか」
 ミルチアの代わりに凌駕に答えたのは、後から出てきたローズだった。
「ガルーダ?」
「見ての通り、鳥だよ。賢い鳥でね、こうやって餌を与えて人になつかせれば、連絡手段にもなる」
「へぇ」
 ぺちゃくちゃと水っぽい音を立てながら餌を貪り食べている鳥の瞳は、人になついているとは思えないほど獰猛な光を湛えたままだ。
「先生、サートリッジさんは?」
「ん? あいつなら酔いつぶれて大いびきかいているよ」
「先生もだいぶ飲んでらしたでしょう?」
「あれくらいは飲んだうちには入らないんだよ」
 ローズは笑いながらガルーダの方を覗き込む。
 それを見て、ようやく凌駕と斉は少し安心して顔を見合わせた。
「大丈夫そうだね」
 思いのほか怯えていたことを恥じらいながら、凌駕は斉の言葉に頷き、ローズの脇からガルーダを覗き込んだ。
「食べさせているのは、もしかして本物の肉ですか?」
 こんなところで肉なんて手に入るはずがないと思いながらも、ガルーダの口から滴り落ちるものに、思わず凌駕は聞いてしまった。
「こいつは本物しか食べないんだ。そろそろ来る頃だと思って、数日前に死んだ奴の肉を取っておいたんだよ」
 ミルチアの答えに、思わず凌駕は悲鳴を上げる。
 斉もまた、口元を抑えてガルーダから目を逸らせた。
「人の、肉なんですか?」
「そうだよ。何の病気かはわからないが、まだそう年は食ってなかったからね。食べ甲斐もあるだろう」
「食べ甲斐って……」
「なんだい、生きた人間の方がうまいんじゃないかとか言い出すんじゃないだろうね。ま、それでもいくらも変わりゃしないだろうけど。この辺で今生きてる奴らなんか、死んでるも同然の目をしてるからねぇ」
 詰め込むように肉を貪っていたガルーダは、やがて音を立てて食べた肉を吐きだしはじめた。ミルチアもガルーダの腹を押しはじめる。すると、肉塊が減り、胃液ばかりになってきたところで、ガルーダは鈍色に光る銃弾を吐きだした。ミルチアは無言でそれを拾い上げる。
「それは?」
「見ての通り、銃弾さ。中身が気になるならついておいで」
 ミルチアはガルーダを外に残してさっさと中に入って行く。ローズも訳知り顔でその後に続いていくのを見て、凌駕と斉も後に続いてバラックの中に戻った。
 薄暗い中、ミルチアは何層もの幕をめくり上げ、サートリッジがいびきをかいている奥の部屋まで行くと、寝ているサートリッジの尻を軽く蹴った。
「起きな、ジサイから報せが届いた」
 サートリッジは蹴られたことに腹を立てる様子もなく腹を掻きながら起き上がると、ミルチアから放り投げられた銃弾を器用に片手でキャッチした。
「ジサイというのは?」
「ミルチアとサートリッジの息子だよ。十年前にカリュスに侵入して捕まってしまってね。今は確かドーガル強制収容所に入れられているはずだ」
 斉の問いにローズは軽やかに答えたが、凌駕は思わずドーガル強制収容所という名に身震いした。
 ドーガル強制収容所は凶悪犯が投獄される場所で有名だ。政治犯、思想犯、テロ、殺人、窃盗、詐欺など、罪状は多岐に渡るらしいが、一筋縄ではいかない罪人たちを収容するため、とびきり警戒も厳しく、その場所は極寒の地にあるらしいという以外、一般的に具体的な場所も明かされていない場所だった。
「でも、なぜカリュスへ?」
 ケトリスのようなスラムに住む者が、カリュスのような都市に侵入することは法で固く禁じられている。〈選別〉の時を逃せば、スラムの住人はスラムから一歩たりとも出ることを許されなくなるのだ。同時に、カリュスのような都市に住む者がケトリスのようなスラムに許可なく行くこともまた、重罪に値する。都市の住人がスラムの住人に食糧を与えてはいけないし、教育を施してもいけない。それはすなわち、いつかテロの芽となり得るからだ。互いの行き来を制限することで、支配する者とされる者とが明確に線引きされ、火星は秩序を保っているのだ。
 凌駕の問いに誰かが答える前に、銃弾を二つに分解して中から出てきた小さな紙片に目を通していたサートリッジがぎらりと目を光らせた。
「準備は整ったらしい。花火を一つ上げれば、それを目印にするそうだ」
「こんなところに花火なんてあるかい。まあ、仕方ない。サートリッジ、他の奴らを集めるよ」
「急いだ方がいいからな」
 ミルチアは慌ただしく外へ出ていく。
 状況が呑み込めない凌駕と斉は、その後ろ姿を見送るしかない。
「まったく、厄介な時に来てしまったかな」
 一人、ローズだけが余裕気に残ったワインを口に含んでいる。
「分かっていて来たんじゃないのか?」
 さっきまで酔いつぶれていたとは思えないほど目をぎらつかせたサートリッジが、ローズに詰め寄る。
「馬鹿みたいにタイミングが良すぎるだろう?」
「そうかい?」
「どうしてこいつらを連れてきた?」
「それは彼らに聞いてくれ」
 ローズはにやりと笑って凌駕達に視線を投げる。
 サートリッジはずいと凌駕と斉の前に顔を突き出した。
 酒臭さにのけぞりながらも、凌駕はサートリッジの視線を受け止める。
「あんたら、〈選別〉されたクチだろう? M・G(火星政府)の都合のいいようにこき使われるための人材として、地球の歴史を学び、地球のために、火星の歴史も知らずに生きてきたんだろう?」
 サートリッジの爛々とした目は、すでに酒による高揚感だけではなくなっていた。抑圧されてきた人々が立ち上がろうとしているかのように、赤々と闘志を燃やしていた。
「客人たちよ、選びたまえ。この情報を持って政府へ行くか、それとも――我々と共にこの腐った世界をひっくり返しに行くか」
 ぞわりと凌駕の背が粟立った。
 感じたことのない高揚感がぞくりぞくりと背筋を駆け上がってくる。
 彼らは一体何をしようとしているのか。
 火星政府を転覆させようとしているのだ。
 何をどうするつもりかは知らないが、ドーガル強制収容所に閉じ込められた息子と連絡を取り、火星最大のスラムであるこのケトリスから蜂起するつもりなのだ。
 ローズが言った通り、全く厄介な時にここに連れてこられてしまったのだ。
 でも、それがわざとだとしたら?
