無法地帯 VOL.1 LOST DESIRE
CHAPTER.1 LOST DESIRE
Ⅰ
その日、一方的な通達が地球から火星へと届けられた。
「汝ら、その地を出るべからず」
理由も何も、この言葉以外の一切のものが電波に乗せられてはいなかった。
民主主義を主として統一された火星政府は、即座に地球政府へと抗議文を送付したものの返信は無く、約一ヶ月後、火星は地球の一方的な侵略により、半壊。
一世紀前、地球から移住してきた火星人たちの多くは同胞に虐殺され、生き残った者たちも彼らと祖先を同じくする者たちによって隷属の身に堕とされた。
これを境に、世界の歴史は逆行の道を辿りはじめる。
スラムには絶え間なく一つの曲が流れていた。人々は飢えを凌ぐために薬を貪りつつもその曲に耳を澄ます。機械処理された男女二人の声が若者達の心を言葉にし、音にして表現する。彼らはその言葉に相槌を打ちながらも、その精神は夢と幻の世界に漂う。
スラムにおける近年の急激な人口増加は、火星総督府にとってもスラムの住民達にとっても深刻な問題として生活を脅かしていた。スラムは火星に三つしかない大都市の周りに自然発生的に形成された貧民街で、都市との間には検問が設けられ、出入りの自由は固く禁じられている。
基本的に火星総督府はスラムに関して関与しないこととしているが、地球政府が火星を侵略した時に落ち延びた者たちの子孫が暮らすスラムは歴史的にも地球及び火星総督府に遺恨があり、輪をかけて食糧不足となれば人の数に物を言わせての蜂起も懸念されるため、栄養素を調整した固形食糧や生活必需品の配給に関しては火星総督府主導で行われるのが常であった。一方スラムの住民からすれば火星総督府から配給される固形食糧の減少は生命維持の困難に直結し、闇市での取引値も跳ね上がり続けているため、よほど蓄えのある者しか手を出せない貴重なものとなっていた。したがって、多くの人々は固形食糧の数分の一の価値しかない廉価な薬で肉体からくる上を凌いでいるのだ。
何処に設置されているか不明のスピーカーからはずっと同じ曲が流れ続けている。その電子音に促されて、人々は時に殴りあい、貪りあい、何がそうさせるのか分からぬうちに殺しあう。
この地には秩序や法律などという言葉は存在しない。
ただ一つ。彼らが法に縛られていることがあるとすれば、地球人たちの隷属の証として、生まれてすぐに左上腕部にコードがつけられることだろう。このコードからは出生番号である十桁数字と出生地であるスラムの略称を読み取ることができ、食糧の配布を受ける代わりに彼らはこのコードを左腕につけられることを甘受する。
最も、この時代、すでに甘受という意識でいる者がどれほどいたのかは分からない。多くの者はスラムの中で一生涯を過ごすことを当たり前と考え、短い人生を汚らしい寝床で過ごすことになるのだ。
時は地球が火星を制圧して早一世紀が経過している。この間、地球においては火星とは対極的に少子高齢化が異常な速さで進展し、人材不足に喘ぐ地球政府の支配体制にも変化が見られるようになっていた。
その一つが〈選別〉である。
年に数回火星総督府の役人が各スラムを訪れ、主として幼児達を中心に知能と情緒、体力を判定するテストを行い、火星にとってひいては地球にとって有益な子供たちを選び出す。選ばれた子供たちは都市の施設に収容されて徹底した思想教育を受け、地球に害を及ぼさないと判断されれば養い親を与えられて都市で生活することが許される。彼らは全てにおいて優遇され、地球人と同等に扱われる。そこで彼らは自分達が火星人であることを忘れ、いつしかその火星人たちを効率よく操るために方法をひねり出し、実行に移すことを職業とするようになるのである。
その都市の一つ、カリュスの学園図書館では、今日も多くの学生達が勉学に励んでいた。
火星に届く頃には弱くなっている太陽光は、テラ・フォーミングの際に上空十万メートルに浮く集光板を通すことで地球と変わらない光条件を作り出している。その太陽光の差し込む一階には電子情報網から直接脳に情報を送れる端末が設えられた学習机が整然と並んでおり、空席は一つもない。
