無法地帯 VOL.1 LOST DESIRE
CHAPTER.1 LOST DESIREⅢ
たまに行方不明になる凌駕は〈両親〉にはほとんど心配されることはない。というのも、別に凌駕が〈両親〉の愛情を受けていないというわけではなく、〈両親〉は、いつも眠った凌駕をどこからか綰真がおぶって夜中に訪問するこ とに馴れているので安心しているのだ。
その一方で、〈両親〉はいつも尽きない心配の種を抱えていた。〈両親〉となれるのは地球から移住してきて厳しい選考を通過した裕福な夫婦だけである。ふつうは一組に一人、火星人の〈選別〉を通過した天才・秀才児たちを引き取る。だが、近年では地球からの移住夫婦はめっきり減り、一人、二人、と一組当たりが引き取る人数も増えていた。凌駕の家庭も例外ではない。
凌駕には〈兄〉がいた。ただし、〈両親〉の心配の種になるほどとびっきり仲の悪い、あるいは気の合わない、合わせてくれない〈兄〉だ。
引き取られた時には漁が一人だったのだが、二年後に二歳年上の琉乃(るの)が引き取られてきた。その気まずさや、年上なのに後から引き取られてきた負い目、琉乃自身のプライドも手伝って、約十年間、彼らの間に交わされた会話といえる会話はごくごく数えるほどであった。それどころか、凌駕が綰真と知り合ってからは、二人は全く会話と呼べるようなものはしていなかった。
だから、凌駕は目を覚まして気絶したくなった。
天文台に行った後の記憶はぷっつりとなく、その後は長い間闇が横たわっている。彼は何度か首を振ってみたが、それ以来目を覚ました記憶はない。にもかかわらず、身動きするたびに体中が身に覚えのない悲鳴を上げていた。
(どれくらい眠ってたんだ?)
ベッドサイドに凌駕の机に付属している椅子を引いてきて座っているのは、雑誌で顔を隠してはいたが〈兄〉の琉乃だった。雑誌の端から凌駕とは似ても似つかない金の光が髪の先からこぼれおちている。
凌駕はできるだけ琉乃に気づかれないように壁の方に寝返りを打った。
体のどこかで悲鳴が上がる。凌駕は口から飛び出しかけた呻き声を何とか押さえこみ、目を閉じて身を固くした。
「いつまで気を失ったふりをしているつもりだ?」
凌駕の背中に不機嫌な声が投げつけられた。
思わず凌駕は肩を震わせた。
背後でバサッと雑誌が閉じられる音がする。
「ず、ずっと側に……いてくれたの?」
恐る恐る凌駕は声を絞り出した。体はいつ雑誌を投げつけられるかとかたく縮こまっている。
だが、琉乃は〈弟〉に軽く一瞥を投げかけただけで雑誌を手に部屋から出ていった。
しばらくして、凌駕はようやく体の緊張を解いた。
琉乃から何も反応を得られなかったことに、凌駕は今まで何度も経験してきた落胆ともつかない何とも言えない気分を味わっていた。その度に自己嫌悪に苛まれる。会話など試みなければよかった、と。
琉乃は綰真とは同級生だった。昔は二人一緒にいるところをよく見かけたものだった。だが、昨年、高等院への進学の時に喧嘩したらしく、それ以来、凌駕は琉乃と綰真が一緒にいるところを見たことがない。凌駕は琉乃のことを嫌いではなかった。むしろ兄として頼りにしたい、とかもっと親しく話したいと思いつづけていた。だが、それを行動に移そうとすると、いつも琉乃とすれ違い、結局自己嫌悪の淵に沈み、溝は深まるばかりとなっていた。もはや琉乃とどう接したらいいのかさえ分からなくなるほどに。反動のように、琉乃と仲たがいした綰真との仲は深まるようで、琉乃のいる家にいる時間よりも綰真と過ごす時間の方が長くなっていた。
子供じみた葛藤だ、と思うことは何度もある。だが、凌駕は結局琉乃と距離を置くことでしか〈兄弟〉を続ける道を見つけられなかった。
凌駕はのろのろとベッドから肺でると、久々に太陽の光を浴びた。日焼けとは無縁の白い手の甲には、気を失う前にはなかったはずの擦り傷や青痣ができている。
「またか」
これまでにも何度か、意識を失って目を覚ましてみると体のどこかしかに見知らぬ傷ができていることがあった。その時は決まって三、四日ほど時間が経過していた。だが、まさかその間食事も排泄もしていないはずがない。もしかしたら別の誰かが自分の体を……。
「ばかばかしい」 首を振ってレースカーテンを閉め直すと、凌駕は自室から出て洗面所へと向かった。
冷たい水を何度となく顔に浴びせかける。拭ったタオルから顔を上げると、〈兄〉とは全く似ていない自分の顔があった。そんな自分の顔を映す鏡をふと壊したくなって、振り上げた拳を誰かが掴んだ。
後ろを振り返らずとも、鏡には凌駕の視点より十センチほど高い位置で凌駕を睨みつけている琉乃の姿があった。
