無法地帯 VOL.1 LOST DESIRE
CHAPTER.1 LOST DESIREⅤ
(千景……)
軽い頭痛を感じながら、綰真はできるだけゆっくりと体を起こした。
つい今しがた覚せいを促したのは、とても懐かしくて愛しくて、しかし、今はもう絶対に手に入らないところにいる少女の姿だった。
「琉乃」
軽く頭を振って綰真がどこへともなく呼びかけると、ドアが開いて燃えるような碧の瞳をもった青年がむっすりとした表情で入ってきた。
「俺は……死んでいたか?」
「体の三分の二はお前のクローン細胞で作ったやつに付け替えておいた。……お前、何回死んだら気が済むんだ」
「そうか。残りはあと何体ある?」
綰真は自分の掌から腕をしきりに眺めまわしながら尋ねるが、琉乃とは目を合わせようとしなかった。
「五体ほど」
「そうか。なら、あと六回死ねば解放されるか?」
「今回は脳が結構ヤバかったからな。さすがにお前と同じ記憶を持ったクローンは俺でも造れない。もっとも、初めからそんなつもりはないが」
「はは、そうだった。海馬でもやられたかな。クローン細胞からもまた複製が可能だった。本当にここは忌々しい時代だ」
自嘲含みの笑い声を立てて綰真はベッドから立ち上がると、琉乃の横を通り過ぎて部屋の外へと出た。琉乃は何も言わずにその後ろについていく。
「で、俺はまた凌駕のところへ行けって?」
「凌駕ならカリュスがソーカサイドから招いた博士と一緒に消えたそうだ」
「へぇ、それはまた……。行方不明なら、いくら俺でも可愛い後輩のところへはいけないな」
「軽口を叩いている場合じゃないだろう。お前の鬼上司がお呼びだ」
「低血圧のこの俺に起きたそうそう、あの女のキンキン声を聞かせる気か? お前、少しは患者の精神状態というものを考えてくれよ」
「先に部屋を出たのはお前だろ」
「ベッドのある部屋なんかにいたら、あっちから喜び勇んでくるからな」
「そうよ、せっかくお見舞いに行こうと思ってたのに、綰ちゃんたらつれないわよ」
二人は振り返らずに、その女の声を聞いただけで二人同時に溜息をついた。
噂の綰真の上司、ロアンナ・キャスパーは真紅のスーツに身を包み、緑の瞳を引き立てるように唇にも同じ紅を引いていた。白いうなじにもたれかかる栗毛色の巻き毛が艶やかに女性らしさを醸し出している。
「どうして琉ーちゃんまで一緒にため息つくのよ」
綰真に後ろから抱きつきながら、ロアンナは琉乃を上目遣いに見上げた。
「全く心外だわ。私だってあなたたちと二つ三つしか違わないのに……」
「五つです」
「たくさんの部下預けられちゃって。もう風当たりが強いのなんの」
冷静な訂正にもめげず全て吐き出しきったロアンナに、琉乃は再度ため息をついて気を取り直す。
「能力が全てといつも言っているじゃないですか。そんな弱音が貴女の口から出るとは思いませんでしたよ」
フリーズしている綰真に代わって、呆れた顔で琉乃が代弁する。
「あーら、私だってれっきとした女の子。夢見る乙女なのよ。ちゃんとか弱いところだってあるんだから」
「ならそのか弱さを前面に出したらどうです? セクハラでもパワハラでもなく、本気で綰真をおとしたいなら、ね」
綰真の代弁を務めていたはずが、むしろロアンナの気持ちを煽るようなことを言い残して、琉乃は彼らの進行方向から九十度直角に曲がって別の行き先へと向かっていってしまった。
「あいかわらず琉ーちゃんは可愛くないわね」
「俺なら可愛いんですか」
ロアンナは琉乃に見せつけるように綰真の肩に回していた腕を解いて、つまらなそうにさっさと綰真の先を歩きはじめた。
「琉乃が少し喋っていったみたいだけど、凌駕はカリュスに招聘されてきていた冷泉琮威という外科のスペシャリストに手術させたわ。名前くらいは聞いたことあるでしょう?」
「ああ、ソーカサイドの天才外科医」
「そう。今度カリュス中央病院にゲスト医師として勤務することになっていたのよ。今ちょうどそのための移住手続きに来ていてね」
「琉乃の手には負えないくらいの傷だったのか?」
今までなら覇王が追ってきた傷は全て琉乃が治療していた。他の医者に任せるのはおそらく今回がはじめてだ。
「琉乃も天才よ。でも彼は再生医学の専門家でしょう?」
「冷泉琮威の実際の腕を試してみたかった、と」
ふふ、と意味ありげにロアンナは微笑んで話を続ける。
「匿って手術したまではよかったんだけど、その後一時間くらいでサプ派に見つかっちゃって。今は冷泉琮威とその〈両親〉、それから〈両親〉の弟子と一緒に四人で逃走中」
「ソーカサイドの宝石がとんでもないことに巻き込まれましたね」
「巻き込まれたんじゃないわ」
「巻き込んだんですか」
目には見えない台本の筋書きを見せられた気がして、綰真は小さく息を吐いた。冷泉琮威、彼もこの舞台の役者の一人としてあらかじめキャスティングされていたのだ。一体これから何人の役者が舞台に上がっては消えていくのだろう。
「向かってる先は?」
「カリュスから出ようというんだから当然、ケトリスで引っ掛かるでしょうね。ケトリスの中に入られたら容易には追跡できなくなってしまう」
