無法地帯 VOL.1 LOST DESIRE
CHAPTER.1 LOST DESIRE

 

 ノック音で凌駕は目を開けた。誰かが入ってきて、薄暗い部屋に灯が点った。凌駕は再び眩しさに目を閉じた。
 麻酔が効いているのか、あるいは、痛みに身体が感覚を全て閉ざしてしまったのかはよく分からなかった。まるで自分の体と魂が離れてしまったかのような心もとなさだった。
「起こしたか。悪かったな」
 ベッドサイドには凌駕と同じくらいの少年が立っていた。
 白いコットンシャツにジーンズという普段着のままで、少年は横においてあったカートの上から聴診器を取り上げ、凌駕の上位を開き、胸に当てる。
 一体今まで何が起こってきたのか分からない凌駕は、体が動かないこともあって、少年のされるがままになっていた。
 少年なh手元の注射器に透明な液体を瓶から移すと、凌駕の左腕に針先を差し込んだ。
「ただのビタミン剤だ。毒物じゃないから安心しろ」
 少年は粗雑な物言いではあったが、凌駕の心中を的確に察していた。
「ここはカリュスの中央の医務室だ。あんたはさっきマンションの二十六階から飛び降りて気絶した。幸い重力緩和装置の作動が真に会っちまったから、今こうして生きてるわけだ」
「僕は……死んだんじゃ……」
「喋るな。傷が開く。俺は二回も同じ患者の縫合をする気はない」
 静かだが有無を言わせない口調で、医師らしい少年は凌駕の言葉を制した。
「ぎりぎりだったらしいからな。地上に打ち付けられるよりはましだが、空中でいきなり止められたら、それぐらいの傷にはなる」
 凌駕の頭の中で、ようやくばらばらになっていた場面場面の映像が正しく一つに整列させられた。
「先輩は……? 先輩はどうしたの?」
「喋るなっつってんだろ。怒るぞ」
 思わず声がちゃんと出たので、凌駕は自分で驚いて口を押さえた。
「あ、動くなっ……って、おい、麻酔が切れたのか? あんた、どこも痛くないのか?」
 今度驚いたのは少年の方だった。手術を終えて一時間程度しかたっていないのに、麻酔が切れてまともに相手と話すなどありえない。それもさっきまで手術台の上にいた少年は痛がっているそぶりも見せない。
 少年が手元の操作盤をいくらはじくと、全身に覆いかぶさるように凌駕の上に機械が下りてきた。
「う、うわっ、なんだよ、これっ」
 閉塞感に思わず叫んだ凌駕に少年は怒鳴り返す。
「黙れ。別に殺そうってんじゃない。動けば長引くぞ」
 そうは言われても、頭のてっぺんからつま先までをゴーゴーと音を立てながら赤いレーザー光線で行き来する機械は不快以外の何物でもない。
 少年はというと、モニターに映し出された凌駕のサーモグラフィーと手術後の傷口の深度を表した画像とを見比べて、息を呑んだ。
「体温正常。傷口が……消えている?」
 少年は機械を戻すと、今度は自分の目と手で凌駕の体に傷跡を探したが、傷口はおろか、縫合した痕さえ消えてなくなっている。
「どうなってんだ? 異常に自己治癒力が高いのか? それにしたってまだ一時間だぞ?」
 少年は尋ねるように凌駕を覗き込んだ。
 凌駕は少年のいるような目の色にはっと息を呑みこむ。少年の目は漆黒の髪とは対照的に澄んだ蒼色をしていた。
「僕に聞かれても、そんなこと分からない」
 少年はもう一度カルテをめくりながら考える。
「血液型A型。DNA型は……ない?」
 少年はもう一度凌駕を見下ろした。
「僕にDNAがないってこと?」
「んなわけあるか。DNAなら誰でも持ってんだよ。血液型情報は載ってるのに、DNA情報はシークレット扱いになってる。あんた、何者?」
 何の解決にもならないと分かっていて、少年は単刀直入に聞いた。
「そんなの……こっちが知りたいよ! 僕はただの歴史学の高等院の学生だったはずなのに!」
 否が応でも不安をかきたてられて、凌駕は今にも決壊しそうな涙腺を戒めるのに必死だった。
 その時、俄かに廊下が騒がしくなりだした。
「なんだ?」
 少年が不審げに見つめたドアは、見つめられたと同時に自動であるにもかかわらず勢いよく引き開けられた。