 火星政府に目をつけられた自分と斉とを匿わせるには、混沌とした巨大なスラムは都合がよかっただろう。それどころか、蜂起を目論んでいるところだとしたら――
 凌駕は思わずローズを見た。が、ローズは凌駕と視線を合わせようとはしなかった。斉とも視線を合わせず、ちびちびとワインの残りを口に含んで悦に入っている。
「返事は?」
 ドスの利いたサートリッジの声が凌駕を我に返らせる。
 室内には、いつの間にかミルチアが数人の襤褸を纏った男たちを連れて戻ってきていた。目深にかぶったフードの中から、きつい視線が凌駕と斉の背中に注がれている。
 ごくり、と凌駕は生唾を飲みこんだ。
 パニックになりそうな気持ちを拳を握って押し殺し、ぎり、とサートリッジを睨み返した。
「僕たちにははじめから選択権なんて与えられていませんよね?」
「そんなことはない。ここで殺されるか、生き延びるかの選択肢を与えてやっただろう?」
 サートリッジは人の悪い笑みを浮かべている。
「僕たちが何のためにここに来たのか――生きるためです。生き延びるため。たとえ、運よくここから逃れ、カリュスに戻って火星政府に貴方たちのことを密告できたとして、後は都合よく殺されるのが見えています」
「だろうな」
「であれば、答えは決まっています。僕は貴方たちにつかせてもらいます」
 自分はなぜ、火星政府から呼び出されなければならなかったのか。なぜ、自分の元に出頭命令が来たのか。自分は、スラムになど興味すらなく、ケトリスに入った記憶すらなかったというのに、おそらく火星政府は自分がケトリスに無許可で侵入したことを理由に出頭命令を出してきたのだ。
 人違いだと言いたかった。が、実際にたまに自分が綰真に背負われて家に帰されていたのは確かだ。しかも、琉乃に治療されるほどの傷を負って。自分の知らない間に自分が何かをしでかしている。
 だからといって、これ以上あらぬ疑いを増やすのも得策ではない。
「ただし、僕はつくと言っただけで、手伝うつもりはありません」
 ミルチアに連れてこられた男たちが不満にどよめく。
「ふん、結果的に命が惜しくて中立にしときたいだけじゃないか」
 背の高い男たちに囲まれて、一段と小さく見える少年が舌打ちした。
「やめときな、ラルゥ。サートリッジ、あんたもだ。言質を取ったところで大して益はないよ。だろう、ローズ?」
 ミルチアは少年を諌めると、鋭い視線でローズを睨みつけた。
 ローズは構わずワインを啜り、短く「斉」とだけ促す。
 促された斉は、しぶしぶと言った態で口を開いた。
「分かりました。僕も凌駕君と同じということで。貴方たちに加勢をする気はありません。加勢できるような力もありませんが。僕はただの傍観者としてここにいるのだということを忘れないでいただきたい」
 そう言うと、斉はローズの顔も凌駕の顔も見ないまま、部屋の外へと出て行ってしまった。
「斉さん!?」
 思いがけない斉の行動に、凌駕は追いかけようと腰を浮かしかけたが、ローズが手を伸ばして差し止めた。
「君はここにいなさい」
「けど」
「斉がああ言っているからね。私も傍観者になるよ」
 ローズの一言で、サートリッジとミルチアが連れてきた男たちの緊張が和らいだ。
 彼らが警戒していたのは、凌駕でも斉でもない。一見無害そうに見えるローズだったのだ。それはすなわち、彼らはその人数をもってしてもローズと呼ばれるこの男を制することができるほどの力を持っておらず、これから自分たちが起こすことについて加勢は期待できずとも、敵に回すよりも何百倍もましだということだった。
「さて、私たちもここにいては邪魔だろう。凌駕君、お暇するとしようか」
「はい」
 一体この人は何者なのだろう。信用して、本当に大丈夫なのだろうか。
 そう思いながらも、身体は大人しくローズの後に続いて酒臭い部屋を出ている。
「ああ、サートリッジ、書庫を借りるよ」
 ローズはひょいと幕を持ち上げて一言付け加えると、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌でバラックの外に出た。
 夜はもう、大分更けている。
 外には斉の姿もなく、琮威の姿も見当たらない。
「斉さんは、大丈夫でしょうか」
 寒さに身を抱えながら凌駕が聞くと、ローズは「多分ね」とさして興味もなさそうに答えた。
「それより、君、本は好きだろう?」
「え、はい、大好きです。カリュスにいた時なんか、いつも図書館にいたから本の虫とか言われちゃってて……」
「ここ、ケトリスの書庫はね、カリュスには置いていない本がたくさん置いてあるんだよ」
「カリュスには置いていない本?」
「そう、例えば、火星の歴史について、とか」
 思わせぶりなローズの言葉に、凌駕は疑うことなく飛びついた。
「本当ですか?! 僕も行ってみたい!」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
 ローズは凌駕に気づかれぬよう、したりと笑んだ。











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