その真下に地下書庫がある。
清潔そのものの一階と違い、黴臭い匂いの漂う地下書庫は電球の光もどこか薄暗く、湿って見える。書棚には地球の歴史や、科学、医学の専門書、文学などの紙媒体の本が埃をかぶりながらもぎっしりと並んでいる。〈選別〉の合格者全てが勉強好きというわけでは勿論無く、ましてこんな旧時代の遺物が山となっているところにまで足を伸ばすような物好きはほとんどいなかった。
その物好きな学生の一人である少年は、今まさに錆びた踏み台を使い、一番上にあった厚さ十センチほどの歴史の本を書棚から取り出し、臙脂色の布と黴に覆われた表紙を開いたところであった。
端正な顔を覆い隠すように伸びた黒い前髪と本にも負けず劣らず分厚い眼鏡を通して、吉原凌駕(よしはらりょうが)は目の前に広がる新たな世界に身動き一つすることなく浸りはじめた。
「凌駕、そんな高いところで読みふけっていたら、つんのめって落っこちるぞ」
書棚に背を預け腕を組んで後輩の姿を眺めていた青年が見かねて口を出すが、凌駕は微動だにしない。しばらくの沈黙ののち、彼はもう少し大きめに呼びかけた。
「凌駕!」
静まり返った書庫に柔らかなバリトンが響く。
凌駕はぴくりと肩を震わせて本から顔を上げ、青年のいる後ろを振り返ろうとした。その途端、凌駕の背中は弓なりに反り返り、足は踏み台の上で何度かたたらを踏んでバランスを崩した。
派手な音をたてて転がった踏み台の音が何処までも書庫を駆け抜けていく。
「痛ったぁ。あ……あれ、先輩、いたんですか?」
床に打った尻と背中をさすりながらずれた眼鏡をかけなおすと、凌駕は青年に向けて明るい笑顔を作った。
「いたんですか、じゃないだろう」
まだ痛がっている後輩をしばし呆れながら見つめた後、新風綰真(しんかぜたくま)は足元に転がった臙脂色の表紙の本を拾い上げ、凌駕に手渡した。
「すみません。またご迷惑をおかけしてしまって」
本を受け取った凌駕は、のろのろと立ち上がり、スラックスについた埃を払う。
「まったく、言わないことはない。こんなに暗いところで本なんか読んでいるから目がどんどん悪くなるんだ。おまけに踏み台の上に載ったままで本を読みだす奴がどこにいる」
「ここに……」
「そんなこと認めなくていい。それより、その本借りるんだろう? 連れて行きたいところがあるんだ。さっさと手続きしてこいよ」
カウンターで貸し出し処理を済ませると、吉原凌駕と新風綰真は連れ立って図書館の外へ出た。
常春のこの施設内には、スラムには見られない雑草から観葉植物まで幅広い種類の植物が楽園そのものに生い茂っている。
歩きながら太陽光を赤く透過する前髪をかき上げて、綰真は光を通さない漆黒の髪を持つ凌駕にいつも口にしているお決まりの小言を言った。
「何も本を読まなくても必要な情報は回線を通して直接脳にインプットされるだろう。そんな重くて時間のかかるもののどこがいいんだ」
「そこがいいんです。だって学校でのやり方って頭に入った感じがしないんですもん。こうやって直接自分の感覚器官を使うことで、ああ覚えたなって思えるんです。それに僕、文字が好きなんです。遥か太古の昔、僕たちの先祖達が作ったもので、その文字を作ったことで人類社会は目覚しい進歩をしたといっても過言ではない。文字ほど素晴らしいものはないんです!」
綰真は、凌駕と出会ってから何十回となく聞かされてきたこの話に水をさすことなく聞き終えて苦笑する。
「そんなに手が白くなるほど拳を握って力説しなくても。全く、お前は活字中毒者なんだから」
凌駕は照れ笑いを浮かべた。
凌駕自身、この呼ばれ方は嫌いではない。午前中で終了してしまう高校課程は、毎日書庫に通いつめたくてしょうがない凌駕にとってはこの上なく嬉しいことだった。しかし、綰真の言うとおり薄暗い書庫で読書に熱中してしまうため、凌駕の眼鏡の厚さは目に見えて増えていっている。
視力矯正には手術、コンタクト、眼鏡の三種類があり、大方手術によって元の視力を回復する。だが凌駕の場合は手術をしても間が持たず、コンタクトは体質に合わないために、このカリュスではただ一人と言ってもいい貴重な眼鏡の愛用者だった。
