無法地帯 VOL.1 LOST DESIRE
CHAPTER.1 LOST DESIRE

 

 月のよく冴えた晩だ。火星の赤を反射するかのように月はその不恰好な姿を天空に輝かせていた。もう二世紀も前から核戦争の残留放射能のために人工ドーム以外の場所は危険区域とされている。しかし、腕にコードを刻まれた者たちは先祖達の住み慣れた都市を追い出され、こうして人工ドームを取り巻くようにスラム街を形成していた。
 カリュスの周りのスラム街は、カリュスが最大であるのと同様、こちらも火星のスラムの中では最大規模を誇っていた。
「これがケトリスの中心街」
 中心街というには少し語弊があったかもしれない。火星の夜はテラフォーミングが施されているとはいえ、とにかく冷える。まだ春も半ばの五月では息も白くなるほどだった。コードを持つ人々は、ぼろぼろではあっても無彩色の厚手の布に身を包み、道端に座っている。誰も口を開く者はいない。ただ二百年を経ても未だ外郭を残している灰色のビルの壁に背を預けているだけだ。ビルの内部に住む者はいない。二百年前、この中で大虐殺が行われて以来、半永久的に閉ざされている。ひとたびこのビルを壊す、あるいはどこか一部でも穴を開けようものなら、虐殺時に用いられた有害物質が溢れ出す。当時の遺体は葬られることもなく、このビルを棺として今も永久の眠りを貪っている。
 陰鬱な道にどこからともなく、真っ白く闇に浮き上がる影が現れた。白い影は道端の人間には目もくれることなく、颯爽と道の真ん中を歩いていく。白いコートを纏った背の半ばほどで揺れているのは月の光を浴びて美しく輝く金髪。前方を射抜くは宵闇を溶かし込んだかのような紫の瞳。すらりと伸びた手足は快活に大気を切り、堂々と前へと進んでいく。白皙の横顔は彫り深く、女性と見まがわんばかりの美貌を湛えていた。
 スラムの道端に座り込む人々は、息を潜め、澱んだ赤黄色い目をぎらつかせて身綺麗な闖入者を見つめている。一体、誰の獲物になるのかを見守り、或いは自ら身ぐるみを剥ぎに行こうか思案している顔だった。
 そんなことには構わず、彼は真っ直ぐにカリュスへと向かって電気もない真っ暗なスラムの中心を進んでいく。
 居並ぶ高層ビルの群れはスラムに深く陰を落とす。心の闇の中には月の光も届かない。そんな中でも、いや、そんな中だからこそ、彼の白いコートは悪目立ちしていた。コートのポケットに手をつっこみ、白い息を吐き出しながら歩いていく彼の前に、一人の男が路地裏から現れる。男は何気ない風を装いながら彼の横をすり抜けようとした瞬間、僅かに身を傾けて彼にぶつかった。
「ぐっ」
 軽く腕を触れ合わせただけのつもりだった。これで白いコートに身を包んだ闖入者は腹を抱えて地に膝をつき、呻きながら自分を見上げるはずだった。だが、地面に膝をついたのは彼ではなく男の方だった。
「悪いけど僕にお金はないよ。身包みはがせばこのコートくらいは売れるかもしれないけど、大して得もしないだろう」
 彼は男から奪い取ったナイフを手で弄びながら、呻きながら転がりまわる男を見下ろした。ナイフに血はついていない。すれ違った瞬間に男の手首を百八十度捻って拝借しただけだ。男はあらぬ方向に曲がってしまった手首を反対の手で握り、見苦しく転がりまわっている。
 そんな男を助けるでもなく、白いコートの闖入者を新たに現れた男達が取り囲む。
 白いコートの彼はほのかに溜息を漏らした。
「困ったな。僕のか細い腕ではとても全員お相手できないよ。君達に命令を下している人はいる? 僕、その人に会いに来たんだけど。今巷で有名でしょう? ケトリスの覇王って」
 彼はナイフを空中に投げ上げながら、取り囲む男達の顔を一つ一つ確かめる。男達は彼の問いに答える様子はない。
「いないの? いないなら僕はここに用はないから通してくれる?」
「よく喋るな」