「大変だ、琮威(そうい)! 火星政府の奴らが来た!」
 琮威と呼ばれた少年は、長い金髪と女性のような顔立ちを持つ青年に不機嫌な顔を向けた。
「斉(とき)、何言ってんだよ。俺はその火星政府の依頼でこの正体不明野郎の手術したんだぞ?」
「だが、あっちではその少年をよこせと銃を構えて息巻いてきてるぞ」
 凌駕はあっけにとられて二人のやり取りを見ていたが、ふと金髪の青年の夕暮れ時の空を溶かしたかのような青紫の瞳と目があった。
 斉と呼ばれた青紫の瞳の青年は驚いたようにじっと凌駕を見つめてくる。
「君はあの時の……」
「何だ、知り合いかよ。だったら教えてくれよ。こいつ、何者なんだ?」
 琮威の問いには答えず、斉は凌駕の顔をまじまじと見つめる。
「あの、僕、眼鏡がないと人の顔も分からなくて。でも、僕、貴方とは初対面だと思います……けど?」
「記憶喪失とか? いや、それは後だな。琮威、僕たちも逃げた方がよさそうだよ。このままじゃ共犯にされてしまう」
「何言ってんだ。俺は何も悪いことしてないぞ。カリュスの上層部に招聘されて、ついでにお手並み拝見とこいつを切らされただけだろ」
 斉はベッドサイドのチェスとから分厚いレンズの眼鏡を凌駕に手渡すと、気遣わしげに尋ねた。
「立てるか?」
「はい」
 凌駕は斉の手を借りて思ったよりも身軽にベッドから立ちあがった。ふらつく感覚はない。特にどこかが痛むわけでもない。
「すごいな。本当に動いてやがる」
 琮威は驚異を目の前にしたかのように呟いた。
「僕は美橋(みはし)斉。そっちは冷泉(れいぜい)琮威だ。僕の先生が外で待ってる。一緒に来る気はあるか?」
 凌駕は曖昧ながらも頷くしかなかった。
 美橋斉と名乗った少年は自分のことを知っているらしい。おそらくは自分が意識を失っていた間に出会ったのだろう。敵なのか味方なのか、それは分からなかったが、罠じゃないかと疑っている暇はなかった。廊下には甲高い足音が決断をせかすように近づいてきている。
 三人が直線と直角で構成された灰色い廊下に出ると、十メートル先からすかさず赤いレーザー光線が飛んできた。それは凌駕の左腕をかすり、白いシャツに赤い染みを広げていく。
「血……」
 凌駕はその場に立ち止まった。
 必死の防戦を張りながらも逃げていた斉と琮威は、後方で立ち止まったままの凌駕に気づいて軽く舌打ちした。だが、飛び交うレーザー光線は容赦なく斉と琮威を狙ってくる。護身用の光線反射器で二人は自分たちの周りにバリアを張り巡らせているが、範囲はそれほど広くない。
「おい、凌駕、そんなところに突っ立ってると置いてくぞ!」
 琮威の声は、残念ながら凌駕の耳には届いていなかった。
「血……真紅の血……血は、いいよな。くく。この俺の体に傷をつけてくれるとは」
「凌駕?」
 琮威が振り返ると、そこにはさっきまでのおどおどとした弱気な少年ではなく、口元に笑みを浮かべた好戦的な少年がいた。
 姿は同じはずなのに、表情が違うだけで全くの別人に見える。
「俺は自分の血も嫌いじゃないが、他人の、特に俺を殺そうとする奴らの血を見るのは大好きなんだ」
 覇王となった彼は凌駕のかけていた眼鏡を雪兄叩きつけると、飛んでくるレーザー光線を床と壁とを蹴りながらすべてかわし、黒服の男たちに肉迫した。
「な、なんて速さ……あああああっ」
「くそっ、うわぁぁぁ」
 一陣の風のように通り過ぎた覇王の後ろには、黒服の男たちの体が無残にも折り重なっていた。この間、たった十数秒。
 覇王は立ち止ると後ろを振り返り、ついてもいない手の埃を払った。
「ふんっ、雑魚どもめが。レーザーを持っていてもこれじゃあスラムの奴らには通用しないだろうな」
「……殺したのか?」
 歩いてくる覇王に、斉はどこか距離を置くように尋ねた。
「どうせ殺るならもっとでかい奴らを殺るさ。こんな雑魚ごと気に俺の手を汚すような真似はしない」
 それを聞いた斉はふっと表情を緩め、笑いだした。
「なるほど、この間のは戯言じゃなく本気か」
「俺は必要な時以外は全部本当のことを言う」