「ところで、どこへ行くつもりですか?」
「ああ。この間第七エリアに新築されたばかりの天文台に行こうと思ってね」
「第七エリア、ですか?」
カリュスの学園都市は九つのエリアに分かれており、第一エリアから第四エリアまでが文化系、第五エリアから第八エリアまでが理数系の研究所が置かれている。どの学生にも共通して利用される事務管理棟と図書館、食堂は中央エリアに置かれており、全エリアが占める面積はカリュスの三分の二を占めている。これこそまさにカリュスが火星最大の学園都市と言われる所以だ。
「だったら地下鉄に乗りませんか?」
これだけの広さの学園都市だ。通常、エリアを跨ぐ移動には地下鉄が使われる。体力に自信のない凌駕が地下への階段へと足を向けようとするのも道理だ。だが、綰真は地下への入り口など見向きもせずに地上を歩きつづける。
「こんなに晴れているんだ。たまには歩くのもいいだろう?」
「晴れているって言っても、ここの気候はコントロールされているんですよ? 百パーセント当たる天気予報だとしばらくは雨も降らないって言ってましたし」
「俺は今歩きたい気分なんだよ。お前もいい加減体力つけないと、この先大変だぞ」
綰真の心遣いくらい凌駕はとうの昔から知っていた。もともと体が強いとはいえない凌駕は、綰真と出会ったばかりの時もよく熱を出して倒れては綰真に家まで送り届けてもらっていた。それを考えれば、こうして本を片手に外を出歩けるようになっただけでも凌駕に体力がついてきたことを意味している。綰真は少々無理強いしてでも凌駕に外を歩き回らせることが、凌駕の病弱さを回復する唯一の方法だと思っていた。
午後の光を浴びる大小さまざまな建物の群が朱の光を反射しはじめた頃、凌駕達の前には新たに作られた天文台の巨大なドームが見えてきた。
「随分と大きいんですね」
「そりゃあ都市にある天文台の中では最大クラスだからな。総工費は三十七億カリッドとも言われているし」
「三十七億……」
「電波望遠鏡はあの高い方のドームにあるはずだが、個人的にあれを見るとなると予約が必要らしいから、今日は手前の小さいドームの方で我慢するか」
綰真の足は図書館で凌駕を諌めている時とは打って変わって、今にも走り出さんばかりに浮かれている。対して凌駕といえばさして星や宇宙に興味があるわけではなく、渋々といった足取りで天文台の入り口をくぐる。
天文台の中は、入り口から壁のいたるところに恒星や銀河の写真が飾られており、綰真はそれを食い入るように見つめながら少しずつ歩いていく。自然、歩みは遅くなり、今度は凌駕がそれを呆れながら待った。
目の前に連なる星々の写真は、綰真には宝石の輝きであるが、凌駕にとってはその辺に溢れかえっている人工の光とさして変わりなかった。
「先輩、ドームに行くんじゃなかったんですか?」
「どうして凌駕には分からないんだ。見ろよ、この写真。つい最近発表されたばかりのおとめ座方向にあるブラックホールに星が吸い込まれている瞬間だ」
とは言いながらも、綰真はさっき図書館で似たようなことを凌駕に言ったことを思い出し、語る言葉を飲み込んで凌駕と並んで歩きはじめた。
もともと典型的な文系人間であり、専門も歴史という凌駕には、宇宙の魅力をいくら語っても無駄なことらしい。天体写真のギャラリーを見るのはまた次の機会と諦めて、綰真はエレベーターの十階のボタンを押した。
総十五階建ての天文台は、最上階の十五階に総工費の三分の二を注ぎ込んだ宇宙屈指の分解能を誇る最新鋭の電波望遠鏡が設置されている。十一階以上は全てこの電波望遠鏡のための施設となっており、一般人が予約なく立ち入れるのは十階の大型望遠鏡までだった。
エレベーターを出ると、廊下一面に昼間の柔らかな日差しではなく、思わず目をつぶりたくなるほど真っ赤な閃光が飛散していて、凌駕は窓辺に駆け寄るとしばらくそこに張りついていた。
「こんな真っ赤な夕日を見るのは久しぶりです」
「この様子ならきっとよく見える。凌駕、急ごう」
綰真は首根っこを掴んで凌駕を窓辺から引き剥がすと、先の見えない銀色の扉の前に押し出した。
「よく見えるって、何を見るんです? まだ外は明るいのに」
