天空のロエラ


 終章 剣十字の丘


 音もなく部屋の上昇は止まっていた。自動的に目の前の扉は開き、マリィは一歩外へと踏み出す。
 そこはリドルト遺跡の柱がもつれ合って倒れ重なって出来た小さな空間だった。その空気は血が大量に流されたせいか鉄くさく、空は放たれてくる光線で赤く染まり、とても真昼とは思えないほど薄暗かった。赤い光線は柱の陰から覗く限り満遍なく降り注ぎ、悲鳴はそこかしこから聞こえてくる。しかし、図ったようにこの遺跡の上だけは避けているようだった。
 それに気がついていたのか、キスミェルから教えられていたのか、別の柱の陰でブランシュとグスタフが並んで介抱されているのが見えた。
 奇妙なものだ。両軍の兵士たちがこの光景を見たらなんと言うことだろう。ついさっきまで自分たちに殺し合いをさせていた首謀者が、並んで寝かされているだなんて。
 マリィは笑う気にもならなかった。
 どうすれば、ここからはるか天空の彼方にある破壊の女神に自分の歌声を届けられるだろう。この大陸の四方に散った救いの女神にもういいのだと伝えられるだろう。
 考え、考え、マリィはリドルト遺跡の柱を辿ってできるだけ上へと登っていく。一番高いところへ。
 マリィの辿りついた場所。その場所がかつてリドルトの神殿があった場所の真上だと知る者はいただろうか。
 きっと、誰も気づかなかったに違いない。
 しかし、マリィはそこを選び、真っ直ぐに立って四方を眺めわたし、天を見上げた。
 光線が大地を抉る音。断末魔の悲鳴。逃げ惑う人々の阿鼻叫喚の叫び。
(こんな世界を造るために生まれたわけではないでしょう?)
 女神なのだから。
 永遠の平和を望んで生み出された女神なのだから。
 だけど、自分は人だ。人間だ。この手も、今更まっさらにすることは出来ない。それを忘れたら、また悲劇は繰り返される。
 人は神にはなりえない。
 人は、神を造ることはできない。
 マリィは意を固めると、深く息を吸い込んだ。
『時はまだ世界が西暦を用いていたころ。
 何も持たぬ少年と、声は持たねど音楽をこよなく愛する少女がいた――』
 何を歌うかは、地上に出るまでに考えていた。
 エアからたった一度だけ語り聞いたロエラの歌の全編。ウトルマリクから教えられた人の罪の証であるロエラの歌ではなく、戦争に引き離され、平和を希求した少年と少女の物語を。
 声は初めこそ照射される光線の音や人々の悲鳴に掻き消されていたが、次第に地に下される赤い鉄槌の数は減っていき、人々の狂乱じみた悲鳴も痛みに呻くものへと変わっていった。
 ロエラの歌を全曲歌い終えたとき、天地は奇妙な静寂に包まれていた。それは、少しでも気を緩めれば均衡を崩してしまいそうなほどもろいもののようだった。
 何より、空はまだ赤紫色のままだ。
(どうしよう)
 ロエラの曲を一曲歌えば空が晴れると思っていたマリィは、焦りから周りを見渡した。
 いつの間にか、リドルトの神殿周りには大勢の兵士たちが集まり、マリィの姿を期待に満ちた目で見上げていた。その中には、ブランシュとグスタフの姿も混ざっている。
 マリィがもう一度空を見上げた時だった。
 静寂を縫って、一筋の弦を弾く音が聞こえた。
 優しく、いたわるように、二音目が弾かれる。
 その竪琴の音に、マリィの身体は震えた。
「エア?」
 姿は見えない。しかし、竪琴の音は確かにマリィが地上に出た場所から聞こえてきていた。
 その旋律は、いつか、アルターシュの森でロエラの歌を聞いたあとに歌ってくれた歌詞を持たない子守唄。エアだけじゃない。幼い頃、母メグラールが眠るときに優しく囁くように歌ってくれた歌でもあった。
 導かれるように、マリィはその琴の音にあわせて歌いはじめていた。心の奥底に眠る優しさで満たされた気持ちを思い出しながら、大切にその気持ちを音にしていく。
 そして、いつしかマリィの歌声に平原中から歌声が重なりはじめていた。旋律など知らなくても、各々、大切な曲を口ずさんでいるようだった。それらを包み込んで、マリィの声はエアの竪琴の音色と共に空に、地に降り注いでいく。
 次第に空は淀んだ赤紫色から、風が雲を切っていくように青い切れ間が見えはじめていた。その切れ間から、今までみたことのないほど眩しく白い光が差し込み、平原中を覆い、やがて大陸全土へと広がっていった。
 マリィの声に重なり合っていた歌声は、感嘆の溜息に変わっていく。
 そして、一番最後に、マリィの上空にも白い光が降り注いだ。
 その時だった。
 地の底から何か巨大なものが崩れ落ちていくかのような地響きが鳴り響き、マリィの立つ神殿の廃墟を揺らした。
 突き上げるようなあまりに強い揺れに、マリィはしゃがみこんで柱の縁にしがみつく間もなく、均衡を崩して廃墟の上から仰向けに突き落とされた。
 悲鳴は上がらなかった。
 ただ、今までに見たこともないほど青い空が視界に広がっていた。
(そうだ。あれが本物の空だ。ロエラに閉ざされる前の、過去の人々が見上げていた本物の空)
 恐怖よりも、初めて見た空の美しさにマリィは言葉を失っていた。
「マリィさん!!」
 下からよく聞きなじんだエアの声が聞こえた。放り出されたのか、竪琴が不満げな音をたてる。
 そして。
「どうした、エア。お前、ほんと流されやすい奴だなぁ。何で泣いているんだ?」
 落ちてきたマリィをなんとか抱きとめたエアは、声を押し殺して泣いていた。
 マリィは、その頬に伝う涙を指で拭ってやる。
「キッシーが……コルダが……自分たちのかわりに、マリィさんと一緒に本物の青空を見てくれって。自分たちが昔、当たり前のように見ていた、本物の神様が作った青い空を……」
「そんなに俯いて泣いてちゃ見られるもんも見られないだろう。それに、これからいくらでもわたしたちはあの空を見ることが出来る」
「そうだけど、でも……」
 エアの言わんとすることを推し量るように、マリィはそっと目を閉じた。
「エア、今でも聞こえるか? その身体から湧き上がるもう一人のエアの声が」
 エアははっとしたように目を見開く。そして大人しく首を振った。
「いや、もう聞こえない」
「今でも、全人類滅んでしまえばいいと思っているか?」
 目を開けたマリィは、上空に広がる空と同じくらい青いエアの目を覗き込むように見つめた。
「わからない」
 ぼそりとエアは呟いた。
「でも、」
 マリィを抱きかかえたまま、エアは空を見上げた。
「綺麗な青空だね」
 マリィももう一度空を見上げた。
「ああ、綺麗な青空だ」