 覇王は足元に転がっていた凌駕の眼鏡を踏み潰そうとして、一瞬思いとどまり、つまらなそうにそれを拾い上げた。
「どうなってんだよ」
 一人状況についていけない琮威は、事情を呑みこんだらしい斉と性格が一変した患者とを見比べた。
「どうなってるも何も、こういうことだ」
 悠然と覇王が言い放つと、待ち構えていたかのように第二弾のレーザー光線が廊下中を飛び交った。
「ったく、こりない奴らだ」
 再び数刻前の惨劇を繰り返してやろうとした覇王の首根っこを引っ掴んだのは琮威だった。
「馬っ鹿野郎! キリがねえんだよ! 今は逃げんのが先だ!」
 覇王に罵声を浴びせながら斉に追い付こうと必死に走る。
「俺に向かって馬鹿野郎だとぉっ!? 俺はな、全てを征服して全世界の秩序を作る男だぞ?」
「はぁっ? 何言ってんだ、お前。全宇宙の秩序を乱す男だろ?」
「なんだとっ?」
「とにかく今は逃げんだよ。全てを征るにしろなんにしろ、退くことも知らねぇんじゃ話にならねぇ」
「ふっ……あっははははは! これはいい。琮威、お前も気に入った! 俺と一緒にこの世界、変えてみないか?」
「んなこと言ってる暇があったら自分で走りやがれ!」
 琮威がようやく覇王の首根っこを離すと、覇王は上機嫌で創意の顔を見つめた。
「なんだよ」
「そうだな。とりあえずあいつらを撒いてからだ」
 覇王はいつの間にか手にしていた注射器の中身にライターで火をつけると、追手のいる後方に放り投げた。カランと乾いた音がした瞬間、後方は爆音と爆風で溢れ返った。
「いつのまに……」
「ビタミン剤ってのはよく燃えるなぁ」
「言っとくが、俺がお前に打ったのは正真正銘……」
「分かってるって。あれはビタミン剤の後、打てって言われてたやつだろ?」
 琮威は覇王の察しのよさに内心舌を巻いた。
(敵わない……か?)
 疑問になったのは、出会ったばかりで器の大きさの違いを感じてしまった悔しさからだった。
「琮威、覇王、こっちだ!」
 六階分の階段を下り終えた後、地下パーキングにある藍色の車の前に白いスーツの斉の姿が見えた。
 覇王と琮威がその車に転がりこむなり車は走りだし、追いかけてきた男たちのレーザー光線の網の目を突き破り、屋外に出た。
「そんな下級兵士にしか与えられない安物レーザーで穴があくほど私の車は軟くないんだよ」
 運転席の男が鼻を鳴らし、覇王が一息ついた次の瞬間、彼の体は一度深く瞼を閉じ、ゆっくりと目を見開いた。
 気がつくと、凌駕は知らない男が運転する車の後部座席に座っていた。シートの座り心地は体がうずもれるほど気持ちが良かったが、運転は残念ながらあまり丁寧とはいえない。体が抵抗を感じるくらいスピードを出し、右に左に好き勝手にハンドルを切っているのが分かる。
(今度は一体……)
 溜息をついて左右を見ると、右には金髪の美青年、左には医者の少年が座っていた。見覚えだけを頼りになんとか彼らの名前を記憶の海から引き揚げる。
 金髪の美青年が美橋斉。医者の少年が冷泉琮威。
 それじゃあ、今運転している男性は?
 バックミラー越しに運転手の男と目があった。
 また見知らぬ顔が増えている。そんなことでため息をついている場合ではなかった。
「あの、今運転されている方は?」
 斉へともなく琮威ともなく両方をきょろきょろと首を振りながら凌駕は尋ねる。
 答えたのは金髪の美青年の方だった。
「僕の先生のローゼニアン・カンツォーネ・イル・ユック氏だよ」
「君の噂はかねがね斉から聞いているよ。よろしく、凌駕君」
 紹介された男はバックミラー越しにウィンクを投げてよこした。凌駕は肩をすくめたまま小さく頭を垂れた。
 窓の脇を赤いレーザー光線が掠めていく。
 そんな状況を楽しんですらいるかのように、運転席の男はカーステレオから流れる曲に合わせて鼻歌を歌いだした。
『心焦がれるアオ……融けあいたいと切望し……』
 その一節だけが、ラジオを離れて凌駕の頭の中でエンドレスリピートしていた。











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