「内惑星は宵か明け方にしか見えないんだ」
「内惑星?」
扉の前に設置されたコードリーダーに左腕をかざして、身分証明を終えると、銀色の扉が開き、広大な闇に薄いほの明かりが点在する空間が広がった。
思わず凌駕は綰真の腕を掴む。
「お前、まだ駄目なのか?」
神妙に頷き返す凌駕に、綰真は不安を吹き飛ばすかのようにからからと笑った。
「図書館の暗さとあまり変わらないだろ」
綰真は凌駕を腕にぶら下げたまま引きずって中央の巨大な望遠鏡への階段を上り、踊り場に設置された操作盤の前で立ち止まった。慣れた手つきで目標の星の名前入力すると、コンピューターの小さなライトが幾度か明滅し、ディスプレイに青い球体が映しだされる。
「できた。凌駕、その隣の穴の中を覗いてみな」
言われるがままに凌駕は眼鏡をかけたまま両目を接眼レンズに近づける。
「凌駕、眼鏡なんかかけなくても自動調整で見えるぞ。とれよ」
「でも、本当に僕、目が悪いから。それに……」
「それに?」
「いえ、何でもないんです。預かっていてもらえますか?」
綰真に眼鏡を渡すと、凌駕は俯いてできるだけ素顔を見られないようにしながら、もう一度接眼レンズを覗き込んだ。
「何も見えませんよ?」
「眼鏡取ったばかりで目が慣れてないだけだ。もう少し覗いてみてろよ」
悪戯に凌駕の眼鏡を自分の目にかざした綰真は、思わず放り投げたくなるのを堪えて台の上に置いた。
「こんなに強いのを使ってたのか?」
目が回るのを堪えていた綰真は、レンズの厚さを見て二度驚く。度が度なら厚さも厚さだ。
綰真は溜息混じりに再び眼鏡を台に置きなおした。
暗がりの中に深い沈黙が横たわる。その中に短く小さな呟きにも似た感嘆が漏れた。
「あった」
自動調整機能がようやく働いたのだろう。視界の中央に、水色ともマリンブルーとも、コバルトとも、なんともいえない青と白の縞模様の球体が鮮明に姿を現した。背後の薄紫色とのコントラストがなんともいえない。よく見ると、僅かに緑色が点在している。
まばたきすら忘れた凌駕の目は、青い球体に吸いつけられたまま微動だにしない。
「見たことなかっただろう? 知識でしか知らなかっただろう? それも凌駕のことだから、活字くらいでしか。それが、地球だよ」
凌駕は何も答えなかった。何も答えられなかった。
頭の奥底で、街でよく流れている心地のいい音響がゆっくりと静かに流れ出し、やがて体から心が離れてしまったかのような浮遊感が襲いかかる。
帰ルベキ処ガ アルワケジャナイ
ダケド
ドウシテカ 帰ラナケレバト 思ワセル
言葉ニデキナイ ソノ色ハ
心ノ底ノ懐カシイ記憶 呼ビ醒マス
眠リガ醒メテ 悲シミニ身ヲ裂キ
切ナサヲ呪ッテ 知ラナイ地ニ憧レル
心 焦ガレル アオ
吸イ込マレタイト 願イ
融ケ合イタイト 切望スル
自我ガ消エタ コノ躯(カラダ)デ
一体 僕ハ……
「誰!?」
心地よく身を任せていた凌駕の目は、地球を見ていたはずなのだが、いつしか誰か――栗毛の髪を肩で切り揃え、赤いリボンをつけた少女の後ろ姿に変わっていた。
少女の後ろ姿は次第に近づき、少しずつ振り向いていく。背景は真っ暗ではなく紺色と藍色の中間で、だんだんと引き込まれるほどに暗くなっていく。
手を伸ばせば肩に触れられそうな位置にまで少女の姿が近づいてきた時、少女は完全に凌駕と向かい合っていた。
向けられた青色の大きな瞳が地球と同じ色であることに気づくまでに、さほど時間はかからなかった。
「君は、誰?」
十四、五歳のまだあどけなさの残る少女は、凌駕の頬に手を伸ばし、そっと小さな白い手を押し当てた。凌駕はその手の冷たさに驚きながらも自分の手も足も、身体中が縛られたように動かないことに気がついた。
「君は……」
「彩」
ガラスを軽く金属で叩いたような玲瓏な声が頭の奥底に響いてきた。
刹那。全てのものは闇色の欠片となり、崩れ落ちる様を凌駕は見た。
そして、自分の身体もその欠片の一つとなり、下へ、下へと堕ちていく。
一体 僕ハ
何処ヘ行クノダロウ
僕ノ心ハ
LOST DESIRE
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