琉乃の要旨は、まるで凌駕を受け付けることを拒むかのように、全てにおいて遠く感じられた。
凌駕は自分の手をすっぽりと包み込む琉乃の手を振り払い、分厚いレンズの中に自分の顔を隠しこめた。それから〈兄〉の横を素通りしてダイニングへとはいっていく。
冷蔵庫の中から水と固形食糧を取り出す。冷蔵庫には他にも野菜や肉が少しばかり入っていたが、今はそれらを料理する気にはなれない。
コップに水を注ぎ、固形食糧を一口かじった所で、洗面所から出てきた琉乃が凌駕の前に立った。
さっき側にいたことといい、今といい、自ら関係を持とうとしない琉乃の珍しい行動に、凌駕は思わず琉乃の碧眼を凝視する。
「中央から出頭命令が出ている」
「え?」
尋ね返した凌駕に、琉乃はダイニングの壁に貼り付けられたディスプレイを振り返った。ディスプレイには凌駕あての一通のメールが届いている。差出人は火星中央政府。よっぽどのことがない限り、一生お目にかかることはない差出人名だ。
思わず固形食糧をのどに詰まらせ、凌駕はコップに手を伸ばしたが、琉乃は凌駕よりも一瞬早くそのコップを掴み、一気に中の水を飲み干してしまった。
むせかえりながら凌駕は〈兄〉を見上げる。
「何したんだよ。綰真に運ばれてくるとき、お前はいつも大怪我をしてくる。そんじょそこらの医者じゃ手に負えないくらいの傷を負ってくることだってある。挙句の果てに、今度は中央から呼び出しだって? 何をしてるんだ、お前は」
苛立ちを通り越して怒りさえ含んだ琉乃の声に、はじめて感情を真正面から手向けられた凌駕はただ口をパクパクと開閉させている。
「わから……ない」
ようやく押し出した答えに、琉乃はあからさまに失望した顔をした。
「俺の技術をもってしても、今回みたいにひどいと完全には傷は消せない」
その言葉に、凌駕はようやく今まで琉乃がずっと自分の怪我の治療にあたってくれていたのだと知った。
「あの、あの……」
ありがとう、という言葉を絞り出す前に、琉乃は凌駕に背を向けて勤務先の病院へと出かけて行ってしまった。
溜息とともに、凌駕は床にへたりと座り込む。
顔だけを上げて、勝手に開封されたメールを読む。いや、読むほどの長さもなかった。
『火星中央政府官邸に来られたし』
たった一行、それだけだ。時間も中央政府の場所も何も書いてはいない。それどころか呼び出した理由すら描かれてはいない。機械的に出したとしか思えない文面だった。
「どうしよう」
今頃実感がわいてきたのか、じわじわと手足の指先が冷え、小刻みに震えはじめる。
自分は何か問題を起こしたのか。いや、そんなはずはない。勉学には真剣に取り組んできたし、歴史の論文でもそれなりの評価を受けている。成績もトップでこそないが、悪くはない。
考えられるとしたら、この傷を負っている時間に起きている出来事。
どんなに記憶をたどろうとしても思い出すきっかけすらつかめない闇の時間。
奥歯を噛みしめた時、玄関のベルが鳴った。
反射的に背筋を悪い予感が走り抜けていく。逃げようと辺りを見回したが、まさかダイニングテーブルの下に隠れたところですぐに見つかって失笑を買うことだろう。
凌駕は立ちあがって、おそるおそるインターホンのモニターを覗き込んだ。
モニターに映っていたのは普段と何も変わらない格好の綰真だった。だが、その表情はやや切迫したものを含んでいる。
「どうしたんですか、先輩」
「いいから、中入れろよ」
強引な言い方に少し迷った後、凌駕は玄関のロックを外して綰真を中に迎え入れた。
綰真は遠慮なく入ってくると、廊下に飾られた絵画を一枚一枚観賞しながらずかずかと奥に入ってくる。
「よぉ、生きてたか?」
「先輩……」
心細く呼びかけた直後だった。凌駕の目の前で綰真は一枚の壁に掛けられた絵画に握った拳を叩きつけた。
ガラスカバーが派手な音を立てて割れ、透明な欠片の中に家の中でも高級品の一つに数えられる絵が斜めに落ちて床に角をめり込ませた。
「せ、先輩、何するんですか!」
慌てふためく凌駕の前に、綰真は絵と共に落ちた小型の黒い塊を突きつけた。
「見ろよ、これ。音声付きの監視カメラ。この家にはこんなものがいくらでも転がっている」
綰真の手の中で監視カメラが握りつぶされる。パキっという軽い音を立ててただのゴミになった欠片を、綰真は割れたガラス破片の上に降りかける。
凌駕は息を詰めてその光景を見つめることしかできなかった。そんな凌駕の耳元に、綰真は口を寄せる。
「メールが届いたんだろ? 今すぐ貴重品だけ持って来い」
凌駕は大きく目を見張った。
先輩は僕に何が起きたか知っている。中央からメールが届いたことまで知っている。その上で、僕を助けてくれるつもりだ。