「その前に合流しろと」
「ふふふ」
意味ありげに笑って、ロアンナは虹彩認証を済ませ、鋼鉄の扉の向こう側へと入っていく。綰真もその後に続き、扉が静かに閉まると、ロアンナは部屋の奥の壁にしつらえられた巨大なモニターの電源を入れた。ひとしきりパネルをはじいたり叩いたりすると、モニターには凌駕と同い年くらいの一人の少年の顔写真と全身写真、身長、体重、血液型などの身体的情報から食べ物の好み、生い立ちから現在に至るまでの略歴まで細かく記された画面が映し出された。
「冷泉琮威、十七歳。医学博士。ソーカサイド所属。十歳で医師免許を取得。今回はカリュス中央病院のゲスト医師として招かれ、確か琉乃が面倒をみることになっていたはずよ」
「あいつに人の面倒なんか見られるかよ」
「ただの院内案内人みたいなものでしょ。常勤とゲストじゃはじめから対等じゃないもの。まぁ、今回のことで病院で会うことはなくなったわけだけど」
ロアンナが軽口を叩いている間に綰真はモニターに移された情報を全て頭に叩き込む。
続いて、翠緑の瞳を持つ焦げ茶色の髪の青年が映し出された。
「ローゼニアン・カンツォーネ・イル・ユック、二十七歳。私好みのいい男なのよねぇ」
ほうっと見とれるロアンナに、綰真は咳払いで先を促す。我に返ったロアンナは意識的に表情を引き締める。
「冷泉琮威の〈両親〉よ。都合で片親だけど。ソーカサイド高等院の法学研究科の教授。研究対象は主に法哲学。そして次のこの金髪の美少女が美橋斉。さっきの教授様の愛弟子よ」
美橋斉、十九歳。一つ年上。全身写真では白の男もののスーツを纏っているが、顔も華奢な体つきも紛うことなく少女と女性の中間に位置するものだった。生物学的にも女性との記載がある。男装癖でもあるのか、何か別のコンプレックスがあるのか――生い立ちに目を走らせていた綰真は、とある時点で一度目を伏せた。
「〈両親〉も完璧ではないからね。こういう悲劇も彼女だけに限ったことじゃないでしょう。表層化していないだけで」
あんたは? と問いそうになった口に封をして、綰真は残りの美橋斉の情報を頭の中に流し込んだ。
その様子をロアンナは楽しそうにじっくりと観賞している。
「それで、冷泉琮威がカリュスへ来た理由は分かったが、法学専攻の二人までくっついてきた理由は?」
「それがねぇ、この教授様は琮威君を手放したくないらしくってね。一緒にカリュスに移住するって聞かなかったんですって。人格に問題ありよねぇ。いくら〈親〉とはいっても、子供は十歳で医学博士をとった十七歳よ? いい加減手放してもいい年でしょうに」
「美橋斉の方は?」
「愛弟子っていうくらいですものね。ソーカサイドでは教授様一家と一緒に住んでいて、家のこと全般受け持っていたみたいね。教授の秘書役もこなしているみたいだし、手放せなかったんでしょ。弟子の方も尊敬する師匠に全てを捧げている感じだし」
利害や効率が優先するこの火星にあって、彼ら三人の関係は珍しく感情が優先しているようだった。琮威が親ばかの教授のことをどう思っているかは分からなかったが。
「とりあえずこの情報は頭の中にしまっといて。貴方には別の仕事が用意されているの」
ロアンナが操作盤を軽く叩くと美橋斉の情報は消え、かわりにCG処理された見覚えのある仲間たちのジャケット写真と見たことのないタイトル『ONE MORE CHANCE』の文字が現れた。同時に、聞いたことのない曲がスピーカーから流れだす。
「新曲よ」
ロアンナは意味ありげに微笑んだ。
綰真はモニターいっぱいに映し出されたジャケット写真の中央、自分の隣に並ぶ黒髪の少女を苦い思いで見つめながら生唾を飲み込んだ。
「千景がいない」
「コンピューターの解析によって昔の歌声をもとに、どんな発音でも音程でも再現できるわ」
「なら俺じゃなく……!!」
「命令よ。歌いなさい」
彼女は今までで一番妖艶に、そして一番凄みのある微笑みを赤い口元に浮かべた。
綰真は唇を噛みしめる。
解散したのは二年前。ツインボーカルの一人、千景が自殺したのを機に『Treasoners』は消滅したはずだった。ラストシングル『LOST DESIRE』だけは今でもそこここらで流れているが。
「いくら技術が発達しても、想いだけはコンピューターじゃ造れない。明日、改めて迎えに行くわ」
「待てよ、じゃあ他の奴らは?」
何を言っているの、とロアンナは首を傾げた。
「どんな楽器の音だってコンピューターは再現してくれる。必要なのはあなたの声だけ」
綰真は握った拳をどこへも叩きつけられず、太腿にねじりこみ、表情を隠すように美貌の上司に一礼すると部屋を出た。
今にも叫び出したい気持ちを呑みくだし、ようやく一息吐きだす。
「琉乃、お前は本当に残酷な奴だな。あんな歌詞を俺に歌わせようっていうのか?」
目の前に琉乃はいなかったが、こぼさずにはいられなかった。
流れる曲と共にモニターに映し出されていた歌詞は、紛れもなく正確に千景を失って久しい今の綰真の心を代弁していた。