 声は三階建てのビルの上から降ってきた。月を背にしているため、白いコートの彼からは顔はよく見えない。
「女みたいだとでも?」
 苦笑して彼は声のした方に目を凝らす。
「そいつらにお前を襲わせたのは俺だぜ? 探してたんだろう、俺を。話をしに来たのか、殺りに来たのかは知らないが、なんにせよ俺に用があるならそいつら全員蹴散らしてみせろよ。そうしたら俺が出てってやるよ」
「君が……覇王?」
 白いコートの彼は、求めてきた覇王の予想外に華奢な身体の線に小首をかしげた。まだ少年、それも十五、六というところの栄養の足りていないガリガリの体躯をしていた。しかし、着ている物はスラムの住人達とは違って程度のよいものを身に着けている。
「その格好から察するに、君はここの住人じゃないだろう?」
 ビルの上の少年はにやりと笑うと、地上の男達に合図を送った。男達は目に危うい光を宿し、白いコートの彼に飛び掛る。白いコートの彼は飛んできた獲物を手に持っていたナイフで弾き飛ばし、体当たりをしてきた男の脇をすり抜けて後ろから首の付け根に一撃を与え、身を屈めて次の男の腹に拳をめり込ませ、三人目の男の足を払い引き倒す。伸び上がりざま四人目の男の顎を砕き、再び素早くしゃがみこんで五人目と六人目の男達を頭上で相打ちさせる。
 小さな雲に隠されたと思った月が現れるまでの僅かの間に、彼の周りには十数人の気を失った男達の身体が積み重なっていた。
 静けさを取り戻したビルの狭間に一つ口笛が吹き鳴らされる。
「できるじゃないか」
 ビルの三階から一つ回転して飛び降りてきた少年は、傾ぐことなく綺麗に着地して冗談交じりに手を叩いた。
「お褒めに預かり光栄ですとでも言えばいいのかな?」
「近くで見るとお前……」
「本当に女みたいだって?」
「いや、思ったより若いな。俺とそんなに変わらないんじゃないか?」
 予想外の答えに白いコートの彼は一瞬息を呑んだ後、くっくっくっくっと笑いを噛み殺した。
「そんなに老けて見えていたのか。僕はこれでも十九なんだけど」
「何だ、十九なら僕と二つしか変わらないな」
 笑いながら彼の白いコートの襟に両手をかけた少年の両手を、彼はがっちりと掴んだ。
「用心深いな。本当に女みたいだ」
「コートを取られたら寒いだろう?」
「ちっ。本当に女かどうか確かめてやろうと思ったのに」
「冗談だろう? 男に脱がされる趣味はないよ」
「で? 俺に用事って?」
 白いコートの彼は少年の両手を下に降ろすとゆっくりと離した。
「君が、覇王」
「そうだ。俺が覇王だ。この薬漬けのスラムの奴らの頂点に君臨する者。いずれ、全世界の頂点に君臨する者」
「大した自信だ。その言葉に偽りはないか?」
「ない」
 はっきり言い切った少年の黒い目を、白いコートの彼は菫色の瞳で覗き込み、軽く拍手を返した。
「覇王。君に会いたいと言っている人がいる。一緒に来てもらえるかな」
「俺に? 冗談だろう。会いたいならそいつをここに連れて来い」
 腕組みをしていかにも心外そうに少年が彼を睨みつけた時だった。彼らの周りに倒れていた薬漬けの男達が、ふらふらと立ち上がった。手にはよく研ぎ澄まされたナイフを持っている。
「甘い奴だな。もう起き上がっちまった」
「暴力は好きじゃないんだよ」
 男達は血走った目で白いコートの彼に、そして覇王と名乗った少年にまで襲い掛かっていく。
「あーあ、誰が御主人様か忘れちまったかな」
 少年は容赦なく拳や蹴りを相手の腹に的確に打ち込んでいく。その一方で一切守りに入ることはなかったため、薄いシャツの袖をナイフが切り裂き、あるいは蹴り上げたジーンズが切り裂かれ、手足のあちこちに血が滲む有様だった。しかし、少年はその痛みさえも快楽とばかりに好戦的な笑みを閃かせ、いかにも楽しそうに相手を一人残らず気絶に追い込んでいく。