「このリドルト遺跡は、神殿部分を除いて全て瓦礫を撤去して新しい街を整備することとする」
 青い空を堪能する間もなく、話し合っていたのだろう。
 デルフォーニュ女王とアストラーダ王はまだ興奮冷めやらぬ人々を前に、二人並び立ってそう宣言した。
 いつまでも積み重なった瓦礫を残しておいては、そのうちよからぬ賊が住み着いたり、子供が遊び場にして倒壊に巻き込まれる恐れがあるから、というのがその理由だった。
 何より、新しい街の建設はデルフォーニュとアストラーダ、双方が協力して行うことで、和平の証となる街を作るのだという。
 二人の話を遠くに聞きながら、マリィとエアは神殿内にもぐりこみ、それぞれ自分の剣を探していた。
「ここもきれいにされちゃうのかな」
 まだ鼻を啜っているエアは、半ば泣き、半ば笑いながら瓦礫の合間から引っ張り出したリドルト王家に伝わる剣を手に、神殿の内部を見渡した。
「神殿部分はリドルトの象徴として残すとさっき言っていたが、どうだかな。残されたとしても、いずれ人が入れないように柵か何かで仕切ってしまうんじゃないか?」
 マリィも砂山と化した土の中から顔を出していた柄に手をかけ、己の身の丈ほどもある剣を引っぱりあげる。
「じゃあ、やっぱりその前に決着つけないとね」
「そうだな」
 二人は各々の剣を自らの前に構え、間合いを取り、息をつめて見つめあった。
「兄上の仇」
「故国の、父、母の仇」
 二人は同時に息を吸い込む。
 刹那、マリィとエアは己の剣を互いに全力でぶつけ合った。
 鈍い音が崩れかけた神殿の中に反響した。つづいて、断ち切られた二本の剣の切っ先が宙を舞い、床に落ちる。
 一本は太く、一本は細い。
 マリィの大剣は三分の一がなくなっていた。エアの剣も二分の一がなくなっていた。
 二人は言葉を交わすことなくすれ違い、折れた互いの剣の先を拾う。
「これで終わりだな」
「うん、終わりにしよう」
 土埃に塗れた折れたばかりの細い刀身に、マリィの涙がきらりと映った。
「泣いてるの?」
 振り返ったエアが遠慮がちに声をかけた。
「終わって……いいんだよな?」
 今更ながら茫然とマリィは呟く。
 全ての未来の糧を失ってしまったとばかりに、ぽっかりとマリィの心には虚が宿っていた。
 寄る辺を失ったマリィの肩を、エアは後ろから静かに抱きしめた。
「終わったんだよ。オリジナルのエアとマリィの物語は」
 エアの言葉に、マリィの肩がしゃくりを上げた。
「でも、僕たちの責務はまだ終わっていない」
「責務?」
 小首を傾げたマリィに、エアは囁いた。
「旅に出よう、マリィさん。また一緒に旅をしよう? 僕が竪琴を弾いて、マリィさんが歌を歌って。オリジナルのエアとマリィの本当の物語を世界中の人たちに歌いつぐんだ。もう二度と、人類が道を踏み外すことがないように」
 見守るのだ、オリジナルから託されたこの世界を。私たちにできる私たちらしい方法で。
「ああ、そうだな。それがオリジナルを受け継いだ私たちの責務だ」
 二人は地下に繋がっていた祭壇の前に立ち、埋まってしまった穴の上に折れた剣の切っ先を重ね置き、さらにその上に互いの剣を交差させて突き立てた。
「エア――いや、キスミェル」
「マリィ――ううん、コルダ」
『どうか、安らかに』
 二人は剣十字の前に立ち、そっと目を閉じた。






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