自分一人では逃げることさえままならないと思っていた凌駕にとって、綰真の言葉は何事も可能にしてしまう魔法の力を宿していた。
凌駕は一つ頷くと、財布と携帯だけを自分の部屋から持ってきた。
「携帯は置いていけ。場所がばれる」
綰真に言われた通り、携帯は自室の机の上に戻し、財布一つをズボンのポケットに突っ込んだ凌駕は、玄関で待つ綰真の下に走っていった。
「先輩、だけどどこに行くんですか?」
「そう、それが問題なんだ。凌駕、もう二度とここに戻ってこられないかもしれない。それでもいいか?」
綰真に正面から覚悟を聞かれて、凌駕は目を丸くした。
「僕はそんなにひどいことをしたんですか? 僕は一体、何をしたんですか? 先輩、知ってるんですよね? いつも僕を連れ帰ってくれていたの、先輩ですもんね?」
動揺と共にふつりと綰真への不信感までもが湧き上がる。
「先輩、どうして僕のこと止めてくれなかったの? どうして僕のところに中央からメールが来たって知って……」
あっという間に猜疑心の塊になった凌駕の口を、外の気配をうかがっていた綰真が掌で塞いだ。
「説明は後だ。来い。お前が捕まったら全てが狂う」
凌駕は反射的に掴まれた手を振り払っていた。
「嫌だ!」
思わぬ反応に綰真は凌駕を凝視する。気まずい沈黙を破ったのは、再び鳴った玄関のインターホンだった。
綰真は舌打ちをし、凌駕は思わず後ずさった。
二回目のインターホンの音と共に鉄扉を叩く音がした。度重なるその音が凌駕のか細い神経を追い詰め、ヘモグロビンが全滅してしまったかのように顔色を失わせていた。
「玄関から正攻法とは、この様子じゃ車も押さえられたか。凌駕、来い。どっちにしろお前はここから出なきゃならない。俺と来るか、それとも得体のしれない政府の奴らに連れて行かれるか。どっちがいい?」
「どっちも……嫌だ」
へたり込みかけた凌駕の腕を無理やり引っ張り上げて、綰真はリビングからベランダに出た。
初夏の爽やかな空気が頬を撫で、凌駕は思わず深呼吸する。見上げた空は青くて、このままベランダから飛び降りたら蒼穹に吸い込まれてしまいそうだった。いっそその方がいいのかもしれない。あの空を自由に飛べたらどこへだって行ける気がする。
そこまで想像したところで、なぜか数日前に見た地球の映像が目の前の空に重なった。
「懐かしい……ア、オ……」
あれは何の歌詞だったっけ。
「どのアオが懐かしい?」
優しく綰真が耳元で囁いた。
「帰りたい……先輩、どうしてだろう。僕、行ったこともないのにあの惑星に帰りたいって思ってる。どうしてだろう」
不意に、凌駕はベランダの柵を乗り越え、その身を宙へと放り投げた。
「凌駕!!」
思わず綰真は絶叫した。
玄関が塞がれている今、逃げ道は地上二十六階のこのベランダから飛び降りることしかないであろうことは分かっていた。だからこうしてベランダへと引っ張ってきたのだが。
「くそっ、どっちも自分勝手な奴らだ」
一言喚いた綰真は弧を描く凌駕の体に手をのばしたが、今さら届くはずもない。
背後で玄関の扉が開く音がした。
地上を見下ろすと、三台の黒塗りの車が綰真の乗ってきた車を取り囲んで停車していた。その中から慌ただしく制服を着た男たちが飛び出してくる。その手に持っているのは、おそらく重力緩和装置。落ちてくる凌駕が地面に激突するのを和らげるつもりだろう。
あいつらも殺すつもりはない。
そう分かると、綰真の口元にも笑みが戻ってきた。
「あいつが死んだら全てがおしまいだ。少しでも生き残るチャンスは多い方がいい」
たとえ捕まって牢にぶち込まれようとも、逃走する機会なら生きていればいくらでも見つけられる。ただし、今〈陰〉である凌駕にそれができるかどうかだが。
(自分は?)
背後には五月の爽やかさとはかけ離れた暑苦しいコートを纏った奴らが迫ってきている。
綰真は自分の問いに自分で笑ってしまった。
大丈夫。自分もまだ死ぬことにはなっていない。舞台の幕は開けたばかりなのだから。
ベランダの柵に手をかけ、ふわりと体を持ち上げる。
「俺の溶け込みたい空はこんな綺麗な色じゃない。もっと紫色に汚れていたんだ」
綰真は凌駕がそうしたように、空飛ぶ鳥のように両手両足を大きく広げた。その太ももを銃弾が一発貫通していったような気がした。
「いるんだろう、琉乃……!!」
目まぐるしく変わっていく景色の中で薄れていく意識の中で、綰真は昔の親友の名を呼んでいた。
それは声になったのか、心だけにとどまっていたのか。
判断する意識はすでになかった。
風に身体が乗ったような、そんな気がしていた。