 一方、白いコートの彼は優雅な身のこなしで差し向けられるナイフのことごとくを叩き落していく。手首の骨をおられた彼らは呻きながら闇の中に消えていく。
 連鎖反応のように、ビルに背を預けるものたちは腰を上げ、誘われるように乱闘の中心へと入っていく。
 十分ほど経過した頃、事態に感応して警報サイレンがケトリス中に鳴り響いた。
 スラム街の連中が寒さや放射能で何人死のうが、地球出身の火星管轄官達の知ったことではない。だが、こういう暴動騒ぎは、いつ革命へと発展するか分かったものではない。少しでもそういう芽があるのなら、即刻摘み取らなければならない。
 ナイフを手に乱闘の輪の中へ踊りこもうとしていたスラムの連中は、鼓膜を切り裂くようなサイレンに身を震わすと、一目散にその場から離れていく。
 少年達が相手をしていた男達も、一瞬動きを止めると、隙を突いてすぐに背を向けて走り去った。
「こういうところの学習能力はまだ残っているのか」
 闇に消えた男達の背を眺めやって、ての埃を払いながら白いコートの彼は感心する。
「学習? 違うな。本能だよ。生き残りたいっていう、な」
 覇王と名乗った少年は、はんっと鼻を鳴らしてみせる。
「で、話の続きだが、単刀直入に聞くぜ? お前ら、何を企んでる?」
「企むだなんて、人聞きが悪いな」
「じゃあ言い方を変えてやる。俺に何をさせる気だ?」
 サイレンとともに、黒い空に浮かぶ監視機の光が辺りを照らしながら近づいてくる。
 白いコートの彼は、横顔に光の端を受けながら同性でさえ虜になるであろう妖艶に微笑んだ。
「覇王、君は何をするつもりだと言った?」
「お前達も世界の頂点に興味があるのか?」
 少年の顔に険が走る。
「頂点になど興味はない。ただ、この世界をひっくり返してやりたいだけだ」
 にやりと少年の顔に笑みが浮かぶ。
「お前、気に入った。名前は?」
「お互い、無事でまた会えたらな」
 白いコートの彼は身を翻して、たくさんの光の雨の中を縫って離れていく。
「惜しむほどの名前か。なあ、おい、白いコートの。共に未来をとらないか?」
「独裁政治はいつか腐り果てる。歴史で習っただろう?」
 白いコートの彼はすでに光とも闇ともつかない混沌の中に溶け込んでいた。そのスピードは常人とは思えないものがあった。
「民主政治も寄りかかりあった末に共倒れするのが落ちだろう? 見てみろよ、このスラムを。腐った果実の落ちるさまを共に見ようじゃないか」
 覇王と名乗った少年は満足そうに笑い、サーチライトの光の中から忽然と姿を消してみせた。
 



 数十分後、綰真はケトリスからやや離れたカリュスの住宅街で、身体のあちこちから血を流して倒れている少年を発見した。
「またお前は……」
 少年は半端な長さの黒髪を何とか後ろで結わえている。やせて頬骨は目立つものの、巧みに彫り上げられた横顔は次第に蒼から白へと色を変えていく。
 綰真は荒い息の少年の脇腹に、一本突き刺さったナイフを見出した。
「この深手でよくここまで来れたもんだ」
「いい奴がいた。こんな情けない姿見せたら笑われるどころか見下げられるだろ?」
 それきり、少年は綰真に身体を預けて深い眠りに入っていってしまった。
 綰真はつくづく彼のこの豪胆さに舌を巻かずにはいられなかった。そして、信頼されていることに微かに心がちりりと焼ける。
 綰真は少年の華奢な身体を抱き起こすと、背中に背負ってすぐ近くの高層マンションの一室へと連れ帰った。
 ベッドと小さな円卓以外何もない殺風景な部屋の扉を開けると、真白いベッドの上に少年の身体を寝かせる。
「世話の焼ける後輩だ」
 綰真はどことなく嬉しそうに呟くと、手際よく少年の怪我の手当てを始めた。そして仕上げに一本の液体を彼の静脈に注入する。
 精神安定剤である。











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